(東京都渋谷区神宮前)昭和2年(1927)に竣工した同潤会青山(渋谷)アパートメントが平成15年(2003)に取り壊され、表参道ヒルズが建設された際に、最端部に改めて再現されたものである。同潤館
(愛知県豊橋市花園町2006年8月31日)東三河に二ヶ所しかないアーケードの一ヶ所である。(関連記事:花園商店街平成二十三年)花園商店街
(神奈川県藤沢市鵠沼石上)石上(いしがみ)の地名の最古の記録は、弘安八年(1285)『吾妻鏡』に「石上郷、鎌倉の法華堂領となる」である。平安時代以前は土甘(とかみ)と呼ばれ、文治二年(1186)西行(さいぎょう)が詠んだ歌や、同時期に鴨長明(かものちょうめい)が詠んだ歌に「砥上原」(とがみがはら)と記されている。その後、砥の字の偏を読み「いしがみ」となり、信仰対象である「石神」と相俟って、石上(いしがみ)となったと推測される。現在石上会館に隣接する石上神社は、かつて境川沿いに鎮座し、石上公園に建つ江の島道標は、藤沢宿朝日町にあったものである。石上
(静岡県浜名郡新居町浜名2006年8月31日)寺伝では仁和二年(886)薬師像と仁王像が海で漁人の網に入り、賢嶺法印が薬師堂を創建したのが始まりという。その後、建保五年(1217)仏師運慶法印が薬師如来、脇侍仏、十二神将を開眼し、開山したとされる。当初は真言宗であったが、臨済宗に改宗されている。瑠璃光山東福寺
(東京都千代田区外神田)神田明神からアキバを見下ろす。明神男坂
(静岡県浜名郡新居町浜名2006年8月31日)大鷦鷯尊(おおさざきのみこと:仁徳天皇)を祀る小さな神社である。正徳四年(1714)に社殿を再建した記録があるが、創建は不明である。境内社である新居若宮八幡宮
(神田神社東京都千代田区外神田旧府社)天平二年(730)真神田臣(まかんだのおみ)が先祖の大己貴命(おおなむちのみこと)を豊嶋郡柴崎村(千代田区大手町)に祀ったのが始まりという。その後、平将門が近くに葬られ、間もなくして天変地異が頻発し、それが将門の神威として人々を恐れさせたため、時宗の僧真教が供養し、延慶二年(1309)には神田明神に合祀された。元和二年(1616)江戸城表鬼門にあたる現在地に遷座し、幕府により社殿が造営されている。神田明神
(愛知県新城市庭野字重川桜淵県立自然公園2006年8月11日)豊川桜淵の南、(うでこき山)の麓にある溜池である。私自身小学生の頃からの思い出がある場所でもある。重川池
(東京都千代田区神田駿河台・文京区湯島)神保町と秋葉原の間のこの地を久し振りに訪れる。(関連記事:御茶ノ水平成二十三年東京復活大聖堂湯島聖堂)御茶ノ水令和元年
(愛知県豊川市御油町2006年8月6日)御油花火平成十八年
(東京都千代田区神田駿河台)太田持資(後の道灌)の姫は、天然痘を罹ったため、山城国の一口(いもあらい:京都府久世郡久御山町)稲荷神社に病の平癒を祈願した。それにより姫は全快したため、持資は長禄元年(1457)一口稲荷を江戸城鬼門側に建て遷座した。その後、天正十八年(1590)徳川家康の関東移封により、現在の錦町一丁目に移し、慶長十一年(1606)江戸城増築に伴い、現在の神田川聖橋の袂に移した。明治5年(1872)現社名に改められた後、昭和6年(1931)総武線建設により、現在地の駿河台一丁目に移されている。太田姫稲荷神社
(静岡県浜名郡新居町新居2006年8月14日)昭和5年(1930)に築造された銭湯の建物。みどり湯
(東京都千代田区神田駿河台)一部分だけ往時の意匠を残すビルがある。かつての本館は大正14年(1925)アメリカ人建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズによって設計され、RC造4階の社屋として築造された。昭和62年(1987)お茶の水スクエアとして改築された際に旧館の外壁が再現されたが、平成14年(2002)日本大学が取得している。旧主婦の友社本館
(静岡県浜名郡新居町新居旧郷社2006年8月14日)室町時代の記録「文和風土記」に、景行天皇十九年(89)創建と記載され、猿田彦命「さるたひこのみこと」を祀っていた。平安時代の「延喜式神名帳」には猪鼻湖神社とあり、当初は浜辺に鎮座したという。永正年間(1504-20)高波で被害を受け、現在地の東方「大元屋敷」に遷座した。天正十年(1582)山本勘助臣井口嘉末が信州からこの地に移住し、諏訪大神を合祀して、後に諏訪神社と称するようになったという。元禄十五年(1702)新居関所が三河吉田藩の管理となり、歴代藩主や関所奉行、関守から崇敬され、宝永五年(1708)現在地に遷座した。新居諏訪神社
(神奈川県横須賀市)横須賀へは平成二十七年以来である。横須賀令和元年
(御鮨街道岐阜市玉井町・川原町・元浜町2006年7月28日)岐阜街道平成十八年
(神奈川県横須賀市田浦町)明治37年(1904)に開業した田浦駅は、丘陵間の低地である谷戸(やと:長野=田切、岐阜=洞)に挟まれた場所にあり、ホームが隣駅より1両分短い10両のため、上下線共先頭1両がトンネル内に進入して停車する。横須賀方の七釜トンネルは四つ並び、下り線は明治22年(1889)、上り線は大正14年(1925)、左側の複線トンネル二つは昭和18年(1943)旧海軍施設専用線として掘削されたものである。田浦駅
