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2025/03/21

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  • 姉妹ブログ紹介

    姉妹ブログ『パンセ(pensée )――やさしい世界観入門』https://onisawatetsuo.livedoor.blog/『パンセ(pensée )――哲学的雑考』https://11556mochida.doorblog.jp/同一著者ブログ『論破の帝王』https://keen-hyuga-0028.sunnyday.jp/wordpress/

  • 前書き

    何故人を殺してはいけないのか?―― 人を殺してはいけない理由を、滔々と述べるわけではない。 その逆に自分の上記の発問は、ただの反語でしかない。「何故人を殺してはいけないのか?――もちろんそのような理由は、どこにもあるはずもない。 血を流す者は何

  • もう一人の自分(3)――「造りたるもの」

    牢獄のように私たちを捕らえた、この存在の小箱を抜けて。その向こうの「もう一人の自分」となって、自在に宙に遊ぶ。―― だがしかし、もちろん本当の超越は、さらにその先にあった。 それはそうだろう。 舞台の上で演ずる者は、本当はけっして、私たち一人だけではな

  • もう一人の自分(2)――自伝を綴る少女

    そんなふうにすべての私たちが、豊饒の美を彩る、掛け替えのない役割を担っている。 辛苦の一生も、悲劇を楽しむ観客の目を喜ばせ、凡庸の一生もまた、舞台の多様な彩りを作る者には、欠かせない対照となった。 だがしかし、だとしたら当の役者自身にとってもまた、それ

  • もう一人の自分(1)――演劇

    宇宙という名の大伽藍で演じられる、壮大な野外劇。 そこでは無数に配された役者たちが、それぞれの持ち場で、ただ思い思いの科白を語っている。 ある者は天使の翼を身につけ、ある者は死に神の衣装を纏い、あるいは喜劇が、あるいは悲劇とおぼしきものが行われる。 そ

  • 宇宙の目的、そして「美」(3)

    私たちの慣れ親しんだ、美なるもの。 だがしかしその意味するところは、けっして一様ではない。 例えば幼児の場合で言うなら、その「きれい」は単純だった。それはきまって、きらきらの金か、鮮やかな紅の色。―― それはただ、視覚だけに限らない。子供たちの甘美もま

  • 宇宙の目的、そして「美」(2)

    私たちの営みを司る、様々な原理。 もちろんその第一は、あの個体維持の原理だった。 すべての動物たちと同じように、人もまた身を守り、命をながらえるために眠り、食らう。 あの「性」と呼ばれるものでさえ、それはそうだった。 そこでは霊妙な複製の仕組みによって

  • 宇宙の目的、そして「美」(1)

    もし神が宇宙を作った目的があったとしたら、それは一体何なのか?―― 過去のあらゆる宗教が、そしてまたあらゆる哲学が、答えを探し求めた。 だがしかし、忘れてはならない。 もし神というものがあるとしたら、それは必ず全知で、全能のものでなくてはならない。 そ

  • 輪廻(3)

    確かにそんなふうに、輪廻ということが起きたとしても、少しも不思議はないのだ。…… もちろん、そこに実際に起きていることは、世に語られた有様とはずいぶんと違う。 過去の時代の誰かが、そっくりそのまま、今の時代の誰かに成り代わる。いにしえの英雄の生まれ変わ

  • 輪廻(2)

    表層の、個人の意識の向こう側に息衝く、深層の意識。 記憶も経験も、すべてを剥ぎ取られたところで、ただ我を我として意識する本当の自分。…… そんな非人称の自我のようなものが、この世界の至る所にばらまかれ、そこにはいつでも一種の互換の関係が成り立っていた。

  • 輪廻(1)

    輪廻?―― この国のこの世代にとって、それは確かに、笑うべき作り事だった。 そんな言葉を聞いてきまって思い浮かべるのは、英雄武将が生まれ変わるお手軽の物語。あるいは前世の因縁を種(ねた)にする、うさん臭い宗教の類い。 そのすべては、合理主義に慣れ親しん

  • 科学――神を知るための知的訓練(2)

    そんな訓練は、確かに神を知り、神に連なるためのたつきとなった。 とりわけ科学を学ぶことは、いつだって神に至る最大の道だった。 それはそうだろう。「世界をかつて造り、今も動かす根本の原理」。それが神の定義だった。 だとしたらその世界の有様を学ぶことは、確

  • 修行――神を知るための知的訓練(1)

    神。 宇宙をかつて動かし、今も動かす根本原理。 ちょうど私たちが思い、浮かべ、夢見るように、この宇宙の全体を思い、浮かべ、夢見るもの。 もとより神とは、言葉で説き、証されるものとは違った。 それは私たちの生のただ中を、いつしか訪れるもの。 例えば泣き明

  • 自我とは(3)――神と自我と

    私の思い描く「我」とは、確かにそのようなものだった。 それはちょうど連山のように。野辺の水のように。そしてまた数多の眼球のように。 その一つ一つは、世界の片隅に寄寓する、けし粒のような存在。だがしかし、互いが互いと連なることで、それらは同時にはてしなく

