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聖書の真理を求めて https://susudanmadu.hatenablog.com/

福音のイロハから順番に紹介していきたいです。<br>また、聖書の御言葉の深い味わいを共有できたらと願っています。

2箇所の学びのクラスの記録と 聖書の詳しい解き明かしを中心に記事を書いています

susudanmadu
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2022/10/25

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  • 創世記50章

    いよいよ、創世記最後の章です。 ヨセフ物語の終結であり、次の出エジプト記へとつながる重要な連結部分です。 ヨセフ物語の終結は、ヨセフ自身の言葉で終わっています。 ヨセフの兄たちが「夢見る者がやって来る。今こそ・・・あれの夢がどうなるかを見ようではないか」(37:20)と言ったことに対して、神がそれにどう答えたかを記しているのです。 「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして。多くの人々を生かしておくためでした。」(50:20)というものです。 その「良いことの計らい」とは神のご計画の遂行を述べたものです。 けれども、それは通過…

  • 創世記49章

    その生涯の最期に、ヤコブは息子たちを呼び寄せて、最後の力を振り絞って祝福をしました。 呪いのことばを語られた息子たちもいます。 「終わりの日に」息子たちに起こることが預言されています。 そのすべてが啓示されているわけではありませんが、かなりの部分においてその内容は成就していきます。 祝福の順を見ると、最初の4番目までと最後の11, 12番目は正当な出生順ですが、後の6人の祝福の順は無作為になっています。 妻のレアから生まれた息子たち6人を祝福し、そのあとでレアとラケルのそれぞれの女奴隷たちから生まれた息子たちの4人を、そして最後にラケルから生まれた2人の息子が祝福されています。 ヤコブの最愛の…

  • 創世記47、48章

    聖書の世界での「長子の権利」とは、「長子」、つまり、最初に生まれた子ども、第一子に与えられる特権です。 ヤコブは双子の弟として生まれました。 実際の長男はエサウです。 ですから、エサウに長子の特権が与えられています。 これは一人だけに与えられる特権です。 ヤコブはこの権利が自分にないのですが、どうしてもその権利が欲しいと思ったのです。 一方、兄のエサウはその権利に固執することもなく、関心もありませんでした。 その権利に感謝して大事に思うということもなく、今、自分が欲しいと思うものに目が行っていた人でした。 要するに、エサウは長子の権利をないがしろにしていたのです。 ところが、それを与えられない…

  • 創世記46章

    死んだと思っていたヨセフが生きていることを知ったヤコブは、ヨセフに促されて一族郎党(66名)を引き連れてエジプトへ赴きます(46:26)。 何百キロにも及ぶ道のりの移動は大変な一大事プロジェクトでした。 すべての家畜と共に移動する大変さは想像に難くありません。 かつて、ヤコブは神に伯父のラバンの住むパダン・アラムからベテルに戻れと語られた時、到着するまで10年ほどの期間をかけています。 膨大な時間をかけた、ゆっくりとした旅でした。 しかし、今回は飢饉に襲われ、避難する旅です。 そんな悠長な余裕はありませんでした。 ヤコブ(イスラエル)にとっては、初めて訪れることになるエジプトへの移動であり、不…

  • 創世記45章

    創世記45章ではヨセフ物語において最も感動的なシーンです。 ユダの熱心な弁明にヨセフは感極まってしまったのです。 そこでヨセフは初めて「私はヨセフです」と自分の身を明かしました。 兄たちとヤコブの反応がそれぞれ紹介されています。 前者の兄たちの反応は、「私はヨセフです。父上はお元気ですが」との問いかけるヨセフを前にして、「驚きのあまり、答えることができなかった」というものでした。 驚きと恐れ、そして不安が入り混じった複雑な心境だった様子が浮かんできます。 一方、後者の父ヤコブの反応は、最初、息子たちの言うことが信じられず、「ぼんやりしていた」というものでした。 おそらく、茫然自失のような状態、…

