■ はじめに:国家総動員体制下での笹川良一の役割とは前回は、笹川良一の幼少期から戦前にかけての思想形成と、国家主義運動家としての政治的台頭までを見てきました。今回の第2回では、太平洋戦争(大東亜戦争)勃発後の日本において、彼がどのように国家の戦争体制に組
【笹川良一】第1回:国家主義者から船舶振興へ——戦前の経歴と思想形成
■ はじめに:笹川良一とは何者か?笹川良一(ささかわ りょういち)は、20世紀の日本における政治運動家・右翼活動家であり、戦後は日本財団(旧・日本船舶振興会)の設立者として知られています。しかし、その活動は単なる慈善事業家にとどまりません。戦前から戦中にか
【辻政信】第10回:伝説か、計画的失踪か ― 辻政信はなぜ戻らなかったのか?
〜暗殺・事故・亡命・生存説…辻政信“失踪の真相”とその歴史的意味〜◆はじめに:辻政信は「失踪」したのか、「消された」のか?1961年、東南アジア情勢の調査と称してラオスに入った辻政信は、わずか10日あまりで足取りを絶ち、以後、誰一人として彼の生存を確認でき
【辻政信】第9回:CIAの分析と沈黙 ― アメリカは辻政信の失踪から何を読み取ったのか?
〜“共犯者”か、“被害者”か。米諜報機関が残した謎のレポート群〜◆はじめに:アメリカはすべてを見ていたのか?辻政信――元日本陸軍の参謀、戦犯容疑者、戦記作家、そして参議院議員。しかし彼は、1961年4月にラオスで消息を絶ったことで、「戦後最大の行方不明者
【辻政信】第8回:消息不明 ― バンコクとヴィエンチャンでの最後の足跡
〜失踪までの“最終72時間”を完全追跡。辻政信はどこで、どう消えたのか〜◆はじめに:「突然消えた男」の謎1961年4月中旬、ラオスの首都ヴィエンチャンに姿を見せた辻政信。元日本陸軍参謀にして現職の参議院議員、そして東南アジア諜報網と深く関わった彼は、わずか
【辻政信】第7回:ラオス潜入の真相 ― なぜ辻政信は危険な地に向かったのか?
〜理想主義か、諜報活動か。それとも…? 消えた議員の最後の計画とは〜◆はじめに:なぜラオスだったのか?1961年4月、参議院議員であり元陸軍参謀の辻政信は、日本の国会を長期休暇し、東南アジア各国の「視察」と称してラオスに入国します。しかし、彼はそのまま消
【辻政信】第6回:密かなる諜報戦 ― 辻政信が関わった東南アジアの反共工作
〜“影の軍人”が動かした、戦後アジアの裏舞台〜◆はじめに:戦後も続く「戦争」――情報戦という名の新戦場太平洋戦争は1945年に終わりました。しかし、辻政信にとって「戦争」は終わっていなかったのかもしれません。戦後の冷戦期、日本は再びアジアにおける戦略拠
【辻政信】第5回:アメリカとの接点 ― CIA・GHQ・有末機関との関係
〜なぜ“危険人物”辻政信が、アメリカの協力者になったのか?〜◆はじめに:アメリカは辻政信を「敵」と見なさなかったのか?辻政信は、日本の戦争責任を問われるべき立場にあったにもかかわらず、戦後しばらくしてその戦犯指定は解除されました。そして1950年代以降、
【辻政信】第4回:政界進出と過激な言動 ― 辻政信、国会の場で“戦争の亡霊”となる
〜国会議員となった元参謀は、戦後日本に何を求め、何を否定したのか〜◆はじめに:軍人から政治家へ――辻政信の“転職”1950年代、日本社会は高度経済成長のスタート地点に立ちつつありました。一方で、冷戦構造のなかでアメリカとの軍事同盟(=日米安全保障条約)が
【辻政信】第3回:東亜連盟と復活する汎アジア主義 ― 辻政信の“アジア”観とは何だったのか?
