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困った時はダンマパダ、スッタニパータで悟りを開く http://76263383.at.webry.info/

題を「困った時はダンマパダ」から「困った時はダンマパダ、スッタニパータで悟りを開く」に変更しました。

ダンマパダ423詩の解説を何回か終えた段階で、少し趣を変えて、異なるお経の勉強を始めようという思いに至りました。どのお経を選択するかいろいろ迷いましたが、毎日少しずつ勉強するのに都合がよく、仏教を勉強する人たちに人気のあるお経として、スッタニパータを選びました。

ワンギーサ
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2009/08/08

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  • SRKWブッダ著「仏道の真実++」【修行方法の例示】(9)

    (以下引用) 【修行方法の例示】(9) ● 何もしないことが修行となることがある。 悪いことをするよりは、何もしないことの方がすぐれているからである。 世人は、何かを行為することによって覚りに近づくと考えがちである。 しかしながら、真の修行はこれ見よがしなものではない。 重要な修行は、独り居において為されるものだからである。 敢えて何もしないことは、人々の中にありながら独り居を為…

  • SRKWブッダ著「仏道の真実++」【修行方法の例示】(8)

    (以下引用) 【修行方法の例示】(8) ● 経典を読誦することは、修行となり得る。 修行しているという実感は伴わないかも知れないが、経典を記した仏に親近することを得て、因縁があれば身解脱を生じる場合がある。 (以上引用) *法津如来のコメント 「経典を読誦」についても、SRKWブッダ著「仏道の真実++」に「経典を読誦」の章があるので、後日このブログで引用します。 その内容は詳細で長…

  • 石法如来の特別寄稿「『名称作用』と新型コロナ騒動」

    SRKWブッダの説かれる教えは、難解と感じられる方が多いと思います。その中でも特に、「名称と形態」は難しい概念です。今日は、「名称作用」について少し考えてみたいと存じます。 「名称作用」に関連し、私は以前の記事(「マインドコントロール」2020.4.18投稿)において、「マインドコントロールという言葉は、日本ではオウム真理教事件の前後によく使われました。何度も何度も、同じ思想・教育・情報などを…

  • SRKWブッダ著「仏道の真実++」【修行方法の例示】(7)

    (以下引用) 【修行方法の例示】(7) ● 公案に取り組み、最後の一関たる(久松真一氏の)基本的公案を通過したならば、心解脱を完成したと認められる。 このとき、自分が心解脱したという実感を生じる筈である。 ただし、これは解脱知見ほどはっきりしたものではないことに注意しなければならない。 (以上引用) *法津如来のコメント 「公案」についても、SRKWブッダ著「仏道の真実++」に「公…

  • SRKWブッダ著「仏道の真実++」【修行方法の例示】(6)

    (以下引用) 【修行方法の例示】(6) ● 観を為し、止観を完成させることは誰にとっても修行となり得る。 観を完成させたならば、心解脱者となる。 このような人は、人間関係で苦悩することはなくなる。 (以上引用) *法津如来のコメント 「観」については、SRKWブッダ著「仏道の真実++」に「観」の章があるので、後日このブログで引用することになります。 その章の始めの部分を引用してお…

  • SRKWブッダ著「仏道の真実++」【修行方法の例示】(5)

    (以下引用) 【修行方法の例示】(5) ● 心について探究することは修行となり得る。 これは、心の働きを理解することがその一つである。 また、「心によって心を滅し、ついに解脱が起こるという真理」を理解することもまた修行の糧となる。 〈道の人〉は、心を働かせることがない。 しかしながら、それは木石のようになることではない。 〈道の人〉は、根底の「それ」に縁って事を処すのである。 …

  • SRKWブッダ著「仏道の真実++」【修行方法の例示】(4)

    (以下引用) 【修行方法の例示】(4) ● 省察することは、修行となり得る。 他ならぬ自分自身の行為について省察するならば、確かな覚りの機縁へと結びついて行くものともなるからである。 ここで、省察は過去の自分の行為について行う。 ことの起こりと、顛末と、それぞれの帰趨を思い出さなければならない。 そして、「その時自分が何者であったか」を深く追究し理解しなければならない。 それが理…

  • SRKWブッダ著「仏道の真実++」【修行方法の例示】(3)

    (以下引用) 【修行方法の例示】(3) ● 聖なる沈黙は、時に修行となる。 これは、慈悲喜捨の「捨」に通じるものである。 捨を完全に自分のものとしたならば、それは一つの解脱であると言っても過言ではない。 聖なる沈黙は、相手の本当のところを知ろうとして為されるものである。 同時に、自分の本当のところを表明するものとなる。 ここで大事なことは、その心底にある「それ」の有無是非である。…

  • SRKWブッダ著「仏道の真実++」【修行方法の例示】(2)