  • 創世記44章

    44章ではユダの言動が重要なポイントとなります。 ユダはこの章を契機に神の救済的歴史において頭角を表わす存在となります。 ここには、ユダがイスラエルの全家の指導者的存在、メシア(ユダの獅子)の系譜へとつながっていく出来事が記されています。 44章でも強意形をまとめて置きたいと思います。ヨセフと兄弟たちとの間における計らいや言動にそれが見られます。 1節 ヨセフは執事に(命じ)た。(共同訳) 2節 ヨセフ 「それから、わたしの杯、あの銀の杯を、いちばん年下の者の袋の口に、穀物の代金の銀と一緒に入れて(満たして)おきなさい。」 執事はヨセフが命じたとおりにした。」(共同訳)‭‭ 3節「夜が明けると…

  • 真理(イエス様)はあなたを自由にする

    【「イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」」‭‭(ヨハネによる福音書‬ ‭9‬:‭41‬ 新共同訳)】罪とは、自分が(霊的に)盲目なのに、それに気付きもせず、認めもせず、神に立ち返ることもせず、神の助けも御心も求めないで、神から遮断された状態のことです。 【「心の貧しい人々は、幸いである、 天の国はその人たちのものである。 悲しむ人々は、幸いである、 その人たちは慰められる。」(マタイによる福音書 5:3-4 新共同訳)】反対に、自分は(霊の)目が見えていないから、イエス様の救いが必要だ…

  • 創世記43章

    43章では、いよいよヨセフとベニヤミンの劇的な再会します。 この章でも登場人物にそれぞれ強意形の動詞が以下のように使われています。 9節 ユダ が 自分がベニヤミンの責任を取ることを父に伝えた 14節 ヤコブは、神が2人の息子を送り返してくれるようにと祈る。 19節 兄弟たちは、ヨセフの家に案内されて恐る恐る家令に語った 26節 28節 兄弟たちはヨセフを拝して平伏した 30節 ヨセフはベニアミンにあった後、急いで席を外した 30節 ヨセフはベニヤミンに会って胸が熱くなり、泣きたくなった 上記の太字の箇所に強意形が使われています。 ベニヤミンをエジプトに行かせることによって彼の身に不幸が起こる…

  • 創世記42章

    パロが夢で示された通りに、エジプトおよびその周辺にも飢饉が訪れました。 初めて経験する飢饉にヤコブの息子たちは困惑状態に陥りました。 このまま何も策を弄さないでいるならば、餓え死にするしかないと案じ、たヤコブは息子たちをエジプトまで行かせようとしました。 エジプトまでは400キロもあり、息子たちは躊躇しました。 食糧を手に入れて帰ってくることは、とても難儀なことです。 それでも、何もせずに手をこまねいていたら、一家で飢え死にしてしまいます。 族長のヤコブはエジプトに行けば穀物を手に入れることを知って、息子たちにエジプトに行って穀物を買ってくるように言いつけました。 ころが、溺愛している一番下の…

  • 創世記41章(2)

    エジプトに未曽有の大飢饉が来る前に、ヨセフはエジプトの宗教を司る祭司の娘アセナテと結婚しました。 そして、二人の子どもが与えられています。 その二人の名前は、ひとりは「マナセ」、もうひとりは「エフライム」です。 それぞれの名前には深い意味が込められています。 それまでのヨセフの人生に、神がどのように関わってくれたかを証しするものでした。 二人の子ども名前にはヨセフの信仰心が表されています。 妻にはユダヤの神への信仰はなかったのですが、妻の宗教感覚に感化されることなく、ヨセフの信仰はしっかりと確立していました。 子どもの名前を呼ぶごとに、いつでも神のことを思い起こすことができるようにしたのです。…

  • 創世記41章(1)

