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徒然なか話 https://blog.goo.ne.jp/np4626/

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話の書き綴りです!

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2009/09/19

  • もう一度歩きたい!この道

    僕が熊大附属幼稚園に通ったのは戦後間もない昭和25・26年だった。朝の登園は幼稚園の職員だった母と一緒に、家から新坂を下り、内坪井を通って坪井川沿いに行く最短コースで登園した。しかし、帰りは基本的に一人だったので、その日の気分でコースを選んた。中でも一番楽しかった思い出が残るコースが下記の図(赤いライン)である。幼稚園児が一人でこんなコースを歩いて帰るなど、今の時代にはあまり考えられないが、随分と大様な時代だったのだろう。熊大附属幼稚園(現城東町)を出ると千葉城橋を渡って旧国道3号線(現県道303号線)に出る。左折して厩橋のところまで下り、須戸口門から熊本城に入る(当時の熊本城は出入りフリー)。平御櫓から一気に十八間櫓を目指す。十八間櫓の前で左折して石段を登り、本丸の広場に出る。当時は大天守も小天守も、も...もう一度歩きたい!この道

  • ハーンの「夏の日の夢」

    来年秋に始まるNHK朝ドラはラフカディオ・ハーン(小泉八雲)と妻のセツをモデルにした『ばけばけ』と発表された。ハーンが五高に勤務した熊本時代のエピソードも描かれるようなので楽しみだ。なかでもハーンの「夏の日の夢(THEDREAMOFASUMMERDAY)」に描かれている真夏の長崎行は映像化を期待したい。1893年7月、ハーンは坪井川河口の百貫港から小舟で沖へ出、散々待たされた蒸気船に乗り換えて長崎へ渡る。ところが長崎のあまりの暑さにほうほうの体で帰ってくるのだが、途中、三角港のホテルでの体験が「夏の日の夢」の題材となった。この時の経緯を友人の東京帝大教授バジル・ホール・チェンバレン宛の手紙で次のように書き送っている。三角には、西洋式に建築され、内装された浦島屋というホテルがありますが、――太陽が蝋燭よりも...ハーンの「夏の日の夢」

  • 山形愛羽 圧倒的な強さを発揮!

    今春、熊本中央高校から福岡大学に進学した陸上女子短距離の山形愛羽選手が「2024日本学生陸上競技個人選手権大会」において女子100mおよび200mの2冠を制し、100mではU20日本新記録と大会新記録。200mでは大会新記録と圧倒的な強さを発揮した。100mの11秒41は自己新記録。なお、準決勝では追風参考ながら11秒36を記録した。6月27日から新潟・デンカビッグスワンスタジアムで始まる「第108回日本陸上競技選手権大会」が益々楽しみになってきた。▼女子100m決勝▼女子200m決勝山形愛羽圧倒的な強さを発揮!

  • 南阿蘇・高森ノスタルジー

    今日は月イチ放送の「くりぃむしちゅーの熊本どぎゃん!?」3回目。今回は上田晋也が南阿蘇・高森地区を巡るというので興味深かった。南阿蘇・高森地区は僕にとってトラックディ-ラーの営業社員として社会人のスタートを切った思い出深い地域。しかし、何しろ56年も昔のことなので、今回上田クンが巡った場所は初めて見るところばかり。ただ、背景に見える街並みの微かな記憶が懐かしさを覚える。今年は何とか昔の思い出を辿りながら南阿蘇・高森地区を巡ってみたいと思っている。南阿蘇の田園の向こうに阿蘇の山々南阿蘇・高森ノスタルジー

  • 暑さしのぎ

    今日熊本は33℃という真夏日。まだ暑さに慣れていない体にはこたえた。あまり考え事はしたくないので「涼」を感じる映像と音楽で半日を過ごした。明日も同じような天気が続くらしいので熱中症には要警戒だ。加勢川(上江津湖)の風景▼GIFアニメーション17年前の映画「Life天国で君に逢えたら」の主題歌11年前、本條秀美さんが「牛深ハイヤ節大会」に向けて創作された曲2年前、熊本市で開催された「第4回アジア・太平洋水サミット」の記念ソング「水と花と夢と」より暑さしのぎ

  • 熊本城の平櫓台石垣の積み直し

    昨日、熊本城の平櫓(ひらやぐら)台石垣の積み直し工事が始まったとローカルニュースが伝えていた。熊本地震で櫓も石垣も大きく損壊し、5年ほど前から櫓と石垣の解体が行われた。今年3月中旬には石垣の復旧工事に入ったかと思ったら中断していたので、いったいいつから始まるのだろうと思っていた。昨日、たまたま下を車で通ったら工事を再開した様子が見えたので、やっと始まったかと思いながら通過した。平櫓は本丸の北東に位置する平屋の櫓(国重要文化財)で、石垣は加藤時代に築かれたと伝えられている。復旧に当たってはモルタル吹き付けや鉄筋の挿入など現代工法を使って石垣内部の耐震補強を行うという。ニュースによれば1日に石5個積むのが精一杯だという。今日と違って重機もなかった清正公の時代、城づくりに携わった先人たちの苦労が偲ばれる。今年の...熊本城の平櫓台石垣の積み直し

  • 熊本県スポーツ界は女性優位!?

    このところ、熊本県勢女性選手の活躍が目立つ。女性プロゴルフではプロ3年目の竹田麗央が今シーズン既にツアー3勝し、21歳になったばかりというのにプレースタイルには風格すら感じさせる。叔母さんにあたる平瀬真由美さんのように一時代を築くかもしれない。(右の写真は竹田麗央選手)その竹田選手の国府高校の先輩にあたるのが大里桃子選手。先日の「宮里藍サントリーレディス」で3年ぶりのツアー3勝目を挙げ復活を果たした。大柄で伸びやかなスイングにはポテンシャルを感じさせる。これから竹田選手と競い合って大いに活躍していただきたい。目を陸上界に転じると、今春、熊本中央高校から福岡大学に進んだ短距離種目の山形愛羽選手がインターハイを制した高校3年時の好調をキープしている。親元を離れ生活環境の変化にも影響はないようだ。先週鳥取で行わ...熊本県スポーツ界は女性優位!?

  • メグスリノキ

    どうも白内障が進行しているようなので今日生まれて初めて眼科病院に行った。熊本では最大の眼科専門病院である出田眼科病院。先日予約だけはしていたので指定された朝8:30に行ってみると、70~80名は収容できそうな待合ロビーは受診者で既に一杯。いろんな検査を受けて結局、会計を終えたのはもう午後1時に近かった。エントランスを抜けて外に出ると前庭に「メグスリノキ」があった。この病院のシンボルなのだろう。説明書のプレートを読みながら、ふと随分前にブログに書いた「メグスリノキ」にまつわる話を思い出した。▼向台寺目薬のはなし(2012.5.25.)わが家からも近い京町1丁目に向台寺という古いお寺がある。京町台の西南端に位置するが、上熊本方面に降りる坂には向台寺坂という名前が残っている。この向台寺、実は「向台寺目薬」と言っ...メグスリノキ

  • くまもと全国邦楽コンクール

    今日は朝から熊本市民会館へ「くまもと全国邦楽コンクール」を見に行く。今年で29回目を数えるそうだ。僕は2011年の第17回から見ているのだが、コロナで中止や無観客開催の年もあったので今回でたしか11回目の鑑賞となる。毎回思うのは「邦楽って何だろう?」ということ。熊本出身の地歌三絃の名手・長谷幸輝検校の名を冠したコンクールなのだが、江戸前期に肥後藩士・山崎半彌が残した「歳序雑話」には祇園社(現北岡神社)の祇園会の様子を表した「倡瞽者は淫楽の器を鳴らし、淫風の歌を謳ふ」という一文がある。これは6月14日(旧暦)に行われる祇園会は盛大で賑やかなもので、北岡の麓を流れる坪井川には遊舟が浮かべられ、舟上では酒食とともに音曲を楽しんでいたという、そんな風景を表現したもので、「倡瞽者(しょうこしゃ)つまり盲人音楽家がみ...くまもと全国邦楽コンクール

  • 祇王寺祇女桜

    監物台樹木園が3年ぶりに開園したが、開園日が4月25日だったので、残念ながら今年の桜開花時季は過ぎていた。何種類かの桜の中でも残念だったのは「祇王寺祇女桜(ぎおうじぎじょざくら)」の花が見られなかったことだ。この「祇王寺祇女桜」という桜の種類があることを知ったのは、10数年前、あるブログ記事で見つけた京都市右京区嵯峨の祇王寺の写真が、立田山麓にあった父の生家のイメージとそっくりだったことがきっかけだった。「祇王寺祇女桜」は祇王寺に植栽されていた桜で「平家物語」に登場する白拍子、祇王・祇女の姉妹がその名の由来である。▼『平家物語』巻一「祇王」のあらすじ祇王は容姿にすぐれた白拍子(しらびょうし=「今様」という当時の流行歌謡を歌い、舞を舞う男装の遊女)の名手として、京の町中に知れ渡っていた。祇王は平清盛の寵愛を...祇王寺祇女桜

  • ラインの仮橋

    昨日、ゲール・フォン(GaëlFons)さんのフェイスブックに、6月6日は「D-Day」で、フランス人にとってとても重要な日であることが書かれていた。これを読みながら、僕は「史上最大の作戦」とともにもう1本、別の映画のことを思い浮かべていた。それはフランスの社会派監督アンドレ・カイヤットの「ラインの仮橋(1960)」である。僕が高校生の頃で「史上最大の作戦」とほとんど同じ頃に見た覚えがあるが、今でも心に残る名作だと思っている。▼あらすじ第二次大戦、ドイツ軍の捕虜となったフランス人のパン職人ロジェと新聞記者のジャン。二人はライン河にかかった軍用仮橋の上で出会い、一緒に労役に服するため、あるドイツの村へと送られる。ここから二人の男の人生観と生き様が、際立った対照を見せながら、物語は進行する。村長の娘ヘルガを誘...ラインの仮橋

  • D-Day

    今日は日本では令和6年6月6日と「6」が並ぶので、メディアでもいろんな意味付けが話題になっていたようだ。一度だけ熊本城城彩苑でお会いしたことのあるフランス人のゲール・フォン(GaëlFons)さんがご自身のフェイスブックに、ヴェルレーヌの有名な詩の冒頭”Lessanglotslongsdesviolonsdel’automneBlessentmoncoeurd’unelangueurmonotone”【和訳】秋の日のヴィオロンのためいきの身にしみてひたぶるにうら悲しとともに、1962年の映画「史上最大の作戦」(TheLongestDay)の1場面の動画が貼り付けてあった。それを見て思い出した。そうか80年前の今日、「D-Day」つまり「ノルマンディー上陸作戦」が開始された日であったことを。動画にはドイツ人...D-Day

  • 観客のマナーのはなし。

    先日、熊本市民会館での日本舞踊公演をビデオ撮影していて一番困ったのは、上演中に平気で前を横切って行くオバちゃんたち。上演中は「動かない・しゃべらない」くらいは常識だと思っていたが、この日の客はそんなことは全くお構いなし。1階のいい席を取っていただいていたのだが、これじゃ満足に撮れないなと思い、2階席に移動した。2階は空席も多かったのでここなら大丈夫かなと思っていたら、何のことはない、2部の歌謡ショーが目的と思われるオバちゃんの団体がやって来て、上演中というのに大声で会話はするわ、カメラの前を平気で行き来するわでやりたい放題。こんなにマナーの悪い客と遭遇したことは今までにない。マナーといえばいつも困るのが能。拍手をしていいもんだかどうかわからない。能楽通に言わせれば、もともと神事として始まった能に拍手はいら...観客のマナーのはなし。

  • くまモン15周年に向けて!

