【辻政信】第3回:東亜連盟と復活する汎アジア主義 ― 辻政信の“アジア”観とは何だったのか?
〜戦争責任を超えて、彼はなぜ「アジアの解放者」を名乗ったのか〜◆はじめに:なぜ「東亜」だったのか?戦後の辻政信は単なる「逃亡元軍人」や「戦記作家」ではなく、明確な政治思想を持つ活動家としても注目されました。その思想の核となったのが、彼が長年唱えてき
【辻政信】第2回:「戦犯」から「作家」へ ― 戦争回顧録とメディア戦略で復活を遂げた辻政信
〜『潜行三千里』はなぜ売れたのか? 大衆はなぜ“戦犯予備軍”に喝采を送ったのか〜◆はじめに:姿を現した“逃亡者”1950年、突如として日本社会の前に現れた男――その名は辻政信(つじ まさのぶ)。敗戦から5年、戦犯として追われ続け、アジアの密林を彷徨っていた
【辻政信】第1回:敗戦と逃亡 ― 辻政信の戦犯逃れと密入国劇の全貌
〜日本敗戦直後、密林に消えた男はなぜ“生きて”帰ってきたのか?〜◆はじめに:なぜ今、辻政信を知るべきか?戦後日本において、もっとも謎に包まれた政治家・軍人のひとりが辻政信(つじ まさのぶ)です。彼は旧日本陸軍の参謀として太平洋戦争に深く関与し、戦後は
【正力松太郎】最終回:正力松太郎の遺産と現代への影響 – 情報と国家を結んだ男の軌跡
情報操作のモデル化 – メディアと権力の構造を作った男正力松太郎が戦後日本に残した最大の遺産は、単なる新聞社経営やテレビ局設立ではありません。彼の真の業績は、情報と国家権力の結節構造を制度化したことにあります。すなわち、メディアを単なる報道機関ではなく、
【正力松太郎】第9回:国内外からの評価と批判 – 正力松太郎、その光と影
「メディア王」「原子力の父」…称賛される一方の人物像正力松太郎は、その功績において間違いなく戦後日本の再建と近代化に寄与した重要人物の一人です。読売新聞の全国紙化、日本初の民間テレビ局である日本テレビの創設、原子力政策の推進、プロ野球の興隆、教育・科学
【正力松太郎】第8回:政治家・正力松太郎の軌跡 – メディア王から政界のフィクサーへ
衆議院議員として政界復帰正力松太郎は、戦後にA級戦犯容疑で巣鴨プリズンに収監された後、公職追放処分を受けました。しかし1951年、その処分が解除されると、ただちに政界復帰の動きを始めます。翌1952年、第25回衆議院議員総選挙に無所属で出馬し、東京1区から当選。こ
【正力松太郎】第7回:読売グループの拡張と国内影響力 – 正力松太郎が築いた“メディア帝国”
「読売新聞帝国」の形成:新聞の全国紙化戦略正力松太郎は、敗戦後の混乱から読売新聞をいち早く立て直し、「全国紙」としての地位を確立しました。それまで読売新聞は東京ローカルの中堅紙に過ぎず、朝日・毎日とは大きな差がありましたが、正力の手腕によって一躍“言論
【正力松太郎】第6回:原子力の父 – 正力松太郎と「原子力の平和利用」キャンペーンの裏側
原子力と正力松太郎 – イメージ戦略の始まり戦後日本の原子力政策を語るうえで、正力松太郎の名前を避けることはできません。彼は1950年代後半、「原子力の父」と称されるまでに原子力政策の旗振り役として活躍しました。しかし、その背後には単なる科学技術振興の枠を超
【正力松太郎】第5回:反共プロパガンダとアメリカの対日戦略 – 正力松太郎の思想と行動
冷戦構造下の日本と「思想戦」の最前線1950年代、日本は冷戦構造の中で極めて重要な地政学的位置を占めていました。アメリカにとって日本は、ソ連・中国・北朝鮮といった共産圏諸国に接する「防波堤」であり、その内部で共産主義が勢力を拡大することは絶対に避けねばなら
【 正力松太郎】第4回:CIAとの関係 – 正力松太郎と「PODAM計画」の実態
「PODAM」とは何か? – 正力に与えられた暗号名アメリカ中央情報局(CIA)が正力松太郎に与えたコードネーム、それが「PODAM」および「PODAM-1」です。この暗号名は、1950年代を中心にCIAが極秘裏に進めていた対日心理戦・情報操作工作の中で登場し、正力がその中核人物で
【正力松太郎】第3回:日本テレビと正力松太郎のメディア戦略 – テレビを使った情報支配の野望
戦後日本のメディア環境とテレビ黎明期1950年代初頭、日本のマスメディアは新聞・ラジオが主役であり、テレビはまだ「夢のメディア」に過ぎませんでした。しかし、アメリカではすでにテレビが家庭の中心にあり、政治的プロパガンダや商業的広告の媒体として絶大な影響力を
