ここんところ、どうも調子が良くない。イライラするし、怒りはわいてくるしで調子が下がり気味。 なぜだろう、というのは言うまでもなく、あのわたしの意中の人がてんでわたしを相手にしてくれないから。男として見てくれないばかりか、わたしのことをダメな
どうもー、星です。生きていればみんな調子が悪くなることだってありますよね。そんなわけで、調子が悪いのでレッツぐだぐだ。 わたしは囚われの菜食の王子様なのかもしれない。菜食を道徳的な理由や環境的な理由やら、ともかくいろいろなことを理由にしてやってみようと思い立ったわたし。が、もしかして栄養失調というやつですかい? 何て言うんですかね。思考とか気分はスーっとフラットなんだけれど、何にもやる気が起きないの。で、自分の腕の甲の血管を見て「老けてきたなぁ。このまま死ぬのかなぁ」って
最近、このブログ、パッタリと読んでくれる人が減った。アクセス数を見るとため息は出ないものの、それでもこの不人気ぶり。不盛況ぶり。何でこんなに読んでもらえないのだろうと考えざるをえない。でも、いい。気にしないと言うよりは、そもそも大衆ウケは狙っていないのだ。自分が書きたいことを書く。それも自分のために。で、それをたまたま通りかかった人が読んでくれて、「このお兄ちゃん(もう今年40のおじさんですけどね)、なかなか面白いこと言ってるじゃん」と思ってもらえたらそれでいい。何も、こ
わたしにとっての永遠の謎。それはこの世界が実在するかどうか、という至ってシンプルなこと。 もしかしたら、いや、もしかしなくてもこの世界は存在しないのかもしれない。誰か教えてよ、などと言いたくなってくる。でもこればっかりはわたしに誰も教えることができない。なぜなら、その教えてくれた人もわたしが見ているこの幻の登場人物でしかなく、幻の中で「これは幻なんでしょうか?」とたずねてもまさしくこれはナンセンスだからだ。分からない。謎。真実はどこにあるのか? もしも、この世界が幻なのだ
今朝の新聞の一面に、2070年には少子化が進んでいって日本の人口が8700万人になる、という記事が載っていた。2070年か。今、2023年だから47年後か。ということは、わたしが生きていたとしたら87歳くらいになっているわけか。うむ、どうでもよくはないけれど、どうでもいいな(笑)ってまるで他人事か何かのように思っている自分がいる。日本の人口のうち1割が外国人になるということも書いてあって、その頃には当たり前のように外国人がいる風景がある。でも、どうでもいい? よくないかも
只今の時刻は夜の11時半を少し過ぎたところ。何でこんな時間に書いているかと言うと、これは書かねばと思ったからだ。と言いつつも別に大したことではない。月並みなありふれた体験がとても印象的だった。ただそれだけのこと。 何について書くかと言えば、蚊だ。最近、アヒンサー(非暴力)を偽善まっしぐらのごとく実践し始めたわたしなのだけれど、部屋に蚊がいたのだ。寝よう、寝ようと思っていると顔のところにブ~ン、ブ~ンと電気を消しているからその姿は見えないものの、まるで眠りを妨害するかのごと
どうも、星です。皆さん元気に過ごされていますか? わたしはわたしで元気にやっております。 さて、菜食生活、つまりベジタリアン生活を始めて5日目になるのでご報告を。 まず、調子がいいのかどうか。いいとか悪いとか、そういう感じではなくて、頭の中がスーっとしております。頭の中がフラットになっていて、平ら~みたいな感じ。これも、それも肉食をしていないからなのだろう。静かな波風立っていない穏やかな湖のようなそんな感じなんだ。というか、闘争本能ゼロです。確実に言えることは闘おうってい
最近、変わってきたことがある。何かと言うと、蚊を殺すことにためらいを感じるようになったのだ。以前のわたしであれば、何のためらいもなく、何も躊躇することなく叩き潰していた。それが一瞬考えるようになった。で、殺さないでそのままにしておくことが増えてきた。そのせいで(って当たり前だけれど)わたしはぼちぼち蚊に刺されている。刺されればかゆい。これも当たり前のこと。でも、何だかひと思いに蚊を潰していた頃よりも心が平和だ。あの蚊を潰した瞬間に感じる、それも一瞬だけ感じるどす黒いネガテ
わたしが嬉しく思う瞬間。それはヨガをやることによって、心と体が整えられていくことを実感する時。 毎日ヨガをやっている。自分に磨きをかけて、より向上しようと日々励んでいる。その甲斐あってか自分自身が良くなってきている。見た目も内面も心も、ありとあらゆる面が進歩している。 わたしが花だとしたらわたしは何のために咲いているのだろう? 誰かから「きれいだね」って言われるため? あるいは商品価値がわたしという花に付けられて、高値で取引されるため?(値段がついたとしたらよりその値段を