    来年3月にデビューから15周年を迎える熊本県のキャラクター「くまモン」。今、それを記念するロゴ募集や選考が進められている。7月上旬には記念ロゴが決まる予定だという。九州新幹線鹿児島ルートの開業による地域振興効果を上げるため、2005年に「新幹線くまもと創りプロジェクト」が立ち上った。その一環として、2010年には熊本出身の脚本家・小山薫堂さんの企画で「くまもとサプライズ」が始まり、そのキャラクターとして創造されたのが「くまモン」。それからやがて15年が経とうとしている。振り返れば、この15年は熊本にとっていろんな意味でサプライズの連続だった。2011年、新幹線開業の前日に発生した東日本大震災。予定されていた開業記念のイベントはすべて中止あるいは延期に。それから1年ほど続いたイベント等の自粛。前途多難を覚悟...くまモン15周年に向けて!

  • 歌舞伎舞踊「京人形」を観ながら

    今日は舞踊公演のビデオ撮影を頼まれていたので市民会館に観に行った。日本舞踊藤間流師範、藤間きみ藤さんの芸歴五十年を記念する特別公演だった。お弟子さんや藤間流系の舞踊家など30名ほどの方が次々と舞踊を披露された。なかでも、藤村紫皇さんと藤間きみ奈さんが踊った歌舞伎舞踊「京人形」は出色。藤村紫皇さんは藤村流の家元で、先月、別の舞踊会で、その巧みな表現と滑稽味を見ていた。藤間きみ奈さんは若手舞踊家の期待の星だと、彼女が高校生の頃から聞いていた。この二人の共演だから当然の出来栄えだと思う。今日演じられたのは、京人形の精が踊り出す次のようなくだり。――名工・左甚五郎が廓の太夫に思いを寄せ、その姿を等身大の人形として彫り上げる。人形を愛でながら晩酌をしていると、不思議にも人形が動き出す。甚五郎が魂を込めて彫ったため、...歌舞伎舞踊「京人形」を観ながら

  • 六月朔日詣り

    今日は藤崎八旛宮へ六月の朔日詣りに行った。いつもの朔日より駐車や参詣者が多いなと思ったら、六月一日恒例の「開運長寿祭」だった。熊本では「6.1」にちなんで、この日に今年還暦を迎える人を祝う風習がある。今日も拝殿でお参りした後、境内の各末社もお詣りして回った。そして清原元輔の歌碑「藤崎の軒の巌に生ふる松今幾千代か子(ね)の日過ぐさむ」をあらためて読んだ。この歌は、藤崎宮が今の藤崎台にあった頃、元輔が「子の日の松」の行事を行ったときに詠んだものと伝えられる。古より不老長寿の象徴とされてきた「松」のめでたさを詠んだ歌。今日という日にはピッタリだなと思う。一方、娘の清少納言は「枕草子」の「めでたきもの」の條には「色あひふかく花房ながく咲きたる藤の花の松にかかりたる」という一節がある。「藤の花」はたおやかな女性のイ...六月朔日詣り

  • 旧坪井川河道の跡

    壺川小学校裏の民家(下の地図の赤〇)が解体され更地になっていた。この家は旧坪井川河道(地図の黒いライン)が湾曲している場所にあたる。既に整地が始まっていたのでわからないが、旧河道の土手の痕跡があったのではないかと思う。10年ほど前、黒ラインの上端辺りの家の長老に会ってお話を聴いた時、家の裏に古い土手の跡があるとおっしゃっていた。普通の民家なので調査などは行わずに工事を行ったものだろうが、坪井川の歴史を確かめるいい機会ではなかったかとちょっと残念な気がした。解体前の民家(正面突き当り)家の位置と旧坪井川河道解体され整地が進む更地旧坪井川河道の跡

  • 郷土芸能の伝承に励む高校生にエール!

    天草伝統の唄と踊り「牛深ハイヤ」を守る牛深高校郷土芸能部は、全国高校総文祭に25回出場し、日本一に輝いたこともある名門。しかし、少子化の影響で生徒数が減少、2年前の春には3年生が卒業し部員ゼロという存続の危機に立たされたこともあったという。その年の熊本県高校総文祭パレードでは郷土芸能部門の常連である牛深高が数名の部員で参加し、とても寂しかったことを覚えている。今年の1月だったか、NHK九州・沖縄で放送された「キミだけ応援団」や5月に放送されたNHKの「ひむバス!」などでその活動が紹介され、復活の兆しを感じてはいたが、今日、今年の熊本県高校総文祭パレードをナマで見ることができ、踊り手、地方ともに10名以上のメンバーが揃っていることを確認して安心した。郷土芸能は伝統を繋いでいくことが大変だと聞く。何とか頑張っ...郷土芸能の伝承に励む高校生にエール!

  • 大相撲と熊本

    大相撲五月場所は、初土俵から7場所目という、まだ大銀杏も結えない大の里の優勝で幕を閉じた。評論家が口を揃えて「横綱の器」だという大の里はおそらく大関昇進までそれほど時間はかからないだろう。最近、やたらと多い短命大関にならないことを願うばかりだ。かつて熊本は相撲の聖地だった。それは相撲の宗家である吉田司家があったからである。僕らが子どもだった頃、新横綱が誕生すると藤崎八旛宮の参道沿いにあった吉田司家で免許状の授与が行われていた。吉田司家はもともと越前国の武家。後鳥羽天皇(平安末期-鎌倉初期)の時代、初代の吉田家次が節会相撲の行司官に任ぜられ、以後、相撲の宗家として代々「追風」の号を名乗った。肥後細川3代の細川綱利公の時、招かれて熊本藩に仕えた。寛政元年(1789)19代吉田追風が「横綱」を考案し、谷風梶之助...大相撲と熊本

  • ジェット・ストリーム(再編集版)

    20代の頃、会社の担当者会議でよく東京に出張した。1日で会議が終わる時は熊本ー東京間を飛行機で日帰りした。ある時の出張の帰り、熊本へ向かうJAL最終便の離陸を待つ機内でラジオを聴いていた。少し遅れて搭乗してきたダンディな紳士が隣りに座った。この紳士、他の乗客と様子が違っていた。離陸する時、頭を傾げてじっと聞き耳を立てていた。僕は気にしない素振りをしていた。飛行機が上空に上がって安定飛行に入った時、その紳士が突然話しかけてきた。「いや、私もね、この飛行機を操縦するもんですからね、離陸と着陸は気になるんですよ」。そうですかと答えた僕に「今日の機長は上手いですよ」と続けた。それからしばらく、お互いの身の上などを語り合った。紳士が「どこにお住まいですか」とたずねたので、「京町です」と答えた。すると紳士は「それじゃ...ジェット・ストリーム(再編集版)

  • 「光る君へ」と藤原保昌

    大河ドラマ「光る君へ」には肥後国司を務めた清原元輔(清少納言の父)が登場しましたが、もう一人、同じく肥後国司を務めた藤原保昌(ふじわらのやすまさ)は武勇の誉れ高く「道長四天王」の一人とも呼ばれた人物ですので登場してもおかしくありません。熊本県観光連盟のウェブサイト「ふるさと寺子屋」には肥後の名国司の一人として保昌のことが次のように紹介されています。▼強盗の親玉も恐れる国司藤原保昌(ふじわらのやすまさ)昭和の初めまで藤原保昌が肥後の国司であったことは、伝承でしかありませんでしたが、『御堂関白記(みどうかんぱくき)』と称される藤原道長の日記に「藤原保昌を肥後守にした」と記されてあります。保昌は有名な武士で、強盗の親玉が恐れる程の人物でした。寛弘二年(1005)に肥後の国司が殺される事件があり、強剛な保昌が任命...「光る君へ」と藤原保昌

  • VRおじさんの初恋

    最近はテレビドラマといえば、大河や朝ドラをつまみ食い的に見るくらいだが、1回15分という気楽さもあって、珍しくズーっと見たのが「VRおじさんの初恋」(NHK)。最初はVR(バーチャル・リアリティ)の中の物語というので、ちょっとメンドくさいドラマかなと半歩ほど引き気味に見ていた。しかし、見始めると妙に心に響くものがあった。ドラマの中のVRはおそらく近未来のものと思われるのだが、そこに描かれているのは時代を問わない人間臭いドラマ。80の坂が見えて来た僕にとって、人生を振り返り、自分を見つめ直すこともあり、そこには「生き直し願望」のようなものが生まれる。仮想空間上のアバターに託して別の世界を生きてみたいという主人公たちの願望が痛いほどわかる。そしてアバターが自分自身のリアルワールドにおけるふるまいにも影響を与え...VRおじさんの初恋

  • まぼろしの銘菓「さおしか」(その後)

    先日、25回忌を営んだ亡父が幼い頃(大正時代初期)日参した泰勝寺の長岡家でふるまわれた銘菓「さおしか」。その「さおしか」を製造販売していた老舗菓子舗・福栄堂さんが、味噌天神近くで火曜日だけ営業しているという「肥後ジャーナル」の記事を発見し、直接福栄堂さんに電話をかけて確かめたのが昨年11月のことだった。わが父の思い出の菓子だったことや今でもどこかで作っていないか探していたことなどを女将さんに説明した。その折、今は「さおしか」は作っていないが、復刻を検討していることや合志市須屋の大盛堂さんが同じような作り方で「さおしか」を作っておられることをご紹介いただいた。しかし、ひょっとして25回忌までに福栄堂さんが「さおしか」を復刻されるかもしれないという微かな期待があり、大盛堂さんを訪れることはなかった。その後の経...まぼろしの銘菓「さおしか」(その後)

  • 高瀬裏川花しょうぶ

    今日は所用で玉名に行ったついでに高瀬裏川の花しょうぶを見に行った。思えば玉名に初めて勤務した昭和46年(1971)裏川沿いの、かつて米問屋だった町家を工場立上げ要員の仮住まいとして借りていた頃から53年という歳月が流れた。高瀬裏川というのは、現在の玉名市中心部が肥後高瀬藩だった頃、菊池川流域でとれた米を積んだ平田舟が行き交った運河で、河岸には町屋や蔵が軒を連ねていた。今も往時の風情を感じる町屋が残っている。肥後米の積出し港として栄えた高瀬町は、菊池川とその支流の繁根木川の中州にできた商業の町。古代から菊池川河口に開けた港町でもあった。古くから関西、関門、博多方面と交流があったと伝えられる。江戸時代には高瀬藩の御蔵が置かれ、肥後米最大の積出し港となっていた。この港から積み出し大坂堂島へ運ばれた米は「高瀬米」...高瀬裏川花しょうぶ

  • 伊勢へ七度 熊野へ三度(考察)

    「伊勢へ七度熊野へ三度」という俚諺がある。国語辞書には「伊勢神宮や熊野三社へたびたび参ること。信心の深いこと、また、信心はどんなに深くしても限りはないことのたとえ。」とある。そして、多くの場合、あとに、「愛宕様(山)へは月参り」と続けていう。いったいいつ頃からいわれ始めたのだろうかと調べてみると、コトバンクに「伊勢へ七度熊野へ三度」の初出の実例として「浮世草子・風流比翼鳥(1707)」が挙げられていた。江戸中期ということになる。しかし、それよりさかのぼること100年、江戸初期の阿國歌舞伎歌の中に「茶屋のおかかに末代添はば伊勢へ七度熊野へ十三度愛宕様へは月参り」という詞章が既にある。阿國歌舞伎は中世から近世にかけて流行した小歌などを取り込んでいるそうなので、この詞章も巷で歌われていたと考えられる。そこでオヤ...伊勢へ七度熊野へ三度(考察)

  • ポケットコンピュータとエイティーズ(80's)

