祈り、讃美及び感謝、我らの全ての者は全魂をもって全心をもって、全力をもって愛し又、忍耐強くあるべきである。我らの全理解と全力と全精神と全情愛と我らの内なる凡ゆる部分、全要求と意志とをもって我らにこれらのものの全てを与え給うた神を愛し、賤しくみすぼらしく悪にして汚れ恩を忘れ、また邪まなるものをも憐れみ給う神を讃美せよ。それゆえに我らは、造主、贖主なる救主、唯一の真の神以外に何事をも要求せず喜ばず求め...
死による命 これこそ、使徒がまさに命の秘訣、神聖な命の秘訣として言及していることです。ここから神聖な命が生じます。神聖な命の川は十字架から発します。使徒は言います、「絶えずこの体に、イエスの致死力を負っています。それはまた、イエスの命が、私たちの体に現されるためです」(二コリント四・十)――奇妙な言葉です!「イエスの致死力」。これはキリストの死の一つの面です、一つの面にすぎません。他の面もありますが...
「さて、自分はどうでしょう?クリスチャンになって数年たちますが(場合によっては長年の人もいるでしょう)自分はどうでしょう?自分はどのような立場にあるのでしょう?」とあなたたちは考えていることでしょう。愛する人よ、私たちは神の事実に向き合わなければなりません。私たちはクリスチャンではない、私たちは主のものではない、と言っているのではありません。あなたも私も神の立場に真剣に向き合わなければならない、...
記念する祭り そして主は言われました、「これは永遠にあなたの世代全体にわたって記念となる!」と。そして、過越の祭りが毎年来るたびに、それに先立つ種なしパンの祭りがそれと結びついていました。ではその意義は何でしょう?それは分離の大いなる行為、悪からの分離を記念するものでした。人々がその祭りで座すとき、毎年、物語が語られました。主がエジプト人に何を行われたのか、主はどのように自分たちをエジプトから連れ...
種なしパンの祭りは、七日間を通して行われるとても重大な務めです。それは告げます――この天然の命に神のための余地はない!と。天然の命は腐敗しています。発酵させる高ぶりがその中に渦巻いています。なんであれその背後には高ぶりがあります。それはあの蛇から人類の中に入り込んだ毒です。蛇は、「私はしよう。私は王座を高くしよう。私はいと高き方と等しくなろう」と言いました。私!私!――これがパン種です。パン種とは、...
終結と開始 すでに述べたように、過越が成就するまで、神は何ものも顧慮されません。また、種なしパンの祭りが完了する時、神に属するすべてのものが始まり、興隆します。愛する人よ、これを述べるのは途方もないことですが、これが理解されてこなかったせいで、悲劇的な歴史が生じたのです。すなわち、主が顧慮されない働きが、主のために大量になされてきたのです。その働きは主に由来していませんでした。これを理解しそこなっ...
「エホバはエジプトの地でモーセとアロンに語って言われた。『この月はあなたたちにとって月々の始まりとなる。それはあなたたちにとって最初の月とならなければならない』」(出エジプト十二・一~二)。 前回の黙想では、ユダヤ人の過越の祭りと教会の主の晩餐との関係を最初に示しました。この関係は主イエスご自身によって、彼が裏切られた夜に、示されたものでした。この過越もしくは主の晩餐、そしてそれらがキリストの死に...
この話の要点は何でしょう?神は贖いにおいて主導権を取り、御旨をもって主導権を取られました。そして、御旨のための器を獲得するために、払いうる最大の代価を支払われました。そうである以上、神は御業を成し遂げて、完全に成就されるでしょう。ただしそれは、これは自分にとっていま益があるのかどうかという問題ではないことを、私たちが覚えていさえすればの話です。これは、差し当たってそれは自分にどう影響するのか、と...
この成就における霊的歴史 それを認識しさえするなら、目を完全に開かれるなら、とりわけ次のことがわかるはずです。すなわち、彼は、私たちの内なる人の中で自己嫌悪感を深め、強化することによって、これを行っておられるのです。もしあなたや私がこの死の体、旧創造の中にある自分のこの性質から一度限り完全に解放されて、もはやそれを意識することも、それに悩むこともなくなり、自分の肉の内に誘惑がなくなっていたなら、こ...
