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二戸・浄法寺情報局 https://airinjuku.blog.fc2.com/

岩手県二戸市を中心とした情報発信をしています。アナログレコード、オートバイ関連、近代史、地域情報などを思いつくままに書いています。病気のリハビリを兼ねて毎日記事を書くつもりです。

アナログレコード、地域の話題、ネットオークション、たまに政治の話題を語る世捨て人です。https://airinjuku.jp/ https://twitter.com/airinjuku

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2010/03/17

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  • 西郷写真 その20

    西郷写真と言われるのをまとめてみたいと思います。まずは肖像画といわれる者です。写真では無く肖像画です。続いて江戸末期の人相書きです。見る人が見れば人相書きといえるかもしれませんが、どう判断してよいか迷います。一下の画像は時期、西郷写真発見と言われたものですが現在は別の人物だと判明しています。一時期は西郷の写真と言われたモノ。で、右から2番目が小田原瑞哿(おだわらずいか)という島津家の医者説が有力で...

  • 西郷写真 その19

    真田太古は弘化2年とも4年生まれと伝わっています。西暦でいうと1845/47-1891であり、真田太古は青年期に激動の明治維新をむかえた。三戸郡関村の神職であり、鉱山開発や近隣の若者に読み書きを教えたともいわれています。千島開発の野心もあったようです。明治10年、西南戦争を好機として青森県庁などの襲撃を計画しましたが、同志の密告により逮捕・投獄されました。出獄後、数年たったころに北海道で反政府活動をおこない再び...

  • 西郷写真 その18

    明治10年2月に西郷隆盛を中心として起こった反政府運動がいわゆる西南戦争です。これに呼応して、明治10年5月に青森県三戸郡、岩手県二戸郡、秋田県鹿角郡の旧南部藩士たちも政府転覆計画を起こします。これは三戸郡田子町の真田大古(泰幸、太古)を首謀者とする怪事件でした。 その計画を簡単に説明すると、5月17日に一派は青森分営を襲い兵器や弾薬を奪い、県庁を撃ち公金を奪う。別の一派は鹿角地方の金山を襲い、七...

  • 西郷写真 その17

    古写真鑑定家の小沢健志氏によれば、この写真は明治7年頃に東京で撮影されたものではないかとのこと。小保内家でこの時代に東京にいた人物としては小保内喜代太が考えられます。喜代太は嘉永5年(1852)に生まれました。父は會輔社を創設した小保内孫陸で兄は小保内定身でます。明治7年頃には上京して洋算、物理、化学などを学びます。明治11年には帰郷し地域の青年達に新しい学問を教えたのでした。どのような理由でこの...

  • 西郷写真 その15

    自分なりにこれまでの調査や提供された情報をもとに仮説をたててみたいと思います。まずは向かって右側の人物は永山弥一郎に間違いありません。西郷兄弟の代理として活動していたために「西郷隆盛」「西郷従道(本名は隆道)」と書かれていたものと推測されます。後列中央の人物は西郷吉之助と書かれています。その下に「隆永(隆盛の本名)」と書かれています。隆永が西郷吉之助を説明したものなのか、前列に写っている子供のこと...

  • 西郷写真 その14

    実話ナックルズ平成21年9月号に例の「西郷写真」が掲載されました。写真と文章を提供した先はノンフィクション作家の斉藤充功氏です。実は斉藤氏は平成21年6月に二戸を訪れています。目的は「西郷写真」についての調査でした。二戸パークホテル前の「あらや」で南部美人を飲みながら語り明かしました。斉藤氏については、陸軍中野学校関係の著作が多くあり以前から愛読させて頂いていました。また、恩師が中野学校の二俣分校...

  • 西郷写真 その13

    それでは西郷一派と南部藩の関係を考えてみます。最後の八戸藩主南部信順は、薩摩藩主・島津重豪の十四男として生まれました。幼名は虎之助、篤之丞で、初名は久命でした。天保9年(1838年)に八戸藩の第8代藩主南部信真の婿養子として迎えられまっす。重豪の息子たちの養子先は、中津藩や福岡藩、外様ながら幕閣に列していた丸岡藩など有力藩で、2万石しかない小藩八戸藩への養子は異例といえます。信順は有名なお由羅騒動では、...

