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ブログタイトル
100倍楽しむ海外旅行
ブログURL
https://blog.goo.ne.jp/fool1934725
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73歳のジジーの27回約70国を訪れ100倍楽しんだ話。
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2008/03/01
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witchさんの新着記事

1件〜100件

  • 「ロシア・ウクライナ・バルト3国」編 セルギエフ・パッサート

    モスクワの北東部一帯は「黄金の環」と呼ばれているロシア中世の面影を残す古都が展開しています。そのいくつかを訪問しました。最初はセルギエフ・パッサートでした。トロイツェ・セルギエフ大修道院とかウスペンスキー大聖堂などを訪れましたがそれらは今回一切省略して当地の昼食時の自由時間に出会った人たちを紹介します。「ロシア・ウクライナ・バルト3国」編セルギエフ・パッサート

  • 「ロシア・ウクライナ・バルト3国」編 モスクワ3

    クレムリン内にある建造物を二つ。写真上はウスペンスキー大聖堂です。ロシア帝国時代の国教大聖堂です。イタリアのアリストーテリ・フィオラバンティの設計・建築で1479年に完成しました。写真中は16世紀に造られた当時世界最大の大砲です。口径89cm重量40tで一度も発砲されたことがないそうです。TsarCannonと呼ばれています。クレムリンを出たところで日本でもよく知られているボリショイ劇場に出会いました(写真下)。「ロシア・ウクライナ・バルト3国」編モスクワ3

  • 「ロシア・ウクライナ・バルト3国」編 モスクワ2

    クレムリン観光です。クレムリンはロシア語で「城塞」という意味です。城壁は2.25㎞あり旧ロシア帝国時代の宮殿、ソ連時代はソ連共産党の中枢が置かれ現在のロシアでも大統領府が置かれています。(写真上は城壁)厳重な金属探知機をくぐってなかに入りました。ロシア美人とともに(写真中)子供たちも熱心に見学していました(写真下)クレムリン観光です。クレムリンはロシア語で「城塞」という意味です。城壁は2.25㎞あり旧ロシア帝国時代の宮殿、ソ連時代はソ連共産党の中枢が置かれ現在のロシアでも大統領府が置かれています。(写真上は城壁)厳重な金属探知機をくぐってなかに入りました。ロシア美人とともに(写真中)子供たちも熱心に見学していました(写真下)「ロシア・ウクライナ・バルト3国」編モスクワ2

  • 「ロシア・ウクライナ・バルト3国」編 モスクワ 1

    2006年6月25日〰7月9日「ロシア・ウクライナ・バルト3国」というツアーに参加しました。最初はモスクワです。最初の観光はモスクワ名物の地下鉄乗車でした。日本より速いスピードで深さ80mまで下りていきました。写真は不鮮明なので省略。「赤の広場」(写真上)に向かいました。右のちょっと格好の良い建物は国立歴史博物館です。写真では見えませんが左側にレーニン廟があります。「赤の広場」はロシア語でクラースナヤプローシャチで英語でもredsquareですがクラースナヤは古語では「美しい」という意味で「地球の歩き方」は「美しい広場」と訳されるべきなのだと記しています。(p37)この赤の広場に接してモスクワ最大の百貨店グム(店舗1000以上)があったので自由時間にちょっと覗いてみました。母子が寛いでいました(写真中)余談話こ...「ロシア・ウクライナ・バルト3国」編モスクワ1

  • 「トルコ」編 イスタンブール2

    トルコ最終日はイスタンブールでのブルーモスク(写真左上)、トプカプ宮殿(写真左中)、地下宮殿(写真左下、右)の観光でした。ブルーモスクの正式な名前はスルタンアフメット・ジャミで1609年〰1616年にかけて建設されました。6本のミナレットで有名ですがこの写真ではよくわかりません。なぜか内部の写真は一枚もありません。フィルム切れ間近だったからのようです。トプカプ宮殿は15世紀から20世紀初頭にかけてオスマントルコの支配者の居城です。内部には黒人宦官の部屋、500人ぐらいの女奴隷の部屋ハーレムなどたくさんの見どころがありましたがこれも1枚の写真もなし。地下宮殿は4世紀〰6世紀にかけて作られた高さ8mの柱が336本ある地下貯水池跡です。ここにあるギリシア神話に出てくるメドゥサの顔の石像が有名です。(写真右)メドゥサを...「トルコ」編イスタンブール2

  • 「トルコ」編 イスタンブール1 街頭風景

    首都イスタンブールに戻ってきました。水タバコですね。(写真左)出た煙をガラス瓶の中の水を通して吸うタバコです。トルコでは「ナルギレ」と呼ばれています。イランが発祥地とされていてアラブ世界では一般的のようです。したがってイランでは女性も普通の喫煙のようです。(2008年5月21日紹介)写真右上はグランドバザールです。トルコ語でカパル・チャルシユ屋根付き市場という意味です。中東最大で4400軒の店があります。イスラーム圏では一般的には女性は写真撮影を嫌いますが、トルコでは気楽に撮影に応じてくれました。(写真右下)「トルコ」編イスタンブール1街頭風景

  • 「トルコ」編 アンカラ2 アナトリア博物館、アタチュルク霊廟

    アンカラで訪ねたのは、アナトリア博物館(写真左上)とアタテュルク霊廟(写真左下)でした。アナトリア博物館の展示物は12月25日に紹介したヒッタイト王国妃とエジプト国王妃のfriendlycorrespondenceの強い印象以外は記憶にないので省略。アタテュルク霊廟は第一世界大戦で亡国の危機に瀕したトルコを救ったムスタファ・ケマル・アタテュルク(1881~1938)の霊廟です。アタテュルク=アター父、テュルクートルコです。彼の業績には政教分離、アラビア文字廃止、トルコ帽子禁止、一夫多妻制の禁止などがあります。霊廟には博物館も付属しています。写真右は1928年のトルコ語のアラビア文字表記を廃止しラテン文字(アルファベット)とする決定書です。「トルコ」編アンカラ2アナトリア博物館、アタチュルク霊廟

  • 「トルコ」編 アンカラ1 街角風景

    首都アンカラに向かいました。街頭風景を3枚。左上はトルコ名物ケバブの店ですね。写真左下のゲイムは?右の写真はパンの街頭販売ですね。それでは良いお年を!「トルコ」編アンカラ1街角風景

  • 「トルコ」編 ヒッタイト王国遺跡2 ヤズルカヤ

    ハットゥシャシュから2㎞ほど離れたところにあるヤズルカヤ遺跡を訪れました。ヤズル=文字が書かれている、カヤ=岩、という意意味です。ヒッタイト王国の宗教的儀式が行われたところです。岩壁にはたくさんのレリーフが描かれています。もっとも有名なのがとんがり帽子をかぶった12神の行進です。(写真下)「トルコ」編ヒッタイト王国遺跡2ヤズルカヤ

  • 「トルコ」編 ヒッタイト王国遺跡1 ハットゥシャシュ

    BC18世紀からBC12世紀にかけて史上初めて鉄器を使用してトルコ起点としてシリア、メソポタミアまで版図を広げたヒッタイト王国のボアズカレにある王都ハットゥシャシュの遺跡を訪れました。この遺跡は1834年に旅行家でフランス人考古学者のチャールズ・テキシェによって発見され、1906~1907年の間にドイツ人考古学者のウィンクラーなどの指導で発掘作業が実施されました。ウィンクラーはヒッタイト王国とエジプトとの世界最初の平和条約(BC1269年)のヒッタイト語版の粘土板を発見しました。この世界最初の平和条約の成立の陰には二人の女性が重要な役割を果たしていました。それは政治面でも影響力を有していたヒッタイト王国ハットゥシリ3世の妃プドゥヘパとエジプトラムセス2世の妃ネフェルタリが王たちよりも盛んに書簡を交わし、その双方...「トルコ」編ヒッタイト王国遺跡1ハットゥシャシュ

  • 「トルコ」編 カッパドキア 絨毯工場、トイレ休憩

    カッパドキアの夜希望者は絨毯工場を見学しました。(写真上)トルコ絨毯は有名なんですね。カッパドキアからヒッタイトの遺跡ボアズカレへ向かう途中でウズレル村のモスクでトイレ休憩をしました(写真中)。イスラーム教国ではトイレ休憩は商店などが見当たらない時はモスクが一番なのです。キリスト教の教会にはトイレがありませんが、モスクには必ずありオープンなのです。トイレ休憩はイスラーム教圏ではモスクへどうぞ!トイレ休憩後みんなでリラックス体操(写真下)余談話3世紀にローマ帝国時代のローマ街道網を記述した「アントニウス旅程表」には最東の都市としてカッパドキアが記載されています。(「岩波講座世界歴史03ローマ帝国と西アジア」p138~239)「トルコ」編カッパドキア絨毯工場、トイレ休憩

  • 「トルコ」編 カッパドキア4 旧ギリシア人村

    カッパドキアにある旧ギリシア人の村ムスタパシャを訪れました。看板(写真上)にOLDGREEKHOUSE(旧ギリシア住宅)と書かれていますがその下はトルコの表示がむやみに多いと思いませんか?ここはトルコだと強調しているようです。9月24日に紹介したように第一世界大戦後の1923年にトルコ領内のギリシア正教徒と、ギリシア領内のイスラーム教徒が交換されました。ここカッパドキアにはトルコ領内でもギリシア正教徒が多かったようです。1914年の国勢調査ではトルコの総人口は2097万人でギリシア系は179万人でした。この村の人たちはなぜか我々観光客を大歓迎してくれました(写真中、下)わたくしの当時のメモには「村人のhospitalityに感激」とありますが、後で考えて何か理由があるような気がします。ここの村人はギリシア系イス...「トルコ」編カッパドキア4旧ギリシア人村

