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2008/03/01

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  • 「海外で出会った日本」編 原爆追悼碑

    私はナショナリストではありませんが旅行中に思わぬ所で思わぬ日本と出会うとなんとなく嬉しい感じがします。アイルランド旅行(2003年)に出かける前にガイドブック「LONELYPLANETIreland」を見ていたらコークの市内地図に“Hiroshima&NagasakiMonument“と書いてありました。説明はありませんでした。日本語のガイドブック「地球の歩き方ダイヤモンド社」にはありませんでした。このパックツアーの観光コースにも入っていません。そこで宿泊のホテルの近くだということを確認して早朝出かけることにしました。しかし私は稀代の方向音痴(この時ダブリンで集合場所を間違えて皆さんにご迷惑を掛けました)なのでホテルの受付で場所を尋ねました。係りの人は暫し首を傾げていましたがようやく分かったか説明してくれ...「海外で出会った日本」編原爆追悼碑

  • 「出会いふれあい」編 シリア・ヨルダン・レバノンの旅から4

    レバノンの現地ガイドは女性のエリッサさんでした。(写真=背景はキリスト教徒が住むカディシャ峡谷)ヒジャブをつけていませんね。同行の方の一人が非イスラームの客に遠慮してつけていないのだろう話されました。違いました。彼女はイスラーム教徒ではなくマロン派のキリスト教徒でした。外貌は全くヨーロッパ人でした。目もブルーで、髪の毛はブロンドと黒のまだらでしたが、子供のときは完全にブロンドだったそうです。マロン派のキリスト教徒でした。(注1)毎日曜日ではないが教会に時々行くそうです。フェニキア人(注2)の末裔かとの質問にフェニキア人の遺伝子を持っていると答えてくれました。十字軍の遺伝子もあるのではないか、という質問をすべきであったと今になっては思っています。日産自動車のカルロス・ゴーン元社長の父親がレバノン人であること...「出会いふれあい」編シリア・ヨルダン・レバノンの旅から4

  • 「出会いふれあい」編 シリア・ヨルダン・レバノンの旅から3

    シリアの現地ガイドはアブドゥラさんでした。ムスリムですか、との質問に彼は、ハーフ(半分)と答えてくれました。その意味するところは二つあったようです。ひとつは仕事の関係もあってきちんとしたお祈りなどができないことでした。そして”moderate”(穏健な)なムスリムだということでした。彼が本当に言いたかったのは”moderate”というコトバに象徴されることだったようです。彼の説明に”moderate”という言葉が盛んに出てきました。イスラームを皆さんはすべて過激派と考えているようだが、そうではなく大多数は”moderate”なんだということをハーフというコトバで説明したのだと私は理解しました。彼は出来るだけ客観的にものを考えようとしているように感じました。パルミラの最後の女王ゼノビアの末路について彼は私の...「出会いふれあい」編シリア・ヨルダン・レバノンの旅から3

  • 「出会いふれあい」編 シリア・ヨルダン・レバノンの旅から 2

    ヨルダンのガイド、ジャミールさんは浅黒い肌の典型的な中東の人でした。彼は豚肉を食べないし、ラマダンも行う敬虔なムスリム(イスラム教徒)でした。奥さんは1人だそうです。彼にローレンス(アラビアのローレンス)(注1)を尊敬しているかと尋ねてみました。彼はスパイでcheater(ペテン師)だとの返事でした。サラディーン(注2)について同じ質問をしてみました。勿論尊敬しているとの返事なので次の質問をしてみました。バイバルス(注3)についてはどうかと。この質問は牟田口義郎の「バイバルスはサラディーン**より今でも庶民の間で人気があり」(「物語中東の歴史」p221中公新書)を確認したかったからです。ところが期待したような強い返事が無く牟田口氏の説を確認できませんでした。これはシリアのガイドの場合も同じでした。(注1)...「出会いふれあい」編シリア・ヨルダン・レバノンの旅から2

  • 「出会いふれあい」編 シリア・レバノン・ヨルダンの旅から1

    2006年にシリア・レバノン・ヨルダンを旅しました。現在はダメですね。この地は多種多様の民族、宗教の人々が暮らし、その対立と共生の国々です。この時の旅ほど多種多様な人たちと出会った旅行はありませんでした。観光に訪れていた人たちもまた多様でした。しかし、いつもは多いアメリカ人だけは一家族に出会っただけでした。圧倒的に多かった観光客はラテン系の人々、特にこの地がフランスの委任統治領であったことからフランス人が目立ちました。行き帰りのエミレーツ航空(アラブ首長国連邦)からして多民族構成でした。客室乗務員14名、コックピット内3名全員の国籍が違うことがあるそうです。ちなみに、帰りの飛行機では客室乗務員はイギリス人、インド人、チェコ人、フランス人、南アフリカ人、エジプト人、フィリッピン人、シンガポール人、韓国人、日...「出会いふれあい」編シリア・レバノン・ヨルダンの旅から1

  • 「出会いふれあい」編 You look like *****

    私にはいろんな悪い癖がありますが、其の一つに海外旅行中に”Youlooklike****”と言うことがあります。大失敗のことがあります。アゼルバイジャンの飛行機の中でのことでした。”YoulooklikeGorbacheh(ゴルバチョフ)“とやったとたん、相手は血相を変えて怒り出しました。英語でしたが英語の苦手の私には良くわかりませんでしたがどうやら「ゴルバチョフはソ連邦を崩壊させた元凶だ!」と言っているようでした。怖かったです。(妄想、ひょっとして、この人はプーチンだったかも)53回の旅行で2番目に怖かった[百山1]事件。これに対してアフリカでは何処でも”YoulooklikeMandela”は大好評でニコニコして握手をしてくる人もいました。皆さんアフリカで試してください。「出会いふれあい」編Youlooklike*****

  • 「出会いふれあい」編 イスラームの女性5

    2008年のイランでは女子高校生、女子大学生の元気な姿が非常に印象的でした。実際に大学で女子の占める割合が63%(2003年)にも及びます。彼女たちに囲まれて「どこから来ました?」「名前は?」などの質問攻めに遭いながら、私のほうはもっぱら「大学での専攻は何ですか?」の質問をしました。驚いたことにその答えの多くが理科系だったことです。コンピュター、化学、数学、原子物理と答えてくれました。私は出会いませんでしたが、医学専攻では女性が70%を超えています。しかし彼女たちの就職率(以下lonelyplanetIranによる)はわずか11%だそうです。それでも彼女たちは戦力であることが充分に認識されていて3ヶ月間習得できる妊娠休暇時は通常の67%の給与が保障されています。なぜか男子大学生との出会いはなかったような気...「出会いふれあい」編イスラームの女性5

  • 「出会いふれあい」編 イスラームの女性4

    ヨルダンのネボ山(注)で先生に引率されたベールを被った女子高校生(1人例外)の大群?に取り囲まれ“Whereareyoufrom?““What’syourname?”などと質問攻めにあいました。ちょっといい気分になりましたが攻撃を転じて彼女たちの名前をラテン文字とアラビア文字で書いてもらいました。ところが彼女たちの写真[百山1]を撮ろうとすると拒否されました。彼女たちの先生がいないところでは、と考えてやってみると成功しました。それが冒頭の写真です。好奇心いっぱいの高校生たちでした。(注)ネボ山は、神がイスラエルの民に与えられた約束の地をヘブライ人の預言者モーセに眺望させた場所とされるモーゼの埋葬の地でもあります。イスラーム教徒にとっても預言者の一人なので聖地とされています。「出会いふれあい」編イスラームの女性4

  • 「出会いふれあい」編 イスラームの女性3

    ヨルダンで水タバコを吸っているイスラームの中年女性に出会いました。私には珍しかったので、許可を得て撮影しました。「出会いふれあい」編イスラームの女性3

  • 「出会いふれあい」編 イスラーム女性たち2 ヘンナ

    レバノンで新婚さんに出会いました。結婚式当日友人から写真のよう新妻の手に花などの絵を描いてもらいます。1週間ぐらい消えないそうです。この風習を「ヘンナ」というそうです。全身の写真撮影は拒否されました。「出会いふれあい」編イスラーム女性たち2ヘンナ

  • 「出会いふれあい」編 イスラームの女性たち1

    ヨルダンのペトラ遺跡を一日観光した後、美しい夕日を見ようということでひとりでタクシーで出かけました。そこで家族連れ(女性だけの)に出会いました。お母さんはかなり好奇心いっぱいのようで色々話しかけてきました。彼女の手作りのお菓子までいただきました。夕日のことは忘れていました。そこで写真を撮らせてくださいと頼みました。ところが隣にいた姑(母親?)がきつく拒否しました。(イスラーム圏では女性の写真は通常タブー)私はいったんはあきらめました。ところが彼女は姑の意向を無視して私に写真を撮るようにと言いました。「出会いふれあい」編イスラームの女性たち1

  • 「出会いふれあい」編 タイのアイドル候補

    ラオスのルアンプラバンで街が見渡せるというプーシの丘(仙人の丘という意味)に登りました。(写真上はプーシの丘から眺めたルアンプラバンの町)観光客がたくさん来ていました。そこでタイから来ていた二人の少女と仲良くなりました。二人の中年の男性も一緒でした。宿泊のホテルも同じでした。夕食後彼女たちはディスコに行くというのでついて行きました。(日本ではディスコに行ったことはない)驚いたことにディスコに入るとすぐに舞台に上がり歌いだしました。疲れていたので彼女たちの活躍を最後まで見届けないまま、テーブルに10ドルを置いてホテルに帰りました。翌朝朝食に出かけると彼女たちもいました。一緒にいた初老の男性が待ちかねたようにやってきて昨日の10ドルのお釣りだといってお金を渡そうとしたのでいらないといいました。するとお土産にし...「出会いふれあい」編タイのアイドル候補

  • 「出会いふれあい」編 マサイ人の怒り

    マサイ人はケニアとタンザニアに居住する牧畜民で人口約60万人と推定されています。男子は長槍を持ち牛、ヤギ、羊を遊牧し農耕,狩猟を行わない誇り高い民族です。彼らが槍を持ち牛などを放牧している風景はマサニ絵になります。しかし彼らは誇り高い民族で写真に撮られることを嫌います。この写真は2007年ンゴロンゴロ自然保護区(タンザニア)に向かう途中で車の中から牛を追っているのを隠し撮りしたものです。それをすばやく見た彼が抗議で怒っている写真になりました。「出会いふれあい」編マサイ人の怒り