  • 西郷写真 その12

    これで少なくても3枚の同様の写真が馬淵川流域に存在したことが予想されます。1枚は私がフリーマーケットで発見した物。1枚は八戸の栃内氏関係の左右が反対に現像された写真。そして「一億人の昭和史 明治編」に掲載された旧八戸藩士の所有していた写真です。もっとも、この旧八戸藩士が栃内氏であれば、2枚ということになりますが、左右逆に写っていることから別な物のと考えるのが妥当です。何気なく「カシオペア連邦と西郷...

  • 西郷写真 その11

    ある日、例の西郷写真が掲載されている資料を見つけました。以前からその写真が何かの雑誌に掲載されているらしいことは知っていましたが、別な調べ物の資料として購入した中にその写真を見つけたときは何か運命を感じてしまいました。その雑誌は毎日新聞社が昭和52年(1977)に発行した「一億人の昭和史 明治編」の中にありました。「悲運に倒れた革命の志士」と題して29頁に掲載されています。その写真は「裏書きに、右...

  • 西郷写真 その10

    2007年の春に青森県八戸市のIさんから西郷写真についての情報をいただきました。そのときに添付されたのが下の画像です、某社で発行した書籍からの抜粋で、私が見つけた写真とは反対に現像されています。服装から判断して私の見つけた写真の方が正しく現像されているものと思われます。やはり、私の予想通り「真田事件」に関連した写真であり、永山が西郷隆盛、中央の人物が西郷小兵衛(隆盛の末弟)とされています。残念ながらも...

  • 西郷写真 その9

    西郷隆盛は歴史上の人物だけに人気もあり、その写真が残されていないだけに皆さんが興味を持たれているようです。鹿児島から遠く離れた旧南部藩領内にこの写真が存在することを俄には信じられない人も多く、あまりにも強烈な肖像画のイメージも重なり、地元の人でさえ「あり得ない」という一言で片づけています。八戸で見つけた写真には裏書きがありました。裏書きがあるからといって写真の人物を正しく伝えているとは限りません。...

  • 西郷写真 その8

    一般的な知識として南部藩は佐幕派であり、薩摩や長州から見れば賊軍なのです。敗者の南部側から見れば、決して彼らと呼応して挙兵することはないと考えていました。ところが幕末期の会輔社の薩摩や長州藩士との交流、明治維新後に版籍奉還をいち早く成し遂げた賊軍南部藩の動き、田子町で西南戦争に呼応して挙兵しようとした真田事件などを調べるに従い、会輔社のメンバーと西郷隆盛が一緒に写っている写真が存在しても不思議では...

  • 西郷写真 その7

    この新聞記事を見たときに、ある写真を思い出しました。その写真に写っている人物の目元と、新聞に掲載されていた肖像画の目元が何となく似ています。そしてその写真は、もしかしたら会輔社と関係のある人物と西郷が一緒に写っているかもしれない写真でした。その写真は平成2年頃に、八戸市で行われたフリーマーケットで見つけたものです。そのフリーマーケットに、古い書物や古道具を出展している人物が居たのです。古いカメラや...

  • 西郷写真 その6

    平成15年8月、各新聞に「西郷隆盛の肖像画発見」の見出しが載りました。地方紙にも掲載されてので記憶の方も多いかと思います。内容は下記の通りです。明治維新に活躍した西郷隆盛(1827~77年)の肖像画が、大分県日田市で見つかった。幕末・明治期に日田で文人画家として活躍した僧侶の平野五岳が掛け軸に描いたもので、西郷に面会を申し込む内容の漢詩も記されている。西郷の写真は残されておらず、肖像画数点も伝聞をもとに...

  • 西郷写真 その5

    いずれにしてもこの銅像の作者高村光雲は一度も西郷とも面識はなく、イタリア人の画家キヨソネが描いた肖像画をもとにしていて製作しています。キヨソネも西郷本人の面識はなく、西郷の弟の従道などをモデルにし、身内の人に聞いた話をもとに描いたものだったそうです。このほかにも西郷の肖像は残っていますが、どれも死後に描かれたもので、結局西郷がどんな顔をしていたのかはわかりません。写真については西郷のものだといわれ...