    ブログ友の「小父さんから」さんが、電機メーカーのシャープが大阪のテレビ向け液晶パネル工場を生産停止したニュースを取り上げておられた。日本の電機メーカーが市場を切り開いてきたテレビ用の液晶パネル産業は、最後に残されたシャープの生産終了によって、事実上、幕を下ろすことになるという。日本の家電メーカーの凋落には「諸行無常」の思いを感じざるを得ない。中でも僕にとってシャープには特別な想いがある。1980年代の初め、僕は東京で勤務していたが、ちょうどその頃、パソコンが普及し始め、間接部門のOA(オフィス・オートメーション)化が始まった。その頃のパソコンというのは今から見れば、やっかいなシロモノで、「パソコンを使う」ということは「プログラム言語を使ってプログラミングする」ということだった。社員のほとんどがおよそコンピ...ポケットコンピュータとエイティーズ(80's)

  • 第29回くまもと全国邦楽コンクール

    邦楽の祭典「~長谷検校記念~第29回くまもと全国邦楽コンクール」が熊本市民会館で行われます。熊本市鍛冶屋町に生まれ、九州系地歌を全国に普及させた長谷幸輝(ながたにゆきてる)を記念して平成5年から始まったこのコンクールも今年で29回を数え、若手邦楽家の登龍門となっています。今年はどんな若手が飛び出すか楽しみです。本選出場者のメンバーが下記のとおり発表されました。日時:2024年6月9日(日)10:00〜会場:市民会館シアーズホーム夢ホール(熊本市民会館)入場無料今年の出場者で個人的に注目しているのは、筝曲部門の安嶋三保子さん、尺八・笛音楽部門の出会ユキさん、三味線音楽・胡弓部門の今藤政優さんなどです。第29回くまもと全国邦楽コンクール

  • 父の二十五回忌と「受け念仏」の話

    今日は父の二十五回忌。自宅に近親者のみ集まってささやかな法要を営んだ。最後に菩提寺ご住職の法話があり、浄土真宗の「受け念仏」についての話があった。大要は次のとおり。――私の恩師がアメリカのシアトルに招かれて広島県出身の信徒に法話をされたことがある。その時、今日、日本ではほとんど行われなくなった「受け念仏」が300人以上の信徒によって行われ、異常なほど盛り上がった。「受け念仏」とは、説教者のお話の中で、聴き手がいいお話をいただいたと感じた時はその都度手を合わせ「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」と唱えること。その信徒たちは広島県からアメリカに移民として渡った人たちの三世・四世の人たちで、父母や祖父母などからそうするように教わって育ったという。日本では既に廃れてしまった宗教的風習が遠く離れたアメリカの地に残っていて感...父の二十五回忌と「受け念仏」の話

  • 「草枕 鏡が池」のモデル

    昨日、子飼へ車の給油に行った帰り、泰勝寺跡の前を通ったのでちょっと立ち寄った。昨年、一時干上がった池の現状が気になっていたからだ。満水まではいかないが4分の3くらいまで水位が戻っていて安心した。2016~2017年に開催された夏目漱石記念年事業の一環として出版された「漱石の記憶」(熊日出版)の中に、中村青史先生(元熊大教授、2023年8月没)の「草枕鏡が池のモデル」という小論が掲載されていて、漱石の「草枕」に登場する「鏡が池」は泰勝寺の池がモデルではないかと推論されている。「草枕」の「鏡が池」のくだりでは、画工と那美さんのやりとりの後、「鏡が池」の描写がある。--------------------------------------------------------------------------...「草枕鏡が池」のモデル

  • ビートルズ60年

    ザ・ビートルズが「ラブ・ミー・ドゥ」でメジャーデビューしたのは1962年10月のこと。しかし、日本では1964年2月に発売された「IWantToHoldYourHand(抱きしめたい)」がビートルズの日本デビュー曲となった。この1964年がいわば日本のビートルズ元年といえる。僕は当時も今も特別なビートルズファンというわけではないが、彼らが世に出た頃が一番音楽を聴いていた時期なので、その時代の空気感みたいなものはよく憶えている。この1964年、僕は高校を卒業して上京した。この年は東京オリンピックの年で、大学の水泳部もシーズンインがいつもの年より早く、まだ卒業式前の2月に入ると早くも大学水泳部の寮に入った。慣れない寮生活で楽しみと言えば、高校時代からのラジオでヒットポップスを聴くことだった。なかでも熊本では聞...ビートルズ60年

  • 清少納言と清原元輔そして檜垣媼

    昨夜のNHK「歴史探偵」のテーマは「清少納言と枕草子」だった。大河ドラマ「光る君へ」を放送中なので番宣の意味もあったのだろう。「清少納言と枕草子」についてはこれまでも「100分de名著」などいろんな番組で取り上げられてきたので、あらためて内容については触れない。そこで、清少納言の父親、三十六歌仙の一人で肥後国司を務めた清原元輔との関係について気になっていることを記しておきたい。清少納言は生没年不詳とされているが最近では康保3年(966年)生まれとする説が有力のようだ。ということは、元輔が59歳頃に生まれたことになる。現代でも70歳前後で子を生す人はいるので不思議ではないが、平均寿命が50歳くらいだった平安時代に随分お元気だったのだなぁと思う。元輔が天延2年(974年)周防国司として赴任した時、清少納言はま...清少納言と清原元輔そして檜垣媼

  • 60年の歳月を隔てて

    今日ネットニュースで嬉しい写真を見つけた。ドジャースの専属カメラマン、ジョン・スーフーさんが今日、自身のインスタグラムに公開した、大谷翔平選手と日本人初のメジャーリーガー、村上雅則さんのツーショット写真だ。60年前、それまで日本人にとっては遠い夢の世界だったメジャーリーグに先鞭をつけた村上さんと、今やメジャーリーグのトップスターとなった大谷選手。60年の歳月を隔てて二人が並び立つ姿を見て感慨もひとしおである。MasseyMurakami(村上雅則)メジャーリーグ初の日本人選手、村上雅則さんがSFジャイアンツのリリーバーとして活躍したのは1964年と1965年。当時の日本ではMLBのテレビ放送などはなく、毎朝、新聞のスポーツ欄で確かめ、たまに数日遅れの映像をテレビで見るのが楽しみだった。さらにその3年ほど前...60年の歳月を隔てて

  • 伝説の起り

    先月、NHK「歴史探偵」で平安時代の名僧・空海を取り上げていた。日本各地およそ3,000ヶ所に空海伝説が伝わるという。それは、「高野聖(こうやひじり)」と呼ばれた下級僧たちが全国各地に赴き、勧進をし空海の教えを説いたからだという。それはいつの頃からか空海本人が訪れたという話に変わっていった。見ながら僕は「小野小町」のことを連想した。小野小町も全国いたるところに生誕地や墓などゆかりの地が存在する。柳田國男は著書「妹の力」の中で、「小野小町の遺跡が全国に(西は九州の熊本付近から、一方は奥州羽州にかけて)充満している事実に対しては、(中略)わたしはこれを小町の物語をもってあるく女性が、もとはおおよそ一つの中心から、発足したからではないかと想像している。(中略)小野小町の物語をしてあるく者を、直接にその小町が来た...伝説の起り

  • 「そうじゃおまへんか節」の系譜

    ブログ友の「無題・休題-ハバネロ風味-」さんが地元である山形県酒田市の趣のある料亭街などを紹介されていました。その中に街中の路面にはめ込まれた「酒田甚句」のプレートが印象的で、同じ系統といわれるわが熊本の「おてもやん」のことを思い出しました。5年ほど前、熊日新聞の連載企画「肥後にわか~笑いの来た道~」に、東海風流プロジェクト(水野詩都子・﨑秀五郎)さんが「おてもやん」の音楽的系譜について寄稿されました。その要点は――明治20年頃「きんらい節」という曲が流行りました。上方の噺家・初代芝楽が京都から江戸に移り、「きんらい節」を披露し花柳界から瞬く間に全国に届くほど大流行しました。蓄音機ができる10年前ですから、広範囲で流行したというのは凄い事だと思います。曲のおしまいに呪文のような囃子言葉があります。「キンム...「そうじゃおまへんか節」の系譜

  • 「母の日」に想いだすこと

    今日は「母の日」。僕は「母の日」に必ず想いだすことがある。今年102歳となった母はもう炊事をすることはないが、まだ元気に炊事をしていた頃、時々作ってくれたのが「炊き込みご飯」だった。といっても、にんじんと揚げとゴマメを入れ、醤油で味付けしただけの質素な「炊き込みご飯」である。実はこれ、昭和15、6年頃、母が勤めていた島崎尋常高等小学校で、待労院(慈恵病院の前身)から登校していた孤児たちに給食として食べさせていた一品らしい。おかずはない。孤児たちはこれが大好きで喜んで食べていたそうだ。2006年だったか、慈恵病院が「こうのとりのゆりかご(赤ちゃんポスト)」を立ち上げた時、メディアなどでは売名行為などと批判する声もあった。時の某首相など、この件を記者から尋ねられると、あからさまに不快な表情を隠さなかった。孤児...「母の日」に想いだすこと

  • シーボルトのかっぽれ

    この映像に付けられた音楽は、江戸後期、長崎のオランダ商館の医師として日本へやって来たシーボルトが採譜し、ドイツの作曲家ヨーゼフ・キュフナーによってピアノ曲に編曲されたた「日本の旋律」という楽曲である。全7曲のうち2曲目に収められているのが、俗にいう「シーボルトのかっぽれ」という曲で「Pocolento(かっぽれ)」という題名が付けられている。「Pocolento」とはイタリア語で「少しゆっくり」という意味だそうで、0:47から2:20までが「Pocolento(かっぽれ)」である。この映像を視聴すると、誰しも「かっぽれ」とは似ても似つかぬと思うだろう。いったいなぜこんな曲になったのだろうか。まず、シーボルトはいつ、どこで、どのような状況で「かっぽれ」に接したのだろうか。この時代、彼がいた長崎出島周辺に「か...シーボルトのかっぽれ

  • 中将湯と中将姫

    ブログをフォローさせていただいている「りぼんの部屋」さんが、朝ドラ「虎に翼」に違和感を感じるという記事をアップされていた。りぼんさんは「昭和初期の家庭内で女性の生理について大っぴらに会話するなどあっただろうか」という主旨だった。実は僕も見ていて同じことを感じていたのでさっそくコメントを入れさせていただいた。同意を伝えると、りぼんさんからリプライがあり、その中に「ドラマでは、生理痛の時に、三陰交のツボ押しの話は出てくるが、「中将湯」の話が出て来ないのはなぜ…」という疑問を抱かれたようだ。「中将湯」というのは生理痛など女性特有の症状に幅広く用いられる生薬のこと。女性ならではの気付きだと思うが、たしかに「中将湯」は明治26年に発売されたとあり、昭和初期にはかなり普及していたはず。僕らが子どもの頃、あちこちで「中...中将湯と中将姫

  • 父が生きた時代

    来る5月19日はわが父の祥月命日である。今年は没後24年になり、コロナで23回忌を見送ったかわりに、今年25回忌を行なうことを菩提寺のご住職と相談して決めた。これまで父の祥月命日には父が書き残した備忘録の中から選んで記事を投稿してきたが、今回は戦前の3題をあらためて再掲することにした。昭和11年3月、天草上村で・・・(2011.5.19)今日は父の11回目の祥月命日。先日、母を連れて、かつて父が赴任していた上天草市の上小学校を訪問したが、その後、父の古いアルバムの中に、その当時の写真があるのを発見した。当時の上村尋常高等小学校の教職員の集合写真だった。昭和11年3月撮影と記されていた。ということは父が24歳、教員になってから既に5年ほど経った頃のようだが、真ん中で腕組みをしているところを見ると、結構生意気...父が生きた時代