  • 「トルコ」編 カッパドキア3 カイマクル地下都市と鳩小屋

    カッパドキアで最も有名なカイマクル地下都市です(写真左上)BC400年ころから存在していたとの記録があるそうですが詳しい発祥や歴史は不明です。内部には教会、厨房、寝室、ワイン醸造所などがあり、2万人というちょっと信じられないような人が住んでいたそうです。近くでは土産物さんの女性が頑張っていました。(写真左下)奇岩にたくさんの穴が開いていますね(写真右下)これは鳩小屋です。以前この鳩小屋の鳩の糞をブドウ畑の肥料にしていました。「トルコ」編カッパドキア3カイマクル地下都市と鳩小屋

  • 「トルコ」編 カッパドキア2 奇岩景観

    3本のキノコが生えている奇岩で有名です。昔、修道士が住んでいました。(写真上)カッパドキアはこのような奇形の地です「トルコ」編カッパドキア2奇岩景観

  • 「トルコ」編 カッパドキア1

    カッパドキアはトルコ中部に位置し奇岩景観と地下都市、キリスト教遺跡で著名な世界遺産地です。写真上は全長12㎞、崖の高さ100mのウフララ峡谷です。この地には5000もの住居と105の教会が残されています。紀元前からこの地に地下住居が作られましたが詳しいことはいまだに謎に包まれています。その後4世紀ごろからキリスト教徒の隠れ家ともなり、地下教会が作られました。写真下はその一つで「最後の審判」の画に描かれている蛇にちなんで、名付けられた「ヘビの教会」の入り口です。「トルコ」編カッパドキア1

  • 「トルコ」編 キャラバンサライとサズ

    コンヤから観光名所カッパドキアへ向かう途中にトルコで最も大きいキャラバンサライがありました。(写真上)スルタンハニキャラバンサライ(SULTANHANICARAVANSERAI写真中)と書かれていますがスルタン(イスラーム国の王様)が1229年に造ったキャラバンサライ(隊商宿)です。トルコでは現在40ほどが残っているそうです。キャラバンサライとはシルクロードなどを行動する隊商隊の宿のことを言います。なおこのキャラバンサライはモンゴルのチムールが攻めてきたときに城としても使われました。現在も世界各地で現役のホテルとして活躍しているキャラバンサライもあります。例えばわたくしはインドや中央アジアで宿泊したことがあります。隊商隊は3日間は無料だそうです。内部構造などは写真中の説明文(見にくいですが)ご覧ください。写真下...「トルコ」編キャラバンサライとサズ

  • 「トルコ」編 コンヤ3 朝の散歩

    写真上はコンヤで早朝の散歩をしていた時に出会った子供たちです。朝食のパンを売っていた青年?にも出会いました(写真中)。メルハバ(今日は)というトルコ語の挨拶をしてその後無言の会話?をしました。そこへ弟らしき中学生が現れました(写真下)。彼は弟にお茶を持ってくるように指示したようでした。香草が入ったお茶を勧めてくれました。大変おいしくいただきました。彼らも商売だろうと思い代金を支払おうとしましたが受け取りませんでした。海外旅行中に出会った忘れられない人物の一人です。トルコはクルド人を迫害し、アルメニア人の虐殺に対しても謝罪もしていません。しかし一人一人のトルコ人は非常に親切でした。しかも親日的でした。「トルコ」編コンヤ3朝の散歩

  • 「トルコ」編 コンヤ2 スーフィズム

    コンヤはイスラーム教のスーフィズム・イスラーム神秘主義の一つメヴィレヴィー教団(旋舞教団)の発祥地として有名です。創始者はジャッラールッディーン・ルーミー(?~1273)です。牧野信也氏によれば「スーフィーとは神秘家をさすアラビア語であるが、元来これは(スーフ)『荒い羊毛』をまとった者、すなわちはかない現世をのがれ、粗末な衣をまとって禁欲的な生活をするムスリムを意味しており、後に神秘家そのものをさすようになった」(「イスラームの根源をさぐる」p55)また「(日本の)踊る念仏を思わせるもので、理論、理屈や教義としての宗教ではなく、体で、そして全存在で受け止め、体験できるものであったので、忽ち、民衆の間に広まっていった」(p59)1927年アタチュルクによってこの教団は解散されましたが、ルーミーの廟は博物館になって...「トルコ」編コンヤ2スーフィズム

  • 「トルコ」編 コンヤ1 カラタイ博物館

    アンタルヤから北西のコンヤを訪れました。最初に訪れたのは1251年セルジューク朝に作られた神学校、現在は陶器博物になっているカラタイ博物館です。写真左は建物の内部から天井を見たものです。ちょっと変わった天井ですがターキッシュ・トライアングルと呼ばれるトルコ独特の建築様式だそうです。展示物を一つだけ紹介(写真右上)ムハンマドがタイルに描かれていますが、現地ガイドのハーカンさんに言わせると「お釈迦様」似ているとのこと。(彼の知日、親日からか?)皆さんはどう思われますか?ここにもたくさんの子供たちが遊びに(勉強に)来ていました。「トルコ」編コンヤ1カラタイ博物館

  • 「トルコ」編 アンタルヤ2

    アンタルヤから東へ39㎞にあるアスペンドス遺跡に向かいました。ここには小アジア最大で保存状態完ぺきに近い大劇場があります。(写真左上)水道橋もありました。昼食は洞窟のレストランでいただきました。(写真左中)観光客もたくさん来ていました。写真左下の子供たちが手にしているのは?「トルコ」編アンタルヤ2

  • 「トルコ」編 アンタルヤ1

    パムッカレから南西にある地中海沿岸で最も発展しているリゾート地アンタルヤに向かいました。写真上はアンタルヤのホテルから見た地中海です。写真中はアンタルヤ北東にあるローマ時代の都市ベルゲの遺跡です。この地は原始キリスト教の重要な拠点となったことで知られパウロがこの地で説教をしたことが聖書にも記載されています。(使徒言行録14-25)土産物店が準備されていました。(写真下)「トルコ」編アンタルヤ1

  • 「トルコ」編 パムッカレ2 「ギョズレメ」と「蜂蜜ヨーグルト」

    パムッカレで出会った食べ物を二つ紹介します。「ナン」のような薄いパンのギョズレメの製造工場?を訪れました(写真上)。おばさん(写真)の目がギョロメだから付いた名前ではありません。「燃え止しの上で焼く」と言う意味のトルコ語「közleme」に由来しています。中にチーズや野菜物など包んで食べる朝食やファーストフードのトルコでの定番の食べ物です。昼食にレストラン「アパメカ」でトルコ名産「はちみつヨーグルト」(写真中)をいただきました。水分をほとんど含まなく粘着力が強いのでウエイターが逆さにしても落ちてきません(写真下)「トルコ」編パムッカレ2「ギョズレメ」と「蜂蜜ヨーグルト」

  • 「トルコ」編 パムッカレ1

    アフロディシャスから少し内陸部に入ったパムッカレを訪れました。パムッカレとはトルコ語で「棉の城」という意味を持つようにこのような白い台地がありました。台地上部から流れ出た石灰成分が結晶したものだそうです。(写真上)この地にヘレニズムからビザンツ時代にかけての共同墓地群があります。1000を超す墓地があるそうです。(写真中)写真下はBC190年に始まった都市遺跡ヒエラポリスです。もちろん定番の円形劇場もあります。「トルコ」編パムッカレ1

  • 「トルコ」編 アフロディシャス

    エフェソスから少し東にあるアフロディシャスを訪れました。やはりエフェソスと同じ古代ギリシア、ローマ時代の遺跡群です。写真上は出土した石棺です。写真中はアフロディテ神殿です。写真下は1世紀〰2世紀にかけて建てられた競技場です。長さ262m、幅59mで3万人を収容できました。競走、レスリング、ボクシング、種々のコンテスト、後には動物の競技場としても使用されました。その他収容1万人の円形劇場もありました。わたくしはこのような古代ローマの定番の遺跡を見るたびに思います。これだけの人々を楽しませる施設を作った古代ローマの支配者と、神社、お寺を作って祈るだけの日本の支配者との違いを。中国も。やっぱり古代ローマ、ギリシアの文化はすごい。「トルコ」編アフロディシャス

  • 「トルコ」編 エフェソス5

    4回にわたって「エフェソス」を紹介してきましたが、その後、もう一度エフェソスに行く機会がありました。それは7年後(2007年)の「ギリシア周遊とエーゲ海クルーズ」というツアーでした。その時はトルコ領内にある「古代ギリシャ遺跡」訪問というわけでした。その時はエーゲ海を渡りエフェソス観光の玄関口クシャダス港(もちろんトルコ領)に降り立ちました。(写真)その時一番に目に触れたのが“WheninTurkey***DowhatmostTurkishpeopledo.”です。直訳すれば「トルコに来た時は、トルコ人がするようにしなさい」日本の諺で言えば「郷に入れば郷に従え」となるのでしょう。普通ならば”WelcometoTurkey”「トルコへようこそ」だと思うのですが。なぜちょっと失礼したような文言になっているのでしょうか...「トルコ」編エフェソス5