  • 「出会いふれあい」編 語学音痴の会話2

    ついでに中央アジアでの私の接したコトバ事情(2004年当時)について紹介しておきます。ガイドはいずれもロシア語が堪でした。3人いましたが、ひとりについては不明ですが、他の二人はいずれも母国語(ここではあえて母語でなく母国語とします)がやや不自由でした。トルクメニスタンのガイド、マヤさんの弟は母国語に堪能だそうです。これはソビエト連邦崩壊後の教育だということは容易に考えられるところです。すなわち、現在各国政府は自国の民族語教育に力をいれていることは明らかです。今回挨拶に、この地域の共通語であるロシア語を最初に用いました。もっとも知っている単語は(ありがとう)「スパシーバ」と(さようなら)「ダスビダニア」だけなのですが。これは知識層と見える人たちには良い反応が見られるのですが、一般庶民の反応はいまいちという感...「出会いふれあい」編語学音痴の会話2

  • 「出会いふれあい」編 語学音痴の会話1

    1998年ミュンヘンでの自由時間にはドイツ博物館へ行きました。ガイドブックによれば世界最大の規模を持つ自然科学、産業技術などの大博物館だそうです。そこで母子三人に出会いました。いつもはカメラをかざしてOK?などといって撮影するのですが、今回はNHKラジオドイツ語講座で覚えた「写真を撮っても良いですか」というドイツ語で許可を求めました。(いまはもう忘れました)岸田今日子さんに似たお母さんが“Natürlichナテュアリッヒ”(勿論いいですよ)と答えてくれました。覚えたてのドイツ語が通じたのでうれしくなり感激の一枚でした。(冒頭写真)外国でコトバが通じたときのうれしさは私のような語学音痴にとっては大変なものです。逆に通じなかった時は悲惨です。初めての海外旅行のエジプトで”water”(水)が通じなく紙に“wa...「出会いふれあい」編語学音痴の会話1

  • 「出会いふれあい」編 canとdo

    以前、NHKに「英語でしゃべらないと!」という番組がありました。外国語劣等感の持ち主の私には大変気になる番組です。ただ老人の私にとって夜遅いので見たことは殆どありませんが。その英語表記は“CanyouspeakEnglish?”となっています。この英語がまた大変気になっています。私の乏しいヨーロッパ旅行の経験では“CanyouspeakEnglish?”と話しかけられたことは一度もありません。すべて“DoyouspeakEnglish?”です。ところがアジアでは“CanyouspeakEnglish?”でした。外国旅行の経験の豊富な人に聞いてもそうです。僻みかもしれませんが、“CanyouspeakEnglish?”は自分の価値を値踏みされているような気がします。それに対して“DoyouspeakEngl...「出会いふれあい」編canとdo

  • 「出会いふれあい」編 ベラ人の少年

    マリ共和国は1960年フランスから独立しました。そのとき奴隷制廃止が決まりました。世界最後の奴隷制廃止です。トンブクトゥの街中を観光している時、添乗員の本橋さんはここが昔奴隷だったベラ人の居住地だと案内してくれました。ところが帰国してまもなく「環境と文明の世界史」(p155)という本を見てびっくりしました。「今でも奴隷制度が残っているのは北アフリカのトゥアレグ族ですよ。アムネスティ・インターナショナルが再三非難していますが、周辺の黒人種族を奴隷にして今もこき使っています」ウイキペディア(英語版)でも奴隷のいう名前は別として現実はそのまま奴隷が存続しているとしています。トンブクトゥの自由時間でぶらぶらしている時1人の少年に出会いました。前述のトゥアレグ人の少年以上に片言の英語(というよりは殆ど通じない)でな...「出会いふれあい」編ベラ人の少年

  • 「出会いふれあい」編 トゥアレグ人の少年

    2002年マリ共和国のトンブクトゥの空港で飛行機待ちをしていた時1人の少年に出会いました。片言の英語で話をしました。勿論マリ共和国は多民族国家なので君は何人か?と尋ねました。彼の答えは「トゥアレグ人」との答えだったので、私「ラクダドライバーだな」。彼「イエス、そしてベラはロバドライバーだ(注1)」。私(ちょとからかい気味に)「日本人は?」。彼「ヤマハ(注2)ドライバーでアメリカ人は飛行機(airplaneという単語を知っていました)ドライバー」という答えが返ってきました。お見事!残念ながらこの少年の写真がありません。そこで冒頭の写真はトゥアレグ人の大人の男性の写真です。遊牧民族でサハラ砂漠を行きかいする交易商人です。彼らは青いターバンと民族衣装を着用することから青衣の民として知られています。彼らはイスラー...「出会いふれあい」編トゥアレグ人の少年

  • 「出会いふれあい」編 周小平さん

    2008年のパキスタン行きのタイ航空は関空→バンコック→イスラマバードでした。通路を隔てた隣に若者2人がバンコックから乗り込んできました。ふと見ると彼らは中国出版らしき「孔子」の本を読んでいました。新中国建国以来「孔子」は厳禁だったようですが、最近復活したという話を聞いていたので、私のいつもの悪い癖が出て「ニハオ」と呼びかけました。それから私のカタコト英語と電子辞書の漢字と、相手の私より上手い英語での珍問答が始まりました。最初に日本の戦争責任が話題になったようなのでapologize(謝罪9を連発、次に靖国問題ではshame(恥)をいったところ相手は拍子抜けのようでした。(私は相手に迎合してそういったのではなく常日頃そう思っています)それから反転して私は今の中国は共産主義国ではなくアメリカと並んだ資本主義...「出会いふれあい」編周小平さん

  • 「出会いふれあい」編 悲しい親日

    前回クロアチアで出会った(2003年)台湾の人の親日を紹介しましたが、2017年に台湾を訪問した時も親日的な人に出会いました。平渓線の瑞芳駅でのことです。構内で突然話しかけてきた人がいました(写真)。戸惑っていると「教育勅語」(注)を暗誦し始めました。びっくりしていると片隅に日本人案内所と書かれたところがありました。年を聞くと86歳(わたくしより3歳年上)ということでした。このような親日は悲しいですね。もっとも極右翼のような方たちなら大喜びだったでしょうね。怖いですね。注1890年に明治天皇が「古来天皇が徳を持って統治してきたことを述べ、続いて国民が守るべき「徳目」を掲げ、もって皇室を扶翼すべし」という1890年に出された明治天皇の勅語。わたくしの小学校(当時国民学校)時代暗記すべしとされていました。しか...「出会いふれあい」編悲しい親日

  • 「出会いふれあい」編 クロアチアで出会った台湾の人

    2003年、クロアチアで台湾の人から流暢な日本語で声をかけられました。私は「日本は皆さんにあまり良いことをしなかったにもかかわらず、親切に声を掛けていただいてうれしいです」と言いました。すると一人は「台湾の現代化は日本のおかげです」、もう一人は「50年前は同胞でした」という答えが返ってきました。私は名状しがたい感情の高ぶりで涙を抑えることが出来ませんでした。私は今鹿児島に住んでいると話すと私の小学校の恩師は鹿児島の人でしたという話までされました。なぜこのような発言がなされたのか、そのことについて少し考えてみました。最初に考えられるのは台湾と朝鮮半島に対する日本の植民地政策の違いに起因するということです。しかしこれは私の乏しい知識に照らし合わせても間違いだと思いました。そこで気がついたのは台湾での本省人と外...「出会いふれあい」編クロアチアで出会った台湾の人

  • 「出会いふれあい」編 アンタアホヤ

    モロッコのエッサウィラの自由時間でのことです。鮮魚店で魚を買いその場で調理してもらうレストランの客引をからかい次のような会話をしました。私「俺の名前はアブドゥラでシャリーフだ。だからバラカを持っている」客引き「そうか、ここにもシャリーフがいるので紹介しよう」としてよばれてきたのが、写真の人物。右の人物が紹介してくれた客引きです。私「あなたは本当にシャリーフか、それではアンタアホヤ」と言って握手をしました。片仮名のところを説明しておきます。「アブドゥラ」はイスラーム圏では一般的な名前で意味は「神の奴隷」です。「シャリーフ」はイスラームの預言者ムハンマドの子孫を言います。「バラカ」はこのシャリーフが持つ「神の恩寵」と訳される万能の力です。「アンタアホヤ」は「あなたは私の兄弟だ」という意味のアラビア語です。この...「出会いふれあい」編アンタアホヤ

  • 「出会いふれあい」編 アルジェリアの少年

    アルジェリアの人はわれわれを見ると多くは「ニハオ」と挨拶をしてくれます。ところが時には「コンニチハ」といってくれる人もいました。なんとなく若い人が多かったような気がします。その一人が写真の主で首都アルジェ近郊のティパサ遺跡の勉強に来ていた中学生(?)でした。シャツの字「東京」を左から指差して「トウキョウ」と私が読むと彼は右から「キョウト」と発音しました。アラビア語は右から読むのですね。なんとなく楽しくなりました。ありがとう。「出会いふれあい」編アルジェリアの少年

  • 「出会いふれあい」編 アルジェリア人のホスピタリティ2

    どうです、この写真!イスラーム圏では女性は原則として撮影禁止です。ましてやこのように完全装備(?)の女性が男性と、ましてや異教徒と一緒の写真なんて!男性は私ですよ。女性は若かったような気がします。奇跡です。アルジェリアの首都アルジェの町です。田舎では絶対駄目です。この旅行での一番の写真です。彼女の異国人へのホスピタリティ?「出会いふれあい」編アルジェリア人のホスピタリティ2

  • 「出会いふれあい」編 アルジェリア人のホスピタリティ1

    アルジェリアのティミムーンでのホテルはなかなか格好良いHotelGouraraでした。Lonelyplanetにここの住民は“Theresidentsareveryfriendly***”(p169)と記載がありまました。ホテルのロビーで休憩をしていた時、カウンターで現地人らしき人がワインらしきのものを飲んでいるようなので(イスラーム教徒はアルコール厳禁)いつものわたくしの悪い癖でチョコチョコと近くまで行って失礼にもかかわらずこれはワインですかと尋ねました。すると「これだよ」(わたくしの勝手な日本語訳)と言って見せてくれたのがこのワインでした。続いてこのフルボトルを「プレゼント」すると言い出しました。びっくりしましたが、ありがたくいただきました。そして同行の皆さんにも御裾分けをしていただきました。おいしか...「出会いふれあい」編アルジェリア人のホスピタリティ1

  • 「出会いふれあい」編 オーストリア人の親切

    2001年のオーストリアのグラーツでの午後が自由時間でした。グラーツから列車で3つ目の駅シュツビングというところにあるオーストリア野外博物館に出かけることにしました。まず切符を買うのに一苦労。時間がよくわからないので通りかかりの日本人に助けを求めましたが掲示板を見ればわかるでしょう、とさっさと行ってしまいました。プラットホームにいた実直そうな家族に尋ねて自分の理解していた時刻とは違っていたことに気付き博物館の入場時間に間に合わないことが分かりました。しかし博物館の外観だけでもと長時間待って列車に乗り込みました。降りるのを間違わないようにとこの家族に頼むと降り口まで案内してくれました。降り口のドアーは自動でなく手動でした。降りた駅は無人駅でした。帰りの列車で切符を買おうとしましたが車掌が来ないのでそのまま改...「出会いふれあい」編オーストリア人の親切