【正力松太郎】第2回:戦後の公職追放と復帰まで – 正力松太郎とGHQ、巣鴨プリズンからの再起
戦後、戦犯容疑での収監と巣鴨プリズン生活1945年、日本の敗戦とともにGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による戦後処理が始まりました。その中で、戦時体制を支えた多くの政治家、軍人、官僚、そしてメディア人も「戦犯容疑者」として摘発されます。正力松太郎もまた、戦
【正力松太郎】第1回:正力松太郎とは誰か – 戦前の活動と警察官僚としての台頭
正力松太郎の出自と初期の経歴正力松太郎(しょうりき まつたろう)は1885年(明治18年)、富山県射水郡大門町(現在の射水市)に生まれました。東京帝国大学法科大学(現在の東京大学法学部)を卒業後、内務省に入省し、エリート官僚としてのキャリアを歩み始めます。特に
【岸信介】最終回:岸信介をどう捉えるべきか ― CIA文書と歴史研究の接点から
はじめに ― 二つの史料世界の交差点に立つ岸信介を論じるとき、私たちは二重の史料体系に立ち会うことになる。 一つは、戦後の政治史・制度史・官僚制などの「日本国内の公開史料」と学術研究による視点 もう一つは、CIA文書・米国公文書館(NARA)・解密資料などを
二つの岸信介像岸信介は、日本近現代史の中でも最も評価が割れる政治家の一人である。彼の政治的功績と同時に、その出自・手法・思想が激しく批判の対象ともなってきた。「戦後日本をつくった男」であると同時に、「戦前回帰の体現者」とも評される。この章では、岸に対す
序章 ― 占領から「主権回復」へ、情報の空白を埋めよ戦後日本は、GHQの占領下で旧陸軍の参謀本部、内務省警保局、特高警察といった情報機関を解体された。1952年の主権回復後、冷戦構造の本格化に伴い、国内外の諜報・公安活動を担う新たな体制構築が急務となった。この情
序章 ― 「信教の自由」の名のもとに戦後日本では、GHQによる政教分離政策の下、国家神道が解体され、「信教の自由」が憲法上明記された。しかしその自由は、宗教団体が政治や国家と密接に関わる“温床”にもなった。岸信介は、その最も象徴的な政治家であり、宗教勢力との
【岸信介】第16回:日本における「親米右派ネットワーク」の中心として
岸信介が築いた“見えざる同盟”岸信介が戦後日本の保守政治で果たした最大の戦略的成果の一つは、親米右派による非公式ネットワークの構築である。それは政界、財界、メディア、宗教、右翼、情報機関を横断しながら、日米関係の裏側を支え続けた。このネットワークは、「C
はじめに ― 情報機関が注視する「同盟者」岸信介は、冷戦期においてアメリカの対日戦略の中核的プレイヤーの一人だった。CIAは、彼を単なる政治家としてではなく、「対共産主義の前線に立つ制度設計者かつ潜在的リスク要因」として、継続的に監視・評価していた。この章で
辞任の背景 ― 条約は通しても政権は持たず1960年7月15日、岸信介は首相を正式に辞任した。日米安全保障条約の改定は6月19日に自然成立していたため、彼は条約改定の政治的目的を達成した上での退陣となった。しかしそれは、勝利ではなかった。安保条約の「実質的強行採決
序章:安保条約改定の発効をめぐる危機1960年は、戦後日本政治における最大の政治的激震の年である。前年に日米両国政府間で署名された新安保条約の批准をめぐり、日本国内ではかつてない規模の抗議運動が巻き起こった。これが、いわゆる「60年安保闘争」である。岸信介は
安保条約とは何か ― 1951年版の問題点岸信介が改定を目指した「日米安全保障条約」は、1951年にサンフランシスコ講和条約と同時に締結されたもので、正式名称は「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」である。この条約の特徴は、以下のように一方的かつ占領延長
【岸信介】第11回:首相就任(1957)とCIAからの支援疑惑
岸信介、内閣総理大臣に就任1957年2月25日、岸信介は日本の第56代内閣総理大臣に就任した。保守合同を通じて自由民主党の実権を掌握し、1955年体制下で「安定多数」を形成した同党の中核政治家として、ついに政権の頂点に立った。岸政権の発足は、日本の戦後政治における一