〜戦争責任を超えて、彼はなぜ「アジアの解放者」を名乗ったのか〜◆はじめに:なぜ「東亜」だったのか?戦後の辻政信は単なる「逃亡元軍人」や「戦記作家」ではなく、明確な政治思想を持つ活動家としても注目されました。その思想の核となったのが、彼が長年唱えてき
【辻政信】第2回:「戦犯」から「作家」へ ― 戦争回顧録とメディア戦略で復活を遂げた辻政信
〜『潜行三千里』はなぜ売れたのか? 大衆はなぜ“戦犯予備軍”に喝采を送ったのか〜◆はじめに:姿を現した“逃亡者”1950年、突如として日本社会の前に現れた男――その名は辻政信(つじ まさのぶ)。敗戦から5年、戦犯として追われ続け、アジアの密林を彷徨っていた
【辻政信】第1回:敗戦と逃亡 ― 辻政信の戦犯逃れと密入国劇の全貌
〜日本敗戦直後、密林に消えた男はなぜ“生きて”帰ってきたのか?〜◆はじめに:なぜ今、辻政信を知るべきか?戦後日本において、もっとも謎に包まれた政治家・軍人のひとりが辻政信(つじ まさのぶ)です。彼は旧日本陸軍の参謀として太平洋戦争に深く関与し、戦後は
【正力松太郎】最終回:正力松太郎の遺産と現代への影響 – 情報と国家を結んだ男の軌跡
情報操作のモデル化 – メディアと権力の構造を作った男正力松太郎が戦後日本に残した最大の遺産は、単なる新聞社経営やテレビ局設立ではありません。彼の真の業績は、情報と国家権力の結節構造を制度化したことにあります。すなわち、メディアを単なる報道機関ではなく、
【正力松太郎】第9回:国内外からの評価と批判 – 正力松太郎、その光と影
「メディア王」「原子力の父」…称賛される一方の人物像正力松太郎は、その功績において間違いなく戦後日本の再建と近代化に寄与した重要人物の一人です。読売新聞の全国紙化、日本初の民間テレビ局である日本テレビの創設、原子力政策の推進、プロ野球の興隆、教育・科学
【正力松太郎】第8回:政治家・正力松太郎の軌跡 – メディア王から政界のフィクサーへ
衆議院議員として政界復帰正力松太郎は、戦後にA級戦犯容疑で巣鴨プリズンに収監された後、公職追放処分を受けました。しかし1951年、その処分が解除されると、ただちに政界復帰の動きを始めます。翌1952年、第25回衆議院議員総選挙に無所属で出馬し、東京1区から当選。こ
【正力松太郎】第7回:読売グループの拡張と国内影響力 – 正力松太郎が築いた“メディア帝国”
「読売新聞帝国」の形成:新聞の全国紙化戦略正力松太郎は、敗戦後の混乱から読売新聞をいち早く立て直し、「全国紙」としての地位を確立しました。それまで読売新聞は東京ローカルの中堅紙に過ぎず、朝日・毎日とは大きな差がありましたが、正力の手腕によって一躍“言論
【正力松太郎】第6回:原子力の父 – 正力松太郎と「原子力の平和利用」キャンペーンの裏側
原子力と正力松太郎 – イメージ戦略の始まり戦後日本の原子力政策を語るうえで、正力松太郎の名前を避けることはできません。彼は1950年代後半、「原子力の父」と称されるまでに原子力政策の旗振り役として活躍しました。しかし、その背後には単なる科学技術振興の枠を超
【正力松太郎】第5回:反共プロパガンダとアメリカの対日戦略 – 正力松太郎の思想と行動
冷戦構造下の日本と「思想戦」の最前線1950年代、日本は冷戦構造の中で極めて重要な地政学的位置を占めていました。アメリカにとって日本は、ソ連・中国・北朝鮮といった共産圏諸国に接する「防波堤」であり、その内部で共産主義が勢力を拡大することは絶対に避けねばなら
【 正力松太郎】第4回:CIAとの関係 – 正力松太郎と「PODAM計画」の実態
「PODAM」とは何か? – 正力に与えられた暗号名アメリカ中央情報局(CIA)が正力松太郎に与えたコードネーム、それが「PODAM」および「PODAM-1」です。この暗号名は、1950年代を中心にCIAが極秘裏に進めていた対日心理戦・情報操作工作の中で登場し、正力がその中核人物で
【正力松太郎】第3回:日本テレビと正力松太郎のメディア戦略 – テレビを使った情報支配の野望