  • 来春の愉しみな公演

    先日「城彩苑」で行われた「春の熊本城坪井川園遊会」の「舞踊団花童&はつ喜」の公演を見に行き、終演後、舞踊団主宰の中村花誠先生にご挨拶した際、別れ際に先生が「来年はよろしく!」とおっしゃった。一瞬何のことかと思ったが、すぐに来春計画されている特別公演のことだなと気付いた。舞踊団結成25周年と先生の還暦を合わせて祝う公演の計画は何度か伺っていた。どんな公演になるのか楽しみだが、2018年・2019年に行われ、その後、新型コロナの影響もあって途絶えている八千代座での「山鹿をどり」をしのぐ公演になることを期待している。2019.5.12山鹿八千代座第二回山鹿をどり作詞・作曲:本條秀太郎作調:中村寿誠・中村花誠笛作調:藤舎元生振付:藤間珠寿恵【立方】:藤間誠申・はつ喜月若・花童きみか・花童じゅの・麻生朱里【地方】三...来春の愉しみな公演

  • 今日の散歩 ~寺原・坪井・内坪井界隈~

    今日は瀬戸坂を下り、眞光寺の前で右折し、かつて家鴨丁(あひるちょう)と呼ばれた小路に入った。家鴨丁を抜けると左折し坪井川に架かる庚申橋に向かう。流長院の裏手の民家の脇で初夏の花「スイカズラ(忍冬)」の花を見つけた。最近、スイカズラの花を見なくなったなぁと思っていたのでちょっと嬉しい発見だった。ジョン・フォードの「荒野の決闘」を思い出して花の香りを嗅いでみたが、あまり匂いはしなかった。「荒野の決闘とスイカズラ」スイカズラの花庚申橋を渡って右折し、坪井川に沿ってひとつ下流の空壷橋で県道を横切り、坪井1丁目公園でひと休みした。ついでに近くの小泉八雲・坪井西堀端旧居(熊本第二旧居)跡の記念碑を見に行った。今は邸の痕跡もなく道路を挟んだ向かいにあった八雲ゆかりの東岸寺跡地蔵堂も数年前に撤去された。公園近くの民家の庭...今日の散歩~寺原・坪井・内坪井界隈~

  • 代継宮 ~曲水の宴~

    今日5月4日は代継宮(熊本市北区龍田)で毎年恒例の「曲水の宴」が行われ、会場を取り巻く観客は雅な平安絵巻を楽しんでいた。代継宮の「曲水の宴」は今年で12回目。色鮮やかな十二単など平安時代の衣装を身に纏った歌人たちが庭園内の「遣水(やりみず)」沿いに座り、酒杯が目の前を通過するまでに与えられた歌題の和歌を詠んだ。今回の歌題は「うぐいす」と「あやめ」。歌人に扮した熊本の民放テレビ各局から選ばれた女性アナウンサーらが思い思いの歌を詠んでいた。歌人に扮した女性アナウンサーたち巫女による祭祀舞「豊栄の舞」榊を手に舞う。「天の浮橋」を渡ってそれぞれの歌詠みの席へ向かう歌人たちまさに平安絵巻を思わせる「曲水の宴」代継宮~曲水の宴~

  • 熊本城坪井川園遊会 ~花魁三分二朱~

    現在、熊本城の観光施設「城彩苑」では「春の熊本城坪井川園遊会」が連日開かれており、今日は「舞踊団花童&はつ喜」6名の出演。「元禄花見踊」など4曲を披露したが、花魁、振袖新造、禿の衣装で踊り、雰囲気を盛り上げた。公演が終わった後、舞踊団主宰の中村花誠先生にご挨拶したが、「今日は春の園遊会なので花魁づくしでやりました」とおっしゃっていた。以前は春の園遊会でも花魁道中が行われていたが、近年は秋の園遊会だけになった。今日の演目の中から「花魁三分二朱(おいらんさんぶにしゅ)」をアップしてみた。この曲はお馴染みの江戸端唄「奴さん」である。端唄「奴さん」には多くの替え歌があり、この「花魁三分二朱」はいわば「奴さん」の花魁バージョンといったところ。「花魁三分二朱」とは花魁の揚げ代が三分二朱かかるという意味だが、今日の金額...熊本城坪井川園遊会~花魁三分二朱~

  • 城彩苑の賑わい

    今日は少し距離を伸ばして熊本市民会館辺りまで歩いた。帰りは熊本城の観光施設「城彩苑」を通り抜けて二の丸広場へ上って帰った。城彩苑は大型連休中とあって大勢の観光客で賑わっている。そして聞こえてくる会話は中国語がほとんどだった。帰ってから夕方のRKKテレビのニュース情報番組「夕方Liveゲツキン!」を見ていると、さっき通ったばかりの城彩苑の話題が取り上げられていた。それによると、城彩苑の来場客数が過去最多になったという。昨年3月から1年間の売り上げが、前年比では155%、コロナ前の2019年よりも140%だという。来場者数は前年から68万人ほど増え、過去最多の226万2000人、店舗の販売高は去年の1.5倍以上と過去最高を記録したそうだ。好調の要因は、台湾からの観光客の増加だそうで、TSMCの進出効果もあるの...城彩苑の賑わい

  • 今日聴きたいと思った音楽

    ♪あなたの思い出(MemoriesofYou)今年に入ってから、送られてくるブリヂストンのOB会報に知人の訃報が多くなった。かつての上司や同僚など、お一人お一人の在りし日のお姿を思い出し、その人と接した場面の思い出に浸っている。肥薩おれんじ鉄道♪銚子大漁節先日、熊本県と鹿児島県の間で運行している第三セクターの「肥薩おれんじ鉄道」と千葉県の「銚子電鉄」との間で事業連携の協定を結んだというニュースが流れた。一瞬「?」と首をかしげたが、きっと何かメリットがあるのだろう。いや是非メリットを生み出してほしい。今日聴きたいと思った音楽

  • ブリヂストン吹奏楽団 with 玉名女子高吹奏楽部

    6月15日、玉名市民会館で「ブリヂストン吹奏楽団久留米玉名チャリティコンサート2024」が行われる。11年前のこのコンサート以来、この楽団の演奏をナマで聴いていない。久しぶりに聴きに行ってみようかと思っている。思えばこの楽団の防府市公会堂でのコンサートの企画運営を担当してから47年の月日が流れた。そしてこの楽団のメインテーマ曲は昔も今も「どこまでも行こう」。ブリヂストンのCMソングとしてお馴染みの曲である。11年前の玉名公演と同様、今回も玉名女子高校吹奏楽部との共演となった。全日本吹奏楽コンクールにおいて金賞常連の二つの楽団の共演は見もの聴きものである。開催日:6月15日(土)会場:玉名市民会館大ホール▼ブリヂストン吹奏楽団久留米▼玉名女子高等学校吹奏楽部ブリヂストン吹奏楽団with玉名女子高吹奏楽部

  • 清正公(セイショコ)さんと木遣

    昨日、加藤神社で行われた「清正公まつり」で「木遣」と「梯子乗り」が奉納された。このまつりで「木遣」を見たのは初めてだったので「オヤ?」と思ったのだが、考えてみれば清正公と「木遣」は縁が深い。なるほどなと思った。慶長15年(1610)、徳川家康による名古屋城の天下普請の際、加藤清正は最も難工事といわれた本丸の石垣工事を担当した。この名古屋城築城時の清正公の働きぶりについては江戸時代に書かれた古文書「続撰清正記」に詳しい。これを「肥後史話」(卯野木卯一良著・昭和56年)では次のように解説されている。この時の清正の工事の活動振りは目ざましいものであった。かつて熊本大築城の経験もあり、慶長11年には江戸城の築城にも参加していたので、今度の工事は知れたものである。自ら進んで天守閣の築造を引き受け、寵臣である飯田覚兵...清正公(セイショコ)さんと木遣

  • 清正公まつり

    今日は加藤神社の「清正公まつり」が行われたので、参拝後、御神幸の宮出しを見てきた。長く途絶えていたこの祭を昭和50年(1975)に復活させ、今年が50回目だという。1975年と言えば、仕事が最も忙しかった頃で、翌年には転勤で熊本を離れたので、実はこの祭のことは知らなかった。それから約20年後熊本に帰ってからこの祭を知った。子供の頃、加藤神社は京町台の新堀にあり、境内は遊び場の一つでもあったが、戦後30年経ってから復活したこの祭には縁がなかったのである。今日は気温が27℃まで上がり、御神幸の参加者、特に子供たちは厳しい道行となっただろう。一昨年まで7月下旬に行われていたこの祭を暑さ対策もあって4月開催に変更した効果もあまり感じられないほどだった。木遣唄と梯子乗り巫女たちも御神幸へ神輿の宮出し(一の宮)神輿の...清正公まつり

  • 叔母の旅立ち

    御殿場の叔母が旅立った。いつ見てもニコニコしている叔母だった。まだ80を過ぎたばかりと思っていたのにあっけない最期だった。叔父(母の弟)は若い頃からずっと御殿場の自衛隊にいたので御殿場で知り合って結婚した。もう60年近くも前になるが、僕は大学生で川崎に住んでいたので、唯一の花婿側親族として結婚式に出席した。初めて叔母を見た時、玉名の叔母(叔父の姉)の若い頃にそっくりだなと思った。叔父にそのことを言ったら、「そうかなぁ」と首をひねっていたが、叔父は無意識に姉上に似た人を選んでいたのかもしれない。僕は学生時代や東京勤務時代に何度も御殿場の叔父の家を訪れた。東京を離れてからは行く機会がなくなった。叔母が健在なうちにもう一度行きたかった。今頃叔母は早世した長女と再会していることだろう。今でも時々、叔父の結婚式で初...叔母の旅立ち

  • 庭の山椒の木

    家内と庭の山椒の木の実を摘んだ。葉の中にうっかり手を突っ込むとトゲが刺さるので用心には用心を重ねて実を摘もうとするのだが、やっぱり時々刺さって痛い。古い山椒の木はトゲがなくなるとも聞くが(人間と同じか)、やはりトゲがあったほうが若々しい感じがする。家内が作る「ちりめん山椒」が楽しみだ。「庭の山椒の木・・・」と聞くと、必ず思い出すのが宮崎県民謡「ひえつき節」の歌詞問題だ。下の動画を公開してしばらく経った頃、冒頭の歌詞「庭の山椒の木」というのは間違いで、「山茱恪(さんしゅゆ)の木」が正しいというご指摘を数件いただいた。これは一種のフェイク情報で、この唄の発祥地・椎葉村の担当課が「さんしゅうと唄うのは地元の方言で山椒が正しい」というメッセージを発信されてから鎮静化したが、一時は舞踊の指導的立場の方まで「山茱恪」...庭の山椒の木

  • 自己表現欲求とパソコン

    長嶺でパソコン教室を開いていた頃、習いに来ていたMさんが久しぶりにやって来た。いつものように西原村産のさつまいもを抱えていた。全国の品評会でも上位にランクされるというさつまいもで、甘くて美味、本当にありがたい。今日の来意は、しばらく離れていたパソコンを再開したい。ついては新しいパソコンを購入したいのでアドバイスをということであった。彼が初めて習いに来たのは2000年頃で、ちょうど国を挙げて「IT革命」などと喧伝している最中だった。彼は当時1級建築士として多忙な頃だったが、CADなど新しい技術には少々乗り遅れ気味だった。パソコンを基礎から学びたいということでExcelやWordなどを教えたと記憶している。それから10数年後、体を悪くして彼は仕事から退いた。そして70歳を過ぎた今、もう一度パソコンで何かやれな...自己表現欲求とパソコン

  • 山形愛羽選手 今シーズンも快調!