  • 西郷写真 その4

    西郷隆盛といえば上野の銅像や教科書に載っていた肖像画を思い浮かべますが、実はそれらは西郷本人ではありません。それどころか西郷隆盛の写真は1枚も残っていないのです。明治32(1899)年、銅像の除幕式に列席していたイト未亡人は、「うちの人はこげん人じゃなか!」と言ったそうです。この発言については、当時の士族が膝までの着物に兵児(へこ)帯という格好はしないと言う意味だったという説と、単純に顔が違うとい...

  • 西郷写真 その3

    西郷隆盛といえば上野の銅像や教科書に載っていた肖像画を思い浮かべますが、実はそれらは西郷本人ではありません。それどころか西郷隆盛の写真は1枚も残っていないのです。明治32(1899)年、銅像の除幕式に列席していたイト未亡人は、「うちの人はこげん人じゃなか!」と言ったそうです。この発言については、当時の士族が膝までの着物に兵児(へこ)帯という格好はしないと言う意味だったという説と、単純に顔が違うとい...

  • 西郷写真 その2

    安政元(1854)年に中御小姓となり、藩主・島津斉彬に従い江戸に出て庭方役として仕えます。その間水戸の藤田東湖、越前の橋本左内らの名士と国事を談ずるほどに成長しました。この頃は、ペリーの渡来により国情騒然たる時期です。斉彬の命により京都・江戸の間を往復し、将軍継嗣に一橋慶喜擁立の運動に奔走しますた。 しかし井伊直弼が大老に就任し、安政条約調印、紀州の慶福を将軍継嗣に決定して反対派弾圧のために安政の大獄を...

  • 西郷写真 その1

    20年以上前に八戸で入手した謎の写真。所有者は「西郷隆盛」の写真と主張していました。眉唾だ後思っていたのですが、いろんな状況証拠から西郷写真の可能性を全く否定できません。一部のマスコミにも取り上げられ、賛否両論が巻き起こったようです。呑香稲荷神社の小保内定身は西郷隆盛とも交流があったと伝わります。西郷隆盛は紛れもなく明治維新の主役の一人です。文政10(1827)年12月7日、鹿児島城下加治屋町の下級士族の家に...

  • 行軍記事

    野球部の初戦敗退は残念ですが、行軍のことが岩手日報に掲載されていました。歩けば停学だった昭和55年当時とは隔世の感があります。勝負は時の運。野球部には秋の大会で初めての選抜出場を目指して欲しいです。行軍に参加した皆さんには、やり遂げたことを誇りに思い今後に生かして欲しいです。多くの同窓生は、君たちの行動を誇りに思います。本当にお疲れ様でした。https://airinjuku.web.fc2.com/HATOYA online...

  • 今日から旅に出ます

    今日から旅に出ます。週末には帰宅する予定です。行き先は秘密。旅先からブログを更新します。母校応援団ネタは一応終了ということで、次は「西郷写真」に迫ってみようかと思います。ある1枚の写真が、意外に反響を呼んだことがあります。それが実は二戸地方ともかかわりがある可能性が大なんです。お楽しみに!https://airinjuku.web.fc2.com/禁じられた西郷隆盛の「顔」 写真から消された維新最大の功労者 写真から消された維新...

  • 昆徳治さんの事

    実は福陵応援団100年をはっきりと記録に残してくれたのが昆徳治さんです。大正13年3月に旧制福岡中学を卒業した先輩です。在学中は柔道部と野球部に所属していました。卒業と同時に福中野球部の監督に就任しました。当時は、現在のように毎日練習s田のでは無く、対抗試合があると臨時にチームを編成し試合に臨んだと言います。大正12年に全国中等学校野球大会出場を決めたことから、正式に野球に専念する野球部となりました。全国...

  • 令和5年の行軍は無事に到着

    地域の人たちの期待を背負って?行われた暑中行軍。本日の7時頃に無事に到着。沿線の人々からも熱い声援をいただいたようです。思えば昭和の時代は、学校非公認で参加したら停学。建て前と本音を当時から理解していたつもりですが、隠れるように出発したことは心残りでした。いよいよ本日は初戦です。行軍の次は、Hのユニフォームが躍動することを期待です。https://airinjuku.web.fc2.com/【鳥末本店の鶏もも豚バラセット】国産 ...