戦後日本のメディア環境とテレビ黎明期1950年代初頭、日本のマスメディアは新聞・ラジオが主役であり、テレビはまだ「夢のメディア」に過ぎませんでした。しかし、アメリカではすでにテレビが家庭の中心にあり、政治的プロパガンダや商業的広告の媒体として絶大な影響力を
【正力松太郎】第2回:戦後の公職追放と復帰まで – 正力松太郎とGHQ、巣鴨プリズンからの再起
戦後、戦犯容疑での収監と巣鴨プリズン生活1945年、日本の敗戦とともにGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による戦後処理が始まりました。その中で、戦時体制を支えた多くの政治家、軍人、官僚、そしてメディア人も「戦犯容疑者」として摘発されます。正力松太郎もまた、戦
【正力松太郎】第1回:正力松太郎とは誰か – 戦前の活動と警察官僚としての台頭
正力松太郎の出自と初期の経歴正力松太郎(しょうりき まつたろう)は1885年(明治18年)、富山県射水郡大門町(現在の射水市)に生まれました。東京帝国大学法科大学(現在の東京大学法学部)を卒業後、内務省に入省し、エリート官僚としてのキャリアを歩み始めます。特に
【岸信介】最終回:岸信介をどう捉えるべきか ― CIA文書と歴史研究の接点から
はじめに ― 二つの史料世界の交差点に立つ岸信介を論じるとき、私たちは二重の史料体系に立ち会うことになる。 一つは、戦後の政治史・制度史・官僚制などの「日本国内の公開史料」と学術研究による視点 もう一つは、CIA文書・米国公文書館(NARA)・解密資料などを
二つの岸信介像岸信介は、日本近現代史の中でも最も評価が割れる政治家の一人である。彼の政治的功績と同時に、その出自・手法・思想が激しく批判の対象ともなってきた。「戦後日本をつくった男」であると同時に、「戦前回帰の体現者」とも評される。この章では、岸に対す
序章 ― 占領から「主権回復」へ、情報の空白を埋めよ戦後日本は、GHQの占領下で旧陸軍の参謀本部、内務省警保局、特高警察といった情報機関を解体された。1952年の主権回復後、冷戦構造の本格化に伴い、国内外の諜報・公安活動を担う新たな体制構築が急務となった。この情
序章 ― 「信教の自由」の名のもとに戦後日本では、GHQによる政教分離政策の下、国家神道が解体され、「信教の自由」が憲法上明記された。しかしその自由は、宗教団体が政治や国家と密接に関わる“温床”にもなった。岸信介は、その最も象徴的な政治家であり、宗教勢力との
【岸信介】第16回:日本における「親米右派ネットワーク」の中心として
岸信介が築いた“見えざる同盟”岸信介が戦後日本の保守政治で果たした最大の戦略的成果の一つは、親米右派による非公式ネットワークの構築である。それは政界、財界、メディア、宗教、右翼、情報機関を横断しながら、日米関係の裏側を支え続けた。このネットワークは、「C
はじめに ― 情報機関が注視する「同盟者」岸信介は、冷戦期においてアメリカの対日戦略の中核的プレイヤーの一人だった。CIAは、彼を単なる政治家としてではなく、「対共産主義の前線に立つ制度設計者かつ潜在的リスク要因」として、継続的に監視・評価していた。この章で
辞任の背景 ― 条約は通しても政権は持たず1960年7月15日、岸信介は首相を正式に辞任した。日米安全保障条約の改定は6月19日に自然成立していたため、彼は条約改定の政治的目的を達成した上での退陣となった。しかしそれは、勝利ではなかった。安保条約の「実質的強行採決
序章:安保条約改定の発効をめぐる危機1960年は、戦後日本政治における最大の政治的激震の年である。前年に日米両国政府間で署名された新安保条約の批准をめぐり、日本国内ではかつてない規模の抗議運動が巻き起こった。これが、いわゆる「60年安保闘争」である。岸信介は
安保条約とは何か ― 1951年版の問題点岸信介が改定を目指した「日米安全保障条約」は、1951年にサンフランシスコ講和条約と同時に締結されたもので、正式名称は「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」である。この条約の特徴は、以下のように一方的かつ占領延長
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