贖いは神にもたらすことである さて、この御旨はへブル書十二章で「長子の教会」と称されている教会と関係しています。これは出エジプト記に記されていることの本体です。「イスラエルはわたしの子、わたしの長子である(中略)わたしの子を行かせて、わたしに仕えさせよ」。これが御旨です。それは長子たちの教会と結びついています。出エジプト記十三章を見ると、長子の神への分離・奉献について記されています。過越の祭り、過...
過越は霊的歴史の始まりである 「この月はあなたたちにとって月々の始まりとなる」。つまり、この時から歴史が始まるのです。過越がイスラエルにとって彼らの霊的歴史の始まりとして主の印となったように、主の死は教会とその構成員一人一人の歴史の始まりです。もちろん、これはだれもが受け入れるであろう単純な事実です。 しかし、この事実には認識すべき何かがあります。前の黙想で指摘しましたが、出エジプト記十二章では、...
「この月はあなたたちにとって月々の始まりとなる。それはあなたたちにとって一年の最初の月となる」(出エジプト十二・二)。「この日は、あなたたちにとって記念となる。あなたたちはエホバへの祭りとして、これを守らなければならない。あなたたちは代々にわたって永遠のおきてとして、その祭りを守らなければならない」(出エジプト十二・十四)。「それゆえに、あなたはこのおきてを年々、その定められた時に守らなければなら...
これ以上先に進まないことにします。命の問題についてもっと述べたいと思っていました。なぜなら、結局のところ、命こそが問題だからです。ヨハネ六章は素晴らしいです。「彼に、父なる神が証印を押されたからである……」という御言葉の文脈に注意してください。そこから主はさらに続けて(主のたとえは変わりますが原則は同じです)、わたしは世の命のために天から下って来たパンである、と仰せられました。「わたしの肉はまこと...
一心に見つめる目、神のみこころに対する従順な無条件の明け渡し。試練の時、私たちのどれくらいがこのようであるでしょう?しかし、神は私たちの内に小羊を生み出すために、あるいは複製するために働いておられます。小羊は手放すことによって勝利されます。明け渡しによる勝利というこの道を私たちはどれくらい進んでいるでしょう?これが小羊です。そして、これが御座の中央におられる小羊です。御座に着いていることに関する...
神の働きの目標 さて、これが神が求めておられることです。愛する人よ、あなたに言いたいのですが、これこそまさに神があなたや私の中に働いておられる目的であると私は信じています。ああ、このことにもっと早く気づいていれば!私たちに対する神の取り扱いはみなこの一つのことのためです。すなわち、私たちの内に小羊を生み出すことです。ペテロに主は言われました、「あなたが若かった時には、自分で帯を締めて、望む所を歩い...
その血の美徳は罪のないことです。それは神のために取っておかれています。常にこれを覚えておいてください。旧約聖書全体にわたって、それを飲んではならない、という命令が轟いています。それは神のために取っておかれています。神はほむべきかな、新契約においては、神は飲むためにそれを私たちに与えてくださっています。しかし、神の小羊が屠られるまでは、決して、決して、飲んではなりません。神の小羊が屠られる時、型で...
小羊の血と肉 しかし、この小羊には二つの面があります。その肉があり、その血があります。注ぎ出された小羊の血は、側柱とかもいに降り注がれなければなりませんでした。しみも傷もない小羊のあの血は、あることを証しします。それは、神の義が全く満足されたという事実を証しします。それは朽ちることのない命であり、罪のない性質を帯びており、しみや傷やそういった類のものがなにもない命です。それは神を満足させます。神は...
命の問題 さて、これらの事柄はすべて私たちに何かを物語っています。それは特に一つのことと関係しています。それはもっぱら命と関係しています。これがこの問題全体における争点です。それゆえ、私たちは出エジプト記十二章に記されている最初の過越に連れ戻されます。そこでは、エジプトによって代表される全世界が裁きの下にあります。私たちはこの問題に対する適切な洞察力と理解力を持つ必要があります。この段階的な裁きは...