  • 「トルコ」編 エフェソス4

    写真上はAD135年、ユリウスがローマ帝国のアジア州の総督だった父ケルススに捧げるため造らせた図書館です。このような巨大な図書館を、どのような階層の人が?どれだけの人たちが利用していたのでしょう?写真中は演劇の上演や全市民参加の民会の会場にもなった市民にとって大切な大劇場です。2.4000人が収容できました。写真下は遺跡を観光する人たちです。「トルコ」編エフェソス4

  • 「トルコ」編 エフェソス 3

    公衆便所がありました。隣同士の会話は?(写真右上)娼婦宿が残されていましたが、当時修復中で見ることはできませんでした。しかし「足跡の道しるべ」(写真右下)がありました。足跡の方向が娼婦宿の方向を示しているのだそうです。娼婦宿跡から見つかった粘土像がここの博物館の日本語パンフレットに記載されていたので転載します。(写真左)「トルコ」編エフェソス3

  • 「トルコ」編 エフェソス2

    聖母マリアの死地については2説あるそうです。通説では「エルサレム」ですが、ここ「エフェソス」という説があるようです。(ここの歴史博物館の日本語パンフレット)というわけで晩年の住居跡がありました。(写真左上)写真右は読みにくいですが、そこに掲示されていた日本語の説明文です。なおこの地の有名人の一人にかの有名な古代ギリシア哲学者ヘラクレイトスがいます。pantarhei”(万物は流転する)で有名ですね。余談話ですが、わたくしの持病リューマチ(rheumatism)はこのrheiが語源です。痛みが流転するところから来ています。写真左下は市公民館跡です。列柱の上には常時聖火が灯されていました。聖火を守る要職に就くのは、選ばれた市民でした。写真左中では以前紹介したスルーガイドハーカンが説明をしていますね。「桂連アップルバ...「トルコ」編エフェソス2

  • 「トルコ」編 エフェソス1

    古代ギリシア→ヘレニズム→古代ローマにいたるエーゲ海最大の遺跡群エフェソスを訪れました。子供たちもたくさん遊び(勉強)に来ていました。(写真左上)最初に訪れたのは考古学博物館でした。写真左中は博物館の中庭です。何となく趣があったので。受付の女性二人が出迎えてくれました。(写真左下)日本語のパンフレットもありました。(後日紹介))展示物の紹介は一枚だけ。(写真右)古代ギリシア神話に登場するアルテミス女神です。「arnrinana」さん、「izukun」さん、「ビオラ」さん、「Haru」さん、激励のコメントありがとうございました。「トルコ」編エフェソス1

  • 「トルコ」編 ペルガモン

    再開します。トルコ観光は遺跡が多いのですが、現在のトルコ人とは直接には関係ないものが多いのです。というのはトルコ人がこの地にやってきたのは11世紀になってからです。最大の都市イスタンブールがトルコ領になったのは1453年のことです。したがってトルコの遺跡観光は古代ギリシア・ローマ、それ以前の遺跡がほとんどです。今回紹介するペルガモンもヘレニズム時代からローマ時代にかけて避けてペルガモン王国の遺跡です。写真左上はアクロポリスです。古代ギリシアと同じ名前ですね。写真左中は王宮です。古代ギリシア、ローマの円形劇場もありました。(写真省略)写真左下はギリシアの医療の神アスクレピオンを祀った古代医療センターの跡です。写真右はこの地で見かけたゲームで楽しんでいる人です。どんなゲームなんでしょうね。エンディングノート4日直腸...「トルコ」編ペルガモン

  • 「トルコ」編 トロイ遺跡とシュリーマン

    ダーダネルス海峡をわたって小アジアの最初の観光地は有名なトロイ遺跡でした。ホメロスの叙事詩で古代ギリシア人が10万人の軍隊でこの地に遠征した話は従来架空の伝説物語とされていました。それを実際の物語と幼小児時に信じてハインリッヒ・シュリーマン(1822~1890)がトロイ遺跡を発掘して史実と確定しました。写真右はホメロスの叙事詩で最も有名な「トロイの木馬」(あまりにも有名なので説明省略)です。写真左下は出土した水道管です。水道施設が整っていたのですね。シュリーマンについて通常知られていることは間違ってという説を2008年2月4日に紹介しているので一部修正再録します。トロイ発掘についてこの項の最初に述べたのはシュリーマンが幼少時にホメロスのイリアスに感動したのがきっかけと紹介しました。当時トロイの実在は疑問視されて...「トルコ」編トロイ遺跡とシュリーマン

  • 「トルコ」編 アヤソフィアとダーダネルス海峡

    最初の訪問地は人口1410万人のイスタンブールでした。トルコ最大の都市ですが首都ではなく人口442万人の小アジア(アナトリア)にあるアンカラです。蛇足ですがイスタンブールはヨーロッパにあります。トルコの面積の97%はアジアで3%がヨーロッパ側にあります。最初に観光したのはアヤソフィアでした。(写真上)ビザンチン帝国時代に作られたキリスト教の大聖堂でした。1453年ビザンチン帝国がオスマントルコに滅ぼされアヤソフィアはイスラームのモスクになりました。その時壁などに描かれていたキリスト関係のモザイク画などは土壁によって隠されました、その後第一次世界大戦でオスマン帝国が敗北してケマルパシャの政教分離的政策で壁の一部がはがされキリスト教関係のモザイクが露出し博物館となりました。その博物館アヤソフィアをわたくしたちは訪れ...「トルコ」編アヤソフィアとダーダネルス海峡

  • 「トルコ」編 現地ガイドのハーカンさん

    2000年10月2日〰16日「トルコ物語」というツアーに参加しました。わたくしの初海外旅行は1995年の「エジプト・ギリシア・トルコ」でトルコはわずか2日間でしたが、今回は15日間フルです。なおその時の失敗談は2020年1月12日に「恥ずかしくて、怖くて、不思議なはなし」として紹介しています。(以下2006年2月27日の再録。一部修正追加)今回の15日間のトルコを通じての現地ガイドはハーカンさんでした。写真左上はエフェソスの遺跡で説明しているハーカンさんです。写真左下はハーカンさんの名刺です。「波歓」の印鑑はカッコいいですね。彼はイスラーム教の信者ではなくトルコでは珍しい存在だと自分で説明していました。なかなかのナショナリストでビザンチン帝国を1453年滅ぼしたオスマン帝国の征服王メフメトⅡ世(在位1951年~...「トルコ」編現地ガイドのハーカンさん

  • 「ラオス」編 御利益

    ルアンプラバンで御利益のあるというお寺に参詣しました。皆さん拝んでいますね。(写真上中)わたくしは御利益のあるというひもを手に巻き付けてもらいました。(写真下)真剣な顔をしていますね。御利益があったかな?今回で「ラオス」編を終了します。「ラオス」編御利益

  • 「ラオス」編 焼きバナナ売りの少女

    ルアンプラバンの街をぶらぶらしました(写真上中)。ちょっと郊外に出て人通りのあまりない道を歩いているとこのような(写真下)少女に出会いました。何だろうと傍に立ち寄ってみると七輪でバナナを焼いていました。どうやらこのバナナは商品のようでした。そこで試しに一本買い求め食べてみると大変美味しい。あとに残った数本のバナナをすべて買い取りました。今考えてみると、街中で商売をする権利がないので人通りの少ないとこらで小遣い稼ぎをしていたようです。わたくしではこの時初めてバナナにはそのまま食べるのと、調理用のバナナとがあることを知りました。そうですこのバナナは生では食べない種類です。その後マダガスカルではラム酒と砂糖付けの焼きバナナを食べたことがあります。(2013年2月8日紹介)フィリピンでも調理したバナナをいただきました。...「ラオス」編焼きバナナ売りの少女

  • 「ラオス」編 タイのアイドル候補

    (2006年3月27日の修正追加の再録)ルアンプラバンで街が見渡せるというプーシの丘(仙人の丘という意味)に登りました。(写真上はプーシの丘から眺めたルアンプラバンの町)観光客がたくさん来ていました。そこでタイから来ていた二人の少女と仲良くなりました。二人の中年の男性も一緒でした。宿泊のホテルも同じでした。夕食後彼女たちはディスコに行くというのでついて行きました。(日本ではディスコに行ったことはない)驚いたことにディスコに入るとすぐに舞台に上がり歌いだしました。疲れていたので彼女たちの活躍を最後まで見届けないまま、テーブルに10ドルを置いてホテルに帰りました。翌朝朝食に出かけると彼女たちもいました。一緒にいた初老の男性が待ちかねたようにやってきて昨日の10ドルのお釣りだといってお金を渡そうとしたのでいらないとい...「ラオス」編タイのアイドル候補

  • 「ラオス」編 バーンパノン村 エンディングノート

    織物で有名なバーンパノン村を訪れました。写真上は工場の建物です。エンディングノート結局悩んだ末、うすきクリニックの医師の勧めに従い手術をお願いすることにしました。体の他の部分のがん検査はなしということで。明日13日に宇宿クリニックで手術に至るスケジュールの提示がある予定。今村病院の手術担当医師は宇宿クリニックの医師の後輩ということから問題が解決したのか?余談話―最初に手術の断念を決断した直後のわたくしの行動は?フランケンワイン白トロッケン(このブログにもたびたび登場)10本の購入でした。「ラオス」編バーンパノン村エンディングノート