  • 「奇跡!90歳になります」

    明日25日に90歳になります。幼少時より病弱(小1年腎盂炎、小3年肋膜炎)18歳で発病今日まで悩まされているリュウマチ。その後、盲腸炎、扁桃腺炎、胆嚢炎、白内障、脊椎管狭窄症、大腸がんを発症、現在肺がんの疑い(精密検査拒否)、などに悩まされ90歳まで生きてきました。3か所の職場を転々としました。そのうち2つの職場で労働組合を結成しました。そのうち1つの職場で解雇されました。お節介労働組合結成は3回。兄弟姉妹なしの90年間の内66年は全くの一人生活、結婚生活は6年子供は1人、しかし、チェコのプラハで30歳で自殺。現在、音信のある親族知人は皆無。どう考えても幸せの一生とは言えません。しかし本人は「自分は意外にラッキーな人生だったかも」とも思うことがあります。何はともあれ、60歳から85歳にかけての103ヶ国5...「奇跡!90歳になります」

  • 「出会いふれあい」編 ネパールのポカラにて

    ポカラ(ポカラは本当にのんびりできるところ「地球の歩き方p143」)のシャングリラ・ビレッジホテル(ナチョラル志向のしゃれたインテリア「地球の歩き方p151」)で昼食。ホテルの近くでゲームしている人に出会いました。(写真上)わたくしはなぜかこのような風景(万国共通?)に出会うと何となく郷愁(?)を覚えます。というわけで世界各地で見かけたゲームを撮影しいくつか紹介しています。もちろんその名前もルールも知りません。時にゲームの名前、ルールをご存じの方がいらっしゃってコメントをいただくこともあります。今回もこのネパールのゲームの名前をご存じの方がいらっしゃいましたら教えてください。このホテルの土産物店で店の若者と仲良くなりました。後日この写真を送りました。この若者がわたくしの腕時計と自分の腕時計を交換してくれと...「出会いふれあい」編ネパールのポカラにて

  • 「出会いふれあい」編 ネパール学校訪問

    前回紹介した若夫婦から別れたのちまた街中をぶらついていたら学校がありその校門に“ESHABLISHED2017”(創立2017年)とあり”??“(当時西暦2001年)なんとなく興味がわき非礼だとは思ったのですが、訪問しました。日本では不法侵入者として警察沙汰になるところでした。しかし大歓迎を受けました。どうもこの学校は外国からの援助で出来ているようで、外国人は歓迎という様子でした。校長先生まで出てきて色々説明を受けましたが、英語なので殆ど分かりませんでした。小学生たちは起立して歓迎?をしてくれました。職員室にまでお邪魔しました。ESHABLISHED2017”の謎ですが、これはネパールの公式暦ヴィクラムの暦の年号で当時(西暦2001年)は2057年とのことでした。というわけで創立は40年前ということでした...「出会いふれあい」編ネパール学校訪問

  • 「出会いふれあい」編 ネパールの若夫婦の愛

    2001年ヒマラヤを見ようとネパールへ出かけました。ところがネパールへ行けば必ず何時でも、何処からでもヒマラヤが見えるというわけにはまいりませんでした。ツアーの予定では6箇所の地点と遊覧飛行(オプションで140ドル、以前墜落事故がありました)で見られるはずでした。結果は地上では3勝3敗、空からは天候回復を待つためかなり遅れての見学でした。さて1敗のドリケルでまる1日暇になり町?の中心街のお寺などを見学してまだ時間があるので、郊外?の方へ散歩に出かけました。そのときと出会ったのが写真の若夫婦でした。ご覧の通り、奥さん(ハニカミがなんともいえないかわいいですね往年の日本女性?)が重い荷物を持ち、彼のほうは手ぶらです。ここからが私の悪い癖です。身振り手振りと片言の英語(彼らのほうが上手)で「女に重いものを持たし...「出会いふれあい」編ネパールの若夫婦の愛

  • 「出会いふれあい」トルコのコンヤで

    写真上はコンヤで早朝の散歩をしていた時に出会った子供たちです。朝食のパンを売っていた青年?にも出会いました(写真中)。メルハバ(今日は)というトルコ語の挨拶をしてその後無言の会話?をしました。そこへ弟らしき中学生が現れました(写真下)。彼は弟にお茶を持ってくるように指示したようでした。香草が入ったお茶を勧めてくれました。大変おいしくいただきました。彼らも商売だろうと思い代金を支払おうとしましたが受け取りませんでした。海外旅行中に出会った忘れられない人物の一人です。「出会いふれあい」トルコのコンヤで

  • 「出会いふれあい」編 フランス人の傲慢さ

    イギリスに反してフランスの現地ガイドの傲慢無礼さにはまったく不愉快でした。添乗員に英語で説明した後、いかにも小馬鹿した発音で“understand?”(分かったか)を繰り返しました。27年経過したいまもこの不愉快なアンダースタンドの声が耳から消えません。またガイド中に他国人ツアーの悪口を盛んに言ったガイドもいました。別れ際に私に次回はフランス語を勉強してフランスへ来てくださいと言ったガイドもいました。フランス語帝国主義メ!フランスでは犬の散歩の時糞の始末をしないようです。あちらこちらに糞が放置したままで、たびたびフンづけをしました。というわけでこの犬の糞ともに食べ物を除いてフランス(イタリア料理の方が好き)に私は良い想い出はありません。美人にもあまり出会いませんでした。「出会いふれあい」編フランス人の傲慢さ

  • 「出会いふれあい」編 イギリス人の親切

    海外に出かける時その目的地について濃淡はありますがある程度のイメージは持って行きます。そのイメージどおりの時は「やっぱりそうか」と思い、違っていれば「ヘエーホントー」となり、それが旅行の楽しみの一つでもあります。イギリスではその二つがはっきりした楽しい旅でした。まず「やっぱり」の方はやっぱり食べ物でした。まずいです。食べ物のうまい、まずいは個人の好みの問題で個人差がありますが、この国は私のような味痴でもわかる「まずい国」です。特にこの年(1997年)は狂牛病が問題になっていて肉類は七面鳥だけでした。これはまたまずい。皆さんイギリスにお出かけの際は、醤油、マヨネーズ、ドレッシング、味噌などの持参を勧めします。今から135年ほど前に欧米を視察した久米邦武が「諺ニ曰ク、倫敦(ロンドン)ノ食倒レ、巴里(パリ)ノ衣...「出会いふれあい」編イギリス人の親切

  • 「出会い・ふれあい」アルメニア人のおもてなし

    2003年のコーカサス旅行で出会ったアルメニア人の「おもてなし」にも感激しました。生贄の儀式が現在も残っているという古いアルメニアのゲガルド修道院で子供づれの生贄の羊のバーベキューパーティーに出会い大歓迎を受けました。自家製のワイン、焼肉などご馳走になり土産まで持たされました。我々のバスにはいつも周辺の人々が手を振って歓迎してくれました。このような歓迎をうけた国としては私の乏しい海外旅行の中ではルーマニア、トルコがありました。なぜこのようにアルメニアの人々は他国の人にこれほど親切なのでしょうか。アルメニア人はユダヤ人についでディアスポラ、世界に離散した人々が多いのです。ヨーロッパ各地を旅行していると各地にアルメニア教会を見ることができます。この地域は古くから東西交流の接点でもあり言葉を代えれば東西の強国に...「出会い・ふれあい」アルメニア人のおもてなし

  • 「出会いふれあい」編 ルーマニアの手編みセーター

    ルーマニアで吸血鬼ドラキュラーの舞台となったブラン城を訪れたとき、ご婦人たちがセーターを編んでいました。私は旅ではめったに物は買わないのですが、このときはなぜか血を吸われる心配よりはルーマニアのおもてなしと家庭を持たない私はアットホームを感じて8ドルで購入しました。25年たった今もセーターとともに懐かしい思い出のシーンです。齢を重ねるごとに冬の寒さが身にしみてきます。そしてこの手編み純毛セーターのありがたみを感じます。しかし、この冬はこのセーターを着られる可能性はかなり低いようです(地獄では着られません)「出会いふれあい」編ルーマニアの手編みセーター

  • 「出会い・ふれあい」編 ルーマニア人のおもてなし

    お金がなく、ケチで、外国語がダメで、体に少し障害があり、年寄りで、そのうえ稀代の方向音痴の私にとって外国旅行はパックツァーでしかありません。パックツアーの最大の欠点は決められたところを現地ガイドの説明(日本語のガイドでない場合は添乗員の日本語訳で)を受け多人数の時は質問もできなく時間に縛られて急いで次の観光場所へ移動の繰り返しでその土地の人との「出会い・ふれ合い」はほとんどないことです。その数少ない貴重な「出会い・ふれあい」のいくつかを以下紹介します。ルーマニアにはブルガリアからドナウ河国境を越えたのですが、入管事務所の役人の威張った態度に一同憤慨してこの先の旅に不安を覚えました。当日ブルガリアからルーマニア入国までの現地美人ガイド、テオドラさんが念入りにお化粧した意味はこれにあったようです。(考えてくだ...「出会い・ふれあい」編ルーマニア人のおもてなし

  • 「ツアーコースにない所」チェルニフィツイのユダヤ人

    チェルニフィツイはルーマニア、モルドヴァに近い国境の街です。歴史的には沢山の国がこの地を支配しました。(モルダヴィア公国→オスマン帝国→ポーランド共和国→ハプスブルク帝国→ルーマニア王国→ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国→1991年ウクライナ)したがって2001年の統計では65の民族の都市です。1930年の統計ではユダヤ人が最大で29%、ルーマニア人23%、ドイツ人21%、ウクライナ人19%の人口構成でしたが、現在(2012年)はウクライナ人80%、ロシア人11%になっており、Lonelyplanetの表現によればユダヤ人、ルーマニア人、ドイツ人の社会は今やghostlypresence(幽霊のような存在?)になってしまいました。そのghostlypresenceの一つがかつてのシナゴーグで1954年...「ツアーコースにない所」チェルニフィツイのユダヤ人