    (以下引用) 【修行方法の例示】(2) ● 善き談論は、修行となる。 修行者は善き談論を為すことによって次第に仏教の根本についての理解を深め、ついに因縁を生じて解脱すると期待され得るからである。 もちろん、談論は井戸端会議のような埒のあかないものであってはならない。 具体的には、小欲論、知足論、遠離論、不交際論、精進努力論、戒論、禅定論、智慧論、解脱論、解脱知見論などが勧められる。な…

  • SRKWブッダ著「仏道の真実++」【修行方法の例示】(1)

    (以下引用) 【修行方法の例示】(1) 繰り返しになるが、仏道修行においては実のところ固定的な修行法など何一つ存在していない。しかしながら、構成概念としての修行法ならば提示することができる。それについて述べたい。ただし、以下に提示することはそれぞれ修行の一例に過ぎない。これらを履修することが修行になるわけではないことには、留意されたい。 ● やさしさについて考察することは修行となる。そ…

  • SRKWブッダ著「仏道の真実++」【修行は無駄にはならないのか】

    (以下引用) 【修行は無駄にはならないのか】 遍歴修行を為すということであるならば、もしも修行が完成しなかった場合にはどうなるのであろうか。つまり、それまでの修行は無駄になるのではないかという危惧を持つ人があるかも知れないということである。これについて述べたい。 結論を言えば、修行が無駄になるかも知れないと予め不安に思うようでは修行者とは言えないということになる。何となれば、修行は基本…

  • SRKWブッダ著「仏道の真実++」【遍歴修行】(7)

    (以下引用) 【遍歴修行】(7) しかし、具体的にはどうすればよいのであろうか。それは、縁に委ねてその時々に行いたくなった修行を行なうことである。ただし、種々雑多なことをしてはならない。それぞれの時期には一つのことがらに専念すべきである。そして、一定の期間が過ぎたならば、一つのことがらにこだわることなく他の修行に勤しむのも悪いことではない。 これは、乗り物で言えば適宜に乗り繋ぐというほ…

  • 石法如来の特別寄稿「会えない人には会えない・・・が。」

    今から5年ほど前、ある1冊の本に出会いました。著者は曹洞宗で坐禅を長いこと修行し、後にミャンマーのテーラワーダにおいて出家し、そこにおいて瞑想のメソッドを最終段階までやり遂げたというRY氏のことです。 私は、彼の著書を読み内容に興味を持ったので主宰している「座禅会」への参加を申し込みました。と言っても、私自身は「長時間の坐禅修行」そのものにはずっと疑問を持っていました。私の場合は、坐ると言って…

  • SRKWブッダ著「仏道の真実++」【遍歴修行】(6)

    (以下引用) 【遍歴修行】(6) 修行には、終わりがある。先の譬えで言えば、周到に東京に到着した人は旅の終わりをはっきりと知るであろう。東京では、見るもの聞くものすべてが田舎のそれとはまるで違っているからである。その一方で、富士山の山頂に立った人は、旅の終わりを知るどころかこれからどうしようかと途方に暮れているだろう。あるいは、騙されたと思うかも知れない。それぞれの違いの根底にあったのが、…

  • SRKWブッダ著「仏道の真実++」【遍歴修行】(5)

    (以下引用) 【遍歴修行】(5) ここで、心構え正しき人は「上り」という言葉を素直に信じ、正しく用いるであろう。その一方で、心構え正しからざる者は、これを「登り」であると誤認するかも知れない。そして、後者は、気がつけば富士山の頂上に立つことになるかも知れぬ。もちろん、それでは本来の目的地に到達したことにはならない。 読者は、そんな愚かなと思うかも知れないが、実際それに類する誤解は仏教に…

  • SRKWブッダ著「仏道の真実++」【遍歴修行】(4)

    (以下引用) 【遍歴修行】(4) ここで、心構え正しき人とはその根底の求めが正しいことと同義である。逆に、根底の求めが邪だと心構えは正しくならない。この根底の正しい求めを「聖求」と呼ぶ。すなわち、聖求ある人は、そのまま道を歩めば必ず覚りに達すると断言できることとなる。 聖求については、ずいぶん前の章で説明した。ここでは、聖求について違う角度で説明したい。 さて、聖求というのは、要す…

  • SRKWブッダ著「仏道の真実++」【遍歴修行】(3)

    (以下引用) 【遍歴修行】(3) さて、この心構えについて説明するには、字が上手くなろうとして練習することが譬えになるであろう。このとき、学生の心構えが正しければ、練習を重ねて達筆となり目的を達成することができよう。しかし、心構えに問題があると、練習しても達筆とはならず癖字になってしまうだろう。そして、困ったことに彼は練習すればするほど癖字がひどくなってしまうかも知れない。一旦癖字になって…