世の中にはすごい人たちがいるもので、ヨガの世界でもアシュタンガヨガと呼ばれる難易度の高いものすごく体を酷使するヨガがある。そして、それができるヨガの世界でもいわば優れた人たちが一定数いて、わたしはそんな彼らと自分のヨガの達成度を比較して、ああなりたい。アシュタンガヨガができるようになりたいと思ったりするのだった。 たしかにアシュタンガヨガは難しい。初心者には太刀打ちできないような、そんな難しいポーズがたくさんあって、とてもではないけれどわたしのようにまだヨガを始めて間もな
これで本当にいいのだろうか。このまま進んで行っていいのだろうか。不安とまではいかないけれど、どこか心許ない感じがする。 佐藤優さんと池上彰さんの本を読んでいたら、何だか自分がつまらない何も知らない、できていないダメな人間のように思えてきてしまった。そういうわけで、少し気持ちがどんよりしている。 と言いつつも、もうだめだというところまで落ち込んでいるわけではない。ただ、少し気持ちが重い。それくらいで済んでいる。おそらくヨガをやっていてヨガパワーに守られているからなのだろう。
前回、ブログを更新してから一週間あまり。「教会へ行きたくない」「ヨガをやってまた教会へ行きたくなった」と書いてから一週間。この間もわたしは時を過ごしておりましたよ。バッチリというか、時を過ごしておりました。 昨日はイースターだった。そして、わたしは母と一緒に教会へと行った。イースターということで簡単な祝会も教会では行われて、それはそれは皆さんでお祝いしたんだ。が、イースターの日のめでたい日であるはずの説教なのにわたしの心にはほとんど響いてこない。これは牧師の説教に問題があ
「教会に行きたくなくて」というタイトルの記事を書いてそれから2時間後。わたしは午後のヨガをやった。綿本彰「癒しのヨーガメソッド」というDVDを見ながらヨガをやったのだ。そうしたら奇跡が起きた。何とあれだけ行く気がしなくなっていた教会にまた行こうと思ったのだ。どういう風の吹き回しですか? 2時間前に書いた記事とはまったく逆の展開じゃないですか、と不審に思う人もいることだろう。それくらいの急展開というか、劇的な展開といいますか、ともかく気持ちを持ち直すことができたのだ。 ヨガを
のっけからネガティブな話で恐縮なんだけれど、話してもいいかな? ダメ? じゃあ、少し間を置いてそれから読んでほしい。 単刀直入に申しますと、今、教会へ行きたいという気持ちが起きないのだ。毎週、風が吹こうとも嵐がやってこようとも、日曜日に教会へ行っていた人間が何を言い出すのかと思うことだろう。でも、これが飾らぬままのありのままのわたしの気持ち。 2017年の10月から通い始めた今の教会。もう6年目にもなる。6年。思い返すと長いようで短かった。いろいろなことがあったな。1年く
星さんのブログが更新されなくなってから数日あまり。問題です。星さんは何をしていたのでしょう? 正解はヨガをやっておりました。ヨガです。ヨガなんです。何でまたブログの更新ほったらかしてヨガやってたの?、と不思議に思うかな。まぁ、そんなこんなでヨガをやっておりました。 でもね、24時間のうち寝ている時間以外、ヨガをやってました、なんてバカなことは言わないよ。そんなことしたら死んじゃう。肉体を酷使するヨガがそんなにできるわけがございません。でも、1日に少なくとも2時間はヨガをや
疲れているのだろうか。ともかく、生の喜びが感じられない。生きているのは素晴らしい。それは分かっている。が、どうも実感として感じられない。疲れている時ってあなたもこんな感じですか? 今日は日曜日だから教会で礼拝。式を進めていって、牧師の説教を聞く。けれども、その話の中でネガティブな部分ばかりが気になってしまい、牧師の語る慰めの部分が全然耳に入ってこない。まぁ、ネガティブな部分が多いというのは事実なのだろう。でも、そればかりが大きくまるで拡大でもしたかのように、大きく大きく感
もう既に幸せ。わたしはもう既に幸せ。必死になってそうではないのに、そう思い込もうとしているわけではなくて、わたしはこう思っている。と言いつつも、もっとほしいような気もする。もっとお金をザックザック手に入れて好きなことがしたい。あれがしたい。これがしたい。お金があったらこんなことできるのに、などと想像したりすることもある。でも、わたしは思う。と言うか思うことにした。無理矢理思わせるとかそういうのとは違うんだけど、それでも思うことにした。わたしはもう既に幸せで、幸せな人間なの
