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  • 暴力としての音 / 着せられた役割 ー オタール・イオセリアーニ『鋳鉄』

    オタール・イオセリアーニ(Otar Iosseliani)監督による1964年作『鋳鉄(Tudzhi)』について。 溶鉱場で働く人々の朝から次の朝までの24時間をドキュメンタリー的に撮った短編で、都市映画の形式を持っている。シチュエーションと構成だけ見れば『鉱』と非常に似ている。同じ時期のイオセリアーニの作品と同様に音がアフレコでつけられており、溶かされ白く光る鉄からは猛獣の鳴き声が発され、溶鉱場の内部には戦場のような爆発音が鳴り響く。溶鉱場内部が戦場であり暴力そのもののように映される。 溶鉱場の煙突から出る煙、溶鉱場に向かう道に整然と植えられた木は、他の作品で登場するジョージアの自然の風景と…

  • 直視される観客 ー オタール・イオセリアーニ『ジョージアの古い歌』

    オタール・イオセリアーニ(Otar Iosseliani)監督による1969年作『ジョージアの古い歌(Dzveli qartuli simgera)』について。 ジョージアの4つの地域での伝統的な多声合唱を記録し、紹介するという立て付けの短編。各地域の多声合唱を背景に、それぞれの地形や他の伝統を映像で見せていくというものとなっている。多声合唱はイオセリアーニの映画で共存のモチーフとして現れるものとなっている。『唯一、ゲオルギア』では共存を可能としてきたのは積み重ねられた伝統や文化であること、ソ連占領下でのシステムの強制によってそれらが破壊されてしまったことが語られる。そのため、地域の伝統、多声…

  • モノクロの過去 ー オタール・イオセリアーニ『エウスカディ、1982年夏』

    オタール・イオセリアーニ(Otar Iosseliani)監督による1983年作『エウスカディ、1982年夏(Euzkadi été 1982)』について。 冒頭、バスク地方の言語がヨーロッパ最古の言語であること、住む人々が言語、伝統を維持し続けていることが語られる。前半はモノクロでバスク地方でのある一日が映される。トラクターなどが導入されつつも非常に伝統的な生活を続けているように見える。しかし、後半唯一の字幕付きのセリフとしてバスク地方の伝統や文化を次の世代に伝承することすら難しいこと、伝承のためにまず文化を愛してもらうこと、そしてその味を知ってもらうことが大切であると語られる。そして、カラ…

  • オタール・イオセリアーニ『群盗、第七章』において主人公は誰を生きているか

    オタール・イオセリアーニ(Otar Iosseliani)監督による1996年作『群盗、第七章(Brigands, chapitre VII)』について。 主人公は誰を生きているか 中世、ソ連占領下、内戦下の現代という3つの時代のジョージアにおいて群盗である人々を描いた映画。同じ役者が時代に渡って登場し、侵攻、独占、殺戮、裏切りを繰り返していく。どの役柄にも役名が与えられていない。時代の境目は明示されず、連続するショットによって繋げられているため、あたかも並行に起きているように見える。 一部でソ連占領以前、二部でソ連占領下、三部で内戦に至るまでをドキュメンタリー形式で描いた『唯一、ゲオルギア』…

  • 同期する群衆と歯車 ー セルゲイ・M・エイゼンシュテイン『ストライキ』

    セルゲイ・M・エイゼンシュテイン(Sergei Eisenstein)監督による1925年作『ストライキ(Strike)』について。 同期する群衆と歯車 「団結だけが労働者階級の持つ力だ」というレーニンの引用が表示され「だが...」という文字が工場の歯車へと変容する。それがこの映画の始点となっており、その歯車の回転は映画全編に渡って労働者達の群衆としての運動量と同期している。その運動量はストライキによって資本家の前へと集まっていく時、そして資本家の下にある警察によって一箇所に追い込まれていく時にピークを迎える。そして、それら二つのピークにおいてモンタージュの速度もピークを迎える。労働者、そして…

