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多摩川の筏道 https://tamaikada.hateblo.jp/

「筏道」とは、江戸時代から大正まで続いた「多摩川の筏流し」の筏乗りたちが、歩いて帰った道のことで、その「筏道」を散策するための案内マップです。

たまいかだ
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2022/12/26

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  • 時代と共に移動した「矢野口の渡船場」

    古い地図に載っている矢野口の渡船場 多摩川右岸の筏道を六郷橋から歩いてくると、このサイトでは、終点は矢野口の渡船場です。そして、いくつかの古い地図を見ると、矢野口の渡船場の場所が違っていることに気づきます。 さて、一般的に川の渡船場は川の流れによって移動しました。古くから「あばれ川」といわれた多摩川も同様で、渡船場は移動しました。そこでつぎに示したいくつかの地図は、古い地図に載っている矢野口の渡船場です。年代ごとの場所の違いを見てください。 明治初期~中期 つぎの地図では、渡船場にある小舟と、小舟の後ろにある船頭小屋が確認できます。 明治39年 多摩川の中に道が描かれています。 明治45年 つ…

  • 矢野口の渡船場から「しながわ道」

    調べている資料のなかに、次のような記述がありました。それは青梅市内にお住まいの明治18年生まれの男性の話です。つぎはその男性からの聞き書きで、調査は昭和40年とのことです。 筏乗りは十人ぐらいが一組になり、丸子から二子を経て登戸、中野島を通って菅に出た。菅の渡船場から調布に出て品川道を通り、府中で一休みをして立川まで歩いた。 《引用文献》角田益信,2000,稲田郷土史会,『あゆたか38号』,p32 資料の中のキーワード この聞き書きにはいくつかのキーワードがあります。 一つ目・・菅の渡船場二つ目・・調布に出て品川道を通り 菅の渡船場 別のページ「矢野口の渡船場から甲州街道へ」で、地図にある「矢…

  • 矢野口の渡船場から「甲州街道」へ

    いままで、多摩川の左岸と右岸の筏道を歩きました。そしてこのサイトでの右岸の終点は、矢野口の渡船場にしています。 矢野口の渡船場 明治39年 参考にした引用文献を読むと、当時の筏乗りたちは矢野口の渡船場から多摩川を渡って甲州街道へ出た、とあります。これは、このサイトのタイトル『多摩川の筏道』の範囲とは少し離れてしまいますが、筏乗りたちが歩いた道としてみれば、許容の範囲だと思います。ということで、古地図を使って、その順路を探してみることにします。 次の地図は、このサイトで使っている古地図からの抜粋で、地図のなかに矢野口の渡船場の記載を見つけました。 この地図からわかること。 「矢野口渡」と書かれた…

  • 筏道に関連するはなし

    筏道に関連する話です

  • 渡し舟の船頭小屋

    ここは、小田急線向ヶ丘遊園駅から歩いて15分の「日本民家園」という川崎市の施設の中です。ここには、かつて多摩川の渡し舟で使われていた、船頭小屋の本物が展示してあります。つぎからの写真が船頭小屋です。 この船頭小屋は、川崎市多摩区の「菅」という場所と対岸の「調布」を結んでいた渡船場で使われていました。小屋の幅は一間、約180センチ、奥行もその位です。たいへんに小さいものだったのですね。 小屋には簡単な囲炉裏が作ってあり、大人が四人座れる広さですが、かなり狭いです。当時は日がな一日、ここでお客さんが来るのを待っていたんです。 小屋の周りの四カ所には、つぎの写真のような鉄の輪が付いてました。説明によ…

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