わたしたちはつい他の人に強引に「こうしたらいいよ」「こうすれば良くなるよ」って相手の様子などおかまいなしでアドバイスを押し付けてしまう。よくある光景というか、何というか。 人はアドバイスをする。それは相手に幸せになってほしいから。良くなってほしいから。良くなってもらって幸せに近付いてもらいたいから。 でも、わたしは思うんだけれど、誰かを幸せにすることなんてできないと思うんだ。えっ? 幸せにすることができない? 何をおっしゃるんですか、星さん。人は人を幸せにできますよ。何、
気持ちがくさくさしている。イライラしている。わたしのこのブログに批判的なコメントが寄せられてそのことで頭にきているのだ。 言葉。それは諸刃の剣のようなもので、あたたかい言葉は人を幸せにするけれど、反対に冷たかったり攻撃的な言葉は人を不幸にする。あたためて癒すか、希望を与えるか、それとも傷つけて相手を打ちのめすか。だからこそ、言葉というものは気を付けて用いなければならない。人を傷付けてしまうことがないように、と。 わたしは最初その記事に寄せられた記事を読んだ時、本当に頭に来
高校生の大地へ 前略。 毎日楽しくやっていますか? ってやっているわけないですよね。聞くのも野暮なくらい毎日に嫌気がさしていることと思います。高校生の時、本当に毎日が嫌で嫌で仕方がなかった。だって、学校の授業はチンプンカンプンで完全に落ちこぼれていたし、かと言って学校をやめようものなら結構有名人にさえなっていたわたしが「学校やめたんだってさ」と噂されかねないからやめることもできない。それで、毎日学校に行きたくないのだけれど、それでも渋々行く。もはや何のために学校へ自
祖母の遺品。その中に『総特集 佐野洋子』というムック本があって、それを何も考えずにわたしは手に取って読み始めた。本当に何も考えず、ただ何かにひかれるかのように手に取った。そうしたら考えさせられるものがあった。 わたしは「いい子ちゃん」だと思う。小さい時からずっといい子で来たのではないかと自分自身を振り返る。 いい子。いい子は人を困らせない。小さい頃のわたしは母から聞くところによれば、スーパーなどで「これ買って」とだだをこねたり、泣き叫んだりする子ではなかったらしい。おそら
何事も自分が正解だと思えば、正解になるのだと実感したのです。(いしかわゆき『書く習慣』p26) この言葉に出会った時、わたしは目からうろこが落ちた。衝撃を受けたというか、あぁ、そうだなぁと思った。本当ね、このいしかわさんの言葉、鋭くない? 何て言うか、本当核心をついているというか。 わたしを含めて結構多くの人がそうじゃないかと思うんだけど、いろいろなことに正解を求めてしまわない? お料理を作るにしても、文章を書くにしても、歌を歌うにしても、どの食べ物を食べるかとい
何だか調子がイマイチ。そうさ、いつもの体調不良というやつで、どうも気持ちが晴れないんだ。 思考停止。思考が止まっております。停滞しております。 わたしが統合失調症なのだからどうなのか、そこんところはよく分からないのだけれど、時間の感覚がおかしいの。こうして時を過ごしているわけだけれど、わたしに何も残っていないの。ただ時間が過ぎていく感じで、気が付くと一日が終わろうとしている。たしかに愛用のメモ帳を見ると、何時から何時までこれをやってという記録が逐一してある。けれど、その時
わたしは今のままではダメなのだろうか。そんなことを思う時がある。やはり、働いてそれなりの仕事をして、それなりの報酬を得る。そうしたことが必要なのではないか。 仕事。働くということ。考えるだけで気が重くなってくる。正直なところを言ってしまえばわたしは働きたいとは思えない。サービスを提供する側になりたいとは思えない。それよりも気ままにお客さんでありたい。給仕する人とされる人がいたら、される方でいたい。快適に心地良くいたい。 それはねぇ、星さんすごくワガママだよ。言われるまでも
今日、教会で集会があった。この集会はみんなで自由に語り合う、いわばフリートークをする集会で、わたしは珍しく食べ物を持って行った。何を持って行ったかと言うと、デーツ。デーツとはなつめやしの実で、乾燥させたドライデーツを差し入れとばかりに持って行ったのだ。 そうしたらその集会に参加されていたある方が、わたしが持ってきたのがデーツだと知るやいなや、「わたし、デーツ好きなんです!!」とそれはそれは無邪気にテンションを高くして喜んでくださったんだ。 わたしはそのリアクションを見て、
昨日、お金の本を読んでいた。それによると、経済的自由(働かなくてもゆとりのある生活ができる状態)を手に入れるためには、まず仕事をして生活を安定させて、さらには副業なんかもやってみて、それで生み出されたお金を投資に回していく。そうするのが辛い仕事にがんじがらめの生活から抜け出す方法だ。そんなことが書いてあった。要するに、まとまった大きな財産を作っていって、それを元手にしてさらに儲けて働くかどうかを選べる暮らしを手に入れる、ということ。 これを読んだわたしは、生粋の素直っ子な
