題を「困った時はダンマパダ」から「困った時はダンマパダ、スッタニパータで悟りを開く」に変更しました。
ダンマパダ423詩の解説を何回か終えた段階で、少し趣を変えて、異なるお経の勉強を始めようという思いに至りました。どのお経を選択するかいろいろ迷いましたが、毎日少しずつ勉強するのに都合がよく、仏教を勉強する人たちに人気のあるお経として、スッタニパータを選びました。
(以下引用) 【聖なる沈黙】 この世には、言わなければならないことがあり、また言ってはならないこともある。 聖なる沈黙というのは、言いたいことが明確にあるのだが、それを口にすることで相手を——そして自分も——悲しませてしまう恐れがあるときに、敢えて沈黙を守るということを指している。 世間で言うところの瞳の色で語るということに似ているが、聖なる沈黙においては瞳の色一つ変えてはならないという…
(その2)からつづく・・・。 SRKWブッダのホームページ、「覚りの境地」№006「名称と形態(nama-rupa:名色)」8行目に、「なお、名称と形態を現代の言葉で平易に表現するならば、次のように言ってよいでしょう。」とあります。 名称作用: 一切を認識したときに同時に生じるある種の心的余韻作用 形態作用: 一切を認識したときに同時に生じる心的変換・…
SRKWブッダ著「仏道の真実++」【善き談論】◇ 解脱知見論
(以下引用) 【善き談論】 ◇ 解脱知見論 解脱したときには、自分が解脱したという正しい知見を生じる。 私自身、覚り以前にこの教えを知ったとき、なぜそのような知見を生じると断言できるのかがとても不思議であった。 しかしながら、実際に自分が覚った(=解脱した)とき、まさしく解脱知見を生じたのである。 ここに、その疑問は解決した。 そして、この解脱知見ゆえに、自分自身の解脱を他の誰かに認…
(以下引用) 【善き談論】 ◇ 解脱論 解脱とは、一言で言えば、この名称と形態(nama-rupa)の脱落・終滅である。 ただし、このことを了知するのは覚った後であって修行者は知ることができない。 そこで、解脱論という場合には、解脱がどのようなときにどのようにして起こるのであるかということについての論であると考えて差し支えない。 (以上引用) *法津如来のコメント 「解脱とは、こ…
(以下引用) 【善き談論】 ◇ 智慧論 智慧は、煩悩の流れを塞ぎ止めるものである。 ここに、修行は完成を見る。 それ以外のことは、智慧の働きとは言えない。 これは、意味合いとしては発明や発見の構図と同じである。 それが為されるまではこの世には存在しないものであった。 しかし、それが為し遂げられたので、その存在が明らかとなったわけである。 しかもその威力は絶大である。 智慧も、そ…
(以下引用) 【善き談論】 ◇ 禅定論 禅とは外面的な心の安定を指し、定とは内面的な心の不動を云う。 そして、覚った人はこの両方を完成させている。 このため、修行者がただ目を閉じて座っているだけで禅定に達することはできない。 では、どうすれば禅定に達することができるのであるか。 それについて考究することは、詰まるところ覚りとは何かを追究することと同じである。 (以上引用) *法…
(その1)からつづく・・・。 SRKWブッダのホームページ、「覚りの境地」№006「名称と形態(nama-rupa:名色)」5行目に、「これらについて、原始仏典の別の表現(テーリーガーター:尼層の告白)では、名称を「刀」、形態を「串」のようだと形容しています。確かに、名称作用は自我を脅かしてこころを動揺させる刀のようなものであり、一方、形態作用は人類の歴史的経験のエッセンスというべきものであって…
(以下引用) 【善き談論】 ◇ 戒論 戒律は、してはならないことを取り決めて人を縛り付けるためのものではない。 戒律は、むしろ修行者が自由闊達に振る舞うためにこそ規定されるのである。 例えば、スポーツはルールに則って行わなければならないが、逆に言えばルールに則っていさえすれば思い切ったプレイを為して良いということでもある。 そして、それがスポーツの醍醐味を生み出す源泉ともなる。 同様…
SRKWブッダ著「仏道の真実++」【善き談論】◇ 精進努力論