    日本グランプリシリーズ2024第2戦「吉岡隆徳記念出雲陸上競技大会」が4月13・14日、島根県出雲市で行われた。今春、熊本中央高校を卒業し、福岡大学に進学した女子短距離のホープ山形愛羽選手が期待通りの走りを見せ、100mのA決勝で3位と活躍した。予選では11秒46の自己新を記録、彼女の念願だった11秒4台に突入した。予選決勝を通じ、兒玉芽生や君嶋愛梨沙らのトップランナーに一歩も引けをとらなかった。これからさらに彼女の特長であるピッチ走法と後半の加速を磨いて行けばパリ五輪のリレーメンバーも夢ではないと思う。今年の山形選手から目が離せない。山形愛羽選手今シーズンも快調!

  • 鏡子夫人の証言

    漱石夫人の夏目鏡子さんが口述し、娘婿の松岡譲さんが筆録した「漱石の思い出」を読んでいると、関係者しか知り得ない漱石作品の「behindthescenes」を見るようでなかなか興味深い。その中の一つ、「草枕」の一節、画工が「那古井の宿」の浴場に入っている時、湯煙の中に「那美さん」が手拭いを下げて湯壺へ降りてくる場面についての鏡子夫人の証言が面白い。小説の登場人物は画工と那美さんの二人だけだが、実際には漱石と同行した山川信次郎の二人が浴槽に入っているところへ裸で入って来た前田の姉さん(那美さんのモデル)がびっくりしてあわてて逃げ出したが、実は別の女中さんも裸になりかけていたというのが真相のようだ。また、漱石と山川信次郎は、名士を迎えるために造られたというこの前田家別邸で一番上等の「三番の部屋」に逗留したが、家...鏡子夫人の証言

  • 雨に濡れたカキツバタ

    そろそろ時季かなと思い、小雨の中、立田山湿性植物苑のカキツバタを見に行った。今年もきれいな本紫(ほんむらさき)の花を咲かせていた。カキツバタは「燕子花」と「杜若」の二つの漢字表記があるが、「燕子花」はカキツバタが、ツバメが翼を広げた形に似ていることが由来だという。たしかに今日、花びらに雨粒を湛えたカキツバタを見ていて「なるほどな」と思った。一方の「杜若」はもともと別の植物でカキツバタに似ていたため混同されたものだという。カキツバタの語源については諸説あるようで、それはまた別の機会のネタにしたい。カキツバタと言えば古今和歌集に収められた在原業平の折句の歌が有名だが、業平は平安前期9世紀の人。その時代には既にカキツバタという呼び名が一般化していたと思われる。から衣きつつなれにしつましあればはるばるきぬるたびを...雨に濡れたカキツバタ

  • テイカカズラとアメノウズメ

    新坂を歩いて下って行くと、テイカカズラの甘い香りが漂ってくる。季節はもはや初夏。「定家葛(テイカカズラ)」の名は、式子内親王を愛した藤原定家(ふじわらのていか)が、死後も彼女を忘れられず、ついにテイカカズラに生まれ変わって彼女の墓にからみついたという伝説に基づく能「定家」から付けられたという。そのテイカカズラの古名が「真拆の葛(マサキノカヅラ)」。2023年度前期の朝ドラ、植物学者の牧野富太郎をモデルにした「らんまん」はまだ記憶に新しいが、牧野博士の自叙伝には次のような一節がある。――かの『古今集』の歌の「深山には霰降るらし外山なるまさきのかづら色づきにけり」にあるマサキノカズラも、今日八丈島等に昔ながらのその方言が残っていたればこそそれがテイカカズラである事が判った。それ迄はこのマサキノカズラをツルマサ...テイカカズラとアメノウズメ

  • ブログ開設から7000日

    ブログ編集画面の左上の隅に「ブログ開設から7001日」と表示されていることに気付いた。昨日が7000日だったわけだ。2005年2月にブログを立ち上げて20年目に入った。この間にはいろんな思い出深いブログネタがあったが、その中から今回は2つを取り上げてみた。▼馬頭琴コンサート開催2007年3月、熊本市国際交流会館ホールで馬頭琴のコンサートを開いた。中国・内モンゴル自治区の緑化事業に取り組んでいるNPO法人どんぐりモンゴリの主催で、同自治区出身の馬頭琴奏者リポーさんを招き、内モンゴルの民俗芸能を熊本市民に紹介し、緑化事業への協力をお願いする目的で企画されたもの。実質的な主催者である同法人熊本支部代表の梅林強さんから依頼を受けた僕が総合プロデュースの役割を務めさせていただいた。会社員時代に何度かブリヂストン吹奏...ブログ開設から7000日

  • 山路を登りながら、こう考えた。~草枕の世界~

    「山路を登りながら、こう考えた。」これは漱石の「草枕」冒頭の有名な一節である。そしてこの山路というのは鎌研坂(かまとぎざか)のことといわれている。熊本市島崎の岳林寺辺りから金峰山に登る最初の険しい山道でもある。先月末日に行われた本妙寺桜灯籠を見に行った時、参道の一角で米屋を営む中学時代の親友の家を訪ねた。と言っても親友は11年前に既に他界している。僕がまだ「草枕」のことなど何も知らなかった中学時代、その親友と毎週のように登った山道だ。今日では自動車道が並行しているが、当時は「けもの道」のような山道が一本あるだけ。お互いに母親が作ってくれた弁当をリュックに詰め、一路金峰山を目指した。二人とも大の映画好き。道中は互いに知っている限りのまめ知識を披露し合うのである。当時は西部劇の全盛期で、話題は見た西部劇のスト...山路を登りながら、こう考えた。~草枕の世界~

  • 慶長十二年 丁未(ひのとひつじ)の條

    今日4月15日は出雲阿国の忌日である「阿国忌」(生没年不詳)とされている。慶長15年(1610)春、加藤清正は八幡の國(出雲阿国)を肥後に招き、鹽屋町三丁目(現中央区新町2丁目)の武者溜りで歌舞伎を興行したことが「續撰清正記」」に書かれている。しかしこれ以外の史料がなく詳細は分からない。何か未知のことでも書かれていないかと思い、「国立国会図書館デジタルコレクション」の中の「江戸年代記(明治42年出版)」を調べてみた。すると「慶長十二年・丁未(ひのとひつじ)」の2月に面白い記述を発見した。そこには次の2項目が並記されていたのである。二月細川幽斎室町家の儀式三巻を上る同月観世金春勧進能興行出雲阿国歌舞伎興行まず最初の項目は肥後細川家の礎である細川幽斎が徳川家康に重用されていたことを示すもの。この時には既に家康...慶長十二年丁未(ひのとひつじ)の條

  • 熊本地震から8年

    今日で熊本地震の前震からちょうど8年。2日後の本震ももちろん凄かったが、前震もほとんど同程度の揺れで生まれて初めて経験する激震だったのでより印象深い。本震時はある程度の覚悟ができていたように思う。前震は夜9時を過ぎていたので翌朝になって初めて被災状況を知ることになったが、わが家から最初に目に入った惨状が下の写真。瀬戸坂を挟んで向かい側に建つF氏宅。西南戦争時の弾痕が残るというこの家は、この辺りでは珍しい「むくり屋根の家」として地元で知られた旧家である。南側が崖になっていて見事な石垣が積み上げてあったのだが、地震によって無残に崩落してしまった。8年経った現在の状況と写真を2枚並べてみた。熊本地震直後のF氏宅(むくり屋根の家)8年経った今日現在のF氏宅自分自身の中でも熊本地震の記憶が風化しつつあることは否めな...熊本地震から8年

  • 金栗記念陸上2024

    今日は「金栗記念選抜陸上中長距離大会2024」を見に行った。いよいよオリンピックイヤーの陸上シーズンが始まった。何と言っても注目は女子中長距離の日本記録保持者である田中希実選手。今日は800mと1500mの2種目に出場した。しかしまだ調整段階のようで2種目とも2位に終わった。これから7月下旬のパリ五輪に照準を合わせ、徐々に仕上げて行くのだろう。いつもながら陸上界のスターが登場するとあって、彼女の出場種目の時間が近づくと、スタート招集所前には多くのメディアが集結し注目度の高さをうかがわせた。今年の彼女の活躍に期待したい。先頭を走る田中希実選手(800m)田中希実選手の出番が近づくと多くのメディアが集結(1500m)金栗記念陸上2024

  • 御衣黄桜と気象予報士

    熊本城三の丸の御衣黄桜が咲き始めたのを確認してから10日経つので、その後の開き具合を見に行った。ほぼ満開となった御衣黄桜を眺めていると僕以外誰もいないその木の下へ若い男性が歩いて近づいて来た。にこやかな表情で「よく見に来られるんですか?」と声をかけられたので、「えゝよく来ますよ」と答えた。御衣黄桜と鬱金(ウコン)桜は紛らわしいですねなどと、しばらく桜談義をしながら、桜の写真を撮っていると、本人の方から「私はKAB(熊本朝日放送)の夕方のニュースで天気予報をやっています」とおっしゃる。そういえば時々見るKABの夕方ニュースで見たことがあるような気がした。「季節情報の取材ですか?」とたずねると、「そうなんです。今日の夕方に使う予定です」帰ってからKABのサイトで確認したら、KAB夕方のニュース情報番組「くまも...御衣黄桜と気象予報士

  • 土手券 ~町芸者の歴史~

    「土手券」と呼ばれた町芸者のことをこれまで何度か記事にしてきたが、きちんと残しておかないと歴史の彼方に消えてしまうように思えたので加筆修正をしてまとめてみた。坪井川・庚申橋付近父が小学六年生の頃、祖母と二人で街を歩いていると向う側からやってきた七十歳前後と思しき老女が急に立ち止まり、「お人違いかもしれませんが阿部さんのお嬢さんではありませんか?」。祖母も一瞬驚いたが、それからなんと1時間にもおよぶ立ち話が続いたという。酒盛りのこと、火事のことなど話題は尽きない様子だったが、その老女は阿部家の酒宴の時によく呼んだ町芸者で「土手券」と呼ばれていたそうである。祖母がまだ娘だった頃、曽祖父が大江村の村長をやっていて、酒宴を開くことも多かったらしく、その時によく呼んだ町芸者が「土手券」と呼ばれて人気があったという。...土手券~町芸者の歴史~

  • 花も花なれ 人も人なれ

    不適切発言で辞任に追い込まれた静岡県の川勝平太知事が、辞める心境を問われて「散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」という細川ガラシャの辞世の句を引用したと報道された。川勝知事の言葉選びの感覚には首をかしげたくなる。職業差別とも受け取れる発言はもちろんのこと、自己都合退職で巨額の退職金をもらう人が、ガラシャ辞世の句を引用してもらいたくない。先日、泰勝寺跡(立田自然公園)に立ち寄って細川ガラシャ廟にもお参りしたばかりだが、あらためて細川ガラシャについて。泰勝寺跡の細川ガラシャ廟には次のように説明されている。------------------------------------------------------------------------------------------------...花も花なれ人も人なれ

  • 艶やかな踊り ~藤間紫~

    朝ドラ「ブギウギ」でヒロイン「スズ子」の幼なじみ「タイ子」が母を継いで芸者となり、お座敷で踊りを披露する場面があった。演じた藤間爽子(ふじまさわこ)さんは日本舞踊家としては「三代目藤間紫」として活動している。この場面は放送ではわずか数秒だったように記憶しているが、そのフルバージョンがNHKのYouTubeチャンネルで公開されていたのでさっそく視聴した。放送の時はあまりに短かったので気が付かなかったが、曲目は「秋の色種(あきのいろくさ)」だった。だが、フルバージョンと言っても曲の終結部分の一部「うつし心に花の春月の秋風ほととぎす」というフレーズのみ。できることなら本当のフルバージョンを見てみたかった。この終結部分の直前が、下に添付した「琴の合方」。「合方」というのは唄は唄わず三味線などの楽器だけで演奏するこ...艶やかな踊り~藤間紫~