  • 「ラオス」編 パークウー洞窟 エンディングノート

    サーンハイ村から再びボートで30分行ったところにパークウー洞窟がありました。15世紀以降ラオスでの内戦時に王の隠れ場となり、仏像が持ち込まれ寺院となりました。盗まれた仏像もたくさんありますが、現在4000体ほど残っているそうです。エンディングノート7日、うすきクリニックの紹介で今村総合病院に行きました。このままでは余命半年と宣告されました。いろいろな検査の結果体力的には可能との判断で成功率は80%とのことでした。そこで手術をお願いしようと思いました。ところが手術の前提に体の他の部分にがんがないかどうかの検査を他の病院に行って調べる必要がありその結果によって手術可能性について判断をするとのことでした。わたくしは今までの数多くの検査に辟易していたので他の病院で検査を断りました。そこでそれでは手術はできませんとの医師...「ラオス」編パークウー洞窟エンディングノート

  • 「ラオス」編 サーンハイ村3

    焼酎の原料のもち米はメコン川で洗い麹を入れ発酵させます。(写真上)最後はこのようにドラム缶に入れて蒸留します。(写真中)試飲をさせてもらっておいしかったので使用済みのブランディの瓶に入ったのを1ドルで購入しました。ところが日本に持ち帰り飲んだところガソリン臭くて飲めません。どうやらこの瓶は以前ガソリンを入れていて、その洗浄が不十分だったようです。その後、このときの同行者に別の旅行で出会い尋ねたところ異常なくおいしかったという話でした。悔しい!(写真下)織物の村でもあります。エンディングノート先日直腸がん(ステージ2〰3)が判明。7日治療法決定予定。ブログのネタ切れと寿命のネタ切れはどちらが早いかな。どうやら寿命のネタ切れの方が早くなったようです。天涯孤独のわたくしには病院関係者から「保障人?」「身内の人?」と詰...「ラオス」編サーンハイ村3

  • 「ラオス」編 サーンハイ村2

    (写真上)8月13日にも紹介した日本を含む東南アジアでよく見かける信仰ですね。ヨーロッパやイスラーム圏では絶対見られません。ただし例外もあります。2010年11月9日に紹介しています。ガイドブックなどにも紹介されていないきわめて希少なものです。ぜひご覧ください。(左欄の年表)(写真中)竹で竹籠を編んでいます。この竹籠も以前の農村では普通に見られましたが、今は。(写真下)美人のお母さんと赤ちゃんに出会いました。暖かいところですが、赤ちゃんの手袋、ソックスに母親の愛情を感じました。20年以上たった今も忘れることのできない1枚です「ラオス」編サーンハイ村2

  • 「ラオス」編 サーンハイ村1

    ルアンプラバンからメコン河を1時間ほど小型ボート(写真上)で遡ったところの焼酎作りで有名なサーンハイ村を訪ねました。村に到着すると子供たちが歓迎してくれました。(写真中)高床式の家屋がありました。(写真下)「ラオス」編サーンハイ村1

  • 「ラオス」編 ルアンプラバン4 托鉢・お櫃(オヒツ)

    ルアンプラバンの早朝、托鉢の行列に出会いました。(写真上)写真下は托鉢への布施のご飯の入った「お櫃」です。「お櫃」!懐かしいですね。電気炊飯器以前の家庭必需品でしたね。70歳代の女性にこの写真を見てもらいました。最初首をかしげていましたが、「オヒツ」といったところ思い出して「ご飯を***」でした。余談話「お櫃」は日本では全く過去の物と思っていましたが、ネットで4万2000円の品物が売りに出されていました。若い人への注。1、「托鉢」=仏教やジャイナ教を含む古代インド宗教の出家者の修行形態の1つで、信者の家々を巡り、生活に必要な最低限の食糧などを乞う。注2,「お櫃」=おかまで炊いたご飯を保管する入れ物。写真中はお布施をする人たちですが、真ん中の人物に「元皇太子妃?」と当時のメモに書いてありました。ラオスは1974年...「ラオス」編ルアンプラバン4托鉢・お櫃(オヒツ)

  • 「ラオス」編 ルアンプラバン3 メコンの黄昏

    ルアンプラバンの夕方メコン河の夕陽を見に出会かけました。その時はすでにカメラは故障していて同行者からインスタントカメラを譲っていただき、そのカメラでメコンの黄昏を撮影しました。その写真が旅行会社の宣伝用パンフレットに採用されまして1万円の旅行券をいただきました。(山田百三郎様撮影)とありますね。「ラオス」編ルアンプラバン3メコンの黄昏

  • 「ラオス」編 ルアンプラバン2 ワット・シエントーン

    ラオスで一番美しい寺院、1560年に建てられたワット・シエントーンを訪れました。内部は金箔で覆われていました。写真右上は「マイ・トーン(黄金の木)」と呼ばれています。「ラオス」編ルアンプラバン2ワット・シエントーン

  • 「ラオス」編 ルアンプラバン1

    ビエンチャンから1975年ラオス人民民主共和国が成立するまでラオス王国の王都であったメコン川400㎞上流にあるルアンプラバンまで飛行機で向かいました(写真上)。写真中下はルアンプラバンの街頭風景です。写真下の商品はサトウキビですよね。「ラオス」編ルアンプラバン1

  • 「ラオス」編 ビエンチャン4 修行僧

    ビエンチャンの町をぶらぶらしていると、たくさんのお寺に出会います。ラオスの人口の9割が仏教徒です。それも熱心な。失礼して一軒のお寺にお邪魔しました。そこで修行中の少年僧侶に出会いました。片言の英語で雑談しました。何を話したかは忘れましたが、仲良くなりました。「ラオス」編ビエンチャン4修行僧

  • 「ラオス」編 ビエンチャン3 メコン河畔

    メコン河畔をぶらぶらしました。写真上の籠は魚捕獲器だと思うのですが。子供の時(岡山)確か「モジ」と呼んでいたように思うのですが、共通語ではないようです。写真中は日本を含む東南アジアでよくみられる自然崇拝ですね。キリスト教圏、イスラーム教圏では絶対に見られません。ただし日本でも現在はあまり見かけなくなっています。河畔にある喫茶店?でちょっと休憩。この女性は何をしているのかな(写真下)「ラオス」編ビエンチャン3メコン河畔

  • 「ラオス」編 ビエンチャン2 街角風景

    ビエンチャンでは半日自由時間がありました。街をぶらぶらしました。帽子がいいですね。(写真上)子供たちも楽しんでいました。(写真中)どのようなゲームなんでしょうね。(写真下)「ラオス」編ビエンチャン2街角風景

  • 「ラオス」編 ビエンチャン1

    プノンペンから飛行機でラオスの首都ビエンチャンに向かいました。写真上は1962年から内戦の終結を記念して建設された凱旋門(アヌサーワリー・パトウーサイ)から見たビエンチャンの風景です。なぜかアヌサーワリー・パトウーサイそのものの写真がありません。写真中はラオスを代表する仏塔タート・ルアンです。ラオスのシンボル的仏塔で国章にも描かれています。創建は1504年、再建は1922年です。写真下は遊び(勉強)に来ていた現地の若い女性たちとわたくしです。「ラオス」編ビエンチャン1

  • 「カンボジア」編 アンコール遺跡2

    アンコールでの夕食は民族舞踊の鑑賞でした。(写真上)アンコールには世界各国からの観光客が来ていました。写真中はタイから来ていた若者たちです。東南アジアではバイクタクシーが目立ちますがここアンコールでも大活躍していました。バイクタクシーの運転手さんのたまり場です。(写真下)「カンボジア」編アンコール遺跡2

  • 「カンボジア」編 アンコール遺跡1

    アンコール遺跡は9世紀〰15世紀に作られた寺院、僧院、貯水池、橋梁などの1080か所の遺跡群です。なお寺院は当初ヒンドゥー教寺院として建設されましたが16世紀後半に仏教寺院に改修されました。この世界的に有名な遺跡群の保存修理に日本は中心的な役割を果たしています。(写真左下)その中心的な人物は元上智大学学長石澤良昭さんです以前NHK教育テレビでポル・ポト政権以前から現在に至る44年間の石澤さんとこの遺跡の保存、修復についての番組が放映されました。(1時間30分?)その中で感動的だったのは「現地の人たちの美意識によって保存、修復」という言葉でした。以下、「アンコールと生きる」という写真展に後援者としての石澤さんの言葉がインターネット上に公開されているのでつまみ食い的に紹介しておきます。全文は「後援者の声:石澤良昭上...「カンボジア」編アンコール遺跡1

  • 「カンボジア」編 メコン河の漁民、独立記念塔

    プノンペンの早朝メコン河畔を散歩しました。早朝から漁民たち漁をしていました。写真左下はメコン河上にある漁民の家屋です。写真左中にも見えますね。写真右は1953年11月9日にフランスからの独立を記念して1958年に建造された独立記念塔です。「カンボジア」編メコン河の漁民、独立記念塔