(えんどうじ商店街名古屋市西区那古野2006年7月28日)名古屋街道から美濃路に変わる四間道(しけみち)に隣接するこの商店街も、また七夕の季節となった。(関連記事:第50回円頓寺七夕まつり第53回円頓寺七夕まつり)第51回円頓寺七夕まつり
(神奈川県足柄下郡箱根町)前回芦ノ湖を訪れた際に見えた富士は雲に隠れていたが、連休ということもあり多くの観光客で混雑していた。桟橋には先日就航した水戸岡デザインの海賊観光船「クイーン」と代わって引退する「バーサ」が並んでいた。芦ノ湖平成三十一年
(名古屋市中区橘旧郷社2006年6月26日)東海道宮宿と美濃路那古野を結ぶ名古屋街道(本町通り)沿いに鎮座する神社である。天太玉命(あめのふとだまのみこと)を祀り、平安時代の延喜式神名帳に名が見える。永禄三年(1560)織田信長が桶狭間へ出陣の途中日置神社へ祈誓し、戦勝後に報賽のため神域に松千本を植えたという。日置神社
(神奈川県足柄下郡箱根町)小田原駅を起点とし、箱根湯本駅を経て強羅駅までを結ぶ山岳鉄道線。大正8年(1919)に箱根湯本ー強羅間が開業し、昭和10年(1935)には小田原まで全通した。昭和25年(1950)1,435mmの標準軌である箱根登山線を平坦区間である小田原ー箱根湯本間を三線軌条にし、1.067mmの狭軌である小田急線を直通運転させた。平成18年(2006)箱根湯本を境に運行形態を分断し、小田原ー箱根湯本間の三線軌条は廃止された。箱根登山鉄道
Nagoya Boston Museumof Fine Arts
(名古屋市中区金山2006年6月26日)平成11年(1999)31階建の金山南ビル竣工と共に開館した名古屋ボストン美術館は、同ビルの最も床面積の広いフロア3ー5階、延床面積4,700m2を使い、アメリカのボストン美術館から美術品を借りる形で展示する施設である。二年次以降来館者の低迷で赤字運営となり、ボストン美術館への寄付金等債務が重なって、存続問題が発生している。(契約期間満了の2018年で閉館)NagoyaBostonMuseumofFineArts
(ごうら神奈川県足柄下郡箱根町強羅)明治時代に開発されたこの地は、箱根外輪山の麓の温泉地であり箱根登山鉄道の終点である。強羅
(岐阜市鷺山2006年6月11日)岐阜市都市計画事業鷺山下土居地区区画整理事業における、都市計画道路約山下土居線建設に伴う緊急発掘調査が先月から行われていた。長良川右岸、鷺山丘陵の東に位置するこの地は、弥生時代末から近世以降の複合遺跡であることが分かっている鷺山市場遺跡
(神奈川県足柄下郡箱根町仙石原)カルデラ仙石原の一角である俵石は、開発により温泉や美術館等が建ち並んでいる。俵石
(岐阜市長良2006年6月11日)冬はメタセコイアにイルミネーションが灯される岐阜大学跡地の長良公園。初夏の長良公園
(神奈川県足柄下郡箱根町仙石原富士箱根伊豆国立公園)標高700m,箱根火山のカルデラである仙石原は、神山の噴火により、それまで存在した火口原湖が分断され、湿原や草原になったという。仙石原の地名由来は、豊臣秀吉臣仙石秀久が小田原征伐の際に陣を敷いたことによるとされる。仙石原
(岐阜県美濃市広岡町国登録有形文化財2006年5月31日)美濃駅が開業したのは1911年、当時は美濃電気軌道上有知(こうずち)駅であった。1923年、省線(1949-国鉄)越美南線美濃町駅開業により現在地に移り、新美濃町駅(1949-美濃駅)として現存する駅舎が完成した。そして新関~美濃間廃止に伴い駅が廃止されたのは平成11年。その後岐阜軌道線が全て廃止されたのは平成17年のことである。美濃町線で使われていた新製車両は近隣各地へ譲渡されたが、老朽車両は解体され一部の車両がここに保存されることとなった。1926年製510型512(丸窓)、1957年製590型593(旧塗色)、1970年製600型601(馬面)と、痛々しい解体途中救済車の870型(旧札幌市電)が保存されている。美濃駅
(東京都江東区大島)旧中川右岸のこの地は、かつては川に挟まれた湿地帯で大きな中洲のような地形であったことから大島(おおじま)と名付けられたという。また、運河である小名木川の中川口に番所が設けられ水運で栄えた。東大島
(岐阜県美濃加茂市川合町・可児市川合2006年5月31日)木曽川と飛騨川の合流点に、昭和14年(1939)大同電力と東邦電力の共同出資である愛岐水力によって築造された、幅308m,高さ34.3m,20門のゲートを持つ重力式コンクリートダムである。ここで取水された水は、隣接する右岸側の関西電力美濃川合発電所と左岸側の今渡発電所のタービンを回す。今渡ダム
(東京都江東区大島)昭和5年(1930)荒川と中川の両放水路開削により水上交通の航行を図るため、水位調整をする閘門が設けられた。然し、水上交通の衰退により昭和51年(1976)に廃止され、門上部のみ顔を出した状態で大島小松川公園内に埋没保存されている。旧小松川閘門
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