次にヨハネは、彼の福音書の六章で私たちにこう教えています、「朽ちる食物のためにではなく、永遠の命に至る永存する食物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたたちに与えるものである。それは彼に、父なる神が証印を押されたからである」。ユダヤ人が群れの中から自分の小羊を選ぶ時、一般のユダヤ人は小羊によく見られる病気の専門家ではなかったので、当局は羊や小羊がかかりやすい病気を熟知している特別な資格を持...
見よ、神の小羊! 見よ、神の小羊!すでに述べたように、彼が公の務めに就かれたのは過越と関係していました。それゆえ、近くや遠くから祭りのためにエルサレムに上って来たこれらの人々はみな、ヨハネが言わんとしたことをよく理解しました。その雰囲気は、まさに小羊、過越の小羊に対する思いで充満していました。だれもが過越の小羊のことを考えていました。彼らは小羊に関する儀式にかかりっきりでした。小羊は群れの中から選...
「その翌日、ヨハネはイエスが自分の所に来られるのを見て言った、『見よ、世の罪を取り除く神の小羊』」(ヨハネ一・二九)。「ヨハネはイエスが歩いておられるのを見て言った、『見よ、神の小羊!』」(ヨハネ一・三六)。 これらの節から二つのことに気づくでしょう。一つは、これらの節が主イエスの務めの開始と関係していることです。もう一つは、それらが過越と関係していることです。ヨハネ二・十三には「ユダヤ人の過越が...
永遠の命の保証は小羊である また、一言で言うと、これはみな次のことを意味します。すなわち、神の御目的が果たされ、神の御旨が成就され、神の道が取られるのは、この小羊のような性質という基礎に基づくのです。小羊のような性質とは、一面において純粋さであり、もう一面において、神のみこころに対する無条件の明け渡しです。これは人が知る最も強力なものであると述べられています。泣いているヨハネに応えて発せられた叫び...
(g)宮とこの都の光 小羊は宮です。宮は何のためでしょう?宮は、あなたが神と交わる所、神があなたと会ってあなたに語られる所です。宮は、神に近づく所、天が開かれている所、主と交わる所です。何が宮を構成しているのでしょう、何が神とのこの交わり、この開かれた天、この神との会見、この神の語りかけを構成しているのでしょう?それは何でしょう?それは小羊です。それはある種の性質、気質です。それは場所、状態、姿勢...
(e)小羊の婚姻 小羊の婚姻。なんという思想でしょう!どこよりもここで、私たちは自分の考えを調整する必要があります。小羊は、小羊であるので、ご自身と同じ種類ではない何者とも決して結婚されません。小羊はご自身のような妻しか持ちません。ここにもう一人の女、遊女どもの母がいます。小羊は彼女と結婚されません。一人の妻と結婚されるのであり、この妻は準備を整えました。「この望みを彼に置いている者は(ヨハネはこ...
(d)獣 獣:結局のところ、獣とは一体何でしょう?政治的獣であれ、宗教的獣であれ、あるいは預言において何であれ、それは二の次です。重要なのは、獣は道徳的にどうなのか?ということです。その意味で、獣は小羊に反するあらゆるものの化身・権化にほかなりません。獣は小羊と戦います。覚えておいてください、焦点は依然として小羊です。獣は神の御子と戦う、とは述べられていません。獣はイエス・キリストと戦う、と聖書は...
(b)義とされた人々 次に、神と小羊の御座の前に立っているだれも数えることのできない大群衆について記されています。彼らは大きな艱難から出て来て、自分の衣を小羊の血で洗って白くしました。これは、彼らが、立場的にも状態的にも、信仰によって小羊と結合されたことをまさに意味します。立場的に?そうです。しかし、彼らはまた、自分の衣を小羊の血で洗って白くしました。彼らは何をしたのでしょう?小羊を自分の義として...