  • 「カンボジア」編 トゥースレン虐殺犯罪記念館 付エンディングノート

    カンボジアのプノンペンではポル・ポト政権が作ったトゥースレン虐殺犯罪記念館(元刑務所)を訪れました。そこでの写真です。ここに約2万人が収容され6人だけが生還しました。虐殺された人の写真です(写真上中)写真下は何だと思いますか。虐殺された人たちの頭蓋骨で形作られたカンボジアの地図です。あまりにも残酷なので2004年に撤去されました。1975年に成立したポル・ポト政権は1979年までの4年間に200万~300万人(国民の約三分の一)の自国民を虐殺しました。特にインテリ層が対象になりました。メガネをかけているだけでインテリとみなされ処刑されました。いままでナチスのユダヤ人虐殺、トルコによるアルメニア人虐殺を紹介してきましたが、カンボジアでは自国民虐殺です。アフリカのルアンダ、ダンフールの虐殺も他民族です。その点カンボ...「カンボジア」編トゥースレン虐殺犯罪記念館付エンディングノート

  • 「カンボジア」編 プノンペン

    ホーチミンから空路でカンボジアの首都、プノンペンに到着しました。当日のドリアン事件につては前回紹介しました。ホーチミンに比べて街頭風景は少し閑散としていますね。(写真上)きょろきょろとしていると祠のようなに出会いました(写真中)漢字表記ですね。写真下は当時まだ存命中であったシアヌーク殿下の王宮です。「カンボジア」編プノンペン

  • 「カンボジア」編 ドリアン事件

    2010年8月8日の修正、再録、強烈な悪臭でしかし美味で有名なドリアンには子供の時からの思い入れがありました。当時日本は太平洋戦争真っただ中で時流に乗った南方冒険物語の児童書に胸をとどろかして読んでいました。南田洋一郎という著者がいまだに記憶にあります。お話の内容を今はすっかり忘れていますが、南方にはドリアンという果物の王様があるということだけは今日至るまで覚えています。その憧れのドリアンに出会ったのは2001年カンボジア旅行の時でした。プノンペンの市場でドリアンを見つけ買い求めていてグループから逸れ添乗員からひどく叱られました。3ドルでした。この国の物価水準からいってかなり高価だったように思います。昼食時にみんなと一緒に食べようとしたところまたも添乗員の「なんていうことを」と、しかられました。そこでやむなく宿...「カンボジア」編ドリアン事件

  • 「ヴェトナム」編 フエ 宮廷料理

    ハノイからダナン→ホイアン→フエ→再びホーチミンとヴェトナムを南下しましたが、その間カメラ故障のため写真が1枚もありません。しかし同行の方からフエでの宮廷料理の写真を送っていただきました。フエはヴェトナム最後の王朝があったところでその面影が色濃く残っている古都です。そこでの夕食は民族音楽と王朝貴族の服装、宮廷料理を楽しみました。下の写真は王と王妃?残念ながら料理の写真はありませんでした。次回からは「カンボジア」「ヴェトナム」編フエ宮廷料理

  • 「ヴェトナム」編 ハノイ4 水中人形劇

    ハノイ最後の夜は「水中人形劇」で楽しみました。「ベトナムに来たらコレを見ないと始まらない!」は「地球の歩き方ベトナム」(p87)の紹介フレーズです。「この水上人形劇は千年もの昔から伝わるもので、もともとは農民たちが、収穫の祭りの時などに屋外の水辺を使って演じていた。11~15cの頃には宮廷にまで広がった」(「地球の歩きベトナム」p87)「ヴェトナム」編ハノイ4水中人形劇

  • 「ヴェトナム」編ハノイ3

    「写真上」はハノイ郊外の農村風景です。わたくしの子供時代の農村風景と全く同じです。郷愁にかられました。でも寒かったですね。「ルチエム」という冷害に強い品種によって年に2、3回の収穫が可能になったそうです。陶器の村を訪ねました。(写真中)左に見えるのは、燃料用の牛糞ですね。(写真下)孔子を祀るために1070年に建立された廟を訪れました。1076年にはヴェトナム最古の大学が開設されました。壁には漢字が書かれていて我々日本人には少し理解できるがヴェトナム人にはさっぱり。ヴェトナムと中国とは古くから関係があるのですがその関係には古くから今に至るまで微妙であったようですね。「ヴェトナム」編ハノイ3

  • 「ヴェトナム」編 ハノイ2 ハロン湾クルーズ

    ハロン湾クルージングを楽しみました。1500㎞2の湾内に3000以上の奇岩、島々があります。島々の成りたちにはいくつかの伝説があるようですが、ここでは添乗員のメモにあるものを紹介します。「昔々、侵略者がこのあたりのヴェトナム人を攻めた。山の上に住んでいた竜はとても怒り、尾で山を割り、足跡は谷となった。海まで竜は逃げる侵略者を追いかけたので、陸に海水が流れ込み、谷は滝となり残った山は島となった」ちょっと見にくいですがこのような鍾乳洞(写真左下)は59あるそうです。昼食は船上でエビ、カニのシーフードをいただきました(写真右)「ヴェトナム」編ハノイ2ハロン湾クルーズ

  • 「ヴェトナム」編 ハノイ1 寒い 

    ホーチミン市からカンボジア、ラオス(後日紹介)を通りベトナム北部首都ハノイに入りました。ハノイは寒かったです。孫の厚着を幸せそうに微笑んで眺めているおじいちゃんと孫がいました。(写真上)いい写真でしょ。(自画自賛)ハノイの1月の最低気温は平均13度ですが、この年(2000年)はかなり寒かったようです。少し北部では雪が降ったそうです。この時期のハノイ旅行者は対策を考えておくことをお勧めします。ハノイでの最初の観光地はヴェトナム独立の父ホーチミン((1890~1969)の廟(写真中)でした。カメラ、ビデオは勿論イヤホンを持ち込むのも禁止、私語もダメという厳重な警備でした。次の観光は「一柱寺」(写真下)でした。池の上に柱を一本立ててつられています。1049年当時の王が悲母観音の夢を見て子宝を授かったことから感謝を込め...「ヴェトナム」編ハノイ1寒い

  • 「ヴェトナム」編 クチ

    ホーチミンから北西に70㎞のクチを訪れました。クチの地下には延長250㎞ものトンネルが網の目のように張り巡らされています。これについて伊藤千尋は「観光コースでないベトナム」で「ホー・チン・ミンはベトナム戦争初期に『今はバッタと象の戦いでも、あすは象がはらわたをえぐりだされるだろう』と語った。しかし、兵士たちはバッタどころかアリのような暮らしをするようになった。****米軍のひざもとで戦った南ベトナムの解放軍兵士はアメリカという巨象を相手として戦いの中で、まさにアリになった」(p188)と紹介しています。そうですこの地下トンネルはアリになった南ベトナム解放軍の基地だったのです。トンネルは非常に狭く、たくさんの外国人もいましたが、彼らは中に入ろうとしません。我々日本人だけか中に入りました。太ったフランス人女性に半分...「ヴェトナム」編クチ

  • 「ヴェトナム」編 ホーチミン2 カオダイ教

    ホーチミン郊外にあるちょっと変わった新興宗教カオダイ教寺院を訪れました。仏教、道教、儒教ヒンドゥー教、キリスト教、イスラーム教とありとあらゆる宗教まぜこぜにした宗教で1926年にゴ・ミン・チューが始めました。その中心地タイニン省では住民の大半が信者で独立の軍隊を持ったことがあります。したがって政治的にもなかなか複雑の動きをしたようです。現在も200万人(100万〰300万)の信者がいるといわれています。写真下は12時から行われていた礼拝の儀式です。カオダイ教の信者のディ・ヴァン・デーが「アジア読本ヴェトナム」で記述している「カオダイ教世道と天道をめざして」(p231~235)が日本語で紹介されている中ではたぶん一番教義につての解説が詳しいと思います。「ヴェトナム」編ホーチミン2カオダイ教

  • 「ヴェトナム」編 ホーチミン1 街角風景

    2000年1月19日〰2月4日「インドシナ物語」というツアーに参加しました。旅程はヴェトナム(ホーチミン)→カンボジア→ラオス→ヴェトナム(ハノイ→ホーチミン)でした。後半のヴェトナムはカメラ故障のため残念ながら紹介できません。後半のヴェトナムはハノイだけです。写真上はハノイの早朝散歩の街角風景です。わたくしの後日のメモには「予想以上のバイクとその警笛のやかましさ」とあります。余談話ですが、「アジア読本ヴェトナム」(1995年)という本に「なぜバイクが買えるのか」(p88~96)という一節があります。騒音の中リヤカーを引いたわたくしの好きなココナツミルク屋さんがいたのでいっぱいいただきました。(写真中)幸せそうな家族にも出会いました。(写真下)「ヴェトナム」編ホーチミン1街角風景

  • 「ブルガリア」編 ヴァルナ

    黒海沿岸にあるブルガリア第3の都市ヴァルナがブルガリア最後の訪問地でした。ちょっと黒海の雰囲気を味わいました。(写真右下)写真左は露土戦争によりブルガリアが独立したことを記念にサンクトペテルブルクにある大聖堂を模して建立された聖母マリア大聖堂です。写真右上はローマ帝国時代の浴場跡です。この後ルーマニアに向かいましたが、すでに紹介済みです。温かいルーマニア人を紹介しています。もう一度行きたい国の一つです。次回からは?書き落としをしていましたが、ブルガリアのヴェリコ・タルノヴォは大相撲の琴欧州の故郷です。「ブルガリア」編ヴァルナ

