しかし分別をやめるといっても、陶酔や恍惚、泥酔や気絶という状態というふつうの意味での分別の無い状態になることでは、目覚めることはできない。しっかりと目覚めた状態でありながら、言葉を使わない、分別をしないという瞑想をせよ、と。それが「云何が般若波羅蜜を行ずべきか」という問いへの答えである。そういう瞑想を行なっているときには、「これが般若波羅蜜だ」などという言葉も意識ももうない。「私が般若波羅蜜の実践をしている」と思っているときには、それは思考・名詞が巡っているわけだから、それらを巡らせないということである。そういう言葉・思考が巡るのを止める分別知は、サンスクリット語で「ヴィジュニャーナ」という。それに対して、それを超えた無分別を「プラジュニャー」といい、それがパーリ語化したのが「パンニャー」という言葉である...般若経典のエッセンスを語る53――無分別智と慈悲