  • チェリーセージと「スカーボロー・フェア」

    庭のチェリーセージの花が咲きそろってきた。いつものことながら「Parsley,sage,rosemaryandthyme」という「スカーボロー・フェア」のフレーズが頭に浮かぶ。セージと言ってもあの歌は食用のハーブを並べたフレーズで、観賞用のチェリーセージとは別物らしい。この歌は映画「卒業」の中で使われたサイモン&ガーファンクルバージョンが一躍有名になったが、実は17世紀頃からスコットランドあたりで歌われていた民謡がもとになったものらしい。映画「卒業」と言えば、僕が大学を卒業して故郷熊本のカーディーラーに就職し、三菱自動車水島製作所で新人研修を受けていた時、岡山駅近くの映画館で見た。ダスティン・ホフマン演じる主人公ベンジャミンが大学を卒業して故郷に帰ってきたという設定が自分と重なって、主人公に感情移入して見...チェリーセージと「スカーボロー・フェア」

  • 旅の風/卑弥呼の舞

    2010年から撮り始めた舞踊団花童(旧少女舞踊団ザ・わらべ)の写真や動画がとんでもない数になっているので少し整理しようと思い、一つ一つ確認しながらの整理作業を進めている。だが、何せ数が多すぎて作業がなかなかはかどっていない。写真には撮影した年月日・場所および曲名などをテキストデータとして付けておきたいと思っているが、日時・場所はだいたいわかるのだが曲名がどうしても思い出せないのもある。下の写真もその一つで、2013年11月2日に山鹿さくら湯・池の間で行われた公演だということはわかっているのだが、動画は撮っていないし、何という曲名だったのかわからなかった。そこで写っているご本人(当時:花童くるみさん)にお尋ねしてみた。ご本人も記憶が曖昧だが、「卑弥呼の舞」ではないかというご返事をいただいた。そう言われてみる...旅の風/卑弥呼の舞

  • 若草色と萌黄色

    3日前の記事に熊本城三の丸の御衣黄桜が咲き始めたことを書いた。その名の由来は記事に書いたとおりだが、それとは別に僕はこの桜を見ると必ず思い出すのが巫女神楽の「浦安の舞」のこと。この舞は比較的新しく、昭和15年に行われた「紀元二千六百年記念行事」の際に作られた舞曲だそうだ。YouTubeには各地の神社で奉納される「浦安の舞」の映像がアップされている。そして大社クラスの「浦安の舞」はだいたい巫女は淡い緑系の装束を纏っている。調べてみると「浦安の舞」の装束は「衵(あこめ)」と呼ばれる中間着が、清浄の色とされる「若草色」を基調としていて、その上に着る「小忌衣(おみごろも)」は白布で透けて見えるので淡い緑に見えるらしい。カラーコードで調べてみると「若草色」と御衣黄桜の色と言われる「萌黄」は一見区別がつかないほど似て...若草色と萌黄色

  • 石仏と五高

    今日は子飼のガソリンスタンドに給油に行ったが、県立劇場が熊本大学の入学式だそうで大渋滞。普段は通らない抜け道を使った。帰りも子飼橋から浄行寺にかけて渋滞していたので熊大の脇から立田山を越える道を選んだ。途中、小峰墓地に立ち寄った。ラフカディオ・ハーンが愛した石仏(鼻欠け地蔵)は相変わらず五高(現熊大黒髪キャンパス)を見下ろしていたが、今はもう木々が繁り、民家も立ち並んでいて彼の眼には五高は見えていないだろう。ハーンの「石仏」の中に、五高の教育についてふれた一節がある。近代的な五高の学舎を見下ろしながら「最新の科学は教えても、信仰のことなど誰も教えられないだろう」とでも言いたげな石仏のシニカルな微笑を感じ取り、ハーンは、おそらく漢文の秋月悌次郎先生以外は誰も答えられないだろうと思うのである。そんな一節を思い...石仏と五高

  • 金栗記念大会で陸上競技シーズンイン!

    今年も熊本は「金栗記念選抜中長距離大会」で陸上競技の2024シーズンが始まる。今年もこの大会の目玉は女子中長距離のエース田中希実選手。女子1000m、1500m、3000m、5000mの日本記録保持者である。今大会は800mと1500mの2種目にエントリーしているが、はたしてどの程度仕上がっているだろうか。日本陸上界のスターとあっていつも彼女のレース前になるとスタート地点に多くのメディアが集結する。昨年は1500mだけ出場したが、本調子には程遠かった。今年の夏はパリ五輪が控えている。大舞台での活躍を占うレースとなることを期待して観戦したい。昨年大会の1500mレース前、選手紹介で挨拶する田中希実選手金栗記念大会で陸上競技シーズンイン!

  • 御衣黄桜の季節

    明日は「桜流しの雨」が降るらしいので、花見は今日がピークだったかもしれない。熊本城内の桜を見て回った後、三の丸漆畑の御衣黄桜(ぎょいこうざくら)の様子を見に行った。なんと花がもう開き始めているではないか。開花がおくれたソメイヨシノを待っている間に、御衣黄桜はじっと出番を待っていたのだろう。僕はこの御衣黄桜がソメイヨシノ以上に好きだ。あの萌黄色がたまらない。御衣黄桜といえば、夏目漱石の「虞美人草」に登場する「浅葱桜(あさぎざくら)」は御衣黄桜のことだという(諸説あり)。「浅葱桜」はヒロイン藤尾のイメージとして描かれているが、才色兼備だが傲慢で虚栄心が強い藤尾と御衣黄桜のイメージが僕は合わないと思う。それはさておき、もう1週間もすれば御衣黄桜が彩なす萌黄の世界が楽しみである。咲き始めた御衣黄桜御衣黄の名の由来...御衣黄桜の季節

  • 2024年1~3月動画視聴ベスト10

    YouTubeマイチャンネルの2024年1~3月視聴ベスト10は次のとおりでした。昨年暮、「お座敷小唄/芸者ワルツ」のリマスター版をアップしましたところ、12年前にアップした初期版も再び注目していただき、初期版、リマスター版とで視聴回数のトップを競うという今までにない様相を呈しています。サムネイル画像をクリックしていただきますと動画を視聴いただけます。1.こわらべ~お座敷小唄/芸者ワルツ~(16,939回)2.お座敷小唄/芸者ワルツ(リマスター版)(12,685回)3.伊勢音頭(歌詞付)(9,531回)4.おてもやん(歌詞付)(6,874回)5.南部俵積み唄(5,904回)6.花童~肥後のタンタン節~(5,447回)7.こわらべ~江津湖音頭~(4,607回)8.ひえつき節(4,454回)9.花童~絵日傘/...2024年1~3月動画視聴ベスト10

  • 桜灯籠2024

    本妙寺春の名物行事「桜灯籠(はなとうろう)」も今年で20回を数えた。3日前に来た時、はたして当日満開になるだろうかと心配したソメイヨシノもまるでタイミングを見計らったかのように見事に咲いた。熊本地震や新型コロナ感染拡大などで中止や縮小開催などが続いたが、やっと通常開催に戻ったようだ。出店も立ち並び、夕方6時のまつり開始の頃には仁王門から胸突雁木への桜馬場は絶え間なく人波が続いた。大本堂前や各塔頭では様々なイベントが行われ、コロナ前の風景が戻った。賑わう桜馬場日が暮れると桜と灯籠が幻想的な雰囲気を醸す大本堂前も竹灯籠とライティングで幻想的な雰囲気子どもたちも楽しい一夜となったようだ法皇閣前でライブを行うゴスペルチーム熊本coolchoir(クマモトクールクワイヤー)桜灯籠2024

  • 「御馬下の角小屋」番頭の話

    2008年に放送されたNHK大河ドラマ「篤姫」が今、NHK-BSで再放送されている。現在、篤姫が将軍家定へお輿入れするあたりまで進んでいる。先月、「津々堂のたわごと日録」さんが触れておられたように、このドラマではお輿入れのルートを船旅として描かれているが、実際は陸路ルートだったことがわかっている。薩摩藩の参勤ルートは江戸前期には日向細島港から船出する東ルートや川内川河口あたりから船出する西ルートなどの海路もあったようだが、江戸後期にはほとんど陸路を使っていたらしい。薩摩街道を北上すると当然熊本藩を通過することになり、しかも薩摩街道(豊前街道)は熊本城二の丸を通ることになるので、熊本藩士との間で一触即発ということもあり、街道を避けて脇道を使うこともあったようだ。もちろん篤姫のお輿入れの時は熊本藩も最大限の配...「御馬下の角小屋」番頭の話

  • 酒井先生の思い出

    先日まで行われた「春のくまもとお城まつり」などで熊本城二の丸広場に行くことが多いが、西大手門への通路の脇にある「歩兵第十三連隊の跡」記念碑を見る度に9年前に94歳で他界された酒井恭次先生のことを思い出す。酒井先生は僕がブリヂストン時代に最もお世話になった横浜工場の産業医で、亡くなられるまで年賀状のやり取りが続いた。亡くなられる数年前から、年賀状には必ず、戦時中熊本の「西部第十六部隊」に従軍された頃の思い出が書かれていた。「西部第十六部隊」というのは、この記念碑の「歩兵第十三連隊」の後身の部隊のことである。よほど懐かしい想い出だったのだろう。久留米ご出身の先生は横浜工場勤務が永かった。僕が東京勤務だった30数年前、横浜工場の酒井先生のところへ新医療システムの相談で度々お伺いした。お伺いすると必ず、終業後は横...酒井先生の思い出

  • さくらさくら

    今日は快晴だったので桜の咲き具合を確かめようと本妙寺周辺へ。桜開花宣言はあったものの、まだソメイヨシノはパラパラといった具合だった。今週末には本妙寺参道一帯のまつり「桜灯籠」が行われるがはたしてどの程度開くだろうか。微妙なところだ。本妙寺大本堂前の桜の木が大胆に枝落とししてあった。枯死を避けるためか、落枝による事故防止のためか、やむを得ない処置とは思うが、開花を前に残念なことだ。昨年までの美しい光景は望むべくもない。柿原桃畑の桃の花はだいぶ咲いた。今週末には満開になるだろう。本妙寺塔頭・東光院のしだれ桜は今が見ごろ本妙寺大本堂のしだれ桜も満開柿原桃畑の桃の花は今週末には満開か花園中尾地区の四季花壇から阿蘇のけむりを望む過年度の本妙寺大本堂前参道の桜2015.3.27熊本城二の丸広場「春のくまもとお城まつり...さくらさくら

  • 女子アナの転勤

    熊本は今日、桜開花宣言があった。春は転勤の季節でもある。NHK熊本放送局のアナウンサー佐藤茉那(さとうまな)さんが広島局に転勤となったそうだ。彼女が熊本に初任配置されたのはたしか2020年6月だったと思う。僕が熊本に帰って以降、熊本局に初任配置された新人女子アナは、渡邊佐和子さん、池田伸子さん、近江友里恵さん、石橋亜紗さん、畠山衣美さんに続いて6人目だった。先輩方よりも1年ほど長い熊本勤務だったと思う。コロナ騒動などが影響したのかもしれない。彼女は着任早々のニュース読みなどもしっかりできていた。例えて大変失礼だが、今、お昼のNHKニュースなどを堂々と担当している池田伸子さんなどは、最初はとても危なっかしくて見ているこちらがハラハラしていた憶えがある。それに比べると佐藤さんは最初から落ち着いていて、物おじし...女子アナの転勤