  • 「ブルガリア」編 マダラ

    シューメンから東18㎞のところに先史時代(7000年前)から人類が生活していた洞窟があります。(写真上)その切り立った断崖に騎士像のレリーフ刻まれています。(写真中)が当時工事中で見えませんですね。8世紀第一ブルガリア帝国2代目国王「テルヴェル・ハーン」の騎馬像という説が有力だそうです。傍でこのようなおじさんが(写真下)花束を売っていました。捧げものですね。マダラは古代ブルガリア語で“神聖な岩石、神聖な場所”を意味するという説があります。「ブルガリア」編マダラ

  • 「ブルガリア」編 シューメン

    シューメンではオスマントルコ時代1744年建立されたトンブル・モスク(写真左)を訪れました。「トンブル」は「太った」という意味だそうです。そういえば何となくふっくらとしていますね。トルコを除くバルカン半島で2番目に大きいそうです。社会主義時代は閉鎖されていましたが、現在は礼拝堂として機能しています。イマームのムスタファ・チャカ(83歳)の案内がありました。シューメンホテル(4つ星)で宿泊して翌日早朝散歩しているとし幸せそうな家族に出会いました。(写真右下)土産屋さんにも出会いました。(写真右上)「ブルガリア」編シューメン

  • 「ブルガリア」編 アルバナシ村

    ヴェリコ・タルノヴォから4kmにあるアルバナシ村訪れました。古くからの屋敷が80件余りありそのうち36が国の文化財に指定されています。1階が石、2階が木の壁という特徴があります。(写真左上)16世紀オスマントルコ時代建設の生誕教会を訪れました。一見民家のようですが(写真下)中に入るとこのような(写真右)のような豪華なフレスコで飾られていました。「ブルガリア」編アルバナシ村

  • 「ブルガリア」編 ヴェリコ・タルノヴォ 

    ヴェリコ・タルノヴォは1186年〰1394年まで第2次ブルガリア帝国の首都として栄えた古都です。その後オスマントルコに滅ばされます。写真左2枚はかって栄えた第2次ブルガリア帝国時代の王宮があったツァレヴェッツの丘です。写真下は第2次ブルガリア帝国時代の王4人(写真は2人)のを記念して1965年に建立された像です。写真右は市街地をぶらぶらしていた時に出会った土産物さんです。「ブルガリア」編ヴェリコ・タルノヴォ

  • 「ブルガリア」編 プロヴディフ2

    1847年〰56年に建てられたタバコ商人の館が1958年に民族博物館になりました。(写真左上)写真左中は1944年防空壕を掘っていた時偶然発見された紀元4世紀ごろのトラキア人の遺物です。ただしこれはレプリカです。トラキア人は古典ギリシア、古代ローマ時代、奴隷の供給元とされてきました。しかし前回紹介した現地の観光パンフレットはTheThraciantribeswoulddieratherthanbeslavesanditislittlewonderthatthelegendarySpartacus,theleaderofoneofthebiggestuprisingsofslavesinAntiquitywasaThracian.(p26)(トラキア人は奴隷になるくらいならばむしろ死を選びました。古代最大の奴隷反...「ブルガリア」編プロヴディフ2

  • 「ブルガリア」編 プロヴディフ1

    ソフィアから125km南東、6000年の歴史を持つ世界最古の町人口38万人のプロヴディフ訪れました。現地のかなり大部な観光パンフレット(160p)の表紙には”NotseeingPlovdivisnotseeingBulgaria”「プロヴディフを見ずしてブルガリアを見たことにならない」と書かれていました。写真上は現地の絵はがきです。写真中はローマ帝国時代紀元2世紀の建設のローマ劇場跡です。現在も現役で毎年夏オペラなどの野外劇場が開かれます。街でぶらぶらしているとおじさんがこのような楽器で楽しんでいました。(写真下)何という楽器なんでしょうね。ご存じの方がいらっしゃれば教えてください。「ブルガリア」編プロヴディフ1

  • 「ブルガリア」編 リラの僧院

    ソフィアから南へ120㎞の標高1100mにあるリラの僧院を訪れました。ブルガリアの僧イヴァン・リルスキー(876~946)がここで隠遁生活をはじめ彼を慕う僧たちが修道院を建てました。その後14世紀に大地震に会いましたがその後再建され今日に至りブルガリア正教や文化の中心として現在に至っています。1983年には世界文化遺産に登録されています。往年には250人〰300人の修道僧がいましたが、現在(1999年)9人だそうです。写真上は入り口で写真中は入り口から入ったところです。子供たちが遊び(勉強)に来ていました。「ブルガリア」編リラの僧院

  • 「ブルガリア編] ソフィア2

    写真右上は旧共産党本部です。こんなところが観光スポットになっているのが面白いですね。写真左は聖ニコラス・ロシア教会です。カトリックの場合世界中のカトリックをヴァチカンが一元管理していますが、ロシアやブルガリアなどの東方正教会は同じ宗派でありながら国ごとに独立した自治を持ちます。ロシア正教会のアイデンティを守ろうと、1913年ロシアの外交官、セモントフスキ・クリロの命により建設されました。大使館員と少数のロシア人のため。現在信者はごく少数のようです。2010年のモンテネグロ旅行の時の現地ガイドマリアさんの話を参考のため紹介しておきます。ガイドブックにモンテネグロ人の70%がセルビア正教徒であると書かれています。そこで彼女にセルビア正教徒であるかを尋ねました。イエスと答えて注釈が入りました。モンテネグロは2006年...「ブルガリア編]ソフィア2

  • 「ブルガリア」編 ソフィア1

    モスクワ経由でブルガリアの首都ソフィアが最初の観光地でした。写真上は「聖ペトカ半地下教会」です。オスマントルコ(イスラーム教国)時代の14世紀建設の教会です。以前は屋根だけが見えていたのが今は少し姿を現し周りには土産物屋さんなどがあります。なぜ半地下なのか、イスラーム時代なのでモスクより高い教会を作ることができなかったという説もあるようですが、よくわかりません。中には入りませんでしたが、内部装飾は素晴らしいそうです。写真中は4世紀ローマ帝国時代建設の「聖ゲオルゲ教会」です。ちょっと注を入れておきます。現在のブルガリアの宗教は、キリスト正教会の一員であるブルガリア正教会が82,6%、イスラーム教が12,2%、その他です。写真下は国会議事堂です。「ブルガリア」編ソフィア1

  • 「ブルガリア」編 現地スルーガイドのテオドラさん

    1999年9月28日〰10月12日「ルーマニア、ブルガリア物語」というツアーに参加しました。その時のルーマニアについてはすでに紹介済みなので今回は未紹介のブルガリアの紹介です。ただブルガリアのスルーガイドのテオドラさんについては紹介済みですが、今回一部省略して再録します。それから未紹介部分を始めます。ブルガリアを通じての現地ガイドは24歳の美人のテオドラさんでした。(写真)元駐日大使の娘さんでブルガリア語(当たり前)、英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、ギリシア語がペラペラで日本語も少し分かる才女でした。(なお旧社会主義国では現地ガイドが大学教授のアルバイトであったことがよくありました)テオドラという彼女の名前を聞いて私は「ローマ法大全」で有名なビザンツ帝国の皇帝ユスチアヌス大帝(在位526~565年)の后テ...「ブルガリア」編現地スルーガイドのテオドラさん

  • 「ロマンチック・ドイツ」編 ミュンヘン

    今回の旅行の最終地はミュンヘンでした。今回の旅行でずっと気になっていたことの一つに写真左中のようなヨーロッパで珍しい物貰いの人たちでした。特にミュンヘンで多かったような気がします。”IchhabeHunger”(わたくしは飢餓状態です)と書いた札を掲げていました。教会の前が多かったようです。どうやらトルコ人のようでした。1998年ことですが今は?街をぶらぶらしているとこのような日本語での案内の店がありました(写真左下)写真左上は1972年のオリンピック競技場です。写真右下の中ほどの建物はBMW本社です。写真右上はミュンヘン郊外にある1869年から17年にかけて建てられたノイシュヴァインシュタイン城です。今回で「ロマンチック・ドイツ」編を終了します。次回からは?「ロマンチック・ドイツ」編ミュンヘン

  • 「ロマンチック・ドイツ」編 ロマンチック街道4 アウグスブルグ フッゲライ

    わたくしたちのロマンチック街道の旅はアウグスブルグが終着点でした。この地での観光はなぜか「フッゲライ」だけが記憶に鮮明であとは忘却(1998年のことですから)(以下2008年9月15日の修正再録)このフッゲライは通常たいていのパックツアーでは観光コースに入っていません。このときも予定には入っていませんでしたが、私がしつこくバスの運転手を巻き込んで頼み込み、行くことができました。通常はこのような変更を旅行業者はしません。しかしアウグスブルクを観光される方には必見のところです。そのフッゲライというのはドイツ後期中世の大富豪フッガー家(注)が貧民救済のため1517年~1525年に建てた「世界最初の社会福祉集合住宅」です。現在も入居者は年に日本円にして約100円というウソのような家賃で55歳以上のアウグスブルク市民で既...「ロマンチック・ドイツ」編ロマンチック街道4アウグスブルグフッゲライ