小羊に照らして見た黙示録 これがいかに黙示録に記されているすべてのことに光を投じるのかがわかります。すべては小羊と関係しています。したがって、この書に記されていることはみな、他のすべての書と同様に、この性質、この朽ちることない性質という光に照らして、すなわち、この性質を持つこの御方に照らして、見なければなりません。(a)この世の裁き ですから、五章は小羊に照らして見なければなりません。誰が裁きを下...
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祈り、讃美及び感謝、我らの全ての者は全魂をもって全心をもって、全力をもって愛し又、忍耐強くあるべきである。我らの全理解と全力と全精神と全情愛と我らの内なる凡ゆる部分、全要求と意志とをもって我らにこれらのものの全てを与え給うた神を愛し、賤しくみすぼらしく悪にして汚れ恩を忘れ、また邪まなるものをも憐れみ給う神を讃美せよ。それゆえに我らは、造主、贖主なる救主、唯一の真の神以外に何事をも要求せず喜ばず求め...
兄弟達の悪いことを語り、あるいは攻撃をせず互に相愛すべきこと、兄弟らに対して誰もその欠点を誇張したり言葉をもって非難し争わないようにすべきである。神が彼らに恵みを与えてい給う間、沈黙をもって忍ぶことを学べ、これらの人達と争ったり又は共に他の人と口論をすべきでない。寧ろ反対に謙遜をもって答え、我等は無益の僕であるということを常に準備すべきである。彼らをして怒らせるな「誰でもその兄弟を怒る者は審きにあ...
ああ、女王なる智慧よ!願わくは主、汝の姉妹なる清く純潔な単純さと共に汝を祝し給わんことを!おお、清貧淑女よ!主が汝の姉妹なる聖謙遜と共に汝を祝し給わんことを!おお、聖愛の淑女よ!主が汝の姉妹なる聖従順と共に汝を祝し給わんことを!おお、凡ゆる聖き徳よ!汝らのいで来たりしところの主が汝を祝し給わんことを!初めに己に死ぬことなくば唯一人として世界の中に汝らの中の一つをも所有しうることは決してありえない。...
主がその人に示し給うた善きことをその心の内に保ち、その業によって人々に表わそうとしない人又、報いを望んで言葉によって人々に知らせようとする人は禍である。彼は今、報いを受け、聴く人に僅かの影響のみしか与えない。その兄弟が病気であって他の人を助けることが出来ない時にも健康で他の人を助けることが出来る時と同じように愛する人は幸である。その兄弟が共にいることを望むに拘らず彼から遠く離れておりそして彼の背後...
多くの人はその敵又は隣人を屡々非難することによって罪を犯している。しかしそれを気付かない。しかし人は彼自身の力、即ちその肉体の中に自らの敵を持ち、それによって彼は罪を犯すのである。ゆえに彼の中にあるところの敵を捕虜にし賢く自らを守る者は幸である。その人がこのように生きる限り如何なる見える敵も見えない敵も彼を害うことが出来ないからである。如何に多くの内心の忍耐と謙遜とが神の僕らにおいて人々に知られず...
おお、人よ、主が貴方を如何に偉大にして優れたものとして造り給うたかを深く考えなさい。肉体においては神の愛子の御姿に像どり、霊においては御自身に肖せて造り給うたのである。又、世界の凡ての造られたものは彼等各々の道において貴方よりもよくその造主に仕え従うことを知っている。もしも貴方が賢くて凡ゆる科学を知り、全ての国語を通訳することが出来、凡ゆる天のことをも正確に究めることが出来たとしてもこれによって貴...
聖フランシスは、祈りと瞑想を通しての確固たる宗教的経験が発展する事の必要性を、極く最初の働きの時から常に強調していた。彼の福音の本質的な真理を伝える説教者としての魅力ある模範、又人々の霊肉の要求に応える調和のとれた伝道、又キリストとの親しい交りから来る喜びと能力の不断の推進とはただ名のみのクリスチャンを真の基督者として全心的にキリストの救を受け容れさせるのに驚くべき能力を発揮した。フランシスの書い...