  • 禁酒法 / 矯風会 / アル・カポネ ー D・W・グリフィス『イントレランス』

    D・W・グリフィス(David Wark Griffith)監督による1916年作『イントレランス(Intolerance)』について。 禁酒法 / 矯風会 / アル・カポネ バビロン編、ユダヤ編、中世フランス編、現代アメリカ編という史実を元にした(と劇中で強調される)4つの物語で構成されているが、中心となるのは紀元前の物語であるバビロン編と現代アメリカ編となっており、ユダヤ編と中世フランス編はそれら二つを繋ぐ役割を担っている。 ”不寛容”である法と体制によって無実の青年が死刑を宣告される現代アメリカ編は、”不寛容”であるユダヤ教のファリサイ派によってキリストが処刑されるユダヤ編と重ねられてい…

  • さらば、荒野よ ー オタール・イオセリアーニ『素敵な歌と舟はゆく』

    オタール・イオセリアーニ(Otar Iosseliani)監督による1999年作『素敵な歌と舟はゆく(Adieu, plancher des vaches !)』について。 さらば、荒野よ 『蝶採り』と同じく、異文化、異なる階級間での関係と断絶についての映画となっているように感じる。豪邸とその近くの街の二つが舞台となっており、体制、監視者であり規律、排除する存在として街には警察が、豪邸には主人公の母親が存在している。 主人公は豪邸の息子で、家では上流階級的な身だしなみ、振る舞いを母親から強制されているが、街では貧困層を演じ、ホームレスや犯罪者とのネットワークを築いている。それと対置されるのが労…

  • 消費される魔法の終焉 / なぜフラハティか ー オタール・イオセリアーニ『そして光ありき』

    オタール・イオセリアーニ(Otar Iosseliani)監督による1989年作『そして光ありき(Et la lumière fut)』について。 あらすじ おそらくイオセリアーニが作り上げたものであろう集落があり、そこでは雨乞いをすれば豪雨が訪れ、切り落とされた首を繋げれば人が生き返るなど、魔法的な出来事が日常的に起こっている。それに対して集落に住む人々は人間的に描かれていて、一日サボって寝てる男もいれば男を巡って殴り合いの喧嘩をしたり、儀式の結果女性を追い出したことに対して儀式の実行者が泣いたりする。集落では電話の代わりに太鼓の音で会話するが、大声の噂話のように聞きつけた野次馬が集まってく…

  • 一つ目の断片は何か ー オタール・イオセリアーニ『ある映画作家の手紙。白黒映画のための七つの断片』

    オタール・イオセリアーニ(Otar Iosseliani)監督による1982年作『ある映画作家の手紙。白黒映画のための七つの断片(Lettre d'un cineaste - Sept pieces pour cinema noir et blanc)』について。 一つ目の断片は何か パリの都市生活を映した映像に『四月』のようにアフレコで音が重ねられている。タイトルに7つの断片とあるが、6つの断章で構成されている。2つ目の断章から始まり、6つ目の後、1つめの始まりを示すショットで終わる。そして、提示された1という数字は横に傾けられ、−となっている。 内容としては当時のパリの都市生活を割と直接的…

  • オタール・イオセリアーニ『トスカーナの小さな修道院』

    オタール・イオセリアーニ(Otar Iosseliani)監督による1988年作『トスカーナの小さな修道院(Un petit monastère en Toscane)』について。 トスカーナの外れに修道院があり、5人の修道士がおそらく古くから伝承されてきただろう宗教儀式を毎日繰り返し、宗教画や書物の修復と維持を行っている。教会や修道院は街から孤立した場所にあり、教会の大きさに対して修道士の数、そこに通う人々の数は少なく見える。 修道院と同列に、狩猟、農耕、祭りなどトスカーナに住む人々の営みが撮られている。静かな雰囲気で統一されているために、狩猟に向かう背中や銃声、豚の解体が暴力的に映る。淡々…

  • 歴史と亡霊、レンブラントの光 ー オタール・イオセリアーニ『蝶採り』

    オタール・イオセリアーニ(Otar Iosseliani)監督による1992年作『蝶採り(La Chasse aux papillons)』について。 歴史と亡霊、レンブラントの光 フランスの古城、所有者といとこを中心にマハラジャ、べん髪のベジタリアン集団、飲んだくれの神父など様々な民族を含んだコミュニティが築かれており、親密なようで嫌いあってもいるような関係性、独自の奇妙で自由な暮らしぶりを成立させている。所有者の一族は女性ばかりで、それは男性達が戦争によって亡くなったからだということがわかる。その古城には一族の歴史が蓄積されており、亡くなった男達が軍服を着て亡霊として暮らしている。 古城を…

