38.「内と外を合わせる」こと 我々は運動する際、骨とか筋肉を使用します。その際、筋肉で言えば、表層筋と深層筋を使います。ところが、表層筋は外から見えますから、その動きを言葉で伝えるのは易しいわけです。ところが、深層筋の動きを共有するのは非常に難しいわけ
69.「体癖」と「学習能力」をつなぐもの さて、人が行動する、思考する、それは深い次元の「操作」である、というのが67の「操作は、様々な次元へのはたらきかけ」で取り上げたことです。 そこで、「深層」での「知識」の「操作」は、様々な境界を超えてはたらくも
68.「体癖」と「能力」の歪み そこで、44で取り上げた「体癖論」です。先の「体癖論」とその経絡のはたらきを結び付けたものとして、整理すると「五行類型論」といわれるものがあります。 「体癖」の一種・二種が五行の「木」で陽の胆経、陰の肝経となります。以
67.「操作」は、様々な次元へのはたらきかけ さて、物事の「操作」を考えるうえで、次元を変えて「(広義の)みる」ということが必要なのは、それがその「操作」の理解に必要なことだからです。 「物」を実際に動かすような「操作」は、普段見聞きすることですから、理
66.外と内を超える操作 さて、「操作」と「知識」を考える際、超えなければならないのが、物に働きかけることと、ものを考えることを隔てる「壁」です。 例えば、紙が風に吹かれて飛ぶということがあります。それを次元を変えてみてみるとします。紙を分子の次元、更
65.「操作」がうみだすもの 「数」が「意味」を持つものであり、計算は、それを「操作」することになります。「数」の場合、それを使って計算するのは、あまりにも当たり前のことで、何をいまさらと思われるかもしれません。 「知識」が「操作」の対象になり、そのこ
64.「能力」をめぐる「ことば」の使い分け 我々は、「ことば」を使用、時に、その「ことば」そのものを「知識」として扱ったり、「知識」の媒体として扱ったりします。また、その「知識」について、前回で紹介した定義では、「知識」は「能力」でもあるとしているわけで
63.「知識」ということばの意味 「ことば」と言えば、「理解」とか「記憶」とかという言葉を使用する際、普通には、その対象として「知識」という言葉を使います。しかし、「自主学習」の指導について話し合う際は、「知識」は「(広義の)能力」の一つであるといったり
62.学習過程を表すことばの意味 実際の学習の過程を考えてみます。 例えば、ある文章について、指導者が、「今日は、この内容を読んで理解する学習です。」こんな言い方をします。簡単にいうと、その時の「学習目標」は、その文章を「理解」ることだというわけです。
61.学習過程を分断するもの 学習過程を説明する際、一般に使われる「理解」「記憶」「思考」「表現」という言葉を用いていますが、ここ数回それぞれについて取り上げるなかで、そういうふうに分けたのは、いわば便宜的なもので、それらは、本来つながっているものだとい
60.「表現」の変化 自分の「思考過程」を書き出すことは、自身の深層でのはたらきが生み出したものを、自らの目を通して「意識」に上げ、それを確かめ、場合によっては修正することにつながります。その修正も深層のはたらきを動員してのもので、それは、新たな思考が
59.「思考」の変化 誤答の修正学習は、その問題の解決のための正しい学習過程をたどることになります。それは、誤答をもたらした思考過程の反省にもなります。それは、次に新しく学習をやる際の思考過程を生み出すのに役立ちます。 さて、その「修正学習」ではなく、
58.「記憶」の変化 多くの生徒は、「教えられたこと」を受け入れて「憶えた気」になって次へ進み、試験の前にあらためて覚えなおすというようなことをしているのではないでしょうか。ですから、教師は良く、「これは試験に出るからよく覚えておくこと」と言ったりする
57.「理解」の変化 多くの生徒が、「教えられたこと」をただ受け入れることを、「学習」だと思い込みがちです。食べ物で言えば、「食べれば終わり」で後の消化とか排泄とかについて考えないように、「問題」と取り組んだ後、その解き方と答えを教えられる、それを聞いて
56.「修正」を身に付けるためのテスト 「修正」を身に付けるための「学習法」として、それを具体化したのが、「レポートテスト」です。 通常のテストも、本人の「知識」を確認することを目指すものですが、それが人を選抜に使われるテストと混同され、ひいては人を比
55.過ちを再びせず 修正が当たり前になれば、まず、過ちを即座に気付き、即座に直すようになる、そうするとそれは当たり前の学習になります。そうなるまでの学習が「修正学習」です。そして、それは「理解」などの能力の強化につながります。 そして、それは生き方の