  • 「ツアーコースにない所」リヴィウのユダヤ人

    リヴィウはポーランドに近いところに位置していていますが、現在ウクライナ民族意識の強い地域です。このリヴィウには第2次世界大戦以前には10万人のユダヤ人が住んでいました。大戦中にはドイツ、ポーランドからナチスに追われポーランド地域も含めてリヴィウ近郊のユダヤ人人口は60万になりました。そしてここに侵攻したナチスによって虐殺され生き残ったのは2名だけでした。(ウクライナ全体では90万人がナチスドイツに虐殺されました)現在のリヴィウのユダヤ人は約2000人です。現在リヴィウには多くのユダヤ人に関係するところが残っていますが、訪れることができたのは市の中心部に残されていた14世紀(lonelyplanetでは16世紀後半)に建設され1941年にナチスよって破壊されたGoldenRoseSynagogueと呼ばれて...「ツアーコースにない所」リヴィウのユダヤ人

  • 「ツアーコースにない所」キエフのユダヤ人2

    冒頭の写真は玄関から入ったところです。ホロコーストで多くの人が殺害されましたがキエフでは現在6万人のユダヤ人が生活しています(2012年現在)。2階からの写真です。1階の大広間(?)は暗いので私のカメラでは撮影できませんでした。席にはこのようにキルル文字(ロシア語?ウクライナ語?)とヘブライ文字での聖書が置かれていました。各冊ともかなり読み込まれているようで汚れて?いました。「ツアーコースにない所」キエフのユダヤ人2

  • 「ツアーコースにない所」キエフのユダヤ人1

    ウクライナのゼレンスキー大統領はユダヤ系であることをご存じの方は多いいと思います。ウクライナは古くから多くの民族が通過し、定住した地域です。その中でもユダヤ人は政治・経済・文化的にも世界史に多くの影響を与えてきました。しかし現在はポグロム、ホロコーストなどと呼ばれている虐殺などでその多くはアメリカ合州国、イスラエルなどに移住してその数は非常に少なくなっています。たとえばオデッサでは20世紀初頭、市の人口の3分の1を数えるまでになっていました。ところがポグロム(1905年)、ホロコースト(1941年―ナチ)により10万人のユダヤ人はアメリカ合州国ニューヨークなどに移住しました。現在ニューヨークには“LittleOdessa”(小オデッサ)と呼ばれている街があります。そこでこの地のユダヤ人の痕跡を訪ねてみよう...「ツアーコースにない所」キエフのユダヤ人1

  • 「ツアーコースにない所」編 煙突掃除組合

    2001年、オーストリアのウイーンでの昼食時に現地のガイドにウイーンでは煙突掃除士がいるそうですねと以前読んだ本を思い出して尋ねてみました。するとこの近くにその組合事務所があるとの返事なのでラッキーと早速出かけてみました。写真はその「ウイーン煙突掃除業者組合」の看板です。堀野収氏の「ウイーン素描」JTB出版によって少し紹介しておきます。(p12~26)人口160万人のウイーンに250人の掃除士がいるそうです。3年制の養成学校があり資格認定の試験があって合格者がこのウイーン市認定の組合(ギルド)に入ることが出来ます。このギルドに入らなくては煙突掃除の仕事は出来ません。ギルドといえば世界史に出てくる過去のものと思いますが、現在も約60のギルドが当局から認定されています。煙突掃除士は法律と条例で防火の責任と義務...「ツアーコースにない所」編煙突掃除組合

  • 「ツアーコースにない所」編 マラケシュのユダヤ人居住区4

    墓地に行くことにしました。道はすでに分かっていたのですが、シナゴーグでのポン引きガイドがくっついて離れません。今回は入口は開いていたのですが、入ると同時に制止されました。またも怪しまれたのです。今回も他の団体と一緒になだれ込みました。ビックリしました。広大な墓地でした。警備のような人からは付きまとわれるし、約束の時間は迫っているし、慌てて撮った写真なので分かり難いかと思いますがとにかく広大な墓地です。肉眼、カメラの視界を越えて広がっていました。1537年以来の墓地ですね。「ツアーコースにない所」編マラケシュのユダヤ人居住区4

  • 「ツアーコースにない所」編 マラケシュのユダヤ人居住区3

    シャバトで悔しい思いをしたのですが、マラケシュでは3日の滞在で最終日にこのシナゴーグの近くの観光があったのでその観光をから抜け出してもう一度出かけることにしました。ところが添乗員がこれを許しません。「駄目だ」と強い調子です。押し問答の末時間を厳しく制限されようやく許可が出ました。パック旅行のつらいところ。急いで前回の同行者と出かけました。ところが前日の入口は入れたのですが、中の肝心のシナゴーグは開いていなく管理人のような人物が(前日とは違う)カギを開けてくれません。押し問答をしていると忽然と現れたポン引きガイド(注)が間に立ってとりなしてくれたのですが駄目です。そうこうしいるうちに団体の観光客が入ってきました。彼らには入口をあけて入れました。そのどさくさにまぎれて一緒になだれ込みました。入口の道路には警察...「ツアーコースにない所」編マラケシュのユダヤ人居住区3

  • 「ツアーコースにない所」マラケシュのユダヤ人居住区2

    次に案内されたのはユダヤ人の墓地でした。しかしここもシャバトで中に入れません。写真はその入口です。ヘブライ文字が書かれています。数字の1537はキリスト教暦(所謂西暦)の年号で建立時を表わしていると思われます。もう一つの数字5227はユダヤ暦だと思います。この1537年という年号で以下のようなことが読み取れます。8世紀に始まり1942年に完了するイベリア半島(スペイン・ポルトガル)からのキリスト教徒によるイスラーム教徒駆逐の運動レコンキスタによりイスラーム教国で共存していたユダヤ人もイベリア半島から追放されました。これにより15世紀にモロッコに移住してきたユダヤ人は6~8万人といわれています。ということでこのレコンキスタによりこの地に移住してきたユダヤ人の墓であろうと思われます。なおスペインからの移住者に...「ツアーコースにない所」マラケシュのユダヤ人居住区2

  • 「ツアーコースにない所」 マラケシュのユダヤ人居住区1

    モロッコのマラケシュで自由時間があったのでメラー(ユダヤ人居住区)に出かけました。同行の1人が付き合ってくれたのでタクシーで出かけました。タクシーを降りるとき運転手がポン引きガイドを紹介してくれました。lonelyplanetにはシナゴーグに行くには現地ガイドが必要と書いてあったので好都合でした。現地ガイドが私に”JapaneseJew?”(日系ユダヤ人か?)と尋ねました。多分メラーやシナゴーグを訪ねる日本人は珍しいのでしょう。さてシナゴーグに到着したのですが入口には閉まっていて入れません。ごたごたしていると人が出てきて今日は「シャバト」(土曜日でユダヤ教徒の安息日)で見学はできないとのことです。あなたはユダヤ人ですかと尋ねるとそうだとの返事です。そういえば「キッパ」を被っていました。(キッパについては2...「ツアーコースにない所」マラケシュのユダヤ人居住区1

  • 「ツアーコースにない所」ビーラー・ホラ(白山)の戦い

    2001年チェコを訪れた時、首都プラハの旧市街にフスの像がある広場でビーラー・ホラ(白山)の戦い(1620年11月)で破れ処刑された27人のプロテスタント貴族の碑銘を探しました。1人の自由時間での行動で現地ガイドも、添乗員もいなく(あとで聞くと添乗員も知りませんでした)よくわかりません。近くの高校生らしき集団に尋ねました。知りませんでした。あきらめて引き返そうとした時、引率の先生らしき人が慌てたようにやってきて、「ここです」と教えてくれたのが、冒頭の写真です。27個の十字架の石碑が写真のように埋められていました。ビーラー・ホラの戦いは1618年に勃発した30年戦争(1618~1648)の初期に起き、チェコ(当時ボヘミアと呼ばれた)が完全にオーストリアハプスブルグ家の直轄支配に組み込まれることになる事件です...「ツアーコースにない所」ビーラー・ホラ(白山)の戦い

  • 「ツアーコースにない所」 ユダヤ人のお墓

    ヨーロッパの小国アンドラ公国にあるこの国で一番古いサンタ・コロマ教会を訪れた時の話です。教会内部の観光をして、外に出てキョロキョロしていると、このようなもの(写真)に出会いました。現地ガイドも添乗員からも案内がないので尋ねました。現地ガイドの返事はナチに追われてここに落ち延びてきたユダヤ人女性のお墓という説明でした。詳しく聞きたかったのですが時間がなく残念でした。帰国して何かの本でこの地に落ち延びたユダヤ人の話を読んだような気がして私の貧弱な書棚を探しても見つかりません。図書館から借りた本からかと思い幾冊かの本を再度借り出してもよくわかりませんでした。ご承知の方がいれば教えてください。「地球の歩き方」にはこの教会の紹介はありません。Lonelyplanetにはこの教会の紹介はあるのですが、このお墓の話はあ...「ツアーコースにない所」ユダヤ人のお墓

  • 「ツアーコースにない所」 サヴォナローラ追悼碑

    1996年5月フィレンツェのシニョーリア広場で私はサヴォナローラが火刑された場所を探していました。なかなか見つかりません。団体旅行ですから時間制限があります。慌てて現地ガイドをつかまえてその場所を聞きました。その円形の石版は雑踏の観光客の足元にありました。ドメニコ派の修道士であったサヴォナローラは15世紀後半フィレンツェの享楽と堕落を非難し、その中心であったロレンツォ・ディ・メディチや時の教皇を罵倒しました。そのため1498年この広場で彼は火刑に処せられました。この有様をボッティチェリ、マキャベリー、ミケランジェロが見ていました。フィレンツェへ旅行の機会があればイタリア・ルネサンスの別の一面に想いをめぐらし、観光客の足元で今では殆ど振り返られることもないこの石版をご覧になることをお勧めします。「ツアーコースにない所」サヴォナローラ追悼碑

  • 「ツアーコースにない所」キューバでのシナゴーグ

    ガイドブックlonelyplanet(p79)を見てみるとシナゴーグがハバナにあるということなのでツアーコンダクター(添乗員)の東山さんに頼んで現地会社と交渉してもらい、行くことになりました。Lonelyplanetによればキューバには約1500人のユダヤ人がいてシナゴーグは3つあり、ハバナのシナゴーグが一番大きく図書館などもあるという記載もされていました。そしてフレンドリーなスタッフがキューバでのユダヤ人の興味ある歴史を説明してくれると書かれおり非常に楽しみにしていました。ところが直前になってなぜか訪問が中止になりました。旅行4日目サンティアゴ・デ・クーパでこの地にもシナゴーグがあるということで訪問しました。冒頭写真は入り口のプレートで非常に見難いですが5689-5760という数字は聖書の神の天地創造の...「ツアーコースにない所」キューバでのシナゴーグ