  • 九州がっ祭2024

    昨夜は3月とは思えない大雨と強烈な雷鳴で何度も目が覚めた。明け方には小降りとなったので午前中に熊本県知事選挙の投票に京陵中学校へ出かけた。漱石記念緑道の早咲きの桜も雨に打たれてうなだれていた。午後はいったん雨が止んだので、今日が最終日となった「春のくまもとお城まつり」を見に行った。最終日のプログラムは「九州がっ祭2024」。九州を中心とした各地のYOSAKOIまつりなどが集合したイベントである。YOSAKOI系のまつりは正直あまり興味はなかったのだが、少女たちによる「美勝女隊」(福岡)などはエンタテイメントとして完成度の高いパフォーマンスを見せていた。雨のしずくを湛えた早咲きの桜美勝女隊(福岡)YOSAFUL連合(山口・宇部)九州がっ祭2024

  • SL人吉 ラストラン

    人で言えば「再雇用」のような形で「SLあそBOY」として、また「SL人吉」として頑張ってきたが、機関車の老朽化、部品調達や技術者の確保が難しくなった等の理由により、明日3月24日を以て「SL人吉」は101年の現役を終えることになり、今日ラストランが行われた。釜尾町の井芹川に架かる鶴野橋の上から見送ったが、汽笛を鳴らしながら去って行くSLを見ていると、僕の生きた時代が遠い彼方へ去って行くようで万感胸に迫るものがあった。SLの思い出で最も忘れられない一つが、高校1年(1961年)の夏、東京合宿で初めて上京した時、熊本―東京間を「急行阿蘇」で丸1日かかったこと。東京に着いた時はクタクタで顔は煤で真っ黒だった。下の映像は、その東京合宿の後のインターハイで、わが済々黌水球部が連覇し、熊本駅に凱旋した時のもの。(映像...SL人吉ラストラン

  • 式子内親王と藤原定家

    先日、学習院大文学部を卒業された天皇、皇后両陛下の長女愛子様は、卒業論文に「式子(しょくし)内親王」を取り上げられたとニュースで報じられた。式子内親王とは、後白河天皇の第三皇女で、平安時代末期から鎌倉時代初期に生きた「新古今和歌集」の女性歌人の代表といわれる。不勉強で式子内親王が詠まれた歌を知らないので「新古今和歌集」をパラパラとめくってみた。春の歌の中に次の式子内親王の歌があった。いま桜咲きぬと見えてうすぐもり春に霞める世のけしきかな愛子様卒業のニュースを聞いて僕がまず連想したのは「定家葛(テイカカズラ)」(下の写真参照)のこと。「定家葛」の名は、式子内親王を愛した藤原定家(ふじわらのていか)が、死後も彼女を忘れられず、ついにテイカカズラに生まれ変わって彼女の墓にからみついたという伝説に基づく能「定家」...式子内親王と藤原定家

  • 桜は まだかいな!

    昨夜は楽しみにしていた「熊本城薪能」が行われたが、尋常じゃない寒さに直前になって見に行くのを断念した。予定どおり行われたらしいが観客の皆さんはさぞや寒かったろう。今日は風もおさまって寒さも幾分和らいだので熊本城周辺を歩いた。当初の桜開花予想では今日あたりが開花のはずだったが、一部の早咲きの桜以外はまだ蕾の状態。2、3日後あたりに開花と思われる。毎年3月末土曜日に行われる本妙寺の「桜灯籠(はなとうろう)」は今年は30日に当たるので絶好の夜桜見物になるかもしれない。監物台樹木園前の道路から大小天守を望むKKRホテル熊本玄関前から大小天守を望む過年度の桜灯籠より〽端唄夜桜桜はまだかいな!

  • 高浜虚子と祇園の舞妓

    高浜虚子の「漱石氏と私」には、明治40年の春、京都で夏目漱石と一緒に過ごした祇園の夜などが書かれている。この時、漱石は、第三高等学校の校長を務めていた狩野亨吉宅に逗留し、職業作家として初の作品「虞美人草」を執筆中だった。ちょうどこの頃、漱石を第五高等学校に招いた菅虎雄も狩野宅に逗留していた。狩野は漱石が五高へ招いた人でもあり、五高ゆかりの人物が揃っていたわけだ。虚子は漱石を誘って、都踊りを見に行ったり、祇園の茶屋「一力」で舞妓たちと雑魚寝の一夜を過したりしている。ここに登場する二人の舞妓、十三歳の千賀菊と玉喜久は虚子の「風流懺法(ふうりゅうせんぽう)」にも登場する。千賀菊はなぜか、三千歳という名で登場する。「風流懺法」には舞妓たちが「京の四季」や「相生獅子」などを踊る様子が描かれている。この三千歳という舞...高浜虚子と祇園の舞妓

  • 黒鍬衆とあらしこ

    日頃ブログを通じてご好誼を賜っている「津々堂のたわごと日録」さんが昨日「黒鍬衆は隠密にては非ず」という記事を掲載された。黒鍬衆と言うのは戦国時代から江戸時代にかけて、専ら土木などの力仕事や汚れ仕事などで武士をサポートしていた軽輩のことだそうである。熊本にもそんな黒鍬衆が住んでいた「黒鍬町」という町があった(下地図参照)。現在は「黒鍬通り」という通り名だけが残っている。僕の祖母の生家はこの「黒鍬町」のとなり街で「一番被分(わかされ)町」といった(下地図の赤い点線の辺り)。生前、祖母の口から「黒鍬町」という言葉を何度か聞いたことを憶えている。津々堂さんの記事で「黒鍬町」という町名の由来を初めて知った。祖母が嫁いだ先が立田山麓の黒髪村下立田、泰勝寺の隣接地である。わが父が幼い頃、この泰勝寺に住んでいた長岡氏(細...黒鍬衆とあらしこ

  • 城彩苑13周年誕生記念祭

    桜の馬場・城彩苑は開業後13周年を迎え、誕生記念祭が昨夜来の雨の中、今日行われた。東日本大震災直後の開業に当初は先行きを不安視されていたものだが、徐々に来場者を増やし、熊本城観光になくてはならない人気スポットとなった。特に開業後5年の2016年に起きた熊本地震では熊本城内のほとんどが立入規制となる中、城彩苑が熊本城観光を支えた。今後もその存在価値はますます高くなると思われる。降り続く雨の中、観光客で賑わう城彩苑親水空間ステージでは各種イベントが。「ONEPIECEウィーアー」を踊る舞踊団花童必由館高校吹奏楽部による演奏2011年3月5日城彩苑オープンの日の様子城彩苑13周年誕生記念祭

  • 中村花誠先生と舞踊団花童

    今朝の熊日新聞・熊本ローカルのページに「舞踊団花童」を主宰する中村花誠先生がクローズアップされていました。これまでも度々メディアに紹介されたことがありますが、花誠先生が熊本で舞踊団を結成されて来年で25年、ご自身の還暦も重なり来年は特別の記念公演を計画されていると聞きます。来年が楽しみです。舞踊団花童の前身である「ザ・わらべ」の頃から応援を始めて14年。このブログでも何度か紹介させていただきましたが、10年前の紹介記事へのリンクを下に張りましたのでご参考まで。※ザ・わらべのこと。(2014.11.12)中村花誠先生と舞踊団花童

  • 門出の春

    今日は日中20℃にも迫ろうという陽気で、桜のシーズンもすぐそこまで来ていることを感じさせた。熊本城二の丸広場周辺では振袖に袴という和装に着飾った若い女性のグループを何組も見かけた。どこかの大学か専門学校の卒業式帰りのようだ。すれ違う時、よっぽど「卒業おめでとう!」と声をかけようと思ったが、ヘンなオジサンと思われそうで自重した。彼女たちがどんな道へ進んで行くのかわからないが、それぞれの人生に幸多かれと祈りたい。毎年卒業式のシーズンになると聴きたくなる「仰げば尊し(原曲)」を今年も聴いてみた。仲間で記念撮影をするグループ護国神社の早咲きの桜柿原桃畑の花も開き始めた♪Songforthecloseofschool(仰げば尊し)門出の春

  • 一期一会

    京町の熊本地方裁判所に併設されていた京町拘置所は大江に移転し、建物は解体撤去され、更地となっている。ここの前を通る度に思い出すことがある。あれは10年前の秋のことだった。僕は京陵中学校での熊本市長選挙の投票を終えて帰る途中、一人の高齢の婦人に出逢った。京陵中学校のテニスコートのフェンス沿いに「すみれ程の小さき人に生まれたし」という夏目漱石の句碑が立っている。その婦人はその句碑を撮影しようとカメラを構えていた。背中のリュックが旅行者を思わせた。通り過ぎて京町本丁の四つ角で信号待ちをしていると、追いついて来たその婦人に「壷川小学校はどちらの方向になりますか?」とたずねられた。僕は婦人の年恰好から壷川小学校まで歩くのは大変かなと思い、「バスで行かれたらどうですか」と答えた。しかし、婦人は「壷川小学校は幼い頃通学...一期一会

  • 山崎貴監督を祝して

    山崎貴監督の「ゴジラ-1.0」がアメリカ映画アカデミー賞で「視覚効果賞」を受賞したことは大変喜ばしい。16年前、山崎監督の作品「BALLAD名もなき恋のうた」熊本ロケにボランティアスタッフとして参加させていただいた一人として心からお祝い申し上げたい。当時僕は「くまもとフィルムコミッション」に登録していたので、エキストラやスタッフとして3本ほど参加したが、エンドクレジットに名前を載せてもらったのは山崎監督の「BALLAD」だけ。そういう意味でも忘れられない映画となった。阿蘇を中心とした熊本ロケは2週間ほど続いたが、僕の仕事は毎日のエキストラの員数を確保すること。他のスタッフとともに、あらかじめ登録されているエキストラ希望者に電話をかけまくった。阿蘇では合戦シーンが撮影されたのでエキストラの集まりが悪い日は撮...山崎貴監督を祝して

  • 柳暗花明又一村

    今日は子飼へガソリンの給油に行ったが、浄行寺交差点のあたりが渋滞していたので、熊大脇から立田山の山裾を抜けて帰ることにした。途中、泰勝寺跡の前を通るのでちょっと立ち寄った。ひとつは昨年秋から干上がっていた池がどうなったか気になっていた。満水とはいかないがかつての池の半分くらい水が戻っていた。入門受付の方に聞くと2月に降り続いた雨によってだいぶ回復したという。マガモも戻ってきているのでさらに今後の雨に期待したい。泰勝寺山門跡茶室仰松軒水がだいぶ回復した池で泳ぐマガモわが父はこの泰勝寺境内に隣接するわが家の本籍地で生まれ育った。父が書き遺した備忘録には「この辺り一帯は数百㍍隔てて、彼処に一戸、此処に二戸と人家の点在する寂しい山里だったが、自然の眺めは四季を通じて素晴らしく、ことに春の風情はこの地を訪れる人に『...柳暗花明又一村