54.修正すべきは修正するのが「学習」 新たな「知識」と取り組む中で、その基になる先に学んだはずの「知識」が使えない、それをそのままにしておくことについて、本人があまり気にしないということは、それ自体、問題です。その使えない、というのは、いろいろなケース
53.目標を決める その時々の「学習目標」は、個々に違います。その人の「(広義の)能力」が違うから当然です。ただ、その「目標」は、本来は、本人が決めるべきですが、それまで、学校教育で、「教えられること」をそのまま受け入れることしか知らない生徒には、いきな
52.自主学習のレールに乗せる場の設定 「教える」塾では、教室は教師が引っ張る場になりがちです。そこで、生徒全員が教師の方をむいて座る、教師が黒板を背にしてそれと対する、それが典型的な教室です。 では、「自主学習」の場は、どうでしょうか。そこで、まず考
51.目の前の「目標」と続けることで身につくもの 「自主学習能力」を身に付けることを目指す塾での「学習時間」の設定が、生徒のペースによることになるのは、「目的」が違うからです。生徒に数学の文章題の学習を取り上げてみましょう。その時の「学習目標」は、それ
50.「解るまで」の時間を さて、「自主学習能力の育成」を目指す塾と、「知識」を「教える」教室では、「目的」が違います。そうすると、いろんなこと違ってきます。例えば、生徒の時間の使い方です。「教える」教室では、生徒の学習に与えられる時間は、教師が予定す
49.「自主学習能力」は「学校」をも「塾」や「予備校」をも生かす 教えたからと言って、それがそのまま、教えられた側が学ぶことにはならないというのは、教える側、学ぶ側の、内部で起きることを少し分析するとわかることです。 そこで、「学校」とか、「予備校」で
48.学習過程の空白は自分で埋めるべき 学習過程が代行によって寸断され知識に穴が開くとしても、それを本人が自覚して、自らその穴を埋めることができればよいわけですが、問題は、その能力があるかどうかです。 教師が「教える」、その際、生徒がそれを「学んでいる
47.能力の使用の代行は「学習過程」に空白をもたらす 何かの「知識」を「記憶」する、それは使うためであり、使える状態にしておく、それを「整理」と言っているわけです。 外の宇宙を分割し、「コトバ」と結び付けて、運び込み、それを内の宇宙の修正に結び付ける、
46.記憶の過程と記憶力 学習能力の偏りが学習過程の乱れをもたらすということについて、「記憶力」と「記憶」を取り上げてみます。 外からの「情報」を「記憶」する過程をたどってみます。 まず、その「情報」に「接触」します。そして、それを他の知識の一端と
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38.「内と外を合わせる」こと 我々は運動する際、骨とか筋肉を使用します。その際、筋肉で言えば、表層筋と深層筋を使います。ところが、表層筋は外から見えますから、その動きを言葉で伝えるのは易しいわけです。ところが、深層筋の動きを共有するのは非常に難しいわけ
37.「内の現実」を視る―「内視」について 「目だけの経路」を使用する視覚イメージの形成を「目視」とよぶとすると、我々が(「視る」ことは全て「目視」である)と考えると、学習能力についての判断を間違うことになりかねません。 そこで、その「目視」以外の「視る
36.「『現実』を視る」ことと「目を使う」こと 「視覚イメージ」が意識にあがるケースにはいろいろあります。 現に目の前のものを視ること以外にもいろいろあります。その見たものをいったん記憶し、それを再生するケースがあります。また、コトバとか文字を介して生
35.脳で視ている? 「目で見る」と「目以外で視る」ということについて、触れておきます。 「目で見る」ということを大雑把に言えば、少し突っ込んでみると、「目」が外からの刺激を感覚神経を介して「脳」に伝え、それを基に「脳」が視覚イメージを生み出す、そうい
34. 市民権を持たない能力 教科学習での誤りについて、それを修正することについて考える際、まず、その原因を知ろうということで、その「原因分析」についてとりあげ、「知識」についで、関係器官の「操作」について取り上げる中で、前回、「その能力をいわば市民権のあ
33.理解には様々な感覚が関わる 前回、ミラーニューロンを取り上げたのは、自閉症の例にあるように、我々が「視て解る」「聴いて解る」と思っていることが、実は「目」とか「耳」とかだけによるのではないのですが、普通は、そう考えられていません。例えば、「共感覚
32.ミラーニューロンについて 今まで、「聴く」ということについて、様々な器官が関わるということを取り上げました。 そうすると、その「聴く」に関わる器官とは、「耳」を中心としたいわゆる「聴覚系」とされた器官だけを指し、次にそれを支えるエネルギー系などを
