岐阜が今、キムタク信長で盛り上がっている。「レジェンド&バタフライ」とは、なんか時代劇ならぬタイトル。いよいよ本日封切り。しかし、これは以前に書いた記事です。1/27中日新聞『世談(よだん)』に「編集委員・竹村純一郎」の記名で、こんなコラムが載った。「JR岐阜駅前に金ピカの小田信長像が建てられた。地元経済界有志が出資し、細江市長の主導で建てられたようだ。だが、織田信長は岐阜にとっては侵略者だ。絶対君主として君臨し、逆らう者を抹殺する。比叡山延暦寺、一向一揆、多くの人が理不尽に殺された。そんな権力者が郷土の誇りとは。(中略)そんなご仁に、永禄10年(1567)以来、450年近くたっても、岐阜人はひれ伏さなくちゃならないのかな」という内容。なるほど、なるほど、愛知の人にとっては、信長は「清洲の人」だ。岐阜のイ...岐阜にとっては侵略者「信長」
岐阜市内だけでなく、遠く名古屋からも望める金華山。標高329m。その山頂に天守閣がそびえる「岐阜城」。山頂まで登るのに、30~40分。コースによっては1時間ほどかかる。正に「城塞堅固・難攻不落」の山城。と言いたいところですが、斎藤利藤から9人も城主が変わり、うち6人が攻められ、討ち死に、自害、敗走しているのだそうだ。私も3回ほど登ったが、なんか暗い陰がつきまとう気がする。1.「斎藤利藤」:母違いの弟「利国」と争い敗れる。2.「斎藤利茂」:斎藤利藤の養子。斎藤利安に破れ、城を追われた。(落城1回目)3.「斎藤道三」:嫡男「義龍」に討たれる。享年63。4.「斎藤義龍」:急死。享年35。5.「斎藤龍興」:斎藤義龍の嫡男。竹中重治らに城を奪われる。後、返還されるが、織田信長によって再び落城。刀禰坂の戦いで戦死。享...難攻不落ではなかった「岐阜城」
服部英雄の『河原ノ者・非人・秀吉』(山川出版)は、秀吉の出自について書かれた史料を網羅しています。それには「後奈良天皇の御落胤」説は出てきません。これによると「秀吉の出生地」は諸説あって「中中村(現中村中町)」説も怪しいようです。「秀吉誕生地」とされる「常泉寺」は「上中村」にあります。さて、本書によれば、どうやら「秀吉は清洲で生まれ、母の再婚により中村に移り住むことになったが、養父と折り合いが悪く、秀吉は家を飛び出し、ストリート・チルドレン(乞食)になった」と。当時、信長の城は清洲であって、秀吉の叔父や周辺の者は、清洲の「乞食村(非人村)」に関係している者が多いといいます。秀吉の出自は、乞食(薦=こも)であった。現名古屋市の中村区は、当時は畑ばかりの土地でしたから、秀吉の育ちは「中村」で「農民の子」となり...秀吉の出自2
私が今住んでいる所は「中村区中村中町」。秀吉は「中村ナカ」で生まれたというのが通説になっています。まさに、私の住んでいる所は、秀吉の生まれた土地のはずですが・・・・。ここから1kmほど北の「上中村」に、「秀吉誕生の地」「豊太閤産湯の井戸」を掲げる「常泉寺」があります。秀吉亡き後、加藤清正によって建てられたとのこと。山号は「太閤山」です。その寺の案内パンフレットに、驚くことが書いてありました。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・太閤のご母堂「大政所」は、藤原保通の娘。「保通」は朝廷に仕え、後柏原天皇の重鎮でしたが、永正10年(1513)失脚して一時、尾張国中村に隠居。この時娘「仲(後の大政所)」が生まれる。後許されて京都に戻り、娘の仲は容姿端麗な娘...秀吉の出自秀吉は後奈良天皇の御落胤????
2023年1月8日いよいよNHK大河「どうする家康」が始まりましたね。期待はしていなかった。ちょっとがっかり。馬に乗って走るシーンなど50年前のテレビドラマよりひどい。作り物の馬であることがバレバレ。前々日、山岡荘八原作の映画「徳川家康」をTVで観た。こちらは、幼少の頃から利発な立派な殿様。それと真逆。今回のドラマは「弱虫、泣き虫、どうしようもない家康」。築山御前(瀬名=有村架純)との関係も、相思相愛のラブラブ。山岡荘八版では、竹千代(元康)は、妹の亀姫に横恋慕していたが、今川義元の命で姉の鶴姫(瀬名)を押し付けられる。姉さん女房で、とかく今川の威を傘に、元康に強圧的。だから、後に殺される事になる。今回、有村架純とラブラブでは、殺すに至る理由付けはいかがになるのか。さて、第1回は早くも桶狭間の戦い。義元が...徳川元康は桶狭間で死んだ?!
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