曰く、「至道の本體なるものは、南北東西烏飛び兎走ると、無限の空間に充塞し、無邊の時間に貫通して、所謂る無量の光明であるからして、盡十方至らぬひまもなく、天を該ね地を括りて、一草一葉の上にも其の全眞露現
「あずさわ日記」に準じて新たに 「あずさわたより」を開始いたしました。 同じく光明思想の発信をとおして、 自己啓発のお役にたてればうれしいです。
具體的にある花は、櫻の花であるか、梅の花であるか、桃の花であるか、ボケの花であるか、各々それぞれの個性あるアイディアを表現した花ばかりである。これらの花は皆薔薇科のであるから「薔薇科民族である」と宣言
具體的に個々につて見れば“本”といふものは何處にも無いのである。“本”といふのは唯の總括概念に過ぎないのである。だから書店に往って「本を下さい」といっても、どの本も賣ってはくれないのである。本を具體的に求
そのアイディアそのものを、聞見の五官の感覺をもってしては見ることができないのであって、それをただ物質として見ているのである。大生命の一大圓鏡中にあるものを見るには、“悟の心鏡”をもって映して映して見なけ
【頌】頌に云く、聞見覺知(もんけんかくち) 一一に非ず。山河は鏡中に在って觀ず、霜天月落ちて、夜将に半ばならんとす。誰と共にか澄譚影を照して寒き。【解釈】この頌は“天地は同根であるから味噌も糞も同じである
陸瓦大夫はこの僧肇に私淑していたので、この席で僧肇の天地同根論をほめて「甚だ奇怪なり」といったのである。奇怪とは、怪しいと思はれるほど素晴らしいといふ意味である。石頭大師も、この『寶蔵論』を読んで悟っ
既に二十歳代にてその名聲關中に振ふ。「その草逹を猜(そね)む者ありしも、才思幽玄にして談論を能くし敢て敵する者なし」と、或る文献には出ている。鳩麻羅什が大品般若経を譯出したとき、彼は『般若無知論』を撰著
【本則】擧す。陸瓦大夫、南泉と語話する次。陸云く、肇法師道く、天地と我と同根、萬物と我と一體、也た甚だ奇怪なり。南泉庭前の花を指して、大夫を召して云く、時の人、此の一株の花を見ること、夢の如くに相似た
大抵の奴は狡猾な小ざかしい點智をもって現象界の利益ばかりを追求して、小細工を弄して失敗する。それを“落節”といふのである。“節”はフシといふ字であって、天理教祖は「難儀はフシぢゃ、フシから芽がでる」といは
第四十則 天地同根(この第四十則は“天地同根”と題した本もあるが、“南泉如夢相似”と題した本もある。私は“天地同根”の方を採ることにした:雅春先生のコメント) 【垂示】垂示に云く。休し去り歇し去る。鐡樹花を
そこで、こんな解らぬ奴に引っかかったら、絲の出口を失った絲巻のやうなもので、どこを探しても絲の端がないから始末に了へないといふほどの意味が「便ち恁麼太だ端無し」である。しかしこんな譯のわからぬ頓珍漢の
【頌】頌に云く、花薬欄、まんかん(惜しくも旧字見つからず)すること莫かれ。星は秤に在りて盤に在らず。便ち恁麼太だ端無し。金毛の獅子大家看よ。【解釈】雲門禪師が“花薬欄”といったのは何故さういったか、といふ
そんな低い境地にある某僧は、“膿滴々地”となった時の岑和尚の肉體みたいな醜い心境である。或は便所の不浄をかくすための袖垣に花を植えてはあるが、しかし悪臭芬々は隠し切れないと同じやうな汚い境地の僧ではある
その雲門の答に感動したのか、意味がよく判らないのか、雲門のそんな答へに飽き足りないのか、「便ち恁麼にして去る時如何?」(そんなことならもう直ぐ歸らして貰ひますわと言って、去って行かうとしたらどうします