  • 「ロマンチック・ドイツ」編 ロマンチック街道3 ディンケルスビュール

    ディンケルスビュールも中世の面影を強く残す城壁と濠に囲まれた町でした。写真右上は城門です。ここから入ります。写真左は15世紀創建の聖ゲオルグ教会です。この塔に上りみた市街地風景が写真右中です。濠にも囲まれているディンケルスビュールです。(写真右下)「ロマンチック・ドイツ」編ロマンチック街道3ディンケルスビュール

  • 「ロマンチック・ドイツ」編 ロマンチック街道2 ローテンブルク

    ロマンチック街道次の訪問地はローテンブルクでした。観光はフリーでした。街をぶらぶらしました。「全ドイツを通じて、これほど中世都市の姿の姿を今日再現できた町はない」(ブルーガイド・ワールドドイツP15)と記述されてように町は中世的雰囲気を漂わせていました。(写真下)街頭でリンゴジュースを売っていました。ノンアルコールで濃厚ビタミンと書かれていますね。いただきました。美味しかったです。(写真下右)「中世犯罪博物館」を訪れました。しかしなぜかアルバムに写真が一枚もありません。というわけで、ここでいただいたリーフレット日本語版の一部を紹介します。(写真上)左は責め道具です。「1」木のカラー;服装規定違反女性のため「2」辱め用のマスク;おしゃべりの過ぎる女性用「3」大きなロザリオ;不熱心な信徒用「4」辱めのマスク;長い鼻...「ロマンチック・ドイツ」編ロマンチック街道2ローテンブルク

  • 「ロマンチック・ドイツ」編 ロマンチック街道1 ヴュルツブルク

    ヴェルツブルグ〰フッセンまでの350㎞の道がロマンチック街道と呼ばれています。わたくしたちの旅は途中のアウグスブルグまでで東のミュンヘンに向かいました。写真左の地図をご覧ください。(ルフトハンザ航空案内パンフレット日本語版から)まずはこの街道の出発地ヴェルツブルグから。写真右上は12世紀から18世紀まで大司教の居城マリーエンブルク要塞です。現在ブドウ畑に囲われた博物館になっています。わたくしが購入したフランケンワインはこの畑のブドウかな?中世ヨーロッパ特にドイツではカトリックの大司教と世俗の領主を兼ねているところがありました。18世紀になりこの世俗の領主と大司教を兼ねた領主は町の中心に移りました。レジデンツ(宮殿)と呼ばれています。写真右中はその内部です。ここの天井フレスコ画は世界最大だそうです。写真右下はこの...「ロマンチック・ドイツ」編ロマンチック街道1ヴュルツブルク

  • 「ロマンチック・ドイツ」編 バンベルク

    バンベルクでの一番忘れられないものは、燻製ビールとフランケンワインです。自由時間に一人で出かけて燻製ビールの操業1678年の醸造元の酒場でいただきました。写真右上はその時のコップのコースタ―です。フランクトゥールというドイツ文字で読みにくいですが、操業1678年とRAUCHBIER(英語でsmokybier、燻製ビール)とありますね。その由来などについては2021年2月3日に紹介しているのでご覧ください。フランケンワインはこの町のメッサーシュミット(ヒットラー時代の戦闘機の名前―わたくしの軍国少年時代の懐かしい名前)という店で比較的安い値段で自分用の土産として3本購入。わたくしは安いワインしか飲んだことがないのですが、少なくとも今までのわたくしの経験で一番美味しかったワインです。フランケンワインの白のtrock...「ロマンチック・ドイツ」編バンベルク

  • 「ロマンチック・ドイツ」編 ドレスデン2

    ドレスデンはエルベ河水路を利用した商業都市として発展しました。エルベ河峡谷観光に出かけました。(写真左上)100mの高さの断崖絶壁の「ザクセン・スイス」と呼ばれる絶景です。(写真左下、右上)写真右下はその断崖絶壁から見たドレスデンです・「ロマンチック・ドイツ」編ドレスデン2

  • 「ロマンチック・ドイツ」編 ドレスデン

    ドレスデンは1945年英米空軍の猛爆によって灰燼と帰しました。その後社会主義体制の下での復興は遅々として進まず、わたくしが訪れた時も盛んに修復工事が行われていました。その中で最も早く復旧した一つがツヴィンガー城でした。(写真上)ツヴィンガー城は1709年〰28年かけて建てられたバロック様式に宮殿でドレスデンの象徴的存在です。写真下はマイセン陶器の陶板2万5000からなる長さ100m以上の大壁画です。ザクセン王の行列描いたものです。圧巻です。「ロマンチック・ドイツ」編ドレスデン

  • 「ロマンチック・ドイツ」編 マイセン

    日本の伊万里焼の影響もあると言われて世界的に有名な磁器の町マイセンを訪れました。工場を訪れて最初に見たのが写真上です。窓に書かれているマイセンの商標です。マイセン磁器に剣のマークが入るようになったのは1720年後ごろからだそうです。マイセンは旧東ドイツの領域でした。わたくしの訪問は1998年で、統合は1990年なので土地名などが新旧混在していました。写真下の向こうにかすかに見える橋はデミトロフ橋でした。デミトロフ(1882~1949)はブルガリア共産党員として活躍、ベルリン国会議事堂放火事件で逮捕、その後コミンテルン書記長になった人物です。旧東ドイツ時代にその名を記念してつけられた橋でした。その橋を見ようと思いホテルのフロントに尋ねましたがわかりません。このフロントは非常に親切な方で各方面に電話をしてくれてその...「ロマンチック・ドイツ」編マイセン

  • 「臨時特別」編 鹿児島の歴史教育

    わたくしの生まれは岡山県で45年ほど前に何の縁も所縁もない鹿児島に移住してきました。せっかく鹿児島に来たのだからと、少しばかり鹿児島の歴史を勉強しました。面白い歴史にたくさん出会いました。その中の一つに、江戸時代薩摩藩では浄土真宗がキリスト教と同じく禁教だったということでした。ところが現在は県民の80%ぐらいが浄土真宗ということのようです。身近な人に尋ねてもほとんどの人が浄土真宗という答えが返ってきます。ところが江戸時代禁教(明治8年まで・キリスト教は明治6年)だったということを知っている人はほとんどいないということに驚かされました。学校で習っていないようです。そこで県の教育委員会の社会科担当の方に尋ねてみました。返事は「教科書に記載がない」「指導要領に記載がない」「県からの指示がない」から教えない、ということ...「臨時特別」編鹿児島の歴史教育

  • 「ロマンチック・ドイツ」編 ライプツィヒ

    ライプツィヒでの昼食は一流ホテルの中にある「大和」いう日本料理店でした。何が出されたか忘れましたが、箸の包み紙にドイツ語で使用法が書かれていました。(写真上)ヨーロッパでは日本に比べて街中に銅像が多いような気がします。特にこのライプツィヒでは。以下3つ紹介します。写真左上は「メドラーパッサージュ」というアーケードの中にある像です。ゲーテの「ファウスト」の一場面を表わした像だそうです。写真右上はゲーテの像です。ライプツィヒは音楽家たちの街としても有名です。シラー(写真省略)バッハなどが有名です。(写真下)「ロマンチック・ドイツ」編ライプツィヒ

  • 「ロマンチック・ドイツ」編 ベルリン

    写真上はドイツ東西分裂時代の象徴的存在だったブランデンブルク門です。もともとは市内に18個所あった関税門の一つでした。1945年ドイツの敗北によって米英仏、ソ連に東西に分割占領され1949年にそれぞれが東西ドイツに分割独立しました。その時ベルリンも東西に分割されます。その時その国境線にあったのがブランデンブルク門(東ベルリン側)でした。当初はその間を自由に出入りできましたが、1961年にベルリンの壁ができ自由な往来ができなくなりました。1989年ベルリ位の壁が崩壊し1990年東西ドイツが統一しその後分裂時代の象徴として現在にいたっています。したがってベルリン市内には東西を分ける国境線が張り巡らされていました。写真中は少し見にくいですが道路に赤線が見えると思いますが、それが当時の国境線です。写真下はユグノー教会で...「ロマンチック・ドイツ」編ベルリン

  • 「ロマンチック・ドイツ」編 ポツダム

    ポツダムといえば「ポツダム宣言」ですね。(若い人はダメかな)1945年のポツダム宣言を日本が受諾してようやく敗戦し戦争終結をしました。そのポツダム宣言が出されたところがポツダムにあるツェツィーリエンホーフ城(写真上)です。最後のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世(1859~1941年)が皇太子時代、妃のツェツィリエのために建てた城です。ここでちょっと余談話。この城に図書室があったので現地ガイドにからかい気味に”MeinKampf”はあるかと尋ねました。現地ガイドは慌てた様子で”NeinNein”(無い、無い)と答えました。”“MeinKampf“(我が闘争)はヒトラーの著書で当時(1998年)ドイツでは禁書でした。2014年に出版が合法化されました。戦時中日本語訳が数冊出ましたが、日本を馬鹿にしたところは省かれていまし...「ロマンチック・ドイツ」編ポツダム

  • 「ロマンチック・ドイツ」編 クヴェトリンブルク

    中世の街並みを残すゴスラー、ヒルデスハイムを紹介してきましたが、人口2万4千のクヴェトリンブル(旧東ドイツ)は世界大戦の被害がほとんどなくその面影を最も色濃く残す街でした。1994年には町全体が世界遺産に登録されました。(写真右左上)写真左上のMarktplatz(中央広場)でこのような美人二人に出会い撮影を承諾してもらいました。VielenDank!しかし、一歩中心街を離れるとこのような廃墟に出会いました(写真右下)「ロマンチック・ドイツ」編クヴェトリンブルク