    ヨセフは、パロの夢を解き明かして、その上 、危機に備えて具体的な提言をしました。 そのことによって、エジプトの首相に抜擢されるという 想定外の物語が展開されます。 2年間の沈黙を経て、ヨセフにチャンスが到来します。 それはエジプト王パロが夢を見、それを解き明かす者がだれもいなかったためでした。 この41章に書かれている動詞の強意形をピックアッフしてみましょう。 4者の登場人物にそれぞれ強意形が使われています。 1. 夢を見たパロ 41章は「それから二年の後、パロは夢を見た」(1節)ではじまります。 パロは二つの夢を見たのですが、心が不安になりエジプト中の呪法師とすべての知恵ある者たちを呼び寄せ…

  • 創世記40章

    創世記40章で、ヨセフが入れられた監獄は侍従長(護衛長)のポティファルの家にある牢獄です。 ということは、ヨセフはポティファルの管轄から離れたわけではなかったのです。 しかも、エジプトの王の献酌官長(給仕役)と調理長官(料理長)の二人が過ちを犯したということで、ヨセフと同じ監獄に入れられてしまったのですが、侍従長のポティファルは、ヨセフをこの二人の世話係に任命したのです。 一時、ポティファルは妻の告発を聞いて怒り、ヨセフを牢獄に入れはしましたけれども、ヨセフの持っていた管理能力を見抜いていて、彼を用いたのです。 40章では、ヨセフに与えられている「管理能力」と彼に本来的に備わっている「夢を解き…

  • 創世記39章

    39章からヨセフの物語が始まります。 39章の中には二つの舞台が設定されていますが、そのどちらにも、「主はヨセフとともにおられた」(2, 21節)と「主が彼とともにおられた」(3, 23節)というフレーズが使われています。 「主が・・・とともにおられる」とは何を意味するのでしょうか。 39章ではヨセフが主が祈ったという場面も、主が直接的にヨセフに現われて何かを語った場面もありません。 それでも、神の臨在はヨセフとともにありました。 その祝福が如何に現実に現されるのかが記されています。 一人一人の登場人物に注目して見ていきたいと思います。 ヨセフ ヨセフが主人ポティファルの行為をやったことで、主…

  • 創世記38章

    創世記38章には、ユダとその家系の話が記されています。 ユダは、ヨセフを殺すよりはイシュマエル人に売ったほうが得だと他の兄弟を説得し、ヨセフの命を救った人物です。 ユダはヤコブの第四子で、ユダの家系はやがてメシアを生む家系となります。 ダビデの家系につながり、イエス・キリストへとつながります。 マタイの福音書の第1章のイエス・キリストの系図には、「ユダに、タマルによって・・が生まれ・・」とあります。 ユダは、ユダ王国、およびユダヤ人という民族のルーツなのです。 このルーツであるユダには創世記38章に記されているような自慢にもならないような出来事が起こりました。 そのことが包み隠さず書き留められ…

  • 主を誉め称えよ

    主をほめたたえよ。主のしもべたちよ、ほめたたえよ。 主のみ名をほめたたえよ。(詩篇113:1) もろもろの国よ、主をほめたたえよ。 もろもろの民よ、主をたたえまつれ。(詩篇117:1) 主をほめたたえよ、主のみ名をほめたたえよ。 主のしもべたちよ、ほめたたえよ。(詩篇135:1) 気持ちが、塞ぎ、気落ちする時 その原因に心当たりがあるならば 御霊の導きを乞い願い 対処していただくが良い 心当たりがないならば 賛美せよ 主を賛美せよ 主は素晴らしい 主は完全 主は良いお方 主にのみ救いがあり 癒しがあり 力と知恵がある 誉れと栄光は 永久に主のもの 主だけを見上げよ