わたしはふとある衝動にかられる時がある。今は慎ましく節度のある生活をしているけれど、放蕩の限りを尽くして、そしてお金がなくなったら放浪生活をする。そんな衝動にかられるんだ。何を言っているのか、と思うことだろう。自分でも何でこんなことをここに書いているのかよく分からない。 わたしは不満があるのだろうか。今の生活に物足りなさがあるのだろうか、などと自分自身とその生活を見つめ直してみると、特に不満があるわけでもない。母との二人暮らしは思いのほか楽しく、穏やかで平凡ながらも幸せな
3月11日。東日本の震災から12年。と言いつつもわたしはその震災を体験しているわけではない。ましてや、東北にすら行ったことがない。そんな完全に外野に位置するわたしに何が言えるのか。おそらく、ではなくて確実に何も言えない。でも、わたしは人だから何かしら思うことはある。そのつたない考えをここに書いてみる。 神様が分からなくなった年。それが震災のあった年。連日、テレビから流れてくる津波の映像を前にして、わたしは「神様、どうして?」と悲嘆に暮れていた。聖書にはこう書いてある。「神
もう何て言うか嬉しくて仕方がないの。わいわい、やったー、やっほー、きゃっほー、おお感動、涙が出てきそう。 一体何のことかと言うと、先日修理に出したCDアンプが修理を終えて我が家に戻ってきたんだ。おお!! しかし、それにしても仕事が早いっす。本当、早い。送ってからまだ4日しか経ってないよ。でも、早い分にはありがたいことで、早速聴かせていただきましょう。 おお!! あまりの美しい音に狂喜乱舞しております。これだよ、これ。これを長い間ずっと聴きたかったんだ。この音、本当懐かしい
昔むかし、あるところにお猿さんたちが暮らしておりましたそうな。お猿さんたちはとても敬虔なお猿さんでして、今日も集まってはその中でも飛び抜けて信仰深いお猿さんから教えを受けておりましたそうな。彼らはそれからも信仰篤く生き、そして死んでいったそうな。めでたし、めでたし。 今日はおそらく個人的な悩みがあってか、自分がそのお猿さんであるかのような感じがしてきてしまい、どうも教会の集会だというのに身が入らなかった。飛び抜けて信仰深いお猿さん、つまりは牧師から説明を受けている
『いやな気分よ、さようなら』という認知療法の本を最近熱心に読んでいるわたし。 認知療法がどういうものか簡単に説明すると、人間は出来事や五感で感じたことを自分なりに受け止めて、そしていろいろな感情を持ったり、いろいろ考えたりする。その時にどういう受け止め方をするか。そこがミソ。その物事の受け止め方がゆがんでいて問題があると、その結果、気分や感情も不快なものとなる。苦しくなってしまう。だから、その受け止め方、つまり認知を変えていこうよ。それが認知療法なのだ。説明終わりぃ。簡単
待っている。わたしの恋人がやってくるのを待っている。んなわけないっしょ。待っているのは宅配便。今日、集荷に来てもらうことになっているのだ。だから、待ちつつ、この文章をしたためている。 待つ。宅配便のおじさん(いや、今日はお兄さんかもしれない)がやってくるのを待つ。恋人ではないけれど待っている。 いつもの人だといいなぁ。それでいつもの調子でいつものごとく、いつものままで、いつものばかりに荷物を颯爽と引き取って持って行ってくれる。でも、今日は別の人なのかもしれないなぁ。 と一
今日、アーユルヴェーダの本を読んでいたら目からうろこが落ちた瞬間があった。そのことをお話ししていきたいと思う。 現代栄養学とアーユルヴェーダの違い。それは杓子定規に線を引くかどうかっていうこと。栄養学ではこれだけの体重の人でこれだけの活動強度がある人には何kcal摂りなさいと栄養指導をする。炭水化物何g、たんぱく質何g、脂質何gっていう具合に。 この栄養学のいいところは数字で目標が鮮やかに示されるので歯切れがいいということ。迷わない。躊躇しない。これだけ1日に栄養を摂れば
「ぼくらのクラブのリーダーは ミッキーマウス、ミッキーマウス、ミッキミッキーマウス♪」 このミッキーマウスが主役の歌、ミッキーマウスのマーチを歌ったのはもうかれこれ30年以上も昔のことだろうと思う。小学校の音楽祭でこの歌を4年生が歌うことになった。で、わたしたち3組に割り当てられたパートはメゾ(中音)。1組と2組があのおなじみのメロディーで(ソプラノ、高音)嬉しそうに声高らかに歌っているのに、わたしたちはそれにつられないように歌うのに必死。「ソプラノが良かった」。3組のみん