  • 共存から内戦へ / 独裁者と信仰 ー オタール・イオセリアーニ『唯一、ゲオルギア』

    オタール・イオセリアーニ(Otar Iosseliani)監督による1994年作『唯一、ゲオルギア(Seule, Georgie)』について。 共存から内戦へ かつて複数の民族、宗教が共存していたジョージアがなぜ内戦へと至ったのかという問いが冒頭におかれ、紀元前からこの映画の編集完了時点である1994年に至るまでの歴史が語られる。 二部でジョージア出身のスターリンと対比的に出てくる人物はエドゥアルド・シェワルナゼで、同じくジョージア出身で、ゴルバチョフの右腕でペレストロイカを進めた人物らしい。ペレストロイカが結果的にソ連の崩壊とジョージアの独立に繋がったので、ソ連のジョージア侵攻を進めたスター…

  • 1921年4月、ソ連占領下のジョージア ー オタール・イオセリアーニ『四月』

    オタール・イオセリアーニ(Otar Iosseliani)監督による1962年作『四月(Aprili)』について。 ソ連のジョージア侵攻が1921年の2月15日から3月17日らしいので、タイトルはソ連の占領下となった1921年の4月を指しているんだろうと思う。 ジョージアの家が、ソ連の作業員によって作り替えられていく。新しい家が建ち、そこに家具が運び込まれていく。その作業音は不快な音として響き、主人公男女の足音は美しい演奏のように響く。それら作業音はジョージアの人々の演奏や発する音を中断させる。主人公男女は作業員達によって阻まれ続けるが、残ったジョージアの木の元で遂に結ばれる。しかし、その木も…

  • 道路を割る花 / ポリフォニー ー オタール・イオセリアーニ『珍しい花の歌』

    オタール・イオセリアーニ(Otar Iosseliani)監督による1959年作の短編『珍しい花の歌(Sapovnela)』について。 ジョージアの山岳風景が映される。そこに咲いていた花が「珍しい花」という商品として温室で人工的に育てられている。温室で育てられた花が、おそらくジョージアのものではない音楽に合わせて踊るように映される。それは踊っているというより踊らされているように見える。それと対比するように、それら花を守るように自然の中で育てる男の姿が映される。その花は伝統的な刺繍模様と重ねられる。夜、不吉な予感と共に男が花と共にうめく姿が映る。そして昼、ジョージアで自生する花がおそらくジョージ…

  • 幸福への適合 ー オタール・イオセリアーニ『水彩画』

    オタール・イオセリアーニ(Otar Iosseliani)監督による1958年作の短編『水彩画(Akvarel)』について。 労働と家事に明け暮れる妻、飲んだくれる夫。疲弊した家庭を追い詰めるように鳴り響くスピーカー。妻の金を盗んで逃げた夫はギャラリーに辿り着く。夫を追うのは妻であり、ソ連によって強いられた近代的な生活でもある。ギャラリーに飾られた絵画、彫刻がその苦悩や叫びと共鳴し、夫を圧倒する。夫は段々と自分が追われていることを忘れ、作品に没入するようになる。そして水彩画に描かれた家が、自分達の家だと確信する。その水彩画は幸福な家庭を描いたものだと解説される。水彩画に描かれた家を見つめること…

  • ジョルジュ・フランジュ『殺人者にスポットライト』における真の殺人者は誰か

    ジョルジュ・フランジュ(Georges Franju)による1961年作『殺人者にスポットライト(Pleins Feux sur l'Assassin)』について。 死期を迎えた古城に孤独に暮らす伯爵は、オルゴール付きの人形と共に鏡の裏に隠された部屋に入って死ぬ。鏡の裏の部屋の存在は誰にも知られておらず、伯爵の死体は誰にも見つからない。伯爵が死の前日にあったことは召使いが証言するが、伯爵が実際に死んだかどうかは誰にも確信されない。そして、その鏡はマジックミラーとなっており、城の中が見えるようになっている。伯爵は鏡の向こうの世界に行き、鏡越しに城に入ってきた人々を監視しているように感じられる。 …