31.様々な器官の動員 「学習法」は、様々な器官を動員し、そのはたらきを統合することで成り立っています。 例として取り上げた「単語学習法」にしても、大雑把に言っても、聴くと見ると話すと書くこと全てのはたらきを統合することになります。それらがバラバラに足
30.「知識」の修正から「操作」の修正へ 修正学習を考える際、それまで身に付けたものの修正をやるとして、まずやるのが「誤り」の原因を突き止めることで、それを「原因分析と」読んでいるわけです。そこで、「レポート学習」では、まず、学習の過程を明らかにし、そ
29.内外の器官の操作 前回での「結び付ける」過程に問題がある場合は、そのためのやり方を指導することになるでしょう。 例えば、発音に問題がある場合、特定の音声について、その発音のための口や舌の使い方を指導する、後は本人がそれができるよう繰り返す、そうい
28.学習法を支える能力と知識 そこで、「学習法」とそれを支える能力について、SSAの単語学習法を例にとり上げるとします。 テープと単語プリントを使い、英語を聞きながら真似をして声に出して言い、同時に目で英文字を見ながら真似をして書く、次に英語を聞きな
27.学習法、通常の学習の中での習熟を目指すか? 「目標指示」は、その時の学習の目標を指示することですが、その前提は、その目標とされる学習の「方法指導」がなされていることが前提です。 例えば、「特定の単元の単語学習」の指示は「単語学習法」の指導が、「和
26.その場での修正にとどめるかどうか。 修正学習について、それを通常の学習を続ける中で行うか、それを一旦おいて遡及学習などに切り替えるかは、その修正を必要とする原因によって判断すべきこととなります。 例えば英語での和訳学習を例にとれば、通常の英語の単
25.その時の目標の選択と修正 生徒が、教室でその時何を学習するかは、行き着くところは、本人が自分で計画を立てその計画に沿ってその日何をやるか決めるというのが目指すところです。生徒が自分で計画を立てられるようになれば、指導する側はそれに助言をすれば良いわ
24.一定期間をかけての遡及学習 できなかったり誤ったりしたことの原因として、特定の事項というより、単元毎とかし小単元毎とか、そういう知識が欠けていることがあります。それは、本来、学校などで学習済みのもので、その知識の欠落がどの程度の規模のものか、本人
23.短期・中期・長期の取り組み 誤りの原因について、大雑把に言えるのは、まず「知識」の問題というのは、比較的短期に対応できるようです。例えば、あることについての理解が間違っていた、それを正しく理解し直す、それをその日の時間内にやる、そういうことが多い
22.原因と能力の結びつき 学習はうまくいかないことの「原因分析」について、「和訳学習」を例に学習の過程を取り上げたわけですが、無論、それだけで、そのまま「修正」につながるわけではありません。 その「過程」を前提とすれば、例えば「和訳学習」での単語の
21.教科学習のプロセス化 修正学習では、「解らない」「出来ない」の原因を明らかにする「原因分析」をやるわけですが、その原因分析の第一歩は「学習の経過」を明らかにすることで、そのために通常の学習の中で、その「学習の経過」のとらえ方を身につけるということで
20.過程の意識化から過程の無意識化へ さて、誤りが既成の学習によってもたらされたものとすれば、まず、その原因を知る必要があります。そのためには、まず、その学習の過程を意識に上げ、それを基に原因を特定し、それを正す学習を考え実行することになります。そして
19.「解る」「できる」の判断 「レポートテスト」では、まず「問題」について、自身の思考過程を書き表します。次いで、その「レポート」と「解説」とを対照して、その「思考経過」の一つ一つについて、自分で「これは解っていた」、「ここはよく解っていなかった」、あ
81.三層間の移行三層フローチャートの書き込みを同じテーマで何人かがやるとします。その時、同じ過程を「行動」と「意識」と「深層」の各欄にどう振り分けるか、人によって違いが出てきます。我々は「意識」と「深層」の間が固定されているように考えがちですが、それは
80.深層に焦点を当てる現在の教育に問題があるなどと言えば、よくある民間による公教育の批判として受け止められるかもしれません。個々の学習過程を、三層フローチャートで分析することをやります。一人一人が書き込むことですから、全て同じにならないのは当然ですが
79. 自・他に「みえる」「みえない」さて、この三層フローチャートをなぜ研修の最初に持ってきたかと言うと、その行動と意識と深層と書き分ける、そのそれぞれについて、大雑把な違いをまず把握することです。「行動」は、自分にも他にも「みえる」。「意識」は、自分
78.能力の普遍性・共通性・個別性さて、三層フローチャートへの書き込みをして、お互いに披露しあう中で、同じ「コトバ」の意味の形成一つをとっても、ある人と別の人では違いがあることは解ります。そこで、個々の持つ様々な能力について、一人一人が違うということも