先日、誕生日だった。母の誕生日。今年で67になるんだ。というのも、わたしがもう今年で40なんだから、それくらいになってもおかしくはない。 そんなわけでハッピーバースデーはどうするべ?、的に考えるとやっぱケーキでしょう。星家では毎年、近所のケーキ屋さんの大きなバースデーケーキを食べるのです。ではなくて(ってオイ!)、ヤマザキのショートケーキかチョコレートケーキ(二きれ入っててだいたい300円くらい)を近所のスーパーで買ってきて仲良く食べるのです。それで「誕生日おめでとう」と
教会の聖書研究会(教会で行われる信仰を深めていくための勉強会)、行ってきましたよ。というわけで、今日学んだことの中からこれはと思うものを手短に紹介していきますね。 牧師が祈りについて教えてくれたこと。それは自分が空っぽになるまで祈るということ。わたしもそうなんだけど、たいてい神様に遠慮して自分の思っていることとか考えていることの半分も神様に伝えないのがふつうだと思う。でも、そうではなくて祈るのであれば、祈って祈って祈りまくって、自分の言いたいこと、不満、モヤモヤなどを全部
和田秀樹『なぜか人生がうまくいく「明るい人」の科学』という本を読み終えたわたしだったんだけど、そこからさらに面白そうというか、道が開けてきたんだなぁ。 この本の中で認知療法が紹介されていて、二分割思考というものが取り上げられていた。その思考というのがオールオアナッシング、つまり100か0か、白か黒かと考える思考なんだ。和田さんのそこのところの文章を読んでいたら、「うんうん、あてはまる。これはわたしのことを言ってる」とあてはまりまくりで、どうやらわたしはこの二分割思考という
朝、目が覚めた時、まっさきに思ったこと。「良かった。まだ生きてる」。 今日は夢のお告げによるとわたしが死んでしまうという日。皆様の無関心(アクセス数、少ないですねぇ)とはよそに星家ではそわそわと落ち着かない時間が流れております。 昨日はもう最後の夜になるかもしれないということで、下ネタ満載のはしたない雑文をこのブログに載せましたが楽しんでいただけましたか? 「最低。もう星さんの人格疑っちゃう」。ええ、たしかにそうかもしれません。最後の夜に発射だ何だのって本当品がないですよ
夢のお告げで予告された死ぬ日の前日に書いたとりとめもない駄文
注:この文章は小説でもなければエッセイでもない小説とエッセイの子どもです。つまらなくとも最後まで読了してください。きっと新しい発見は何もありません。時間を無駄にしたくない方はぜひとも読んでください。つまらないことうけあいです。 死ぬこと。死ぬって言うけれど、「ぬ」の意味を忘れた。だからわたしは死なないのだと強情に言い張る。でも、そんなことをしても人間いつかは死ぬ。だったら、今日死んだ気で生きてみないか。うるさい。わたしは「ぬ」の意味を忘れたからもう死なないの。死ぬ
今日は2月17日。ついに、ついに、と言いますかXデーがやってきてしまったのです。Xデーなんて星さん大げさすぎだって。何があったの?、とここは聞くところでありましょう。何があったの、星さん? ええとですね、明日がわたしが夢のお告げで死ぬと言われている日なのです。この夢、正夢(まさゆめ)なんでしょうか。それが本当なのか、あるいは取り越し苦労だったのか、明日ようやくわかるという次第なんです。 夢を真に受けるまじめでスピリチュアル系な星さん。この日が来てしまうことを日々悩んでおり
何日ぶりだろう。久しぶりに宇宙の本を読んだ。最近、宇宙にあまり興味が持てなくなってきていて読んでいなかったんだけれど、ふと読みたくなってきて続きを読んだんだ。 いつも宇宙について学ぶと思うことは、人間てちっぽけなんだなぁってこと。時々、自分に変な全能感が出てきちゃうんだけど、そうしたものをきれいさっぱり取り去ってくれる。全能じゃないんだ、ってまた気持ちを新たに持ち直させてくれる。 宇宙って本当広いよねぇ。星って今望遠鏡で見えるだけでもいくつくらいあると思う? 700垓(が
ヨガのDVDの先生が美しすぎてヨガに集中できなくて困っている、という話
最近のわたしのお悩み、聞いてくださいませ。一番大きな悩みは大きすぎて神さまに委ねるしかないから、2番目のやつをお教えしましょう。って興味ないって? 冷たいなぁ。そんなこと言わず聞いてくださいよぉ。 わたしのお悩みはくだらないと思われるかもしれないけれど、ヨガのDVD見ながらヨガをやる時に、それに登場する先生が美人すぎてそわそわしてしまって集中できないこと。く、くだらない? 今の聞いてた時間返せ? でも、本当きれいなんだよなぁ。お美しいって言葉がぴったりでほんとステキなので