(以下引用) 【善き談論】 ◇ 精進努力論 精進すべきことは真実についての考究であり、努力は混迷に陥らないように用いなければならない。 このようなことが説かれるのは、精進と洗練することを混同したり、努力とこだわりとを勘違いしてしまう修行者が見られるからである。 精進も努力も、安らぎという結果に結びつかなければ意味をなさないことはもちろんである。 (以上引用) *法津如来のコメント …
(以下引用) 【善き談論】 ◇ 不交際論 世人は、互いに何かを与えて交友を結ぶ。 これは世俗的には楽しいことであるが、仏道修行は本来独り歩むものなのである。 そして、このことは他の修行者にとっても同じ筈である。 そこで、修行者は交際することからの正しい離脱を考究しなければならない。 要するに、与えることよりもすぐれていることがあるのだと知らなければならないということである。 (以上…
(以下引用) 【善き談論】 ◇ 遠離論 世には、厭離すべきものが四つある。 これらに近づいてしまうのでは、修行はままならない。 人生の甘美なものには危険があると知って、こころある人は厭離すべきである。 ・ 修行ということにとらわれてしまうという避けるべきことを避ける ・ 自分の身に起きた異常な体験を人々に吹聴するという恥じるべきことを恥じる ・ 迷妄と妄執とに浸りきって、それらか…
SRKWブッダの説かれる教えは、難解と感じられる方が多いと思います。その中でも特に、「名称(めいしょう)と形態(けいたい)」は難しい概念です。理解が少しでも深まるよう、「名称と形態」について少し考えてみたいと存じます。 SRKWブッダの説かれる「名称と形態」とは、簡単に言えば「名称=個人的無意識」であり「形態=集合的無意識」であると言えます。・・・私自身かつて「仏教とは何か?」と考えた場合、…
(以下引用) 【善き談論】 ◇ 知足論 知足というのは「足るを知る」という意味であるが、このことが最も発揮されるのは、覚りの機縁——ことに臨んだそのとき——においてである。 これは、通常、法の句を耳にしてもそれが智慧の現れであることに気づくことは難しいということに根ざしている。 そのような困難がありながら、功徳を積んだ修行者はその法の句が極めて重要なものであることを認知することを得る。…
(以下引用) 【善き談論】◇ 小欲論 小欲の人だけが覚るというわけではない。 しかしながら、小欲でなければ覚ることは難しいとは言えよう。 欲望の恐ろしいところは、知らない間に膨らみ、気がつけば自分でも抑制できなくなっていることにある。 このため、欲望は火に譬えられるのである。 欲望を小さいうちに制し導く人は、種々様々な欲望の対象物に心が鷲掴みにされずに済む。 それが修行に…
(以下引用) 【善き談論】 省察や観、および公案に取り組むことが自分一人でできることであるのに対して、談論は複数の人の間で行うことがらである点が違う。 このため、修行の一環として談論を為す場合には、互いに有意義な談論を行わなければならない。 そうでなければ、自分においても、相手にとっても利益(りやく)のある修行とはならないからである。 そして、そのような意義のある談論を、総じて善き談…
(以下引用) 【公案】(8) ● 事実として、私(=SRKWブッダ)は覚り以前において世間の公案を解くのに苦労した憶えがない。 世に存在するどのような公案でも容易に解けたし、(久松真一氏の)基本的公案のような高位の公案でも二ヶ月ほどで解けたからである。 しかしながら、そのことと私が作仏したこととを安直に結びつけるべきではない。 私自身、それらには何の関係もないことを知っているからであ…
私は、61歳で仕事を終え長年希望していた仏道修行に専念出来る環境を作ることが出来ました。 ・・・ただ、そこに至るまで苦難の道のりがありましたので、それを少し書いてみたいと存じます。 自衛官の定年は早く、54歳で職場を去らなければいけません。私の場合、部隊の援護センターの御世話になり再就職は意外とすんなり決まりました。・・・自動車の運転免許証を持っている方はご存じでしょうが、3年から5年に1度免…
(以下引用) 【公案】(7) ● 公案が解けたのにも関わらず〈特殊な感動〉を生じることがなかった者は、公案には縁がない。 それだけでなく、智慧を得ることは難しいかも知れない。 ただし、読者はたとえそのようになったとしても悲観すべきではない。 望みを未来に繋いで、しっかりと道の歩みを続けるべきである。 そうすれば、公案とは違う形で修行が進み、ついには覚ることも期待され得るからである。…