https://fb.watch/kBQ-GAUuLp/ 「助さん、角さんや」多くの日本人は、水戸黄門と言えば頭巾を被って日本旅。悪者退治の暇そうな爺ちゃん位に思って居る方は多い(あれは殆ど作り話)光圀公は少年の頃より卓越した性
さすがに、雲門禪師である。そのやうな錯誤の間に對して徹悃(てっこん)深切に諄々と答へても始まらないと知っていられる。それだから雲門禪師は、「花薬欄」といって答へられたのである。花薬欄といふのは、臭い便所
それだからこの世界を“蓮華荘嚴の構圖を包蔵する世界”であるといふ意味に於いて“蓮華蔵世界海”と『華嚴経』では名附けられているのである。“世界海”と稱せられるのは、蓮華荘嚴の中心歸一構圖の實相は、金剛不壊であ
だいたい“法身”といふ肉眼には見えない宇宙遍滿の靈的實在なる法身を、現象界のものの脆弱な物體と對比する形容詞をもって來て「堅固法身」だの「清浄法身」だなどと名づけるのが間違いなのである。本當は「堅固」だ
だいたい“法身”といふ肉眼には見えない宇宙遍滿の靈的實在なる法身を、現象界のものの脆弱な物體と對比する形容詞をもって來て「堅固法身」だの「清浄法身」だなどと名づけるのが間違いなのである。本當は「堅固」だ
汝らの『生命』は健康なる力士の生命以上のものなることを。如何なる健康なる力士も彼が肉體を實在と觀、肉體即ち彼なりと觀る以上は彼は滅ぶる者にして眞の『健康』に非ざるなり。眞の『健康』は物質に非ず、肉體に
玄沙の岑和尚のことはもう度々話したことがあるが、常に人を導くのに、人間は「堅固法身」だと説いて、口癖のやうに「堅固法身」と唱へていた。ところがこの岑禪師、あるとき過って毒物を食したのであった。その結果
そのやうな本來清浄の佛性があらはれた人が、“大用現前底の人”といふことになる。“大用現前底”とは、盡十方に無礙自在の大なるはたらきが現實にあらはれて、無限に人を救ふことが出來る達人のことである。實際、彼が
花たちの世界へようこそ https://www.facebook.com/groups/576691647641222/permalink/576692527641134/
「百錬の精金を鍛へんと欲せば、須く是れ作家の爐韛(ろはい)なるべし」といふのは修行者の心を説いたもので、作家を運命の作者たる修行者にたとへ、佛性を“金”にたとへたのである。これは最近の科学的精錬法ではなく
しかしやがてその緑にも飽きて來る時節が來ると、緑は色を變じて紅葉したり、黄葉したりして、秋の物思ふ適切な色彩をもって吾々を迎へてくれる。やがて冬が來て“枯木寒嚴に懸る”とでも形容するやうな枯淡な、しかも
生長の家のみ教えは万教帰一(全ての良き教えは根本では一つに繋がる)と尊師雅春先生にお教え頂いています。人生に於いて何かにつまずいたりした時に、思い出す事は“人間は神の子(佛の子)である”と言う宣言です。
時節を觀ずるといふのは、時節そのものの中に佛性が顕現しつつあることを觀ずるのである。春が來て櫻の花がひらく、“春が來る”といふ“時節のめぐり”も佛性無限智の展開なのである。春が來ないで、いつまでも冬の萬物
人は何の為に生きるのか それはすべての人の誕生と共に運命付けられた“公案”といえます。小生ももれなく此の人生の問題を思わぬ事から突きつけられ、若輩ながら、延々と情報を入手し情報のサイトとして、まとめる事
時節を觀ずるといふのは、時節そのものの中に佛性が顕現しつつあることを觀ずるのである。春が來て櫻の花がひらく、“春が來る”といふ“時節のめぐり”も佛性無限智の展開なのである。春が來ないで、いつまでも冬の萬物
世間の迷信や流行や習慣法に縛られて、一緒に流れて行くやうな俗物どものことである。かういふ俗物どもは、猿が檻に入れられているのと同じで、檻の中の寸法の狭い世界を右往左往するだけのことである。われわれは萬