フランシスはイエスの御命令に絶対に又文字通りに服従しようとして彼の生涯を献げることを決意し、その所有をも家族関係をも投げ打ち、又先に抱いたこの世の成功者となる夢をも捨ててしまった。これより後、彼はその花嫁として清貧をめとった。何者をも所有せず、惜しみなく彼自身を与え、巡回しつつ説教する伝道の道において肉体的に又、霊的に人間の要求に対して全部を以て応ずることにおいて衣食は与えられていった。一二○四年...
アシジの聖フランシスは中世キリスト教の最も美わしい開花を代表している。歴史上のどの時代よりも、多く形式的又、組織的になってきていた時代に生きて彼はイエス・キリストの誡めに全く献げ又服従した生涯の優れた力を現わした。中世の教会に完全に服従していながらも活けるキリストへのより高い忠誠を堅く保持し続けた。彼自身が修道院の理想に自らを捧げつつもその形式の中に新しく、よりよい所の実質を与えこの世から逃避する...
我々は単なるパンでなく、生命のパンを必要とする私は印度にいる一人の神の人を知っている。彼は自分の経験を私に語った。一人の乞食が毎日彼のところに来て一片のパンを乞い、それを受け取るとすぐに去ることを常としていた。ある日、その祈りの人には与えるものが何もなく、人々が食物を取って来るまでの間、数分間彼と共に坐って話すよう乞食に求めた。一時間もしないうちに、此の乞食は信じて祈り始めた。彼はすっかり変わった...
三彼は人間のみならず、動物も植物も太陽も月も星も水も土地も兄弟姉妹といって愛した。ある時、野原に出るとたくさんの小鳥が木に留っているのをみてこれに話しかけ「姉妹なる小鳥達よ、あなた方は特に神に感謝して御名を讃美しなければならない、あなた方は蒔く事も刈る事もせず、倉にも納屋にも貯えないのに神は何時も食物を与えて下さる。殊にあなた方は羽を与えられてこの大空を自由自在に翔けることが出来る。あなた方に賜っ...
二彼が神のために一切を捨てて心は軽く喜びに満され歌を歌いながらまだ春浅いアシジの山のほとりを通ってゆくと山賊にあった。「お前は何者だ」と尋ねたので「私は大王の使者である」と答えると彼を捉えてその着物を剥ぎとり「大王の使者安かれ」といって雪解けの冷い沼につき落して去った。その時フランシスはその雪解けの水の中に入ってもなお歌いつづけていたということである。又、ある時は彼が托鉢に行った留守に三人の強盗が...
一アシジのフランシス(フランチェスコ)は最もキリストに似た生涯を送った人といわれ、世界のキリスト教会において何れの教派の人々からも尊敬され且つ愛されている聖者である。彼は文筆の人でもなく、又所謂雄弁家でもなかったが、その単純さと愛の実践とをもってキリストの足跡を踏んで死に至る迄、徹底した謙遜の生涯を続けた事は彼を知る者にとって大いなる霊感である。まだ詳しい伝記を読む機会のなかった人々のために簡単に...
フランシス訳者 金井為一郎目次訳者序緒言一、訓誡の言二、諸徳への称讃三、フランシス教団の規則からの抜粋四、全ての忠実なる者への手紙五、神への讃美六、太陽の頌歌七、主の祈りの瞑想八、フランシスの祈りオリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
預言者をして今日あらしめば、彼は恐らく同じ言を以て万国の民を誡むるのではあるまい乎。今の人の崇拝しつつある時代の声、之も亦死者の声ではない乎。例へば民主主義といひ社会主義といふ、みな鼻より息の出入する人間の製造物である。罪に死にたる人の思想である。此一事は時代の声なるものが幾度び其内容を変ふるも決して誤まらない。何となれば時代の声之を換言すれば多数の声である。而して人類は全体として其深き罪を悔改め...