  • ヨハネ17:3

    【[ヨハネの福音書 17:3] 永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。】 知ることは、御言葉、御国の奥義を知ることでもあり、実際にイェシュアを味わい知ることでもあるから、イェシュアご自身を慕い求めることと、御言葉を尋ね求めること、両方が大切ですね。 御言葉の真意を読み解くこと、御言葉に秘められている神の御心と神のご計画を探り求めることは非常に大事です。 同時に、御言葉に込められている御心を実際に体験的に味わうことも大事ですね。 その為には、御言葉の意味を尋ね求めることと、実際にイェシュアの御顔の光と輝きを受けるべく、主を慕い求めるこ…

  • ガラテヤ5章

    【[ガラテヤ人への手紙 5:17〜26] 肉が望むことは御霊に逆らい、御霊が望むことは肉に逆らうからです。この二つは互いに対立しているので、あなたがたは願っていることができなくなります。 御霊によって導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません。 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。 私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。 うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりしないようにしまし…

  • 幸いな道

    エレミヤ書 6:16 新共同訳 [16] 主はこう言われる。 「さまざまな道に立って、眺めよ。 昔からの道に問いかけてみよ どれが、幸いに至る道か、と。 その道を歩み、魂に安らぎを得よ。」 しかし、彼らは言った。 「そこを歩むことをしない」と。 エレミヤ書 29:12-14 新共同訳 [12] そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。 [13] わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、 [14] わたしに出会うであろう、と主は言われる。わたしは捕囚の民を帰らせる。わたしはあなたたちをあらゆる国々の間に、またあらゆる地域に追いやった…

  • 詩篇51:8

    【[詩篇 51:8] 楽しみと喜びの声を聞かせてください。 そうすれば あなたが砕かれた骨が喜びます。】 私たちの霊的な歴史が進んでいく中で、神の私たちへの関わり方は常に深くなっていきます。 奥へ奥へ奥へと神は進まれ、奥底に触れると、私たちの心の深みで真実を与えてくれます。 神は私たちの職業、教義、思い込み、自負、幻想、そして、習慣など、全て無用なものとして切り捨てます。 ここには単なる形式主義などありません。 この中にユダヤ教の儀式はなく、外向けの儀式典礼をただ守ることも、そこにはありません。 全く違います。 それは、最も深い奥深いところにある存在、心の内とまっすぐに向かっていかなければなり…

  • ダニエル11:32

    【[ダニエル書 11:32] 彼は、契約に対して不誠実にふるまう者たちを巧言をもって堕落させるが、自分の神を知る人たちは堅く立って事を行う。】 働きを続けるために、あなたは信者の大会や教師たちに、大きく頼っているのではな でしょうか? あなたは、最後に仕入れた材料を使い切ってしまい、何か、新鮮なネタを 手に入れなければいけないと感じていて、そのために会合に出席し続けるのですか? そ れとも、あなたは、「自分の神を知っている』がゆえに、人の支えから完全に解放され て、栄誉ある孤立という場所に置かれたのでしょうか? そうなれば、サハラ砂漠の真ん 中に取り残されたとしても、心配することはありません。…

  • 御心

    「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」(Ⅱコリント12章9節) 「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」 (ピリピ4章13節) この2つの御言葉つなげてみるならば、「私の力は弱いけれども、神は強いのでどんなことでもできる」というふうになるけれども、神は私たちが願ったり、祈ったとしても、決して御心以外のことを成就させる事はなさらないですよね。 どんなに私たちが熱心に祈ったとしても、それが結果的に私たちのためにならないようなことであれば、神様が私たちの願いを叶えてくれるなんて事はないんですよね。 今までの人生を振り返ってみる…

  • 第一コリント8:10

    【[コリント人への手紙 第一 8:6] 私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、この神からすべてのものは発し、この神に私たちは至るからです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、この主によってすべてのものは存在し、この主によって私たちも存在するからです。】 救いとは、ただ、魂を助け出すだけではなく、その魂を、キリストの完全さへと向かう 道に乗せることでもあります。 本当にみ言葉と御霊の中にある務めの全ては、この目的に 支配されています。 そして、ただ救われて、そこに留まるだけでは、み言葉の目的を果た すことはできず、聖霊の活力を十分に得ることもありません。 『主の働き』と呼ば…