  • 「ツアーコースにない所」モラエスの生家

    ツアー客もめったに訪れないというポルトガルのリスボンにあるモラエスの生家を自由時間に訪れました。モラエス(1854~1929)はポルトガルの海軍士官、外交官で小泉八雲と共に日本文化をヨーロッパに紹介した人として知られています。1898年神戸総領事になり日本人と結婚しそのまま日本にとどまり徳島で亡くなります。彼の総領事中にポルトガル植民地東チモールの反乱鎮圧に日本から鉄砲を調達したことがありました。歴史の皮肉ですね。100年前にポルトガルから鉄砲を学んだ日本がその鉄砲をポルトガルに輸出するとは。「ツアーコースにない所」モラエスの生家

  • 「ツアーコースにない所」プラハのシナゴーグ

    2004年、ウズベキスタンのブハラにユダヤ教の教会シナゴーグあるというガイドブック・ロンリープラネットの指摘で自由時間を利用して出かけて見ました。ユダヤ人は12,3世紀からブハラに住むようになりヘブライ語を話さないディアスポラ(離散民)ということです。根深い制度的な差別を受けながらブハラでは商業面で重要な役割を果たしてきました。ソビエト連邦崩壊後、イスラエル、アメリカ合州国に移住する人たちが急速に増えブハラの人口の7%を占めていたものが現在2%以下になっています。そして100年前までは七つあったシナゴーグは1920年以降一つになりました。(以上ロンリープラネットCentralAsiap60,314による)人口数の実際は2%(5000人)よりももっと減少して600人になっているとはこのシナゴーグでの話です。...「ツアーコースにない所」プラハのシナゴーグ

  • 「ツアーコースにない所」燻製ビール

    ドイツのバンベルクでの一番忘れられないものは、燻製ビールです。ツアーコースにない所でしたが、自由時間に一人で出かけて燻製ビールの操業1678年の醸造元の酒場でいただきました燻製の香りがするRauchbier(燻製ビール)です。写真の1678年創業シュレンケラ燻製ビール醸造所居酒屋(AechtShlenkerlaRauchbierBrauerei–Ausschankseit1678)で味わいました。1998年のことなのでその味を忘れました。そこで相原恭子氏の「もっと知りたい!ドイツビールの愉しみ」の以下の一文を紹介しておきます。「シュレンケラで2種類を味わった。ラオホメルチェンは樫の木の樽から注がれた。まず感じるのはスモークの香り、口に含むと苦味とかすかな酸味がモルトのコクのあるわずかな甘みと調和して、不思...「ツアーコースにない所」燻製ビール

  • 「ツアーコースにない所」マサイ人のエシラレイ村

    マサイ人はアフリカのケニア南部からタンザニア南部に居住する遊牧民族で人口約50万人と推定されています。身体能力は抜群でマラソンでの活躍は有名です。タンザニアをバスで移動中マサイ人の村(エシラレイ)に出会いましたが観光コースにはありませんでした。そこで私が発案して皆さんの同意を得てこの村への訪問をしました。そのため各人10ドルの特別出費でした。冒頭写真は歓迎の皆さんです。家屋です。ちょっと失礼して家の中をのぞかせていただきました。子供たちですね。首にワッカのようなものをつけていますが、何ですかね。尋ねたような気がしますが忘れました。村長のロモニさんと私です。村長さんには2人の奥さんと10人の子供さんがいるそうです。帰国後、永松真紀著「私の夫はマサイ戦士」という本を読みました。彼女はマサイ人ジャクソンのもとへ...「ツアーコースにない所」マサイ人のエシラレイ村

  • 「ツアーコースにない所」韓国7 仏教伝来謝恩碑

    1972年に日本の仏教徒によって扶余の地に建てられた「仏教伝来謝恩碑」をツアーコースにはなかったので特別に頼んで訪問しました。逆光だったので正面の文字がよくわかりませんが、裏面に由来が書いてありました。「ツアーコースにない所」韓国7仏教伝来謝恩碑

  • 「ツアーコースにない所」韓国6 西大門刑務所歴史館

    日本敗戦(韓国では光復日)の翌日1945年8月16日にここ西大門刑務所から多くの反日、独立運動をした囚人たちが出獄しました。ここ西大門は植民地時代(韓国では日帝時代)多くの政治犯が収容されていました。4月30日に紹介した柳寛順ユガンスンもここに収容され拷問で死亡しました。その後普通の刑務所になりましたが、1998年歴史館になり一般公開されています。冒頭写真は入り口です。博物館内は薄暗くノーフラッシュのカメラで腕も悪く、日本語の説明文も少なく良い写真は有りませんが、以下4点を紹介します。皇国教育。獄中で皇国教育がなされていたのですね。蛇足ながら戦後教育の皆さんに「皇国」とは「天皇の統治する国」という意味であることを注にしておきます。担当者も本気で彼らに皇国教育ができると思っていたのでしょうかね。朝鮮語学会事...「ツアーコースにない所」韓国6西大門刑務所歴史館

  • 「ツアーコースにない所」韓国5 李舜臣

    前回は女子生徒の人気ナンバーワンの柳寛順ユグアンスンを紹介しましたが、今回は男子生徒のナンバーワンの李舜臣の紹介です。釜山の龍頭山公園に彼の銅像があることを司馬遼太郎の著書に書かれていたのでツアーコースになかったのですが行きたいと思いました。ツアーコースにはなかったのでおねがいしました。いったんは拒否されましたが、結局行きことになりました。時間的余裕は充分でした。ここを訪れてもその日のホテル到着は午後4時頃でした。銅像の足元に日本語による李舜臣の業績の説明がありました。次のように書かれています。「この銅像は朝鮮時代に起きた壬辰倭乱(文禄・慶長の役)で、危機に瀕した国を救った、救国と忠節の象徴である忠武公李舜臣(1545年~1598年)将軍を称えるために1955年に建てられたものである。李舜臣将軍は1592...「ツアーコースにない所」韓国5李舜臣

  • 「ツアーコースにない所」韓国4 柳寛順ユグアンスン

    少し古い記録ですが、1993年の朝鮮日報紙に淑明女子大学のキム・クアナン教授の「尊敬する歴史上の人物」というテーマで国民学校から高等学校までの生徒1800名に対するアンケート調査の結果が載せられました。男子生徒1李舜臣2世宗大王セジョン(朝鮮王朝4代の名君で作りハングルを作りました)3エディソン4シュバイツアー5リンカーン女子生徒1柳寛順ユグアンスン2世宗大王3ヘレン・ケラー4シュバイツアー5李舜臣(「ある日韓歴史の旅」竹国友康著、朝日選書p216より)ここで注目していただきたいのは韓国人の名前が3人ですがそのうち2名までが日本の侵略に抵抗した人であることです。皆さん、女子生徒がトップに挙げた柳寛順をご存じですか。韓国のジャンヌダルクとも呼ばれています。以下柳寛順ユグアンスンについての記述は主に「観光コー...「ツアーコースにない所」韓国4柳寛順ユグアンスン

  • 「ツアーコースにない所」韓国3パゴダ(タブコル)公園

    意図的に削除されと思われる代表的な場所がソウルにあるパゴダ(タブコル)公園です。ソウルの仁寺洞(インサンドン)商店街の隣り合わせにパゴダ公園があります。この商店街には1時間以上の散策の時間を与えながら、パゴダ公園への案内にはありませんでした。1910年に日本は韓国を併合しました。「1919年3月1日(中略)民族代表者33名の名前で独立宣言を発表(中略)ソウルではタプコル(パゴダ)公園に集まった各級学校学生と市民が市街地に出て万歳示威を(中略)」大極旗の波と大韓独立万歳を叫ぶ声全国に***日帝は憲兵警察はもちろん、陸海軍まで緊急出動させた。平和的な示威によって正当な要求を主張したわが民族は、無差別の銃撃によって殺傷**」(国定韓国高等学校歴史教科書日本語版1996年版p405~406)もちろん日本の歴史教科...「ツアーコースにない所」韓国3パゴダ(タブコル)公園

  • 「ツアーコースにない所」 韓国2 景福宮キョンポックン 明成皇后殺害現場

    景福宮は朝鮮王朝をおこした李成桂(太宗)(在位1392年~1408年)が1394年に建てた王宮です。1592年の文禄の役(韓国では壬辰倭乱)で破壊、1865年再建されました。1895年国王の妃、明成皇后(閔妃)がこの宮殿で日本によって暗殺されました。当時日本とロシアは朝鮮への影響をめぐって互いに対立していました。(結果は日露戦争)その時日本は明成皇后を親ロシアとみなし日本の駐韓公使三浦梧楼の指示を受けた人たちがこの宮殿の坤寧閣に乱入し虐殺しました。「日韓交流の歴史」は「より深くするために」で以下のように記述しています。「明成皇后殺害事件の重要性を学んでほしい。日本の朝鮮侵略は、日露戦争から本格化するが、その前に高宗国王の后を王宮内で殺害するという重大事件を起こしている。この事件は、日本の公使が関与していた...「ツアーコースにない所」韓国2景福宮キョンポックン明成皇后殺害現場

  • 「ツアーコースにない所」韓国1 安重根義士記念館

    韓国旅行(2011年)は10日間という比較的長いパックツアーでしたが、韓国と日本との関係を示すところにはほとんど案内されませんでした。意図的にそのような歴史的な場所への観光は削除されているようでした。そこで旅行最終日の38度線の観光をキャンセルしてこうしたところを訪れました。そのいくつかを紹介します。まずは前回紹介した安重根のソウルにある記念館です。安重根義士記念館については現地手配会社の高さんは「今後とも日本人のツアーコースには絶対に入らないでしょう。なぜならば安重根は韓国では国民的英雄だが、日本ではと、ここで言い淀みました」。そこで私が続けて「日本ではテロリストですか?(私がそう考えているのではありません)と尋ねましたが、答えは返ってきませんでした。さてホテルでタクシーの手配を頼みました。ところが驚い...「ツアーコースにない所」韓国1安重根義士記念館

  • 「ツアーコースにない所」ハルピン 安重根

    安重根(朝鮮語読みアン・ジュングン1879~1910)は朝鮮の大韓帝国時代の朝鮮独立運動家で1909年朝鮮を日本の保護国にした責任者として伊藤博文をハルビン駅構内で射殺した人物です。その「安重根義士記念館」がハルビン駅構内にも隣接してありました。ツアーコースにはありません。事前ににもの存在を知りませんでした。それは「観光コースでない『満州』」(高文研2011年第3刷p165)の以下の文章によります。「**暗殺現場は、終戦まで***円形のガラスがはめられ***解放後も目印があると聞いていたが***我々が訪れた時は***駅員に聞いてもどのホームかさえもわからなかった。**考えてみれば、日本人がロシア人に会うために訪れ、朝鮮人に殺された場所など中国人には全く関係が無いのだから、なにも残ってなくても当然かもしれな...「ツアーコースにない所」ハルピン安重根