  • 令和5年の行軍

    昨日は一関一高がやってくれました。優勝候補と言われた強豪校を撃破。明治期に創立した兄弟校として嬉しい。すくなくとも昭和期には、遠野高校と共に兄弟校と言われていました。さて、今年の行軍は今朝出発となったようです。歩いたから勝つというものでもありませんが、地域の人にとっては夏の風物詩です。見かけたら声援をお願いします。さて、NHKの特集で放送されたので「80キロ行軍」と呼ばれているが、昭和55年ごろは暑中行...

  • 福中ラッパ隊

    昭和50年代、岩手県の伝統校と言われる学校では野球応援にブラスバンドは使っていなかった。戦後は各校で華やかだったという話もあるが、事実は明らかでない。昭和50年代の例外は我が母校であった。他校からは、由緒正しいバンカラ応援にはブラスバンドはふさわしくないとも言われた。それに対する答え。「野球が強くて楽しければ何でもあり」であった。実際に記憶している成績を書くと、昭和49年ベスト4、昭和50年新人戦優勝、昭...

  • 突撃マーチ

    昭和55年夏、9回目の甲子園が決まった際に何か新しいものを作ろうということになった。甲子園の剥けて出発する前日、数人の有志で即席で作った記憶がある。仙台一高のものをパクって、「福岡高校」や「それ行け、かっ飛ばせ」などの囃子言葉を入れたものだった。諸般の事情で、その突撃マーチはお蔵入りしてしまった。復活と言うか、43年ぶりの導入となってほしいと願っている。https://airinjuku.web.fc2.com/【送料無料】【冷凍...

  • 揚げボッチ

    全国に知られた応援に「揚げボッチ」がある。紐の着いた帽子を、ヒットが出た時や、得点が入った時にファンファーレととに帽子を揚げるものである。当然ながら、得点の場面で多用されたので良い思い出しか残っていない。現在は廃れているようだが、何としても復活してほしいものである。https://airinjuku.web.fc2.com/アウトドア用品【L-Breath】...

  • コンバットマーチ

    昭和の末期は、野球し合いになるとコンバットマーチが鳴り響いた昭和40年代後半に早稲田大学のものを独自にアレンジ。得点が入るとファンファーレとともに帽子が上がり、ある意味で福岡応援団の象徴でもあった。尊敬する白亜校のOB氏に、「他校の応援は特になんとも思わなかったが、福岡のコンバットマーチと帽子揚げは面白かった」と言われたことがある。早稲田大学のOBからも、「全国にコンバットマーチを真似る学校は多々あるが...

  • 応援旗

    一般的に現在では旗を使った応援は少ない。岩手、宮城、北関東、九州にその名残が残っている。多くの高校は東京六大学スタイルの応援である。多くの人は応援団旗と応援旗を混同しているが、団旗は掲げるもので応援旗は振るものである。旧制福岡中学ではMiha旗に始まり、福中、H旗、福高旗を経て現在のH旗を使っている。現在のH旗は昭和36年に野球部の宮岡監督が復活させた。その宮岡さんから譲られた旗は120㎝であり、Hの文字が本...

  • 暑中行軍

    昭和の時代は、7月になると福岡の街は野球の話題に盛り上がった。そして、「今年の応援団はいつ歩くのか」という話で盛り上がる。行軍が正式の始まったのが昭和49年と言われている。昭和から平成に変わり、令和の現在も続いているようだ。昭和の時代は、行軍に参加したものは停学処分であった。停学処分であったが、学校側は一度も実力で阻止に出たことはない。昭和55年当時のA校長も、某会議で行軍をさせないように注意され、当初...

  • 校歌

    「岩手の北台天下の鎮」と誇り高く歌われる母校の校歌。かつての音楽教師からは、こんなものを歌としては認められないと言われた名曲である。また、県立福岡中学の創立10周年記念式典が明治44年(1911)4月28日に挙行された。この日に歌われたお祝いの歌が「校歌」である。校歌の作られた経緯は以下の通りである。作詩者は、国漢担当の疋田剛三先生と在校生有志である。最初、青木校長は記念式歌の制作を各先生方に命じ...

  • ドレミ応援歌 守備編

    ドレミ応援歌の攻撃編は前回のブログで書いた。元々はどこかの大学で歌われていたものを、即席でパクった。守備編もなかなか面白いので紹介するドレミ応援歌 守備編どんな球でも連携堅守みんなで守れファイトを持って逸らすな白球ランナー止めろ勝利を守れどんどん来いよhttps://airinjuku.web.fc2.com/【鳥末本店の鶏肉満喫セット(鍋用4,5人前×2セット)】国産 鶏もも肉 あべどり 手羽先 手羽元 つくね 鶏ガラ 手羽先の先端 手...