(以下引用) 【公案】(6) ● 極めて高度な公案を通過すれば覚ったと言えるのではないか? ある人はそのように期待するかも知れない。 しかしながら、この世のどんな公案によっても覚ることはない。 もし、公案によって自分が覚ったなどと思う者があるならば、まさに噴飯ものである。 読者は、決してそのようにはならないようにして欲しい。 本当に覚ったときには、解脱知見を生じる。 それを公…
(以下引用) 【公案】(5) ● 公案の通過は、自分を超え、善悪を超えるものである。 しかしながら、それだけによって自分が浄らかになったと考えてはならない。 それが人のあり得べき究極の帰趨であると理解する人が、公案を真の意味で正しく解いたことになるからである。 要するに、公案によって明瞭となる境涯は、人智の究極に過ぎないということである。 智慧を得たわけではないので、浄らかになった…
(以下引用) 【公案】(4) ● 公案の通過は、たかだか「公案にまつわるその表象」を得るだけのものである。 そうは言っても、高位の表象は真如に匹敵するものであることはその通りである。 具体的には、例えば「一円の公案」の通過者には初期の心解脱を認定できることになる。 ただし、繰り返しになるが、公案を解いたことによって——つまり公案を修行として——その表象が得られたわけではない。 解い…
(以下引用) 【公案】(3) ● 自分自身、公案が解けたことを喜んではならない。 そして、公案が解けたことを喜ばない(歓喜しない)人こそが、本当の意味で公案を解いたのである。 これは、公案が解けたという事実が、修行が進んだことを示すものとはならないことによるものである。 すなわち、公案は功徳を積んでいることについてのバロメーターに過ぎないからである。 公案が対象としていることがらが…
(以下引用) 【公案】(2) ● 通常、公案は容易には解けない。 しかしながら、ある人はまるで容易に解く。 その様子を見て、解けない人は自分を卑下してしまうかも知れない。 しかし、それは当たらない。 これを以て、自分には覚りは無理だなどと考えてしまうようであるならば、公案に取り組むことそれ自体が本末転倒である。 実際には、公案を解くのに素質や才能などは何も認められないからである。…
(以下引用) 【公案】(1) 歴史的に最初に公案が作られた目的は、覚った人を互いに見分けるためのテストという位置づけであったろうと推察される。具体的には、仏ならばこのように行為するとか、仏はこのように考えるということをエピソードを含めた設問として提示し、その真意を相手に問うて技量を判断するわけである。そして、その問いに見事に答えることができた者は仏であるに違いないと考えられた。なお、このよ…
最近私は、生物学者の福岡伸一氏の著書を数冊購入して読んでいます。福岡氏の著書を読みながら、you-tubuの動画も拝見し仏教思想に通じる部分を見つけましたので少し書いてみます。 生物学が言うことは、よく考えて見れば当たり前のことしか言っていないのですが、一生懸命研究している人の言葉は私にはとても新鮮に感じます。 例えば、食べるという行為ですが、私達にすれば生体を維持するためあるいは食欲を…
(以下引用) 【観(=止観)】(5) では、なぜ止の理解は容易ではないのだろうか。それは、あり得べき観が本質的に心を揺り動かす要素を含んでいることに由来している。そのような中において、心を木石のように閉ざすのではなく、心を制し導き、その根本の動揺を静止させなければならない。その為し難きことを為し遂げたとき、止が完成する。このとき、心が動じる気配を微塵も見せてはならない。なぜならば、それを見…
(以下引用) 【観(=止観)】(4) 続いて、観の完成時に何が起こるのかについて述べたい。 ● 観の完成時——実際にはその刹那の直前——に起こることは、止(シャマタ)である。この止を完全に理解したとき、観が完成する。すなわち、観の本質は実は「止」を理解する道程なのである。そして、何を観じても止が理解できるわけではなく、仏や衆生を観じた場合にのみ、止を真の意味で理解することを得るというこ…