  • 自我とは(2)――自我のイメージ

    それはまた例えば、水溜まりにも似た何かだった。 雨上がりの野辺に、それぞれの姿で打ち捨てられた水溜まりは、それぞれの形に囚われて、逃れることは永遠にかなわないように見える。 もちろん同じ草むらには、本当は無数のそれらがあるにはちがいなかった。 だがしか

  • 自我とは(1)――自我崇拝の病

    私たちはおそらく、心の底のどこかで、こんなふうに感じている。「我」と呼ばれるこのものは、宇宙を統べる座標の、中心に置かれた何かだった。 否。ひょっとしたら、そればかりではない。「私」と「そうでないもの」、「内側」と「外側」――そんな慣れ親しんだ発想に従

  • 「虚数」なんてない? 「神」なんていない?(2)

    私たちのこの物質世界とは違う、また別の次元。――だとしたら、それはあのゲームの世界に似ていた。 コンピューターゲームの中の世界と、そのキャラクターたち。 それらは物質的な存在とは違う。ただの虚構にすぎないと、私たちは感じている。 確かに私たちにとっては

  • 「虚数」なんてない? 「神」なんていない?(1)

    多くの人は、目の前にあるものしか見えない。手で触ることのできるもの以外は、存在しないと思いこんでいる。 たとえば「虚数」と呼ばれるものがある。二乗したらマイナスになる数だ。  もちろんそんなものは、この世に存在しない。 それなのになぜ、そんなありもしな

  • 「神」って何?

    「神」の定義とは、一体なんだろう。「宇宙をかつて動かし、今も動かす根本原理」 それが私の、神の定義である。このことにはたぶん、誰も異論はないだろう。 宇宙を動かす根本原理。それが神だ。――だとしたら、もちろんそれは「ある」。神が「ない」と言いなすのは、か

  • 「現実」とは(5)――幾億万個の宇宙

    それはとてつもなく、奇異に聞こえるかもしれない。 だがしかし、もしも解析の目から見るならば。 確かに宇宙の様態は、ただ0と1との組み合わせで、記述することができた。 例えば、夜も更けた一人の部屋。 グラスの酒を飲み干したきり、もはや誰にもおやすみのコー

  • 「現実」とは(4)――夢の中の人物

    全能の神にとって、あらゆる想念は思い抱かれた瞬間に、成就してしまう。 そこには何一つ、不可能はない。 ただの夢にすぎず、仮定にすぎず、虚構にすぎなかったはずのものが、たちまち実現する。―― * それはちょうど、あの選ばれなかった分かれ道。 スロ

  • 「現実」とは(3)――スロットマシン

    全能の「神」にとって、あらゆる可能性が、思い抱かれた瞬間に、たちどころに成就してしまう。 そこには想念と現実の、区別など少しもない。 夢が同時にうつつであり、うつつが同時に夢であるような、不思議な次元が確かにあるのだ。…… * 選択のボタ

  • 「現実」とは(2)――無数の枝道

    私たちは言う。 それはただの、可能性にすぎない。まだ遠い、未来のことだ。 夢と呼ばれ、仮定と呼ばれ、あるいは虚構とも呼ばれる、何か不確かでおぼつかないもの。 それは堅固な物質でできあがった、この目の前の「現実」とは違う、と。 その多くは、おそらくは私た

  • 「現実」とは(1)――コンピューターゲーム

    コンピューターゲームの画面の中に、かりそめの時空が浮かび上がる。 ゲームの中の世界を、生きる者がいる。キャラクターがいる。ヒーローがいる。 画面のこちらには、ゲームに興じる者がいる。ゲームを創る者がいる。 ゲームの中の世界と、そのキャラクターたち。 そ

  • 法とは、道徳とは(2)――覚悟して渡れ

    殺すなかれの掟も。毀つなかれの道徳も。ジャングルの動物の護身の行動と少しも変わらない。 それはあの、宇宙を治める「神」の道とはちがう。 すべてはただ、「造られたるものたち」の怯懦が、なさしめたものなのだ。―― それは神聖とも、大義とも違う。 もちろん掟

  • 法とは、道徳とは(1)――造られたるもの

    全知で全能の「神」があるとすれば、この世に起こる何一つ、悪であるものはない。 殺すことも、毀つことも、すべてはそのもの・・・・がなす、称うべき神の御業だった。…… だがしかし、「人」においては、それはそうではない。 「造られたるもの」にすぎない

  • 善と悪と(2)――ラスクリニコフ

     もし神というものがないとしたら、そこにはいかなる罪もまた、ないのかもしれない。―― 「罪と罰」のラスクリニコフが質屋の老婆を殺し、ニーチェの狂人が神の死を触れ回った十九世紀。 彼らの突きつけたそんな問い掛けは、確かに激しい衝撃をもって迎えられなければな

  • 善と悪と(1)―― 造りながら毀つ

    あるいは「法」と呼ばれ、あるいはまた「倫理」とも、「道徳」とも名乗ったもの。 時々に姿こそ違え、その本旨はいつも同じだった。 殺すなかれ。毀つなかれ。盗むなかれ。――それらの筆頭には、必ずそんな戒律が、記されていたのにちがいなかった。 だがしかし、それ

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『パンセ(pensée )』――何故人を殺してはいけないのか
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