われわれは今、生命の根元を實在界にもちながら、その根元世界から生命力も智慧も愛も受用して生きているのであるーーーそれを知らずに暗愚無自覺のままで生きている人もあるが、それを自覺して、意識的に實在界の毘
毘盧舎那如来。これは漢字に翻譯すると“遍一切處佛”といふ意味である。『大方廣佛華嚴經』の“大方廣佛”に當る。すなわち“あらゆる方角に廣がっていられる如来”である。その如来が一切の善徳の原點であって、その如来
第三十九則 雲門金毛獅子 【垂示】垂示に云く。途中受用底は、虎の山によるに似たり。世諦流布底は、猿の檻に在るが如し。佛性の義を知らんと欲せば、當に時節因縁を觀ずべし。百錬の精金を鍛へんと欲せば、須ら
風穴和尚は臨濟の嫡孫であるから、この三玄の眞理をもって戈甲すなわち戈及び甲として武装していて、一寸の隙もないから盧陂長老が軽々しく應酬しても、まだまだ、とても歯が立たないのであるといふ意味が「三玄の戈
【頌】頌に云く、盧陂を擒得して、鐡牛に跨がらしむ。三玄の戈甲、未だ軽しく酬いず。素王城畔朝宗の水。喝下會て却って倒流せしむ。【解釈】鐡牛の如き金剛重篤の堅信を得ているといふ盧陂長老であるが、彼を擒得に
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曰く、「至道の本體なるものは、南北東西烏飛び兎走ると、無限の空間に充塞し、無邊の時間に貫通して、所謂る無量の光明であるからして、盡十方至らぬひまもなく、天を該ね地を括りて、一草一葉の上にも其の全眞露現
「天を該ね地を括り、聖を越え、凡を超」えるものは宇宙の當體であるのである。『碧巖録』のやうな禪の公案をあつめた本では、趙州和尚がたびたび好んで用ひる「至道無難、唯嫌揀擇(ゆいけんじゃく)」の語句の「至道
第五十九則 趙州語言【垂示】垂示に云く、天を該ね地を括り、聖を越え、凡を超ゆ。百草頭上に涅槃の妙心を指出し、干戈叢裏(かんかそうり)に衲僧の命脈を點定(てんぢゃう)す。且く道へ、箇の什麼人(なんびと)の恩力
飛ぶものは墜落す」と形容してある。これは趙州和尚のやさしい言葉のうちに機鋒の峻嶮なること獅子吼にたとへて、趙州和尚が一聲高く聲を出せば、百獣怖れをなして縮み上って聲も出なくなる。“至道無難”の問題で趙州
【頌】頌に云く、象王哮吼(こうく)す、無味の談、人口を塞断(そくだん)す。南北東西烏(うと)飛び、兎走る。【解釋】これは趙州和尚を讃めた言葉である。『大般涅槃経』の徳王品に「大涅槃は唯大象王、能く底を盡す、
『新撰谷口雅春法話集』第六巻(『善と福との實現』)に「牝鹿の脚の話」といふ章がある。自分の脚を“牝鹿の脚の話”となしその牝鹿の脚にのれば人間は自由を得るといふ寓話である。そして、“牝鹿の脚”に乗って自由自
すると、彼女は短期間のうちに元通りの肥胖した肉體となり元の木阿彌になったといふ二つの實例を擧げている。「至道無難」といふ場合の無難な「至道」といふのは、そんなに安手あがりの安易の道であり、本能のままに
わたしは今「白鳩」誌に、荒俣芳樹君と共譯で、ウイリアム・ホルナディ博士の講演集の録音テープ『神をわが内に生きる』の和譯を連載中であるが、その七月號掲載分の中にアルコール中毒患者がホルナディ博士の指導を
けれども趙州和尚はさすがである、「五年かかっても、それを私は言ひ解くことはできない」(五年、分疎不下)と正直に答へているのである。生長の家の携帯用聖典のなかに『聖光録』(新編)といふのがあって、その第
ところで、趙州はこの問いに對してかう答へた。「隋分前のことだったが、ある人が(會て人有りて)私にそれと同じ事を問うた事がある。その問の意圖が直ぐわかった。問ふのは無理もないと思ったが、『五年、分疎不下