  • 耕しなさい

    【エレミヤ書 4:3 、4 (新共同訳) [3] まことに、主はユダの人、エルサレムの人に 向かって、こう言われる。 「あなたたちの耕作地を開拓せよ。 茨の中に種を蒔くな。 [4] ユダの人、エルサレムに住む人々よ 割礼を受けて主のものとなり あなたたちの心の包皮を取り去れ。 さもなければ、あなたたちの悪行のゆえに わたしの怒りは火のように発して燃え広がり 消す者はないであろう。」】 この御言葉は、良い地に種を蒔く喩えにも通じると思いました。 良い地とは、イエス様の土台で、イエス様ご自身だと思います。 イエス様以外に良い地はあり得ないと思います。 けれども、イエス様を土台として据える前に、砕か…

  • イザヤ48:10

    【[イザヤ書 48:10] 見よ。わたしはあなたを錬ったが、 銀のようにではない。 わたしは苦しみの炉であなたを試した。】 悩みの炉は信仰によってキリストの中にいる者たちのためにあります。 悩みの炉の中では何が起こるのでしょうか。 火の中で変えられるものとは一体何でしょうか。 火の中で練られるのはあなたや私でしょうか。 あなたは火の中で練られるのでしょうか。 私は悩みの炉の中で練られるのでしょうか。 違う、絶対にそうではないと私は言いたい。 もし、『そのとうりだ!』と言うのなら、悩みの炉、るつぼの中の金属を溶 かす炎を見てみましょう。 あなたはその金属をどうするのですか。 あなたはこう言うでし…

  • ピリピ4:13

    【[ピリピ人への手紙 4:13] 私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。】 とどまるとは、どういうことでしょう。 キリストのうちにとどまることは、これまでに 何度も言ってきたように、私たち自身の中にとどまることの反対です。 自分自身の中にと どまるとは、この生活、あの主への奉仕を、自分自身の力だけで行おうと試みること、 それを行うことを助けてくださいと主にひたすら願うだけで、神を満足させた主のいのちが既に完成されたことも、信仰こそがキリストにある完成を助けることも認めようと しないことです。 キリストのうちにとどまるとは、ただ単純に、何をするにしても、何を 満たすにし…

  • ロ―マ12:3-5

    [ローマ人への手紙 12:3,4,5] 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがた一人ひとりに言います。思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深く考えなさい。 一つのからだには多くの器官があり、しかも、すべての器官が同じ働きをしてはいないように、 大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。 私たちは主の御体の一部です。私たちの受けている苦しみの多くは、私たちのせいで起こっているのではありません。神の子供たちが受ける苦しみの多くは、彼ら自身過ち、彼ら自身の欠点とは全く何の関係もあ…

  • ヨハネ1:29

    【[ヨハネの福音書 1:29] その翌日、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。】 世の罪とは何のことでしょう。それは高慢です。 あなたはそう思わないかもしれません。 ですが、もう一度思いを巡らして、罪と呼ばれるものの根源は全て高慢にさかのぼると言うことができるのではないか考えてみてください。 罪とは高慢が形を変えて現れたものではないかと考えてみてください。 高慢とは何でしょう? それは自我が命を持って立ち上がり、動き始めたものなのです。 これこそ高慢の根であり、高慢から生じる実なのです。 妬み貪欲、怒り、そしてその他たくさんの実が高慢から生じます…

  • 第二テサロニケ1:9

    【[テサロニケ人への手紙 第二 1:9] そのような者たちは、永遠の滅びという刑罰を受け、主の御前から、そして、その御力の栄光から退けられることになります。】 主イエス様はただ、人の救済者、人の取り分の守り手として、この世界に来られたので はありません。 私たちは、主の願いがこの宇宙でもっとも偉大なものであること、神の 全ての関心は贖いにあること、そして、私たちの心がただ願いだけに占められているべ きであることを、強く示していただいて、これを信じるように導かれなければなりませ ん。 贖いとは、とても大きなことです。 その大きさは、どれだけ誇張してもしすぎること はありませんし、私たちが、いつか…