さぁ~て、今日も執筆、執筆。というわけで最近わたしが考えていることを手短に書いていきたいと思う。しばしのお付き合いを。 ストレートに言いますけど、他人って自分の思い通りに動いてくれないよね~っていう話をしたい。何だ、星さん。そんなの当たり前だよ。たしかに当たり前だけど、そう言いなさんな。意外とこのことにつまづく人が多いのです。と、かく言うわたしも以前はそのことにつまづいておりましたから。 わたしと他人。それは別々の人で、別の人格を持ち、別の環境で育ってきて、その人独自の考
今日は日曜日。わたしは、絶滅危惧種なのかもしれない毎週教会へ行く人。由緒正しき正統派クリスチャンなのだ、と思う。 礼拝の説教を聞いていたのだけれど、どうも心に響いてこない。牧師の話が難しすぎるとかそういうことじゃなくて、何だか話が相変わらずネガティブなのだ。悲哀というか、暗くてどうも聞いていると気持ちがめいってくる。 今朝もアーユルヴェーダ的なセルフケアやりましたよ。舌磨きに白湯飲みにオイルマッサージにそれからシャワー。で、さらにヨガまでやってまさに気分は上々。 が、この
最近のわたしは努力のわりには結果がついてこない。ついてきていない。頑張って頑張ってブログを書いても一向に閑古鳥が「かんこー」って泣いているだけだし(閑古鳥って何て鳴くんだろう)、こんなに頑張って毎日勉強しているのに一向にお金の面で豊かになって行かない。となれば考えることはただ一つ。やり方が良くない、あるいは間違っているんじゃないか。その疑いが濃厚ですな。 というわけで、新しくやり方というか考え方の本を読むことにしてみた。どちらもまだ読んでいる途中で、全部を通した感想は書け
今日、悲しいというか残念なことがあった。あるお世話になっている方にわたしが吃音(きつおん)であることを伝えたんだ。きっとその優しい方のことだから何も余計なことなんか言わずに、ただ「そうなんですね」と言ってくれるものとばかり思っていた。しかし、この現実というものは時に冷酷でその方はわたしの予想に反して、どもらないようにするためのアドバイスをわたしにし始めて、最後には「気にしないことですよ」とさも大したことではないかのように言ったんだ。 何だかとても残念だった。アドバイスが始
時々、体が1つではなくて3つくらいあったらいいのになぁと思う時がある。当たり前のことだけれど、何かをやるということは別の何かをその時にやることを諦めること。このシンプルな事実に気が付いてからというもの、どうも一日の活動を始めるにあたって何をしようかと結構考えてしまう。今日も今こうして執筆をしているわけだけど、執筆しようか、それとも読書をしようか、あるいはヘブライ語の勉強をしようか、とこの執筆をすることに決めるまでに幾多の変遷を通り抜けてきている(ってオーバーだよ。オイ)。
わたしはやりたいことをやっている。好きなことや興味関心のあることをやっている。そのことをわたしはやりたいと思っていて、何もそのことを疑うことなくここまでやってきた、はずだった。 しかし、今ふと思う。本当にわたしはこのことをやりたいと思っているのだろうか、と。今、わたしの中で芽生えてきている疑いというのは、自分がやりたいと思ってやってきたことは実はそうではなくて、他の人の意見とか、他の人にどう見えるかとか、そういったことによってやってきたのではないか、ということだ。これはす
わたしは時々、こんな感慨に浸る。何も特別なことではない。ただ自分が自由であること、自由に生きることができること。そのことについて時折ぼーっと考えるのだ。そして、その余韻に浸るというか、ともかく、あぁ、わたしは自由なんだなって思う。 わたしは今、精神病院にいてこの文章を書いているわけではない。自分のお家にいて、その1階のお部屋で書いている。あぁ、自由だ。わたしはこの文章を書いても書かなくてもいい。どちらでもいい。わたしにはその自由がある。そして、その自由をめいいっぱい行使し
最近のわたしの生活は、って芸能人とか著名人でもあるまいし、興味のある人はおそらくほとんどいないだろう。いるとしたら、ひそかにいるとわたしが信じているこのブログの読者さま、それも熱狂的な星さんフリーク(でも、熱狂的でありながらコメントはしてくれない。謎)だけ。星さんが好きで好きでたまらない。しかし、コメントするのは気恥ずかしい。できたら星さんとお友達になりたい。しかし、友達になろうだなんておそれ多くてとてもではないけれど言えない。そんな人がおそらく2、3名はいるはず(ってこ
わたしがクリスチャンになってだいたい4年が経とうとしている。受洗までの期間を含めるとかれこれ今の教会には6年くらい通っている。その間、曲がりなりにも教会生活をしてきたわけであって、教会の行事やイベントやら何やら、または人の入れ替わり、立ち替わりを時間の流れと共に見てきた。 そんな中わたしは思うことがある。それは教会って礼儀正しくて善良な人でないと居心地が悪いだろうということだ。「え?」と思われる方が多いだろうか。それとも「あぁ、やっぱり」と思われるだろうか。でも、実態とし