  • SRKWブッダ著「仏道の真実++」【遍歴修行】(2)

    (以下引用) 【遍歴修行】(2) このため、修行の本質は「あれもダメこれもダメ」というようなものではなく、むしろいろいろなやり方が認められ得るものとなる。ただし、その根本は法(ダルマ)に適ったものでなければならない。つまり、その修行がニルヴァーナに至るということに結びつかなければ意味はないということになる。 また、固定的な修行法が存在していないということは、複数の修行者が同じように修行…

  • SRKWブッダ著「仏道の真実++」【遍歴修行】(1)

    (以下引用) 【遍歴修行】(1) 修行について整理すると、次のようになる。 ○ そもそも固定的な修行法など存在していない。 ○ 具体的な修行法は自分自身で見出さなければならない。 ○ ニルヴァーナに至ったとき、自分の修行が何であったのかが分かる。 ○ 一般に、功徳を積むことが修行そのものとなる。 ○ 実際には修行を為していても、その形が見えない——修行しているようには見えない—…

  • SRKWブッダ著「仏道の真実++」【修行の終わり】

    (以下引用) 【修行の終わり】 誤解している人も少なくないと思うが、覚りに向けた修行は生きている間ずっと続けなければならないものではなく、終わりがあるということである。すなわち、覚った時点で修行は完成し、その後の修行は不要となるからである。 たとえば、すでに大人になった人にさらに大人になれなどとは言わないであろう。大人は、もはや子供ではない。大人は、大人としての行動と生活を営めば良いわ…

  • SRKWブッダ著「仏道の真実++」【功徳のよすが】(7)

    (以下引用) 【功徳のよすが】(7) さて、すべての修行は功徳を積むために行ぜられるものである。逆に言えば、功徳を積むことを得るならば、別に修行という形にこだわる必要はないということである。 こんなことを言うのは、修行などあからさまに行った形跡がないのに覚る人が見られるからである。実際、私の細君(=法風如来)はそのようにして覚ったのである。彼女は、観(=止観)に取り組むこともなければ、…

  • SRKWブッダ著「仏道の真実++」【功徳のよすが】(6)

    (以下引用) 【功徳のよすが】(6) ● 功徳は、重荷を下ろすために積むものである。重荷が却って増えたならば、それでは功徳を積んだことにはならない。ここで言う重荷とは、しがらみという意味である。功徳を積んだ人は、生活が簡素になり静けさが増す。日々を軽々と送るようになる。 (以上引用) *法津如来のコメント 「功徳は、重荷を下ろすために積むものである。」とありますが、この「重荷」とは…

  • SRKWブッダ著「仏道の真実++」【功徳のよすが】(5)

    (以下引用) 【功徳のよすが】(5) ● サンガ(僧伽)の存在が前提であるが、功徳を積むには出家がすぐれている。 しかしながら、それは家出であってはならない。ここで言う家とは、こだわりの総体を指す。 出家とは、自分の趣味の世界から出て浄らかな集いに住み処を移すということである。 また、家出とはこだわりを心に残した上で家を出ることをいう。 趣味の世界を離れていないので、功徳を積むため…

  • 石法如来の特別寄稿「こころの平安を求めて 」

    私は以前の記事(「少年時代の思い出・・・そして音楽に救われる.(2020.9.1)」)に,幼少期に「両親の離婚」という出来事がなかったなら、私は仏教とは無縁の人生を歩んでいた可能性が高いと書きました。 仏の教えと無縁でいられる理由は、幼少期の衝撃的な体験が無ければ自分自身の心底に不安感として根付いた「ある種の精神的外傷」と向き合う必要が無かったと思えるからです。 私の言う「ある種の精神的外傷」とは、心…

  • SRKWブッダ著「仏道の真実++」【功徳のよすが】(4)

    (以下引用) 【功徳のよすが】(4) ● 功徳は、大事なものが残っている間は積み終わることがない。 これは、覚ったとき、それまで自分が大事だと思っていたものが実はそうではないことを知ることになるという意味である。 世人は、世間のことがらを後生大事にしているものである。 ところが、それが実は自分を縛る縄なのである。 もちろん、大事に思っているものを無造作に無慈悲に闇雲に捨てよと言って…

  • SRKWブッダ著「仏道の真実++」【功徳のよすが】(3)

    (以下引用) 【功徳のよすが】(3) ● 功徳は、余計なものを捨て去ることによって積まれる。ただし、本当に大切なものは捨て去ってはならない。その本当に大切なものとは自分自身である。ここで、初学の修行者はその余計なものが何であるのかを明確に知ることは難しいであろう。そこで、省察を為すことが勧められる。省察によって、本当の自分自身とそうでないものとを区別できるようになるからである。省察すると、…

  • SRKWブッダ著「仏道の真実++」【功徳のよすが】(2)