  • ドレミ応援歌 攻撃編

    昭和54年ごろ、何かの試合で即興で作られた。誰がどのように作ったか覚えていないが、意外に気に入っていたのを覚えている。一部の生徒の間で歌われたが、全校規模で広がることはなかった。青森市で行われた大湊高校戦で、歌っていたら秋田商業の教師とちょっとしたトラブル。今となっては懐かしい思い出である。ドレミ応援歌 攻撃編どんな球でも連打の嵐みんなで打つぞファイトを持って空まで飛ばせランナー帰せ勝利を奪えどんど...

  • 始戦歌

    元歌のメロディーは明治大学校歌。昭和初期に明治大学の天知俊一氏(後の中日ドラゴンズ監督)からコーチを受けたときに生徒に伝わったらしい。長らく歌われていなかったが昭和50年代に復活。もとうたの明治大学校歌は、格調高い出だしで始まるが福中生は独自にアレンジ。単純ではあるが、威風堂々とした応援歌になっている。戦前は、対抗戦の始まる前に「福中生の歌」に続いて「始戦歌」を歌った。昭和55年は、岩手県大会の決勝...

  • 偉人の生地

    制定時期は大正12年冬。作詞・内村一三。作曲・内藤次郎。現在は伝わっていない。在学中に戦前の先輩方から歌ってもらったが覚えていない。抜刀隊のメロディーの編曲のような感じだったような気がする。知っている方は教えて欲しい。偉人の生地偉人の生地福陵は香蘭扶桑に完たれどそびゆる古城の月清く栄華の夢の跡もなし千古の面影おとづれば熱血武勇の威風あり歴史は降りて幾星霜時の蛟竜大作が後裔亨けし若人の伯仲孜々と交わ...

  • 第十八応援歌

    詳細は全く不明である。噂では福中25周年で作られたと聞いたことがった。メロディーも不明。応援団100年を機会に世に出してほしいものである。第十八応援歌ああ折爪の嶺の雲今日も紅 火と燃えてああ清涼の馬淵川今ぞ血潮の色となる真紅の燭光輝きて朝は来たれり福健児古き山河の夢を揺り目覚めの鐘は鳴りわたるhttps://airinjuku.web.fc2.com/あんべのやわらかジンしゃぶ(肉のみ・タレなし)/羊肉 仔羊肉 ラム肉 カタ肉 ラムモモ...

  • 第十七応援歌

    制定時期など不明。現在は伝わっていない。在学中に戦前の先輩方から歌ってもらって何となく歌えるが正確かどうかは定かではない。愛国行進曲のメロディーだったように記憶しているが、自信はない。第十七応援歌巍峨金録は燦として高く輝く日の本に鉄腕うなる肉おどる熱血選手の意気ぞ見よいと朗らかにいざ戦わん我等希望の血潮は滾る福高の健児等よ担え栄冠をhttps://airinjuku.web.fc2.com/アウトドア用品【L-Breath】...

  • 第十六応援歌

    元歌は第五高等学校寮歌。昭和36年頃に制定と伝えられていた。100周年の祝賀会で新事実。最も古い応援歌の一つで大正期に歌われたようだ。第五高等学校では明治36年ごろから歌われ、最も歌われたといわれる。本稿では長く歌われなかったが60周年の頃に復活。第十六応援歌それ東北の一聖地濁世の波を永久にせき健児が胸に青春の意気や溢るる福陵魂その剛健の質なりて玲瓏照らすひとの道陣場ケ丘に草萌えて花の香甘く夢に入り...

  • 第十五応援歌

    昭和50年代は何となく伝わっていたが、ほとんど謳われる事が無かった。そのため制定時期などに関しては不明であった。昭和14年ごろに、何かの記念で作られたと聞いたことが有る。旗の振り方に特徴があり、当時の四尺旗では振るのが難しかった。第十五応援歌雲に映えたる紅の王者の色を掲げつつここに新進精鋭の血潮に躍る胸と胸結び抱ける福高の情熱と意気君見ずや戦わんかな時きたる紅燃ゆる福高の熱血さっととぼすればたちまち成...

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