どうもー、星です。みんな元気にしてますか? わたしは元気に毎日を過ごせていて、調子も良く、頭も冴えていて快調です。幸せいっぱい、夢いっぱい。そんな感じの毎日です。 と言いたいところなのだけれど、この平和が長く続かないかもしれないのだ。のっけから読者の皆様の意表をつく展開。星さんのブログはそんなに単調なものではないのです。必ず、一ひねりか、二ひねりくる。ニヤリ、なわけなのです。 何があったかと説明すると、もう2ヶ月ほど前でしょうか。夢を見たのです。夢。分かり切っているようで
今朝はなぜか気分が晴れなかった。気持ちがどんよりとして重く、やる気も起きず、わいてくるのはネガティブな思考ばかり。そんな時にわたしはどうするかと言うと瞑想をする。 が、瞑想をしたことによってかえって気持ちがどんより沈んでしまった。というのは、すべてが波のように思えてきてしまったからだ。わたしが以前書いた記事に「波」というそのものズバリなものがあったのだけれど、瞑想をしていくと最終的には波だということで落ち着いてしまうようなのだ。 わたしたちは日々生きている。呼吸をして、食
わたしにとっての新しいチャレンジは放送大学で勉強することだった。人間のこころについて学びたい。そんなわけで心理学メインで勉強するために入学したのだった。 それから4年くらいが経とうとしているだろうか。4年も経てば、というか人間というものは常に変化して移り変わっている存在だから、もちろんその当時のわたしと今のわたしとでは違う。が、変わったこと、変わらないこと。それぞれあって、今のわたしを織りなしている。 放送大学で心理学をかじってみて分かったことはもちろんある。その学びが今
新聞には今日も活躍している人々が紹介されていて、それはそれはキラキラしている。トップランナーというものはカッコイイ。その分野のトップ集団に位置して、クリエイティブな活躍をしていて、みんなの憧れの的。 でも、わたしは、特に最近のわたしは別に成功しなくてもいいかなという気持ちになりつつある。こんなことを言うと、負け犬の遠吠えだと揶揄されるかもしれない。けれど、何だか自分の軸がはっきりとしてきたようで、社会的成功を完全に放棄するまでには至っていないものの、それがわたしの求める生
あれからヘブライ語の勉強が一向にはかどらず、やったりやらなかったりを繰り返している不真面目なわれらが星どん。ま、わたしは人間ですからね。感情が常に揺れ動いているわけですよ。などと言い訳をしても、学習状況が進展していくわけでもない。勉強は止まったままで、前回からろくに進めていないのだ。 当たり前だけれど、特に語学というものは毎日やらないと上達していかないものなのだ。毎日やる。それもコンスタントに、着実に積み上げていく。そうすることによって、ものになっていくし、できるようにな
スーパーへ買い物に行ったり、ちょっと外へ出掛けると目に付くもの。それは子どもだ。最近、前よりも子どもの存在に気付くようになってきている。 とふと、このまま結婚もせず子どもも持たなくていいのだろうか、などと無いものねだりを始めるのだ。家族を築く。それっていいものなのかなぁ、とぼんやりと思ったりする。 もうわたしも今年で40。結婚が早い人だともう20代で子どもがいるから、そのペースで生きていたら今、わたしには中学生くらいの子どもがいることになる。 と言いつつもわたしは女性とお
わたしには時間というものが分からない。不可解で怖い。 一番怖いのは、わたしが気が付いたらもうおじいさんになっていて、あとは死を迎えるのを待つだけになっている、ということにならないかということだ。 もうこの文章を書き始めてから4分も経っている。4分という時間。これが不可解なんだ。分からないんだ。何で時間が過ぎていて、流れて行っているのかということが分からない。 わたしは時間に止まってほしいと思ってしまう。一秒たりとも歳を取りたくないし、死へと向かって一秒ずつじりじりと命が削
人生に目的はあるのだろうか、と考える時がある。それは決まって午後、日が沈み始めた頃で、これくらいの時間になると少しばかり感傷的になるようなのだ。 人生の目的、そして意味。果たしてあるのだろうか。まるで中学生のようなそんな青い問いをわたしはまた持ち出している。 わたしはクリスチャンだからついつい、というか当然のことのようにこうした問題をキリスト教的に処理しようとしてしまう。けれど、もしかしたら人生に意味なんてないんじゃないか、という気がする。意味なんかなくて、ただ人間がこの