  • 信じられてしまった虚構 ー サッシャ・ギトリ『毒薬/我慢ならない女』

    サッシャ・ギトリ(Sacha Guitry)による1951年作『毒薬/我慢ならない女(La Poison)』について。 スタッフロールの代わりにサッシャ・ギトリが全員の名前を呼びながら俳優やスタッフに感謝してる映像が冒頭に差し込まれており、それによってこれが作られたものであり、演じられたものであることが明示される。 その後続く映画内でサッシャ・ギトリは舞台となる村の神父を演じている。神父は村の人々の罪や殺意の告白を聞くことができるが、それを他人に話すことはできない。その宗教的権力は殆ど失われており、村の人々の生活を覗き見ることはできても、そこに介入することはできない。 神父と同じく村の人々も互…

  • 信仰 / 騎士道としての白 ー ジャン・グレミヨン『白い足』

    ジャン・グレミヨン(Jean Grémillon)による1949年作『白い足(Pattes blanches)』について。 ブレッソンのキャリア初期と同じ時期にカール・TH・ドライヤーやこの監督の後期の映画があるということにすごく納得感がある。冒頭の空に左下にさがるように広がる暗雲、暗雲に向かうように左へと移動し舞台となる町に入る車のショットに始まり、画面に映る全てに暗い霊感のような何かがあり、その霊感が無意識に対して意識的に鳴らされる異音と共鳴している感覚。三人とも、戦争を背景に信仰のあり方を描いた監督のように思える。 ブルターニュ地方の田舎、丘に建つ古城、その下に広がる港町。その城に代々住…

  • 二つの戦前 / 演じること ー ジャン・グレミヨン『不思議なヴィクトル氏』

    ジャン・グレミヨン(Jean Grémillon)による1938年作『不思議なヴィクトル氏(L'étrange Monsieur Victor)』について。 ヴィクトルがコメディアンととして登場するが、画面は何かぼやけて閉塞感に満ちている。そこに、殺人のニュースと明らかに異様な雰囲気をまとった3人の男が現れる。ヴィクトルに暗い何かが迫るように見える中、ヴィクトルが悪党へ、3人の男がコメディアンへと反転する。この冒頭から本当に良く、コメディとノアールの間を揺れ動くような非常に不安定な映画となっている。 ヴィクトルは善と悪の二面を持っているというよりも、両方が混濁して存在しているような存在として置…

  • 戦場と生 ー ジャン・グレミヨン『曳き船』

    ジャン・グレミヨン(Jean Grémillon)による1941年作『曳き船(REMORQUES)』について。 幸福に満ちた船員の結婚式を映すカメラは、ぐるぐると忙しなく回るように移動し続ける。カットも不安定に切り替わり続ける。カメラの移動はなぜか上下に弧を描くように行われる。光に満ちた結婚式のシーンから突如、暗闇の一本道を走り抜けるバイクのショットに切り替わる。音響としても、話し声がホワイトノイズのように心地よく響いていたところを、ジャーっという何か異様な走行音が切り裂くように響く。バイクの到着と共に式場に嵐が訪れ、その嫌な予感からシームレスに、結婚式に出ていた船員達は嵐に巻き込まれた船の救…

  • 運命への報われない抗い ー マックス・オフュルス『永遠のガビー』

    マックス・オフュルス(Max Ophüls)による1934年作『永遠のガビー(Everybody's Woman)』について。 『魅せられて』『忘れじの面影』に共通する、どこにもいけない人物とどこにでもいける人物という対比がこの映画にも存在しており、今回は父親によって家に閉じ込められていた主人公が、最終的には歌手、映画スターとしてその虚像が人々からアクセスできる存在(街中に顔写真が貼られ、虚像としてのバックストーリーが大きく売り出され、「映画館に行けば会える」存在)へと変化していく。しかし、実像としてのガビーは虚像の裏に押し込められ、どこにも行くことができない。 冒頭、スターとなったガビーのマ…

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