「逆コース」とは何か ― 占領政策の転換「逆コース(Reverse Course)」とは、1945年の終戦直後に始まったGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による民主化政策から、冷戦構造の進行とともに反共主義重視に転換された一連の方針変更を指す。当初の占領政策では、日本の
政界復帰への本格始動1952年4月、サンフランシスコ講和条約が発効し、連合国の占領が終了すると同時に、岸信介は公職追放を解除され、正式に政界へ復帰した。戦前・戦中のA級戦犯容疑者が、戦後民主主義体制下の政治家として返り咲くことは異例だったが、冷戦下での米国の
はじめに ― 暗号名と情報プロファイリングCIAは、戦後日本における主要人物をコードネーム(cryptonyms)付きで管理し、報告書や内部資料において特定のプロジェクトや人物に関する記述を行っていた。岸信介もその例外ではなく、直接の記名が見られるケースは限られている
【岸信介】第7回:CIAとの関係の始まりと戦後日本での再起動(1948–1952)
釈放後の岸信介 ― 政界復帰への布石1948年12月、A級戦犯容疑での起訴を免れ釈放された岸信介は、当初は政治活動を控えていたが、GHQの占領政策が「民主化」から「反共」へと大きく転換する中で、徐々に政界復帰の準備を開始する。1950年になると、朝鮮戦争の勃発(6月
【岸信介】第6回:A級戦犯としての逮捕と収監(1945–1948)
敗戦後の岸信介 ― 戦犯リストに載ったテクノクラート1945年8月、日本はポツダム宣言を受諾し降伏。岸信介は東條英機内閣の商工大臣として戦時体制を設計・推進した人物であることから、連合国軍総司令部(GHQ)によってA級戦犯容疑者に指定された。彼は1945年12月、GHQ
【岸信介】第5回:帰国後の活動と戦時経済管理(1939–1945)
満州から日本本土へ ― 岸信介の「凱旋」1939年、岸信介は満州国での経済官僚としての実績を引っ提げて日本本土に帰国し、商工省に復帰する。日本国内ではすでに日中戦争(1937年開始)が長期化し、軍需拡大と資源管理が国家の最優先課題となっていた。このタイミングで
国務院実業部次長としての昇進岸信介は満鉄調査部から満州国の中心行政機関である国務院実業部へと移籍し、1939年にはその次長(副大臣格)に就任する。彼はこのポストを通じて、満州国の工業開発、エネルギー政策、国家経済計画の策定と実施の実権を掌握した。ここで岸
【 岸信介】第3回:満州との出会い ― 満州国建設のエンジニア(1930年代前半)
満州派遣の背景 ― 商工官僚から満鉄調査部へ岸信介が初めて満州(中国東北部)に渡ったのは1936年のことだった。日本の商工省官僚として頭角を現していた岸は、当時すでに対中経済戦略において「計画経済」を推進すべきだと考えており、その考えが軍部・関東軍と合致して
【 岸信介】第2回:生い立ちと若年期(1896–1920年代)
出生と家系 ― 明治日本の政治・官僚エリートの源流岸信介は1896年11月13日、山口県吉敷郡山口町(現在の山口市)で生まれた。本名は佐藤信介。後に岸家に養子入りするが、出生家系は代々官吏を輩出しており、弟・佐藤栄作は後に日本の首相となる。曾祖父・佐藤信淵は江戸
岸信介とは誰か?岸信介(きし のぶすけ、1896年11月13日 – 1987年8月7日)は、戦前・戦中・戦後を通じて日本の政治と行政の中枢を担った官僚・政治家であり、1957年から1960年にかけて内閣総理大臣を務めた人物である。東條英機内閣の商工大臣として軍需産業を統括し、戦
【日本】最終回:日本の民間人・学術機関・企業によるCIAへの協力 ― 情報・技術・経済戦争のフロントライン
🔐 最終回のテーマ戦後日本におけるCIAの活動は、軍事・政治領域にとどまらず、「民間・学術・企業」領域にも深く浸透していた。本回では、以下の3カテゴリにおける 間接的・準公式なCIA協力構造を明らかにします: 民間企業(通信・出版・エネルギー) 学術機関(
【日本】第9回:CIAと日本国内の反共ネットワーク ― 残置諜報(Stay-Behind)と民間協力者の実態
🔐 本回のテーマ戦後日本では、公然の再軍備と並行して、「秘密裏の諜報体制」が構築されていた。 その中核にあったのが、CIAと結びついた 「反共民間ネットワーク」および「残置諜報(stay-behind)」の仕組みである。今回は、この秘密体制において日本人がどのように