  • 「ロマンチック・ドイツ」編 ゴスラー

    ゴスラーには11世紀に王宮が置かれ、ザリエル朝時代ドイツ国王・皇帝のお気に入りの滞在地で、13世紀まで帝国会議が頻繁に行われました。そのため、美しい街並みが形成されました。(写真右下)は中央広場です。このようなところもありました。(写真左下)ゴスラーは魔女の街といても有名です。いましたね。(写真右上)(写真左上)早朝一人で散歩していたらこのような建物に出会いました。わたくしは一瞬日本の神社かと思いました。キリストの教会でした。わたくしはこのような教会の建物に出会ったのは初めてでした。なぜか忘れられない建物(教会)です。「ロマンチック・ドイツ」編ゴスラー

  • 「ロマンチック・ドイツ」編 ハノーファー、ヒルデスハイム

    現イギリス王朝の出身地ハノーファーを訪れました。1714年この地のハノーファー公がジョージ1世としてイギリス国王になりました。したがってこの王朝名はハノーヴァ朝といいます。Hannoverがドイツ語ではハノーファーで、英語でハノーヴァと発音します。国王は英語は話せませんでした。この地の観光はヘレンハウゼン王宮庭園でした。(写真上)次の観光地はヒルデスハイムでした。この町は第二次世界大戦で、歴史的建造物を含む街の多くが破壊されましたが、現在までにその多くが再建され、かつての中世風の町並みも再現されています。この木組みの建物がそれです。(写真中)中世街並みの美しいMarktplatz(中央公園)でしばしのコヒーを楽しみました。(写真下)「ロマンチック・ドイツ」編ハノーファー、ヒルデスハイム

  • 「ロマンチック・ドイツ」編 リューベック

    ハンブルクの次の訪問地は中世にはハンザ同盟の盟主として栄えたリューベックでした。その美しさは「バルト海の女王」と呼ばれるほどで、世界遺産にも登録されています。ハンザの面影を残す建物が並ぶ旧市街のなかでも最も美しく有名な建物の1つが、1535年に船員の組合ギルドの館として建てられた「シッファーゲゼルシャフト(Schiffergesellschaft)」です。(写真左、下)ここは歴史的建造物であると同時に、リューベックで一番有名なレストランで夕食はここでした。もう一つ歴史的建造物ホルステン門(写真右上、下)を訪れました。1469年から1477年にかけて造られました。ユーロ導入以前の旧50ドイツマルク紙幣の図柄にも採用されていました。写真下の文字CONCORDIADOMIFORISPAXはラテン語で「内に団結、外に平...「ロマンチック・ドイツ」編リューベック

  • 「ロマンチック・ドイツ」編 ハンブルク

    ブレーメンからハンブルクに向かいました。ハンブルクは中世よりハンザ同盟の中心的役割を果たした都市の一つでもあり、エルベ川沿いの港湾商業都市として発展しました。そこでその港湾をクルーズしました(写真左上)。コンテナ貨物用の巨大な倉庫群がありそれが世界遺産になっています(写真左下)。ここはライトアップされた夜が素晴らしいようです。写真右は街角風景です。「ロマンチック・ドイツ」編ハンブルク

  • 「ロマンチック・ドイツ」編 ブレーメン

    ケルンからハンザ同盟の主要都市の一つであったブレーメンまで3時間の列車の旅でした。列車のトイレに行きました。びっくりしました。トイレは筒抜けで線路が見えました。そうです排泄物はそのまま線路です。1998年ですが、日本ではこのようなトイレはもうなくなっていました。ドイツで?列車内では客が大声で話していました。この前のフランス旅行の時わたくしの声が大きいと同行の方にしばしば注意をされたことを思い出しました。何となく気分が楽になりました。写真左上はブレーメン中央駅です。ブレーメンはグリム童話の一編「ブレーメンの音楽隊」の舞台になったことで有名です。写真右は音楽隊志願の動物たちの像です。下からロバ、イヌ、ネコ、ニワトリです。ブレーメンの名物通りのベトヒャー通りに光の天使が竜と戦っている金のレリーフがありました。(写真左...「ロマンチック・ドイツ」編ブレーメン

  • 「ロマンチック・ドイツ」編 ボン

    ボンはドイツが東西に分裂していた時代に西ドイツの首都でした。しかし何といっても有名なのはボンがベートーヴェンの生地ということです。その生家(Geburtshaus)が博物館として紹介されています(写真右下)。写真上はここでもらった観光リーフレット日本語版の最初のページです。その後ボンのライン河沿いにぶらぶらしました(写真左下)「ロマンチック・ドイツ」編ボン

  • 「ロマンチック・ドイツ」編 ケルン、ブリュール

    ライン川クルーズの後、BC50年からの古都ケルンへ向かいました。ケルンの名前は古代ローマ帝国の植民地コローニアに由来します。写真上は当地の観光リーフレットの表紙です。中心に見えるのがケルン大聖堂です。尖塔の高さは157mです。歴史は古く1248年起工以来600年を得て1880年に完成されました。当時のわたくしのメモには「ミラノのほうが壮大な感じがする」とありました。河は勿論ライン河です。橋は鉄道橋ですが歩道がついているホーエンツォレルンです。写真左下はここに遊び(勉強)に来ていた子供たちです。次にケルン近郊のブリュールの世界遺産にも指定されているアウグストゥブルグ城を訪れました。(写真右下)1994年までは、ドイツの大統領が国賓をもてなすレセプション・ホールとして使われていました。「ロマンチック・ドイツ」編ケルン、ブリュール

  • 「ロマンチック・ドイツ」編 ライン川クルーズ2 ローレライ

    クルージングではたくさんの観光客と一緒でした。子供たちも船内を楽しんでいました。クルーズの目玉の一つがローレライです。画面下にLORELEYと表示されていますね。精霊の伝承を基にハインリッヒ・ハイネの詩が有名です。しかし一見したところ何の変哲もない岩山です。ということで「世界3大ガッカリ名所」の一つです。あと二つをご存じですか?2006年2月15日、17日紹介しています。(左欄のカレンダーで検索ください)「ロマンチック・ドイツ」編ライン川クルーズ2ローレライ

  • 「ロマンチック・ドイツ」編 ライン川クルーズ1

    ライン川クルーズはリューデスハイムから始まりました。リューデスハイムはワインの産地としても有名です。この町名所は中世のたたずまいを残すツグミ横丁です。そこはワインケラーやレストランがひしめき合っていました。そこで同行者とワイン(モーゼルワイン?)をいただきました。(写真左上)しかし味はいまいちでした。2月23日に紹介したフランケンワインの”trocken”の方が数段上でした。写真左下と右は船からの風景です。右は17世紀から廃墟となっているエーレンフェルス城です。ライン川にはこのような古城がたくさんあります。その多くは船から交通税をとる今でいえば税関の役割を果たしていました。14世紀には64もの税関がありました。「ロマンチック・ドイツ」編ライン川クルーズ1

  • 「臨時特別編」 韓国で出会った東日本大震災

    (2011年4月15日、18日のリメイク再録)東日本大震災の直後2011年5月1日〰10日韓国旅行をしました。最初の訪問地は済州島でした。空港での最初のお迎えは放射線検査の器具を持った係員でした。ビックリでした。写真を撮らしてもらうように頼みましたが拒否されました。済州島のホテルにある新聞を見るとハングル文字の新聞のなかに英字新聞が置かれていました。ハングル文字は全然わからないのでこの英字新聞をのぞいてみました。”TheKoreaHerald“という韓国の英字新聞でした。そのトップ記事が「放射能雨に対する韓国人の用心深さ」(Koreanswaryofradioactiverain)という見出しの記事と写真でした。写真の説明は「通学中のソウルの生徒が放射能から身を守るために傘をさしマスクをしている」です。釜山のホ...「臨時特別編」韓国で出会った東日本大震災

  • 「ロマンチック・ドイツ」編 ハイデルブルク3 学生牢

    街を散歩していて出会いました。(写真右上)「柔道」は時々見かけますが「武道」は初めてでした。写真左、右下は同じ室内ですがなんだと思いますか。落書きで埋め尽くされていますね。実は1712年から1914年まで実際に使用されていた「学生牢」の一室です。大学は高度な自治権をもっていました。そこで大学当局は学生に対しての裁判権を持っていました。そのための牢でした。学生の中にはここに入るのがカッコいいと考える者もいてこのような落書きをしたようです。また、裁判、入牢に対して手数料、罰金が課されそれが大学当局のかなりの収入になったそうです。(「ドイツ歴史の旅」坂井栄八郎著p98)「ロマンチック・ドイツ」編ハイデルブルク3学生牢

  • 「ロマンチック・ドイツ」編 ハイデルベルク2

    写真右上はハイデルベルク城から見た市街地です。写真左は13世紀建設のハイデルベルク城の一角です。写真右中はディッカーと名付けられている防衛施設です。ここでの最大の見ものは写真右下のワイン大樽です。高さ8メートル、22万リッターの容積の1751年制作です。「ロマンチック・ドイツ」編ハイデルベルク2

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