時代の声!世界戦争の生んだ果の一つは之である。大戦争に伴ひし国際関係の近接と、数個の強大国を内より倒せし民衆の政治的運動と、各国に於ける経済組織の変動と、殊に基督教に対する信頼の著るしき動揺と、之等幾多の原因が相率ゐて遂に「時代の声」を恐ろしく権威あるものにして了った。今や人の崇むるものは神ではない、正義でもない、さればとて又王でもない、今や何人もただ一の怪物に向て頭を下げ我れ勝ちに之を歓迎しつつ...
「ああ神よ、鹿の渓水を慕ひ喘ぐが如く、わがたましひも汝を慕ひあへぐなり。わがたましひは渇ける如くに神を慕ふ、活ける神をぞしたふ。何れの時にか我往きて神のみまへに出でん」(詩四二の一、二)。ああわがたましひは活ける神をぞ慕ふ。知識は浅し、富は卑し。歓楽は淡く短く、名は余りに空し。人は我に取りて重荷である。誰かわがたましひの燃ゆるが如き渇きを癒すものぞ。自然ではない、芸術ではない、 恋ではない、悟では...
イエスがガリラヤ地方で始めて福音を宣べ伝へ給うた時の言葉は「天国は近づけり、悔改めよ」であつた。そして此短い言葉こそは基督教の正味であると私は信ずる。天国とは教会のことではない。又進歩の終局に達した社会のことでもない。さればとて信者の心の状態でもない。天国とは聖書に明かに示してある通り、神自ら人の間に宿り給ひ、人まのあたり神を拝し、罪なく死なく、悲みなく痛みなく、宇宙万物に大調和ありて、愛といのち...
新約聖書に於て信仰といへば勿論十字架につけられしイエス・キリストを信ずる事である。希望といへば大抵キリストの再来とそれに伴ふ凡ての恩恵とを待ち望む事である。そして罪の世にありながら此信仰と此希望とを共にし従てその為の患難をも共にする者の間には自ら特別の愛が湧き起らざるを得ない。使徒時代の信者たちがさうであつた。今日の我等も亦さうである。かくて我等も亦、「キリストの言をして豊かに我等の衷(うち)に住...
三、さらば神は何故かやうにして御自身を顕はし給ふのであらう乎。神は人を教ふるに二つの方法を以てし給ふ。即ち律法と福音とである。肉と霊とである。一は我等の在る所に来て働き他は神の在し給ふ所へ我等を携へる。一は消ゆべきもの他は存(ながら)ふべきものである。而して此二つが矛盾の観を呈するのである。それはどういふ訳であるか、曰く神は愛であるからである。愛なる神は人を彼に肖(に)たる者たらしめんが為に先づ御...
ゲッセマネの御苦難(ヨハネ一八1、マタイ二六36以下)ヨハネ一八1。弟子たちに対して懇ろに語り、また一七章のような祈りを終えられた主は、今やいよいよ十字架の迫りつつあることを知って、なおも静かに祈ろうとしてゲッセマネに向われたのである。時はすでに充分に更けていたと思われる。「ケデロン」とは「濁っている」という意である。これは昔から記念すべき河である。主は終生人心の泥流の中を渡られたが、この時も実におそ...
〔22〕実に恵みである。「栄え」とは内部のすきとおるような聖であるとある人は言った。内に聖がすきとおって徳が満ちているならば、外に光があらわれるのである。キリストの栄えとは、彼にあらわれた聖なる徳であった。これが神の前における第一の栄えである。これをせんじつめれば、彼の中にあった聖霊である。おそれ多いことには、キリストはこの驚くべき栄えをわたしたちに与えられたのである。彼に満ちていたその同じ聖霊をわ...
〔20〕すべての信者のための祈りである。この中には確かにわたしたちも含まれているのであるから、そのつもりで学びたい。キリストの眼中には、ただその時の者ばかりではなく、彼らの言葉によって信じた者すべてがあったのである。永遠より永遠に存在される主は、いずれの時代のことをも知っておられる。だから日本の路傍で、ある弟子たちによって伝えられたみ言葉を信じた私のためにも祈られたのである。〔21〕主が信者のために祈...
