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くまもとよかとこ案内人の会 https://blog.goo.ne.jp/k-yokatoko/

熊本市のボランティアガイドの会です。主に熊本城や熊本市内をご案内いたします。

案内人の会では 熊本城内で無料のガイドも行っています。

よかとこ
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住所
熊本市
出身
熊本市
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2010/05/28

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  • せいしょこさんと西南戦争

    141年前、明治10年(1877年)2月19日、熊本城が炎上、21日薩摩軍の本格的攻撃が開始され、「西南戦争熊本城の戦い」が始まりました。薩摩軍は熊本城を包囲し、三の丸方向から攻撃、第13歩兵連隊長與倉中佐が戦死する程の激戦になりましたが、城内に一歩も侵入することができず、24日以降約3千の兵隊で囲み、薩軍主力は田原坂に転進。政府軍との約1ヵ月に亘るし烈な戦いとなりましたが、薩摩軍は同地の戦いに敗れ鹿児島に敗走、城山に籠り最後の戦いに挑み9月24日西郷隆盛が自刃し西南戦争は終了しました。この時、西郷さんは「わしは、官軍に負けたのではない。清正公に負けたのだ!」と述べたと伝えられています。清正公と西郷さんは約280年の時空の差があります。こりゃどぎゃんこつかな!清正公は、熊本城築城に当たり次のような事を述べたと伝...せいしょこさんと西南戦争

  • なつかしかバイ!植木市

    白川橋の付近の河原で”植木市”が始まったバイ。古城堀端に住んどった頃、新町~高麗門の町内の路の両側に梅の木、キンカンが並べられ、学校の行き帰りにキンカンを食べてタイギャ”おごられた”コツば思い出した。ハッカ、正ちゃんゴマ、綿あめなんか色んな露店が並び、毎日楽しかったバイ。城親賢公が始めた市に花木類が登場したのは、花木の商いが盛んになったのは、おそらく1760年頃以降の事と思われ、人形等の玩具、紙さし、はな紙入れなどの小間物やお茶、煙草などの商品に交じって菊・かきつばた・梅・桜などの花木が売られていたようです。六代藩主細川重賢公(1720~85)は藩経済の立て直しや士風一新を推進するとともに、一般植物の栽培を藩士に奨励した。十代藩主細川斉護公(なりもり)(1804~60)も花卉盆栽を好み、園芸を奨励したこともあり...なつかしかバイ!植木市

  • 新町ば”さるこう”かい

    “新町”は、明治10年の“西南の役”で激戦地となり、町の多くが焼けたり、水没したりしたばってんが、戦後再び卸・小売業、料亭が建ち並び、通りには朝市が立ち賑わいを見せとったとタイ。ばってんが第2次世界大戦後、だんだん衰退、職人さん達が働いた工場の多くは、郊外へ移転、また平成28年4月の熊本地震で大正、昭和レトロの家屋は倒壊しました。しかし新町を代表する駄菓子屋さん、玩具屋さん、漢方薬の店舗、肥後象眼の技術等“古き良き城下町”を味わう事ができるタイ新町ば”さるこう”かい

  • 今日は、初午大祭だよ!

    あ~た知っとったね!今日2月2日は初午大祭、熊本城稲荷神社は参拝客でタイギャー賑わっとったタイ。1588年(天正16年)、加藤清正公が肥後の国主として入国するにあたり勧請した神社で、清正公は神使である2匹の狐(霊狐)を連れてきて、居城となる熊本城の守り神とした。ご祭神は、生活のご加護・将来良き方向に導く”白髭大明神”だそうです。この神社の正面に”2匹の狐”が鎮座しているのを見たこっあっとですか?「2匹の霊狐は、兄弟大明神」と言われ、次のようなの伝説があると武将隊の”せいしょこさん”が言いよんなはった。「昔、霊狐は大阪石山城に住んでいたが、石山合戦で住処を失い各地を流浪、長浜で加藤清正を見かけ、将来名君になると見込んで陰ながら守護した。清正の肥後入国と共に熊本へと移り、祇園山(現花岡山)の八枚岩に住んだ。熊本城の...今日は、初午大祭だよ!

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