  • 「ツアーコースにない所」編 5 コリントス運河の前身ディオルコス

    ギリシアの地図を見ていただければ分かりますが、アテネからアドリア海に抜ける海路はペロポネソス半島を迂回しなければなりません。そこでコリントスの所で運河を通すことが考えられました。古くはBC6世紀コリントスの僭主ペリアンドロスが運河開鑿を計画しますが断念します。AD67年にはかのネロ皇帝が6000人のユダヤ人囚人を使って開鑿を始めましたが、ゴール人の侵入で頓挫します。結局(1883~1893年)スエズ運河の開削に刺激されフランスの会社によって開通されます。この運河は全長6436メートル、幅23メートル、高さは高い所で90メートル、水深8メートルです。第二次世界大戦中ドイツ軍が運河を利用するのを阻止するためには意図的に運河を破壊せざるを得ないこともありました。この復旧には5年あまりかかりました。現在は幅が狭い...「ツアーコースにない所」編5コリントス運河の前身ディオルコス

  • 「ツアーコースにない所」4 ポツダム風車

    写真は何の変哲もないドイツのポツダムある風車です。私はドイツ旅行を決めたとき、もしこの風車がまだ存在していればぜひ見たいものだと期待しました。勿論観光コースに入っていませんので、現地のガイドに尋ねると現在も存在しているとして場所を教えてくれました。見たかった理由は今から約140年前に岩倉使節団(注1)の一員としてここを訪れた久米邦武(注2)が書いた「米欧回覧実記」という本の以下のような一節です。「宮殿の西に1つの風車がある。フリードリッヒ・ウイルヘルム(大王)が宮殿の修築を行った際、このあたりの土地を買い増したところ、そこに風車があって庭園の風景の邪魔になるので、風車の持ち主に命じて取り壊させようとした。ところが風車の持ち主がこれを聞き、ベルリンには法律家は1人もいないのかと言って、返事をせず、取り壊そう...「ツアーコースにない所」4ポツダム風車

  • 「ツアーコースにない所」3 コークの原爆追悼碑

    アイルランド旅行に出かける前にガイドブック「LONELYPLANETIreland」を見ていたらコークの市内地図に“Hiroshima&NagasakiMonument“と書いてありました。説明はありませんでした。日本語のガイドブック「地球の歩き方ダイヤモンド社」にはありませんでした。このパックツアーの観光コースにも入っていません。そこで宿泊のホテルの近くだということを確認して早朝出かけることにしました。しかし私は稀代の方向音痴(この時ダブリンで集合場所を間違えて皆さんにご迷惑を掛けました)なのでホテルの受付で場所を尋ねました。係りの人は暫し首を傾げていましたがようやく分かったか説明してくれました。しかし方向音痴と英語力の不足のためよくわかりません。ままよ、と出かけ途中でたずねましたが殆どの人は知りません...「ツアーコースにない所」3コークの原爆追悼碑

  • 「ツアーコースにない所」2ポンペイ売春宿跡

    イタリアのポンペイ遺跡は有名でイタリア旅行では必ず行くところです。そこに売春宿跡があるのを皆さんご存じですか。ツアーコースにはありません。ガイドブックにもありません。偶然旅行前にその存在を知り、現地ガイドに話をしたところ紹介してくれるということになりました。ところがその後がいけません。添乗員が「女性の参加者はそのようなところに行くことを嫌います。困ります」と抗議をわたくしにしてきました。しかし本音はどうやら先に現地ガイドに話をして添乗員を無視したところに激怒したようです。写真がその売春宿跡です。上部にちょっと見にくいですが男根(ペニス)がありますね。「米欧回覧実記」は「一区ニハ花街アリ***戸ノ上頭ニ画ヲ存セルアリ、多ク淫褻(インセツ)ノ図ナリ」(岩波文庫p334)と記しています。ポンペイにはかなりの数の...「ツアーコースにない所」2ポンペイ売春宿跡

  • 「ツアーコースにない所」編 1 黒人ユダヤ教徒 ファラーシャ

    わたくしが利用した海外旅行はほとんど自由時間がありませんでした。したがってコースにない所の観光はほとんどできません。しかし、関心があるところに行きたいところがあったときには、添乗員または現地ガイドにお願い、少ない自由時間の利用、一同から外れて単独行動という方法があります。それらの方法で「ツアーコースにない所」を観光したところをいくつか紹介します。イスラエルに黒人のユダヤ教徒がいるのをご存じですか。その起源はエチオピアです。エチオピアには以前10万人を越す黒人のユダヤ教徒がいました。彼らはファラシャと呼ばれていましたがその意味が「よそ者」「流浪人」であることから当人たちはその言葉を忌避していてベター・イスラエルと呼ぶ場合があります。その起源には種々な説があり不明ですが1975年イスラエル政府がユダヤ教徒(人...「ツアーコースにない所」編1黒人ユダヤ教徒ファラーシャ

  • 「忘れられない」編 一言

    JapaneseJewモロッコのマラケシュでは自由時間があったのでシナゴーグ(ユダヤ教礼拝場)に出かけました。lonelyplanetにはシナゴーグに行くには現地ガイドが必要と書いてあったので路上にいた現地ガイドに案内を頼みました。その彼は私に”JapaneseJew?”(日系ユダヤ人か?)と尋ねました。多分シナゴーグを訪ねる日本人は珍しいのでしょう。。香港2007年に香港経由でナイロビに向かいました。その最初の香港までの機内で3人掛けの窓際に若夫婦(恋人?)がいて年寄りの私を気遣ってくれて手荷物の収納などを手伝ってくれました。日本人ではないようなので「チャイニーズ?」と尋ねてみました。答えはそれを否定する語調でホンコン(香港)でした。「!?なるほど」が私でした。最近の香港情勢を考え写真は紹介しません。c...「忘れられない」編一言

  • 「忘れられない」編 ロベン島とマンデラ

    ロベン島は南アフリカのケープタウンの沖合い12kmにある島です。アパルトヘイト(人種隔離差別政策)時代、主に政治犯黒人専用の刑務所島だったところです。1959年から1991年まで述べ約3000人が収容されていました。当時の写真です。一人ひとりかなりの間隔があけられて作業をしていますね。其の中には後にノーベル平和賞受けるネルソン・マンデラもいました。1999年島全体が世界遺産登録されました。広島の原爆慰霊碑とともに負の世界遺産です。ケープタウンから船に乗って20分くらいでした。ちょっと余談話このアパルトヘイト白人優位時代の日本人は「名誉白人」という不名誉な名前をもらい白人に準じた扱いを受けていました。ただ白人女性と結婚した日本人が「雑婚禁止法」で国外退去になったことがありました。それに対してプレトリアの日本...「忘れられない」編ロベン島とマンデラ

  • 「忘れられない」編 アウシュヴィッツ

    ポーランドに行くことを決めた時、ちょっと迷いました。「アウシュヴィッツには行きたくない、いや行くべきだ」と。この気持ちは私だけのものではないようで、聞くところによればアウシュヴィッツのときだけ欠席する人がたまにいるそうです。アウシュヴィッツはドイツ語名でポーランド語ではオシフィエンチムです。またアウシュヴィッツの名前が有名ですが、すぐ隣にはここより大きいビルケナウ強制収容所があります。二つ一緒にして考えることが多いようです。ここはあまりにも有名なので説明の用は無いと思いますが、少しだけ触れておきます。第二次世界大戦中ヒトラーナチスドイツがユダヤ人を中心として28民族(人種)の人たちを強制収用所に入れました。そのうちもっとも規模の大きいのがアウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所です。ここで殺された人は150万人...「忘れられない」編アウシュヴィッツ

  • 「忘れられない」編 雄奴隷収容所

    ガーナ共和国のケープコーストに奴隷一時保管所が残されていました。アメリカへ積み出され迄の一時保管場所です。Maleslave(雄奴隷)のdungeon(土牢)。一度に100に程度の奴隷が閉じこまれていました。内部は全く薄暗く陰気な感じでした。2009年7月にオバマ大統領がここを訪れています。オバマさんは奴隷の子孫ではありませんが、ミッシェル夫人はアフリカからの奴隷の子孫です。「忘れられない」編雄奴隷収容所

  • 「忘れられない」編 ヴィルヴィツア=奇想天外

    写真はアフリカナミビア共和国からアンゴラにかけての砂漠に自生する地上で最も過酷な環境で2000年も生きている植物ヴィルヴィッア、日本名「奇想天外」です。この葉の最長記録は8.8mだそうです幼少な?「ヴィルヴィツア=奇想天外」もいるので保護のため石で囲っていました。(写真下)「忘れられない」編ヴィルヴィツア=奇想天外

  • 「忘れられない」編 トゥースレン虐殺犯罪記念館(元刑務所)

    カンボジアのプノンペンではポル・ポト政権が作ったトゥースレン刑務所(現在虐殺犯罪記念館)を訪れました。そこでの写真です。ここに約2万人が収容され6人だけが生還しました。虐殺された人の写真です(写真上中)写真下は何だと思いますか。虐殺された人たちの頭蓋骨で形作られたカンボジアの地図です。あまりにも残酷なので2004年に撤去されました。1975年に成立したポル・ポト政権は1979年までの4年間に200万~300万人(国民の約三分の一)の自国民を虐殺しました。特にインテリ層が対象になりました。メガネをかけているだけでインテリとみなされ処刑されました。いままでナチスのユダヤ人虐殺、トルコによるアルメニア人虐殺を紹介してきましたが、カンボジアでは自国民虐殺です。アフリカのルアンダ、ダンフールの虐殺も他民族です。その...「忘れられない」編トゥースレン虐殺犯罪記念館(元刑務所)

  • 「忘れられない」編 スイスのライオン記念碑

    写真はスイスのルッチェルンにあるライオン記念碑です。フランス革命時の1792年衛兵としてフランス王家に仕えていたスイス傭兵が、革命派によって殺されたことを追悼する碑です。奇妙ですね。外国の傭兵なっていた人を追悼するとは。これには理由があります。スイス傭兵部隊とは(スイス)国家管理の輸出産業だったのです。「金のないところスイス兵なし」といわれるほど金と略奪品を求めてスイス兵はヨーロッパ各国の傭兵として活躍しました。余談ですがスイスの銀行の秘密性は有名ですがこれは傭兵から送られてくるお金の秘密保護に由来しています。スイスで外国軍隊への軍務が禁止されたのは第一次世界大戦が終了して10年後の1927年のことです。「古来戦争とは忠誠、祖国愛といった観念とは対極に位置していた傭兵たちによって担われていたのである。それ...「忘れられない」編スイスのライオン記念碑