第五十八則 趙州時人窠窟垂示はなくて直ぐ本則が掲げられている。【本則】擧す。僧、趙州に問ふ、至道無難、唯嫌揀擇、是れ時人の窠窟なりや否や。州曰く曾て人有りて我に問ふ、直に得たり、五年、分疎不下なること
ついでに、逃げださうといふ揀擇の心を棄てて、「獨坐宇宙の一枚巖」の心境になり「絶對生活」に入った倉田百三氏はその後どうなったかといふと、心の動揺が消えると共に、自分の身體内の生理作用の擾乱も消えて、さ
しかし、これは揀擇ではないのであって、“獨坐宇宙の一枚巖”の心境に於ては、「自分のほかに宇宙はなく、宇宙のほかに自分は無い」自分自身が“絶對者”であり、“宇宙”であるから境對から揀擇(えらびとり)のありやうが
それに對して趙州が答へた語が「天上天下唯我獨尊」である。これはまことに適切な答であって、本當は「天上天下唯我獨存」の意味である。天上天下に唯我のみが獨存するのだから、揀(えら)び取るべき對立も外界もない
やがて、その對立が消えて、宇宙の動きと一枚巖になり、不動なること大磐石となった心境を、倉田氏は「絶對生活」といふ語で表現していられた。對立がある生活に於ては、我と彼との對立があり、“心”と“境”との對立が
倉田氏自身の心が「獨坐宇宙の一枚巖」の心境となり、すべての對立が消えて、動かざること大磐石の如くなると、氏の周囲にあらはれていたすべての動揺も振動も消えてしまった。無論、文字が二重に見えることもない。
そして今まで危険から“逃げ出さう”“逃げ出さう”とばかりに考へていたのを一轉して、逃げ出す卑怯な心境から、來るものすべてをそのまま素直に受ける心境になったのである。“逃げ出さうとする”心境は“追ひかける者”又
そして今まで危険から“逃げ出さう”“逃げ出さう”とばかりに考へていたのを一轉して、逃げ出す卑怯な心境から、來るものすべてをそのまま素直に受ける心境になったのである。“逃げ出さうとする”心境は“追ひかける者”又
やがて自分の住む世界が地震のやうに動いている。何時屋(いつや)の棟が崩れ落ちるかわからないやうに家が振動する。危険でたまらないので、家から逃げ出して外に出ると、戸外の地面も動いている。ひどい地震で、いつ
それについて思ひ出すのは大正末期及び昭和初期時代の日本の文豪倉田百三氏のことである。氏は大正五年『出家とその弟子』と題して親鸞聖人を主人公とし、唯圓坊をワキ役にした戯曲を發表して一躍、名作家となったの
曰く、「至道の本體なるものは、南北東西烏飛び兎走ると、無限の空間に充塞し、無邊の時間に貫通して、所謂る無量の光明であるからして、盡十方至らぬひまもなく、天を該ね地を括りて、一草一葉の上にも其の全眞露現
「天を該ね地を括り、聖を越え、凡を超」えるものは宇宙の當體であるのである。『碧巖録』のやうな禪の公案をあつめた本では、趙州和尚がたびたび好んで用ひる「至道無難、唯嫌揀擇(ゆいけんじゃく)」の語句の「至道
第五十九則 趙州語言【垂示】垂示に云く、天を該ね地を括り、聖を越え、凡を超ゆ。百草頭上に涅槃の妙心を指出し、干戈叢裏(かんかそうり)に衲僧の命脈を點定(てんぢゃう)す。且く道へ、箇の什麼人(なんびと)の恩力
飛ぶものは墜落す」と形容してある。これは趙州和尚のやさしい言葉のうちに機鋒の峻嶮なること獅子吼にたとへて、趙州和尚が一聲高く聲を出せば、百獣怖れをなして縮み上って聲も出なくなる。“至道無難”の問題で趙州
【頌】頌に云く、象王哮吼(こうく)す、無味の談、人口を塞断(そくだん)す。南北東西烏(うと)飛び、兎走る。【解釋】これは趙州和尚を讃めた言葉である。『大般涅槃経』の徳王品に「大涅槃は唯大象王、能く底を盡す、