〔14〕私が伝えた言葉を受け入れて彼らはあなたにつきました。それ故に世は彼らを憎みます。彼らは世におりますが、世のものではありませんから、世は彼らを憎むのです。あたかも世が私を憎むように彼らを憎むのです、と。わたしたちとキリストとの世に対する関係は同じで、キリストこそ立派な標準である。肉体をもつ間はそんなわけには行かないと言って、少しでも罪を容れることは恐るべきことである。〔15〕「われ汝に彼らを世よ...
〔9〕「我かれらのために祈る……」おお、神よ、このあなたのものである、あなたを受け入れた者のために祈ります。もう一度我らが普通のものでないことをくり返して父が重んじて下さるように祈られたのである。父よ、あなたの責任ある貴い宝のために祈ります、と、キリストの祈りには、少しの私欲も見えないのである。〔10〕ちょうど夫婦が互に独り子を掌中の玉とし、宝としているように、我らを「これは汝のもの、汝のものは我がも...
〔6〕これは主の父に対する復命である。「あなたが私に委ねられたこの魂に、父の名をあらわしました」と、実に立派な復命である。名をあらわすとは、その名によって実をあらわしたことである。イエスの御生涯は神を人にあらわす御生涯であった。けれどもその神を見た人は世から選ばれて、キリストに与えられた者である(コリント後四3、4)。選民でない者は福音の光を受けない。けれどもこの節を見よ。これは選民である。選民には...
〔2〕父なる神がキリストに与えられた選民は、キリストへの賜ものであって、その選民たる我らはキリストの財産、また宝である。故にキリストは選民たる我らに、御自身の永遠の命を与えられるのである。「凡てのものをおさむる権威を我に賜いたればなり」父なる神のキリストを崇めたのはこれである。この力は何のためにあらわすかと言えば、選民に永遠の命を与えるためである。故にこの目的のために障害となるものは、どんなもので...
〔1〕「イエスこの言を語り終りて天を仰ぎ……」ヨハネ一一41のように、イエスは祈りの時にしばしば天を仰いで祈られたことが福音書に記されている。ひれ伏して祈るのは、悔い改め、または謙遜を示すものであり、主との交わりの切れない時には、身も目も天を仰いで祈ることが出来る。「父よ」これは子たる者の霊をあらわしたのである。キリストは御自身のために祈る時には父よと言い、弟子たちのために祈る時にはきよき父よと言い、...
ヨハネ福音書一四章から一六章までにおいて、キリストは弟子たちに対して彼らの生涯、ペンテコステ、また希望について語り、彼らを慰められた。これらのことが終ってから、今まで弟子たちの方へむかって居られた主は天を仰いで祈られたのである。昔大祭司が幕屋に入るのは、一年中で最も幸な日であった。そのように我らの大祭司キリストは、今至聖所において祈っておられるのである。だから我らも栄光なるキリスト御自身を通って、...
〔25〕これまでにキリストは、何とかして弟子たちにこの真理を知らせようとして、譬で教えられたのであるが、ペンテコステ後の彼らは、霊の眼が開かれてどんなことでも聖霊御自身が直接彼らに語り給うのである。〔26〕キリストの名によって祈るとは、キリストにより、父なる神に祈って頂くというような間接的なことではなくて、キリストと自分と一体となって、しかも直接にキリストと共に父なる神に求めるのである。〔27〕これは前...
〔19~20〕キリストは彼らが尋ねる前に尋ねようとすることを語り給う。「誠に真に」とはイエスが力をこめて事実を語られる時に用いられた言葉である。キリストが十字架につけられるために、一時はあたかもサタンの勝利のように見えるから、世はそれを喜ぶであろう。「然れど」ハレルヤ。その弟子たちの憂いは喜びに変るとは神の断言である。まことに幸いである。〔21〕人の不安と喜びとが接近したことを示す。見よ、子を産もうとす...
〔16〕七節でキリストが行くことは弟子たちにとって幸福なことであると言われたが、その間しばらくは彼らも艱難を感ずることであろう。「しばらくして……」キリストは十字架について見えなくなるが、またしばらくして甦えりのキリストを見ることが出来るのである。〔17~18〕肉につける弟子たちには、この意味を理解することが出来なかった。キリストの十字架、甦えりなどは彼らの夢にも思わなかったことであるから、彼らは理解出来...