  • 花二題 ~菜の花と木瓜~

    菜の花まつだまみさんのFBに素敵な写真が掲載されていた。場所は菊池川玉名橋の少し上流左岸の河川敷。ちょうど今頃は菜の花が咲き乱れる映えポイントである。実はここは妻の実家から近く、毎年写真を撮ろうと出かけるのだがいつも天気が悪く良い写真が撮れない。今回はまみさんにお願いして写真を貸していただいた。また、この写真の奥の方の川べりは川の映像を撮るのに絶好の撮影ポイント(下の写真参照)である。上流にカメラを向けると建物や構築物など一切入らないので「滔々と流れる川」のイメージを撮るため今まで何度も足を運んだ。菊池川河川敷の菜の花畑菊池川の川べり木瓜(ぼけ)の花今日散歩していたらある民家の庭に「木瓜の花」が鮮やかな赤い花びらを開いていた。しばらく眺めた後、写真におさめて帰ろうと思ってカメラを覗くとそのお宅の部屋が写っ...花二題~菜の花と木瓜~

  • 助産師と舞踊家

    先々週、かつて舞踊団花童のリーダーを務めたくるみさんからFBのメッセージをいただいた。近況を知らせるお便りだった。もうだいぶ前になるが彼女のお母様から結婚されたことは伺っていた。今は子育てに大わらわだが、やがて育児休暇から助産師の仕事に復帰する予定であることが書かれていた。おそらく今まで以上にお忙しい毎日になることだろう。舞踊家としての復帰を期待している僕らくるみファンにとってはいずれ必ず復帰の日がやって来ることを信じて待つしかない。ただ、個人的には、かつて産業医や保健師、看護師などと一緒にプロジェクトチームを組んで仕事をしていたことがあり、彼ら医療専門職の献身的な働きを目の当たりにした経験から、助産師として活躍していただきたいという気持も一方ではあり、ちょっと複雑な思いが交錯する。2015.4.25熊本...助産師と舞踊家

  • 「瀬戸」のはなし。(2)

    昨日、大浜町の母の生家近くの通りを車窓から眺めながら、「そういえば、この通りも“瀬戸”と呼んでいたっけ」とふと思い出した。着いてから甥との会話の中で確かめると、「昔から瀬戸丁と呼ばれている」と言う。「瀬戸」という地名や町名は日本国中至るところにあり、昨年10月には、わが家の近くの「瀬戸坂」の由来についてブログ記事にした。そもそも「瀬戸」とは何ぞやという話を繰り返すと「瀬戸(せと・せど)」とは「狭門 ・迫門 」とも表記され、海あるいは川の幅が狭くなっているところのこと。と辞書には説明されている。ということは大浜町は菊池川左岸の町だから、その辺りで菊池川の川幅が狭まっていたのだろう。現在の地図を見ると確かにわずかに狭まっているように見える。もともと大浜というのは菊池川河口湾に浮かぶ砂洲の一つで、加藤清正の時代...「瀬戸」のはなし。(2)

  • 岩戸の里で出逢った旅人

    今日は所用で玉名市大浜町の母の生家へ出かけた。帰りは久しぶりに河内町から山越えの道を選んだ。雲厳禅寺だけ立ち寄った。本堂の前に僕と同じ年配と思しき男性が立派なカメラを提げて立っていた。お参りを済ませて岩戸の里を展望するベンチの方へ歩いていくと、その男性が声を掛けてきた。「ここから下に降りる近道は知りませんか?」「車ですか?そしたらいったん上の農道(パイロット道路)に上がって道なりに行けば下の海沿いの道に出られますよ」と答えた。「どこから来られたんですか?」とたずねてみた。「千葉県です」「ヘェ~千葉県ですか!」と言うと「ここら辺はみかん畑が凄いですね!」「えぇ、このあたりは漱石の時代からみかん栽培が盛んですよ」と言ってみたが無反応だった。夏目漱石の「草枕」にこの地域のみかん畑の話が出てくるのだが、読んでおら...岩戸の里で出逢った旅人

  • 漱石の熊本観

    散歩で新坂を下りながら遠く阿蘇山を望んでいると必ず思い出すのが、明治29年4月、第五高等学校に赴任するためここを人力車で通りかかった夏目漱石のこと。熊本市街を見おろしながら「森の都」と言ったと伝えられるが真相はさだかではない。もし漱石先生が、ビルが林立した今日の風景を眺めたらいったい何と表現されるだろうか。漱石は明治33年(1900)7月、英国留学のため4年3ヶ月を過ごした熊本を去るが、その8年後の明治41年(1908)2月、九州日日新聞(現在の熊本日日新聞)のインタビューに答えて熊本の印象を次のように語っている。----------------------------初めて熊本に行った時の所感、それならお話いたしましょう。私は7、8年前松山の中学から熊本の五高に転任する際に汽車で上熊本の停車場に着いて下...漱石の熊本観

  • ハモる邦楽「大和楽」

    昨夜、Eテレで放送された「先人たちの底力知恵泉」は大倉喜八郎を取り上げていた。大倉喜八郎とは、明治維新から大正に至る激動の時代、政府、軍部の物資調達を始め様々な事業で商才を発揮し、一代で大倉財閥を築き上げた稀代の実業家である。大倉財閥といえばホテルオークラや大成建設などの企業群や札幌の大倉山ジャンプ競技場などを思い出すが、僕が大倉喜八郎の名前を知ったのは、実は二代目の大倉喜七郎を知ってからである。喜七郎はつとにその名を知られた趣味人で、新邦楽「大和楽(やまとがく)」の創設者。自ら楽器を開発したり、作詞作曲も手がけたという。「大和楽」についてはYouTubeマイチャンネルにアップした舞踊団花童の演目の中に「大和楽」が数多く含まれていたことから知った。そもそも「大和楽」とはどういう音楽かというと、「大和楽公式...ハモる邦楽「大和楽」

  • 伝説のビート

    水前寺成趣園能楽殿で行われた「翁プロジェクト熊本公演」を観てからやがて3年経つ。能楽の頂点といわれる「翁」をナマの舞台で観たのは初めてだったのでいまだに感動冷めやらない。熊本ゆかりの友枝昭世師(人間国宝)による「翁」もさることながら、主役とも言える「三番叟」の「揉みの段」「鈴の段」は農耕儀礼に始まる日本の芸能の原点を感じさせて印象深かった。「翁プロジェクト熊本公演」における三番叟(山本則重さん)その三番叟の舞を見ていると、鼓が刻むリズムの中にどうしても思い出すリズムがある。下の映像の1分40秒あたりから注目して聞いていただきたい。野村萬斎さんの三番叟5年前に世を去ったアメリカの名ドラマー、ハル・ブレインがザ・ロネッツの「BeMyBaby」のイントロで刻むビート「thump-thump-thump-crac...伝説のビート

  • 桃の節供

    今日は「ひな祭り(桃の節供)」。わが家もささやかなお祝いをしました。この「桃の節供」もともとは女の子のお祭りではなく、春を寿ぎ、無病息災を願う厄祓い行事だったそうです。古代中国の「上巳の節句」が日本に伝わったものだそうですが、「端午の節供」を男子、「桃の節供」を女子のお祭りとしたのは日本的といえば日本的といえるかも。旧暦の3月3日は、桃の花が咲く頃なので「桃の節供」となったわけですが、今年は4月11日にあたりますので、桃の開花は過ぎているかもしれません。「新熊本市史」には熊本市における「ひな祭り」の民俗について次のように書かれています。雛祭り旧暦の3月3日は、桃の節供ともいわれた。3月1日ごろから坪井、広丁、唐人町あたりに雛市が立っていた。一般的に長女の初節供のときには特別のお祝いをするが(嫁の実家から雛...桃の節供

  • 清原元輔と立田山

    藤崎八旛宮に弥生の朔日詣りをした後、ふと境内の清原元輔(清少納言の父)の歌碑のことを思い出した。大河ドラマに元輔が登場したことが頭の片隅にあったからだろう。何度も見ているのだが、あらためてじっくり見てみようと歌碑のところへ向かった。ちょうど神職の方が付近を高帚で掃いておられた。「コンニチワ」と声を掛けると「元輔の歌碑を見に来られたのですか?」とたずねられ、それからひとしきり元輔談義が続いた。元輔が肥後国司として赴任した時、濃い緑に覆われ「黒髪山」と呼ばれていた山を見て、ふるさと大和の龍田山を偲んで「龍田山」と名を改めたと伝えられる。「黒髪山から龍田山」への改名については諸説あるが、熊本出身の民俗学者・谷川健一も「列島縦断地名逍遥」においてその説を紹介している。ところで前々から抱いていた疑問だが、山の改名が...清原元輔と立田山

  • 宇土櫓の復旧に向けて

    現在、解体保存工事が行われている熊本城宇土櫓は、400年以上前の築城当時の姿を今に伝える「国指定重要文化財」です。現状の姿は素屋根に覆われて見ることはできませんが、近々、一般観光客も素屋根の中に入って工事の様子を間近で見ることができるようになるそうです。おそらく復旧工事が終わったらこんな近くで見ることはできないでしょうからぜひ見に行きたいものです。なお、復旧工事の完了予定は2032年です。素屋根を覆うシートには熊本地震前の宇土櫓の写真が印刷されています。熊本地震前の宇土櫓(加藤神社鳥居前から)熊本地震前の宇土櫓(西出丸広場から)川瀬巴水が描いた昭和23年頃の宇土櫓昭和2年に行われた解体再建工事前の宇土櫓昭和13年(1938)日独防共協定を結んでいたナチスドイツの青少年組織ヒトラーユーゲントが来日。宇土櫓前...宇土櫓の復旧に向けて

  • 檜垣媼と二本木遊郭

    一昨日の記事「観能記~檜垣~」の関連記事ということで、今日は「檜垣媼と二本木遊郭」の関係について。檜垣が白川のほとりに結んだ草庵が寺歴の始まりという蓮台寺(熊本市西区蓮台寺2)には、檜垣の墓石とも伝えられる「檜垣の塔」がある。この塔は室町時代にはすでに著名であったという。この塔のまわりを取り囲む玉垣の寄進者名が塔の門柱に刻まれている。この玉垣は昭和10年に熊本市の水前寺北郊で開催された「新興熊本大博覧会」の際に造られたものらしい。そしてその寄進者名には二本木遊郭の妓楼名がずらりと並んでいる。なぜ、二本木遊郭がこぞって寄進したかというと、檜垣が遊女たちの守り神として崇敬されていたからである。女流歌人として知られる檜垣は若い頃、都の白拍子(しらびょうし)だったと伝えられる(世阿弥の創作だという説もあるにはある...檜垣媼と二本木遊郭

  • 孫娘の成人

    今月でgooブログを始めて19年。その最初の記事は孫娘が可愛いという、ただの「じじい馬鹿」の内容でした。その時、孫娘はもうすぐ満1歳になるという頃で、僕のパソコンのところへヨチヨチ歩きでやって来て、キーボードをメチャクチャに叩いていたものです。彼女も明後日29日にハタチの誕生日を迎えます。今、大学生です。時の流れはなんと早いことでしょう。これからの彼女の人生をいつまで見届けられるでしょうか。孫娘の成人

  • 観能記 ~檜垣~

    昨夜はEテレの「古典芸能への招待」で能「檜垣」を見た。熊本ゆかりの能なのだが、これまでナマの舞台はもちろんのこと、テレビ放送で見る機会も無かったので全くの初見である。しかし、謡本「謡曲集」で繰り返し読んで展開は分かっていたし、檜垣ゆかりの地めぐりもしていたので現地を思い浮かべながら見ていた。今回は金剛流だったからか、一部文言が違っていたり、最後に付加されたくだりがあったようだ。この能のモチーフとなっているのは「年経ればわが黒髪も白川のみづはくむまで老いにけるかな」という後撰集の檜垣媼の歌また、鹿子木寂心の作という説のある次の一節が誰の作なのか、世阿弥が典拠としたものは何だったのかについても新たな疑問が湧いて来た。「さてもこの岩戸の観世音は霊験殊勝の御事なれば」とワキの修行僧が謡う霊巌洞の岩戸観音。「南西は...観能記~檜垣~

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