【日本】第8回:OSS・CIAによる日本の戦争犯罪調査と「起訴回避者リスト」
🔐 本回の主題戦後、OSS(Office of Strategic Services、のちのCIA)は、ナチス戦犯調査と並行して、日本の戦争犯罪者リストの作成・評価・起訴妥当性検討を行っていた。その過程で、「科学的貢献」「政治的利用価値」「情報提供協力」などを理由に、戦犯起訴が見送ら
【日本】第7回:日本統治下の朝鮮・満洲・中国におけるスパイネットワークの継承とCIAとの連携
🔐 概要アメリカOSS(のちのCIA)は、日本の植民地支配下で構築された諜報網の一部を戦後に再編・吸収しています。この回では、以下の点に焦点を当てて分析します: 満洲・朝鮮・中国における日本の諜報ネットワーク 日本敗戦後における情報網の米国への「転用」
【日本】第6回:CIAによる旧日本特務機関・科学者ネットワークの“再雇用”と監視(731部隊など)
🔐 関連背景第二次世界大戦後、アメリカはナチスの科学者を「オペレーション・ペーパークリップ(Operation Paperclip)」で引き入れたように、日本の科学者・特務将校にも“情報提供と引き換えに処罰免除または協力関係構築”を行っていました。これは本文書内では明示
【日本】第5回:日本の戦争犯罪人および帝国政府関係者へのCIA監視・諜報活動(JIGDA 関連)
🔐 関連エントリ・背景この文書の表紙にも記載されているとおり、資料全体は以下の法律に基づいて編纂されています: “Nazi War Crimes and Japanese Imperial Government Records Disclosure Acts” (ナチ戦争犯罪および日本帝国政府記録開示法)この法令に基づき
🔐 関連エントリ Bricha(ブリーハ) Bricha (Hebrew for "escape") was the organized illegal mass immigration movement of Jews from Eastern Europe [...] into Israel after WWII. 対象地域:ポーランド、チェコスロバキア、オーストリア、ドイツ
【日本】第3回:OSSによる日本関連プロジェクトの解析(CAESAR 他)
🔐 関連エントリ CAESAR Plan CAESAR was considered by the OSS as a double agent operation against the Japanese Intelligence Service in Italy (1945). Jose Garrette considered for possible use on Project. 🧩 CAESAR プロジェクトの詳
🔐 関連エントリ SYMPHONY 明示的な説明:Ben-Nathan, Asher - CONDUCTOR (cryptonym). Associated with Project SYMPHONY. 関係者:Asher Ben-Nathan(別名 Arthur Pier) 間接的関係:Bricha(戦後ユダヤ人の移動支援)との関係、ま
【日本】第1回:Aso TatsuoとOSS極東情報網 ― 暗号名 STBRANT-1 の実像
🔐 登録暗号名と関連ファイル STBRANT-1:OSSの資産識別コード(人物) TLBRANT:同一対象の通信コード名(Telegraph Line BRANT) LFSALAD:資産分類コード(Low Frequency SALAD;人的資源ファイル群)これらは、OSSが戦時末期から戦後直後にかけて運用した日本人
Research Aid: Cryptonyms and Terms in Declassified CIA Filesについて
この文書『Research Aid: Cryptonyms and Terms in Declassified CIA Files』は、CIAの機密解除されたファイルに含まれる暗号名(Cryptonyms)と用語の一覧をまとめたリストです。特に、第二次世界大戦後のナチス戦犯および日本帝国政府に関する記録開示法に基づいて公開され
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