  • ヨハネ10:25-30

    【[ヨハネの福音書 10:25〜30] イエスは彼らに答えられた。「わたしは話したのに、あなたがたは信じません。わたしが父の名によって行うわざが、わたしについて証ししているのに、 あなたがたは信じません。あなたがたがわたしの羊の群れに属していないからです。 わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。 わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはで…

  • ヤコブ1:4

    【[ヤコブの手紙 1:4] その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となります。】 神が私たちを訓練する道に対して、私たちが取る態度は2つである。 1つはそれをただ苦しく不快で厳しいものと受け取ることであり、もう1つはその鍛錬によって私たちが大きくなり、その鍛錬を経て成長し、能力を広げ、自分をより広い場所へ導いてくるべき時代に、世界を統治する主の知性に溢れた道具のなるためにそれを受け入れることです。 人生の歴史に入り込んでくるものの、深い意味を常に正しく測ることはできませんが、そのことを通して、主は民を成熟した段階へ導くのです。 民もま…

  • 第一ヨハネ1:5

    [ヨハネの手紙 第一 1:5] 私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇が全くないということです。 光は透き通っています。 光は清らかさです。 光とは絶対的な純粋さです。 光とは誠実さです。 光は何も隠さず、その動作と性質は何かを隠すことと、あらゆる面で正反対です。 そこに隠すべきものは、何もなく、全てをあらわにし、全てが現れます。 言葉を変えれば光は偽ることがありません。 何も覆い隠すことを望まず、また何かを見せかけたり、実際とは違う姿と思わせることもしません。 光はただ一つだけのものであって、二重のものではなく、光には裏表がありません。 そして光は正しいも…

  • ルカ18:27

    【[ルカの福音書 18:27] イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」】 すべてはこの1つのことにかかっています。 (すなわち見せかけ通りに単純なことですが、)もしキリストが臨在すれば、それは神が臨在するということに他なりません。 その瞬間には何でも起こり得るということです。 あなたはいつか人生がもっと良くなる日が来ることを信じて待っているのでしょうか。 その日が来るかどうかは決して時間の問題ではなく、主の問題なのです。 主は言われます。 「わたしは同時に時間であり、永遠でもあるから、あなたは時間に縛られる事は何一つ受け入れなくても良いのです。 わたしを受け入れなさい…

  • マタイ3:6

    【[マラキ書 3:6] 主であるわたしは変わることがない。 そのため、ヤコブの子らよ、 あなたがたは絶え果てることはない。】 暗闇の権威は、私たちにとってもはっきりした現実です。 これまでも経験してきたように、この権威に屈服してしまえば、私たちはそこでおしまいです。 敵は暗闇の権威をもって私たちの生活に入り込もうとしますが、この侵害の前に屈服し、降参して受け入れてしまえば、私たちは敗北します。 私たちが主のものであれば、キリストは内におられ、キリストは何にも勝るものですから、キリストを全く感じなくても、または前向きな気持ちを持てなくても、私たちはやはり前に進まなければなりません。 これが自分に…

  • マタイ11:29

    [マタイの福音書 11:29] わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。 キリスト者に課せられた、大きな課題はキリストを学ぶことです。 これはただ学習する課目ということではありません。 お尋ねしたいのですが、あなたの人生で最も大きな願いはなんですか。 私の願いと同じでしょうか。 私の心の中の何よりも大きな願い、-長く生きれば生きるほど強くなっていく願いとは、イエス様を理解することです。 主のことでわかっていない事は私にはまだまだたくさんあります。 私は主のことになるとすぐにたくさんの問題にぶつかりま…

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