    (以下引用) 【功徳のよすが】(2) ● 予め功徳を積んでいることは、功徳のよすがである。「さあ功徳を積もう」などと言って何も無いところから一気に功徳を積むことはできない。たとえば、大きな結晶を綺麗に作るためには種になる小さな結晶を用意し、それを少しずつ成長させて形成していくであろう。それと同様である。では、最初の功徳はどうやって積まれるのであるか。それは、すべての人が生まれながらに積んで…

  • SRKWブッダ著「仏道の真実++」【功徳のよすが】(1)

    (以下引用) 【功徳のよすが】(1) 功徳は、どのようなときに積まれるのであろうか。そのよすがについて述べたい。 ● 功徳は、咄嗟のときに一瞬に積まれる。これは、功徳を積むという表現から連想されがちな段階の説を否定する事実である。なぜ功徳が一瞬に積まれるのかと言えば、仏道が基本的には頓悟の道だからである。要するに、功徳は段階的に積まれるわけではないということである。そこで、功徳は次第次…

  • SRKWブッダ著「仏道の真実++」功徳を積むには(9)

    (以下引用) 【功徳を積むには】(9) ● 積んだ功徳は、決して損なわれることがない。もし、このことを信じることができないならば、その者はすでに道を踏み外しているのだと考えなければならない。これは、損得勘定では修行はままならないということである。覚りは、功徳の対価ではない。功徳のみ求めても、覚りに達することはできない。例えば、愛情を相手に求めるだけでは、それでは却って愛情豊かな人生を送るこ…

  • SRKWブッダ著「仏道の真実++」功徳を積むには(8)

    (以下引用) 【功徳を積むには】(8) ● 修行者は、つつしむのが良い。つつしみこそが、功徳の最大の利得(Gain)だからである。これは物事の味わいに関することがらである。風味を知る人は、さらにつつしむであろう。つつしみあってこそ、微妙なる風味が活きてくるからである。智慧は、美味よりも風味に近い。この意味において、風味を知る人は智慧を見出すに難くない。微かなものにこそ、大きなことが込められてい…

  • SRKWブッダ著「仏道の真実++」功徳を積むには(7)

    (以下引用) 【功徳を積むには】(7) ● 修行者は、何もするな。しかしながら、何かをするときには、労を惜しんではならない。このそれぞれが転じる刹那に、功徳は積まれるのである。誰にとっても、具体的に行動を起こすことは大変なことである。些細なことがらでも行為を全うすることは難しい。その難しいことを為し遂げよ。この世には、簡単にできることなど何一つない。小さなことでも、完成させるには大変な努力…

  • SRKWブッダ著「仏道の真実++」功徳を積むには(6)

    (以下引用) 【功徳を積むには】(6) ● 修行者は、世俗的にも幸せであれ。幸せであればあるほど、生じる功徳が大きくなるからである。これは、征服した国を捨てた王のように振る舞えという意味である。また、これは慈悲喜捨の「捨」に関することがらである。ここで「捨」とは、余計なものを捨てて相手に幸福を与え、同時に自分はそれ以上の大きなしあわせに達することを言う。世俗的に幸せであることは、その根拠と…

  • SRKWブッダ著「仏道の真実++」功徳を積むには(5)

    (以下引用) 【功徳を積むには】(5) ● 修行者は、楽しみと栄えを知る人であれ。道の歩みにおいては、それが功徳そのものになるからである。この意味において、楽しみは悪ではない。楽しめない人は、自分自身を見失っているのである。修行者は、楽しみの中に冷静に、真の自分自身を見出せ。 (以上引用) *法津如来のコメント 修行というと、苦しいことと思う人が多いのですが、この考え方は間違ってい…

  • 石法如来の特別寄稿「境涯と因縁(その1:因縁)」

    因縁(いんねん)という言葉だけ聞いても、普通の人は「漠然としたイメージ」しか抱けないでしょう。・・・普通に考えて、この世の事象が結果として眼前に現れるときと言うのは「結果=その結果を生み出す原因(因)と、それを助ける条件(縁)」が必要で有り、何の原因も条件も存在せず結果という事象が現れ出ることは無い・・・すなわち、「眼前の事象が偶然に出現することはあり得ない」と言う事になります。 私は、昔阿含…

  • SRKWブッダ著「仏道の真実++」功徳を積むには(4)

    (以下引用) 【功徳を積むには】(4) ● 修行者は、真実から目を逸らしてはならない。そこに、功徳を積む動機を生じるからである。ある種の真実は直視するに恐ろしいものである。それでも、立派な修行者はその真実を見つめるであろう。功徳を積んだ人は、そこに凜とした決心を生じるのである。その決心は、解脱の根拠となるものである。 (以上引用) *法津如来のコメント 修行者は、自分が真実から目を…

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