『新撰谷口雅春法話集』第六巻(『善と福との實現』)に「牝鹿の脚の話」といふ章がある。自分の脚を“牝鹿の脚の話”となしその牝鹿の脚にのれば人間は自由を得るといふ寓話である。そして、“牝鹿の脚”に乗って自由自
すると、彼女は短期間のうちに元通りの肥胖した肉體となり元の木阿彌になったといふ二つの實例を擧げている。「至道無難」といふ場合の無難な「至道」といふのは、そんなに安手あがりの安易の道であり、本能のままに
わたしは今「白鳩」誌に、荒俣芳樹君と共譯で、ウイリアム・ホルナディ博士の講演集の録音テープ『神をわが内に生きる』の和譯を連載中であるが、その七月號掲載分の中にアルコール中毒患者がホルナディ博士の指導を
けれども趙州和尚はさすがである、「五年かかっても、それを私は言ひ解くことはできない」(五年、分疎不下)と正直に答へているのである。生長の家の携帯用聖典のなかに『聖光録』(新編)といふのがあって、その第
ところで、趙州はこの問いに對してかう答へた。「隋分前のことだったが、ある人が(會て人有りて)私にそれと同じ事を問うた事がある。その問の意圖が直ぐわかった。問ふのは無理もないと思ったが、『五年、分疎不下
第五十八則 趙州時人窠窟垂示はなくて直ぐ本則が掲げられている。【本則】擧す。僧、趙州に問ふ、至道無難、唯嫌揀擇、是れ時人の窠窟なりや否や。州曰く曾て人有りて我に問ふ、直に得たり、五年、分疎不下なること
ついでに、逃げださうといふ揀擇の心を棄てて、「獨坐宇宙の一枚巖」の心境になり「絶對生活」に入った倉田百三氏はその後どうなったかといふと、心の動揺が消えると共に、自分の身體内の生理作用の擾乱も消えて、さ
しかし、これは揀擇ではないのであって、“獨坐宇宙の一枚巖”の心境に於ては、「自分のほかに宇宙はなく、宇宙のほかに自分は無い」自分自身が“絶對者”であり、“宇宙”であるから境對から揀擇(えらびとり)のありやうが
それに對して趙州が答へた語が「天上天下唯我獨尊」である。これはまことに適切な答であって、本當は「天上天下唯我獨存」の意味である。天上天下に唯我のみが獨存するのだから、揀(えら)び取るべき對立も外界もない
やがて、その對立が消えて、宇宙の動きと一枚巖になり、不動なること大磐石となった心境を、倉田氏は「絶對生活」といふ語で表現していられた。對立がある生活に於ては、我と彼との對立があり、“心”と“境”との對立が
倉田氏自身の心が「獨坐宇宙の一枚巖」の心境となり、すべての對立が消えて、動かざること大磐石の如くなると、氏の周囲にあらはれていたすべての動揺も振動も消えてしまった。無論、文字が二重に見えることもない。
そして今まで危険から“逃げ出さう”“逃げ出さう”とばかりに考へていたのを一轉して、逃げ出す卑怯な心境から、來るものすべてをそのまま素直に受ける心境になったのである。“逃げ出さうとする”心境は“追ひかける者”又
そして今まで危険から“逃げ出さう”“逃げ出さう”とばかりに考へていたのを一轉して、逃げ出す卑怯な心境から、來るものすべてをそのまま素直に受ける心境になったのである。“逃げ出さうとする”心境は“追ひかける者”又
やがて自分の住む世界が地震のやうに動いている。何時屋(いつや)の棟が崩れ落ちるかわからないやうに家が振動する。危険でたまらないので、家から逃げ出して外に出ると、戸外の地面も動いている。ひどい地震で、いつ
それについて思ひ出すのは大正末期及び昭和初期時代の日本の文豪倉田百三氏のことである。氏は大正五年『出家とその弟子』と題して親鸞聖人を主人公とし、唯圓坊をワキ役にした戯曲を發表して一躍、名作家となったの