  • 「忘れられない」編 フランス大使館の標識

    南アフリカのケープタウンのホテルの隣にフランス大使館がありました。ふと標識を見ると自由Liberte・平等Egalite・博愛Fraterniteと書いてありました。(写真)フランス大使館は東京にもあり珍しい存在ではありませんが、私は初めてでした。したがってこのような言葉が書かれていたとは知りませんでした。フランスは少し嫌いなところがありますがやはりすごい国だなー、と思うと同時にアパルトヘイトの時代にここを通りかかった南アフリカの人たち(黒人、白人を問わず)がこの標語を見て何を思ったであろうかと妄想していました。フランスのパスポートにもこの標語が書かれているのかなー、と思いながら、私のパスポートの表紙にある天皇家の家紋を思い、俺はいまだ「ナンジシンミン」かー。「忘れられない」編フランス大使館の標識

  • 「忘れられない」編 トレヴィア58 バスク料理

    わたくしはあまり食べ物の紹介をしないのですが、このバスク料理はなぜか印象深く記憶に残っています。2回目だったのでサグラダファミリア内部の観光をやめて、近くのカフェ的なところで添乗員の方に案内されていきました。そこでバスク(注)料理をいただきました。バスク料理の中で、最も人気のある料理の一つ「ピンチョス」です。小さく切ったパンに食材を載せて、串や楊枝で刺しているのが特徴です。(注)スペイン領に約75万人、フランス領に約10万人いるヨーロッパ最古の少数先住民族。スペインでは独立国家を目指す人たちも。「忘れられない」編トレヴィア58バスク料理

  • 「忘れられない」編 トレヴィア 57 エチオピアの物貰い

    エチオピアのセミエン公園で宿泊したコテージの部屋にこのような文章がありました。子供に物をあげないようにという趣旨のようです。エチオピアではむやみに物・お金をせがむ人が多かったように思います。前回のブータンではそのような人が一人もいなかったせいか特に印象深く感じました。大学生が授業料をくれと言ったのには驚きでした。普通の女性が胸を押さえ病気なのでお金をくれという状況は複数回ありました。教会を出たところで「ソック・ソック」という子がいました。何かというと教会では靴を脱いで入るので汚れた靴下をくれというこのようでした。私の旅行では物ねだりが最も多かった国です。しかし、ここセミエン公園では物を売ろうとする子はいましたが、お金をねだる子はいませんでした。「忘れられない」編トレヴィア57エチオピアの物貰い

  • 「忘れられない」編 トレヴィア 56 ブータンの王

    前回ブータンの王様について触れたのでついでにもうひとつ。写真はブータンの首都ティンプーにある伝統技芸院の教室にあった張り紙です。この英文を英語に堪能な同行者に訳してもらい、その後私がこの文章の下にあるメッセージの作者の名前を音読した時、この室内にいた生徒たちが一斉に立ち上がり何か叫びました。私は一瞬何が起きたのか分かりませんでした。どうやら私が音読した名前は王で、彼らは「王様だ、この壁にある王様の写真を撮れ」と言っているようでした。ブータン人の国王に対する敬愛の念については事前に書物では知っていましたが、ここで初めて肌で実感しました。写真下は生徒たち。「忘れられない」編トレヴィア56ブータンの王

  • 「忘れられない」編 トレヴィア55 ブータンの交通

    一見トレヴィアの様で深い意味のあるもの5つ目ブータンでは1960年までは車が通れる道路はありませんでした。したがって勿論車も一台もありませんでした。現在は車も通行しています。写真は首都ティンプのメインストリートです。車も見えますね。御堂のような建物がありますが、ここに警察官がいて交通整理をします。以前ここに信号機がありましたが国王の「景観上似合わない」との一言で廃止になり、現在ブータン国内には信号機はありません。ブータンの国民感情を象徴しているようです。「忘れられない」編トレヴィア55ブータンの交通

  • 「忘れられない」編 トレヴィア54 奴隷交易

    一見トレヴィアの様で深い意味のあるもの4つ目この写真はアフリカのベナン共和国(以前ダメホー王国)のギガ要塞博物館で見たものです。この文章の意味は「アフリカの王たちは奴隷交易を初めから積極的に行ったのではないが、結果的には莫大な利益を上げた」ということのようです。この弁解は事実と異なるものです。実際は当時のアフリカ諸国の王たちが積極的に奴隷狩りをしてヨーロッパ諸国の商人に売り鉄砲などの武器を手に入れていたのです。しかしこのような言いわけが書かれているところをみると一定の説得力を持っているのでしょうかね。そのためこの地のダホメー王の末裔が現在も一定の権力を持っているのかも。奴隷狩りの跡をベナンの人口2万人の湖上村ガンヴィエ(写真下)に見ることができます。このような湖上の不便なところに2万もの人が生活している理...「忘れられない」編トレヴィア54奴隷交易

  • 「忘れられない」編 トレヴィア53 オストラコン

    写真はギリシアのアテネの柱廊博物館で見たオストラキスモスに使われたオストラコンです。オストラコンとはギリシア語で陶片を意味します。オストラキスモスとは古代ギリシアの政治制度です。一般に古代ギリシアの各ポリスは王政→貴族制→民主制と進みました。その典型的な都市がアテネ(古代名はアテナイ)でした。その貴族制→民主制の過渡期に非合法の独裁支配者が現れます。これをギリシア語でtyrannosといい日本語で僭主と訳しています。このtyrannosは英語のtyrant(暴君、独裁者)の語源になっています。しかしギリシアでは暴君的な意味はなくむしろ以後の民主制の発展に寄与している側面があります。しかし、民主制下ではこのtyrannosの出現を警戒して市民は写真のようなオストラコンに危険と思われる人物名を書きアゴラ(市民...「忘れられない」編トレヴィア53オストラコン

  • 「忘れられない」編 トレヴィア52 トルコとギリシア

    一見トレヴィアの様で深い意味のある2つ目。ギリシア旅行時トルコ領内にあるギリシア古代遺跡エフェソスに船で向かいました。到着した港町はクシャダスです。港に下り立ったとき面白い物を見つけました。(写真)そうなんです”、WheninTurkey***DowhatmostTurkishpeopledo.”と書いてありました。直訳すれば「トルコに居るときは、多くのトルコ人がするようにしなさい」日本語では「郷に入ればば郷に従え」となるのでしょうか。普通ならば”WelcometoTurkey”「トルコへようこそ」だと思うのですが。そこで私流にこの謎解きをして見ます。この謎解きのキーワードは「ギリシアとトルコは犬猿の仲」と思います。添乗員の稲葉さんが面白い話しをしてくれました。煮出しのトルココーヒーは有名ですが、全く同じ...「忘れられない」編トレヴィア52トルコとギリシア

  • 「忘れられない」編 トレヴィア51 アレクサンダーちゃん

    一見、トレヴィアですが意外に深い意味のあることに出会うことがあります。2010年にマケドニアを訪れた時住宅街をぶらぶらしていた時、アレクサンダー!と呼ぶ声が聞こえました。その先には女の子がいました。(写真上)どうやらこの女の子の名前がアレクサンダーのようです。びっくりしました。女の子の名前がかの歴史的なアレクサンダー大王の名前と同じだとは。どうやらこれには深い意味があるようです。マケドニアは隣国ギリシアとの間に国名をめぐってトラブルがあります。ギリシアの言い分は、「マケドニア」という国名は、かの有名なアレクサンダー大王の古代マケドニアの名称の僭称というわけです。そして自分たちギリシアがマケドニアの正当な継承者と主張しています。そこで1991年にユーゴスラビア連邦より独立した時の国連加盟時の呼称は「マケドニ...「忘れられない」編トレヴィア51アレクサンダーちゃん

  • 「忘れられない」編 トレヴィア50 ツアツア

    ブータンでは死後遺体は僧侶によって魂が抜かれ(ポアといいます。オーム真理教を思い出しますね)故人の魂は休む間もなく次の生を受けて転生します。(輪廻転生)したがって、遺体はただの物体になり火葬されます。火葬後遺灰は川に流されます。(ヒンドゥー教とここまでは同じ)ただ遺骨の一部が遺され粉々に砕かれ粘土と混ぜあわされ、それを円錐形の鋳型で固めます。数十個から百個くらい作ります。これをツァツァといいます。これを天日干しにして21日目にチョルテン。寺の屋根や壁、または道端に奉納し、その後はそのまま放擲し数年で風化しあとかたもなくなります。お寺に置かれたり(写真上)、なにもない道端(写真下)にもありました。本林靖久氏はこのことについて以下のように述べています。「ブータンでは遺体や遺骨に対する執着はなく、遺骨を保存し、...「忘れられない」編トレヴィア50ツアツア

  • 「忘れられない」編 トレヴィア 49 イランの結婚式

    イランのホテルで結婚式(披露宴?)に出会いました。写真は男性席、仕切りの向こう側は女性席というわけです。男性席の前には果物だけ、勿論アルコールはありません。お互いに談笑している風もありません。この状態は最後まで続くそうで、現地ガイドのサラビさんはこれが普通でまるで葬式のようだと話してくれました。そういえば皆さん、さえない顔をしていますね。ついでにもう一つ彼らの胸元を見てください、ネクタイをしていませんね。以前ネクタイは禁止でしたが、今は自由にはなっていますがやはり、何故ですかね。日本のクールビズの元祖ですか。下の写真は女性席です。勿論男の私は入れないので、同行の女性に写してもらったものです。男性側と違ってなんとなく華やいで見えます。まだ会は始まっていないのですが、宴たけなわとなるとヴェールを脱ぎドンちゃん...「忘れられない」編トレヴィア49イランの結婚式

  • 「忘れられない」編 トレヴィア48 エイズ

    最近では伝染病として「コロナ」の話題も少し少なくなりましたが、それ以前は「エイズ」が最大の話題でした。2011年にブータンを訪れた時、写真のような掲示板に出会いました。ブータンではエイズの患者が沢山いるとは聞いていませんが、エイズ予防の掲示板です。なかなか面白いので紹介します。インド国境に近いサムドゥプ・ジョンカン(2011年8月23日地図)で見ました。国境の町ということに何か意味があると感じました。ゾンカ語と準公用語の英語で書かれていました。私の下手な日本語訳を付けておきます。「私はコンドームです。あなたの友達です。決してあなたを裏切りません。あなたは私を常に信頼できます。あなたをエイズから守ります。あなたの人生に幸せをもたらすことができます。あなたに役立ちます。セックスの時に私を使用することで後悔する...「忘れられない」編トレヴィア48エイズ