(以下引用) 【観(=止観)】(3) さて、次に観のあり得べき進行について述べたい。要するに、正しい観はどのようにして為されるのであるかということの説明である。 ● 観は、最初から最後まで基本的に修行者が好きに行ってよいものである。つまり、何をどのように観じてもよいのである。それが自然と正しい観に収束することになる。すなわち、仏道に適った形で対象と目的に合一した観を行えるようになるとい…
(以下引用) 【観(=止観)】(2) 以下に、観の実際について述べたい。 観は、修行者にとって一種魅力的な修行方法である。なぜならば、観は基本的には時と場所を選ばず、誰の手も借りずに自分だけで行うことができるものだからである。しかしながら、修行者が観を正しく実践することは決して容易ではない。修行者は、最初は何をどうすれば良いのかさえ分からないであろう。そこで、先ず基本的なことを手ほどき…
(以下引用) 【観(=止観)】(1) 省察をさらに発展させたものが観(=止観:以下、断らない限り観と書いた場合には止観を意味する)である。違いは、省察は自分自身のことがらを対象として行うものであるのに対して、観は衆生を対象としている点にある。要するに、観とは一般化された省察なのである。 観は、智慧を知的考験の先にあるものと位置づけたとき、それに近づくためのおそらく唯一の実践的な方法であ…
(以下引用) 【省察】 自分ではない他人の過ちをどんなに正確に把握したとしても、それによって覚りを生じることはない。その一方で、他ならぬ自分自身の過ちを把捉したならば、それは覚りの重要な機縁ともなる。その具体的な方法が、省察である。修行者が理法に適ったあり得べき省察を為し遂げたとき、安らぎに至る確かな道を見い出すであろう。そして、ある場合には、それだけによっても一つの解脱が起こることがある…
仏教では、今住んでいる世を苦しみの世界であると観て「一切皆苦」(いっさいかいく・すべてのものは苦しみである)という言葉を使いそのことを表現しています。 苦しみとは何かと申しますと、「全て(一切のもの)は、自らの思うようにはならない」と言うことです。 確かに、何でも自分の思うように物事が運べば苦しみは無くなり、苦しみと感じることも無くなります。ゴータマ・ブッダが「この世は苦しみである」と説かれたの…
(以下引用) 【親近(しんごん)】 生き身のブッダが世に存在していることが前提となるが、ブッダの近くにいる人が解脱しやすいということがあるのだろうか。もしそうならば、ブッダの近くに馳せ参じて、常日頃から親しむことが勧められよう。 結論を言えば、親近することについては物理的な距離は関係がないということである。実際、近くにいる人がなかなか修行が進まず、遠くに住んでいる弟子や縁者の進捗が目覚…
(以下引用) 【仏教の知識】(3) ところで、釈尊は成道前には正法の具体的なことは知らなかったと思われるが、作仏するその刹那に正法を自ら誦出して知ったのであると推認される。いわゆる「明けの明星を見て」という仏伝の下りがこれに対応していると考えられるからである。 事実、ある正法はこの明けの明星に比喩される真理を述べているのである。すなわち、覚りの機縁に際して法界からこの世にどのようにして…
(以下引用) 【仏教の知識】(2) なお、正法は智慧の姿形を記したものではない。 その出現の様子や作用効果について述べたものである。 例えば、世にも素晴らしい楽器があったとしよう。 そして、この宝を探している人はこの宝の本当の意味も姿形も知らない。 ここで、宝が何であるかを記した文章としては「美しいかたち、そして素晴らしい音色」とだけあるとしよう。 彼は、最初は探しやすい姿形だけ…
(以下引用) 【仏教の知識】(1) 仏教についての知識を学ぶことが修行である。と勘違いしている人が少なくないようである。かつて、私自身そうであった。 さて、もちろん仏道を歩むのに仏教の知識はあるに越したことはないのであるが、それによって直接に覚りを生じるわけではない。なぜならば、仏教の知識は、基本的には覚り(=解脱)が本当に人の身に起こることであるということを信じさせてくれる一つの材料…
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