77.コトバと意味の結びつきに気づく そこで、その「音声」とか「文字」を意識すると、それが指すもののイメージが浮かび上がってくる、逆に、あるいは何かを思い浮かべると、それを指す「音声」とか「文字」が浮かび上がってくるということを経験することで、「コトバ
76.「深層」の存在にあらためて考える 次いで、「三層フローチャート」を使用しての研修に移ります。 そこで、何を書き込むかは、予め用意したテーマで、それぞれが書き込むこともあれば、それぞれが自分の経験したことを書き込むこともあります。 そこで、その
75.「意識」「深層」「行動」の意味の共有 研修では、まず、そのあたまの中で何かが浮かんだり、消えたりすることを、それぞれが経験できるか確かめ、それを「意識」とするとします。それを「意識」とするというのは、ここでの取り決めで、他の人々が何と呼ぶかは別の事
74.自分に由ること さて、「自灯明」とか、その前にでてきた「格物致知」とか、そういうことについて、人に教えてもらう、しかし、それは「他者に頼る」ことになる、「事物に即して知ること」にはならない、それこそ、「自灯明」とか「格物致知」が否定したことです。
73.ことばを生かすのは自分がやること 我々は、自分で考え、それを基に行動します。そして、考えたことを人に伝えます。その際、その考えるにも、人にそれを説明するにも、ことばを使うわけです。その「ことばを使う」という「自分がやること」について、それがどういう
72.「分別智」と「無分別智」など 前回述べた弟子の中の「山」の変化については、「ことば」の意味の在り方を左右する意識構造の在り方として取り上げましたが、これについては、仏教では「分別智」と「無分別智」という言葉で説明したりすることもあります。 外から
71.「山は山にあらず」から「山は山」へ。 その意味的凝結体を使用する場合とそれが溶け合って流れる場合では、経験することが違ってきます。我々は、例えば同じものを「見る」とします。そうすると同じ経験をしているというふうに思いがちです。しかし、その「見る」
70.意味的凝結体の溶解 「対話と非対話」では、その分割された名前を持ったもののことを、意味的凝結体と言っています。そして禅の修行はこれを溶かしてしまうことだということで、禅問答もそうですが、座禅についても、「座禅とは、意味的に凝結している事物を溶解して
69.「山は山にあらず」 さて、禅問答の「山は山にあらず」を例に、禅が問題にする言語の意味的分節化について、 説明するとします。ですから、元の本にあるものではありません。 我々は、本来繋がったものごとに意識を焦点化するために「ことば」を使います。このこ
68.ことばの意味による拘束から抜け出す さて、言語による「意味的範疇の枠組みから抜け出す」ということについて、この書では、「山」と言う言葉について、「山は山にあらず」という禅での問答を取り上げています。 ここでは、以前、「能力の受け止め方21」で、「
67.禅の言語観について前回述べたことのあと、更に、禅の言語観として、次のように述べています。禅が内蔵するこの言語観によりますと、言語は主として、あるいは第一義的には,一種の認識 パターンである、つまり、本来何の区別もなく、何の線も引かれていない、絶対無
66.言語を使うことによる自由の喪失さて、「喋りすぎること」の何が問題か、次のように続きます。 禅の立場からして一番大切なのは、人間がただやたらに喋りたがる性質を持っている点にあるのではなくて、喋ること、言語を使うことによって知らず知らずのうちにその言
65.人間は「喋りすぎる」?さて、ここまで井筒俊彦氏の著作といってきましたが、それは「意識と本質」の中にある「対話と非対話」という文章です。これには、「禅問答についての一考察」という副題がついています。その、禅問答を取り上げる前に、現代の言語理論が「対話
64.日英の「文法」の違い 「和文英訳」の学習です。最初にやる「日本文」の「論理化」については、先に取り上げました。 その後は、その「論理化された文」を「句切り」、それを「句順変換」して、「中間日本語」化します。これは、「和訳」でやったことの逆操作ですが
63.対話の可能性 そこで、井筒俊彦氏の著作の続きで、その言語による文化の伝達の楽観論を主張する人々の考え方について触れた箇所を取り出してみます。 このような悲観論に反対して楽観的な立場を取る人々がおります。この人たちの思想の背後には人間精神についての
62.翻訳により抜け落ちるものと付け加わるもの「和訳」での「意訳」、「英訳」での「論理化」の両方を経験するとわかるのは簡単に言うと、元の文にあったものから抜け落ちるものがあることと、逆に元の文になかったものが付け加わることがあることです。そして、それを1