  • 「忘れられない」編 トレヴィア47 石風呂

    ブータンのパロで民家を訪れた時、石風呂に出会いました。ちょっと分かりにくいですが、手前が熱した石でその向こうが湯船というわけです。前国王の妃ドルジェ・ワンモ・ワンチュックがその著「幸福の大国ブータン」(p172)で次のように記述しています・「温泉に行かれない人は、家の近くの湯治としてブータン式石風呂があります。石風呂は木桶の中に熱い石を入れて浸かるものですが、ブータン国内の至る所、鉱物質の豊かな水が湧き出るところには、何十と設けてあります。あらかじめ水を張っておいた木桶を、板で二つに仕切って、片方に熱した石を入れて、もう片方に人が浸かります。熱せられた石が、湧き出た薬効の水を温めるので、ミネラル分の癒し効果が高まります。石風呂に浸かると、即座に痛みや苦しみから解放されます「忘れられない」編トレヴィア47石風呂

  • 「忘れられない」編 トレヴィア46 添乗員は通訳ではない

    ドイツ旅行の時でした。どこであったかは忘れましたが、ある建物の説明を現地ガイドがして、それを我々の添乗員が日本語に訳しました。ところがその説明が建物の実際と食い違っていました。そこで同行者の一人が「それは違うのではないですか」と疑問を呈しました。その時添乗員は急に怒り出しました。「添乗員は通訳ではありません。TVなどを見れば分かると通り通訳の仕事は大変神経をすり減らす仕事です。それが証拠に彼らはたびたび仕事を交代しているでしょう。添乗員は通訳ではないので間違いはあります」一同沈黙!「忘れられない」編トレヴィア46添乗員は通訳ではない

  • 「忘れられない」編 トレヴィア45 この世は誰が造ったのか

    私はラディカルな無神論者ですが、宗教(者)には強い関心があります。旅行では宗教や政治を話題にすることはタブーで特にキリスト教やイスラーム教圏では無神論であることの表明は絶対に避けるべきだと言われているようです。しかし私は自分が無神論者であるとよく言います。しかしそれで問題になったことは今までありませんでした。記憶がだいぶ薄れたのでどこの国だったかはよく覚えていませんが、キリスト教圏の国の街でぶらぶらしていた若者と出会い何かの拍子で自分は無神論者であると発言しました。その時若者は「それでは誰がこの世界を造ったのか?」と反論してきました。後から考えれば至極当然な普通の反論です。私は沈黙でした。しかし、この反論をいまだに鮮明に思い出します。それは多分日本では「誰が此の世界を造ったのか」と反論する人はあまりいない...「忘れられない」編トレヴィア45この世は誰が造ったのか

  • 「忘れられない」編 トレヴィア44 ハルピンでの婚活広場

    中国東北部の都市ハルピンで婚活広場に出会いました。この地にはロシアの影響でキリスト教会(ユダヤ教のシナゴーグを含む)が現在も残っています。(宗教活動が現在もなされているかどうかは私には不明)その一つハルビン天主教堂を訪れたときです。後方の周りの広場がかなり賑わっているので、屋台でも出ているのかなと思って近づいてみるとこの写真です。どうやら婚活ビラのようです。近づいてみるとはっきりしますね。真ん中のビラは男性からのものでわかりそうなところだけ拾い上げれば見れば「男性当方身長178センチ体重67kg仕事万能工(?)独立住居在り父母健在求む女性はハルビン居住父母健在性格良連絡先電話」ということのようです。右隣は女性から男性へ、のようですね。どちらも父母健在と明記されているところが面白いですね。このビラ張りは公的...「忘れられない」編トレヴィア44ハルピンでの婚活広場

  • 「忘れられない」編 トレヴィア43 歓喜仏

    ブータンでは原則としてお寺の内部は撮影禁止ですが、ここタシガンのクンザンヤブイム尼僧院では許されました。男女2体が合体した歓喜仏(ヤブユム)があるとは聞いていましたが、ここで初めて見ることができました。記憶が確かではありませんが多分ここだけで見たような気がします。「地球の歩き方」は「密教には性的エクスタシーを悟りの境地を高めるという思想があり、歓喜仏はそれを具体化したものである」(65~66)と説明しています。日本にもこの考えは伝わり真言宗立川流(現在は消滅したと考えられています)にそれを見ることができます。代表的な人物としては太平記にも登場する鎌倉幕府転覆を祈る「文観」がそうです。「関東調伏ノ為ニ、***加様ニ秘法ヲ修セラレルト也」(太平記巻一)立川流の教義は、陰陽の二道により真言密教の教理を発展させた...「忘れられない」編トレヴィア43歓喜仏

  • 「忘れられない」編 トレヴィア42 ブータンでポー(男根)

    写真はブータンのバロで見かけたものです。落書きではないようです。男根はブータンでは「ポー」と言います。「ポー」の絵以外につてはみなさんの妄想に任します。ナショナルジオグラフィック日本語版2008年3月号『岐路に立つブータン』p124にこの件に関連した記事が記載されていたので以下のように紹介します。「ブータンで信仰されているチベット仏教は密教で、俗っぽく、ユーモアや茶目っ気にあふれている。性的な表現が豊富なのは、性交渉もまた悟りにつながるという、密教の教えを反映しているのだろう。その思想を最も大胆に体現しているのが、『風狂の聖』として今もブータンで愛されている16世紀の高僧ドゥクパ・クンレだ。彼は田舎でどんちゃん騒ぎをし、悪魔を退治して自らの“燃えさかる稲妻”つまり男根で、娘たちを悟りに導いたという。今もブ...「忘れられない」編トレヴィア42ブータンでポー(男根)

  • 「忘れられない」編 トレヴィア41 阿里山森林鉄道車授乳室

    台湾の阿里山森林鉄道に授乳室がありました。ちょっと感激しました。「忘れられない」編トレヴィア41阿里山森林鉄道車授乳室

  • 「忘れられない」編 トレヴィア40 アメリカ合州国当初の国旗

    26回という世界でもっとも変更回数の多いアメリカ国旗の初代にコロニアル・ウィリアムズバーグで出会いました。私にはちょっとした感激でこのように老醜をさらしての写真となりました。1775年12月3日(独立戦争開始4月19日)~1777年6月14日までの国旗です。イギリス国旗に似ていますね。その後そこに州の数の星が描かれるようになります「忘れられない」編トレヴィア40アメリカ合州国当初の国旗

  • 「忘れられない」編 トレヴィア39 HALAL FOODと星条旗

    HALALFOODを提供する屋台ですね。ニューヨーク・マンハッタンで出会いました。HALALFOODとはイスラーム法上食べても良い食材、料理を言います。星条旗、アメリカ国旗がはためいているのが面白いですね。イスラーム教徒ですがアメリカ合州国に忠誠を誓っているということですかね。「忘れられない」編トレヴィア39HALALFOODと星条旗

  • 「忘れられない」編 トレヴィア38 赤道

    アフリカのウガンダで赤道(EQUATOR)を跨ぎました。N(右)が北半球でS(左)が南半球ですね。「忘れられない」編トレヴィア38赤道

  • 「忘れられない」編 トレヴィア37 モンテネグロの十戒

    2003年にスロヴェニア、クロアチアを旅行した時、ドブロヴニクから日帰りのオプションでモンテネグロを訪問しました。土産屋で絵ハガキを見つけました。写真がそれです。これは日本語ですが、英語、ドイツ語などもありました。何故このような自国民を揶揄するような絵ハガキが土産物として売られていのか、モンテネグロ人は自虐的なのか、はたまた超ユーモアの持ち主なのか。なおこの日本語は少し(かなり)不自然ですが熟読玩見してください。「忘れられない」編トレヴィア37モンテネグロの十戒

  • 「忘れられない」編 トレヴィア36 イスラーム圏での例外的な自然崇拝

    イスラーム教圏もキリスト教圏と同じですが例外的な光景をイスラーム教圏のトルコで見ていたので紹介します(トロイの遺跡の近く)。日本では神社などでよく見られる風景ですね。紙に願い事を書いています。現地ガイドのハーカンさんが珍しいもの見せると言って連れて行ってくれました。観光スポットではありません。ハーカンさんは何か秘密のものを見せるといった様子でした。イスラーム教徒にとっては許すことのできない異端の風習です。ハーカンさんはイスラームが来る以前の信仰だと説明していました。「忘れられない」編トレヴィア36イスラーム圏での例外的な自然崇拝

  • 「忘れられない」編 トレヴィア35 聖母子像

    クリスマスに因んで。写真はマケドニア共和国のオフリドで見た聖母子像です。このように自然の中に聖母(神)が祀られている風景は東南アジア、日本では珍しくないというよりは普通です。日本の神社仏閣は鬱蒼とした木々に包まれているし、ちょっとした林をよく見ると祠があり神仏が祭られている風景は今はだいぶ少なくなりましたが、かってはよく見られました。東南アジア、日本では自然と共に神仏があります。自然が神仏でもあります。しかし、キリスト教の教会やイスラーム教のモスクでは全く自然は排除されています。皆さん、木々に囲まれた教会、モスクを見られた方がいらっしゃいますか。無いですね。キリスト教、イスラーム教では「神」「人」「自然」は全く互いに隔絶した存在です。以前私はヨーロッパを旅行していて林に祠などが無いかとキョロキョロしてみま...「忘れられない」編トレヴィア35聖母子像

  • 「忘れられない」編 トレヴィア34 世界最小の帽子

    中国西域南道のニヤ(民豊)と和田(ホータン)の中間にあるケリヤの街で見かけたウイグル人女性です。この街独特の世界最小の帽子を被っています。許可をもらっての撮影です。同行の女性はこの人に撮影を断られたそうで、後でちょっぴりヤキモチを妬かれました。「忘れられない」編トレヴィア34世界最小の帽子

  • 「忘れられない」編 トレヴィア33 台所廃棄物口

    アンドラ公国にあるカサ・クリストル民俗博物館を訪れました。建物は18世紀から19世紀にかけて建てられた、この地では比較的下層の農民の家です。1947年にこの家の所有者がフランスに移住し空き家になっていたのを中の家具などを含めて町が購入して博物館にしたものです。本来民家ですから台所があります。問題は向こうに見える「穴」です。ここは2階ですが、この台所の廃棄物をこの穴から外の道路に流していたのです。19世紀フランスのパリでは家庭の廃物物(人糞も)を外の道路に廃棄していたことは有名です。(「パリの聖月曜日」喜安朗著、NHKTVのブラタモリのパリ編)。余談話ですが、20年近く前に私はパリで何回かイヌの糞を踏みました。私のパリの最大の想い出はこの路上のイヌの糞です。そのためにハイヒールが考案されたという話があります...「忘れられない」編トレヴィア33台所廃棄物口

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