〔8~9〕聖霊が降り給う時には、奇しきみ業をなされるのである。その時に、この三つのことを悟らせられるのである。悟らせるとは英語コンビクトで非常に意味の強い言葉である。「罪についてと言うのは……」最も恐るべき罪は、キリストを信じない罪である。キリストが来られたのも、神の子であること、また信ずべきメシヤであることを知らせられたのであるが、なおこれを信じないのは罪である。ペンテコステの日に「人々の心刺さるる...
〔5~6〕今やキリストは三十三年の地上の御生涯を終えて、めでたく父の許に帰られるのである。主のお喜びはどんなに大きかったろう。そういうことを夢にも思わなかった弟子たちは、主の行き先きを問いもせずに、肉につける彼らは天国の幸福に着眼もせず、ただ悲しみにふけったのである。彼らの悲しんだのは、三年半にわたり親しく教えを受けた主と、別れねばならないからであった。自分の心に肉の願いを中心とする者は、常にこのよ...
第一六章一~四 迫害に対する覚悟五~七 キリストの去る利益八~一五 聖霊の働き 八~一一 世に対する聖霊の働き 八~一五 弟子たちに対する聖霊の働き〔1〕転ばぬ先の杖という諺のように、キリストはこれらのことを弟子たちに語られたのである。このつまずきとは、原語ではわなにかかるとの意であって、キリストは何とかして弟子たちをこのわなから逃れさせようと努められたのである。多くの人々はこのわなにかかるのであ...
〔18〕以上述べたように、我らは父なる神にこんなにまで愛され、また愛しつつあるのに、他方世は我らを憎むのである。真に神の愛を持つ人は世から憎まれるべきである。世に憎まれない伝道は、世に調和した俗化した伝道である。もしも我らがキリストの中に居るならば、世の憎悪が放つ矢は、まず第一にキリストに当るが、第二には我らに来るのである。けれども神は我らの火の垣(ゼカリヤ二5)となって、我らを守られるから、世の憎...
〔16〕「(1)汝ら我を……(2)かつ汝らをして……(3)また汝らの……(4)我汝らを立てたり」(1)我らがもし選んだのなら、主を取りはしなかったであろう。きっと世の物また偶像を取ったに相違ない。また力量から言っても、主を取る力などはない。けれども主は無限の愛の目的を達成しようとして、我らを選ばれたのである。神が選ばれる者は、世の知者ではなく、かえって世にあって無きに等しい者である。(2)神が選ばれた目的...
〔12〕これは新しい戒めである。主が我らを愛されるように、我らも互に愛し合うべきである。これが愛の源であって、しかも愛の標準である。ぶどうの樹の中に愛という汁がある時に、枝に汁が乏しくなるようなことはない。もし我らがキリストに居るならば、聖霊はキリストに満ちている愛をもって我らを満たして下さるのである。〔13〕人がその友のために少しでもつくす時は愛がある。まして、そのために命を捨てるならなおさらである...
〔7〕これは四節と同意である。我らにキリストが内住される時は、キリストのみ言は私に対して主となるのである(コロサイ三16)、この「充ち足らしめ」は「満たす」という意であって、聖霊の働かれる時はキリストの働かれる時である。またキリストの働かれる時はキリストのみ言の働かれる時である。私がキリストの中にあり、キリストが私の中にあって、キリストと私とが完全に一致する時、私の祈りはキリストの祈りであるから、す...
第一五章一~一一 キリストと信者との関係一二~一七 信者相互の関係一八~二七 世と信者との関係〔1〕「真」特に真のと言われたのは、ぶどうの樹に種々あるからである(イザヤ五1、2、ホセヤ一○1を見よ)。人間はすべて失敗したが、キリストのみは真のぶどうの樹となられたのである。ぶどうの樹といえば、地に根をはって生きているものである。天使はいかにきよくても、地に何か祝福をもたらすことが出来ないのである。英雄君...