マザー・テレサの本を読んでいると、わたしは自分のことだけを考えていていいのだろうか、という一抹の思いに駆られる。わたしの人生はわたしのものなのだからとどう生きようがそれは自由でしょ、などとまで言い切ってしまうつもりはない。けれど、何だかマザー・テレサの言葉は「それじゃあダメじゃないの?」とわたし自身、彼女と会ったことはないものの言われているような気がして、まるでのどに魚の骨が刺さったような、そんな感じがしてくるのだ。 たしかにわたしの人生はわたしのものなのだからどう生きよ
昨日はお騒がせしました。はて? 何のこと? 今日この記事と一緒にアップした昨日書いた「おしまい?」という記事ではわたしの調子の悪さがこれでもかとばかりに伝わったかと思う。そのことを言っているのだ。とは言いつつも「星さんにはあんまり興味がないんだよねぇ」という冷めた方もおられる(それが圧倒的大多数? いやはや、皆様そんなにお冷たいの?)だろうから、まぁ、これくらいにしておこう。 世の終わりがやってくるんじゃないかなどと書いたものの、今日もいつもと変わらぬ一日が始まり、お日様
終わりなのかもしれない。って急に何が終わりなの? この世界が終わりなのかもしれないとわたしは思うのだ。現在、2023年1月14日。見当識は保てているわたし。けれど、何やら終わってしまいそうな、そんな気配がして仕方がないのだ。 調子が悪い。またもや、パソコンを2時間あまりやってしまったがために不調に陥っている。苦しい。何が苦しいかと言うと、自分自身が朽ち果てていってしまうようで、そしてそれはアンチエイジングごときでは阻止できそうもなくて、ただただ時間の流れ方が変わってしまう
何を勉強するか。なかなかこれが難しかったりする。なぜならそれ次第で自分が伸びもすれば潰れもするからだ。要するに、自分の頭の中身についてはもう自分にしっかりと責任があるということで、何を学び、何を学ばないかというのは死活問題と言ってもいいくらい重要なことなのだと思っている。 独学というのは楽しい。けれど、その反面、自由すぎて果たして今のままやっていていいのかと不安になる時がある。一応、本を読んではいるのだから、先生はいないけれど強いて言うなら、その本の著者が先生だ。その先生
さて、何を書こうか。そうだな、昨日ネット動画を見て調子が悪くなった話にしようか。うむ、それとも、って特に書きたいこととかがこれ!ってあるわけでもない。 わたしは何のために書くのだろう、とまたもや迷い始めている。だいたい、自分のことを分かってほしいとか、そういう気持ちはなくなってきていて、別にわたしのことを不特定多数の顔の見えない人たちに分かってもらわなければとも思わない。じゃあ、何で書くのさ? このブログに記事を書いたところで、文章は上手になっても収益は何も入ってこない。
わたしは1冊のメモ帳を常にボールペンと共に携帯していて、自分が何時から何時まで何をしたとか、何時に起きて何時に寝たとか、それからその時書きたいなと思うことがあれば書いたりもしている。そんなメモ帳に昨日(1月7日)午後7時40分に綴った文章があるので、ここに引用することにしたい。 19:40 去年の年の暮れから1月3日までは本当に多忙だった。お料理もたくさん作っていたし、勉強だって4時間を超えて5時間くらいやることも珍しくなかった。わたしは言うまでもなく無理をしてい
もう今日は1月6日なのか。ここ数日間は自室に閉じこもる生活をしていたので、この3日間あまりの時間がまるで手から砂がこぼれ落ちたかのような、そんな感じがする。 祖父の葬儀。無事に終わった。5、6人くらいで見送ることになるのかな、と内心思っていたのだけれど、意外と(というと祖父に失礼でしょ)参加者が集まり15人くらいの規模で祖父を見送れたのだった。 祖父も祖母もその当時の人らしく7人兄弟。だから、参列に来てくれた人がどういう関係なのかを把握するのが難しい。2番目の弟さんの娘さ
もう今日は1月6日なのか。ここ数日間は自室に閉じこもる生活をしていたので、この3日間あまりの時間がまるで手から砂がこぼれ落ちたかのような、そんな感じがする。 祖父の葬儀。無事に終わった。5、6人くらいで見送ることになるのかな、と内心思っていたのだけれど、意外と(というと祖父に失礼でしょ)参加者が集まり15人くらいの規模で祖父を見送れたのだった。 祖父も祖母もその当時の人らしく7人兄弟。だから、参列に来てくれた人がどういう関係なのかを把握するのが難しい。2番目の弟さんの娘さ
昨日、ふと母と猫のいる部屋へ入ったらラジオが点いていて、ウィーンフィルのニューイヤーコンサートが流れていた。ヨハン・シュトラウスの曲がたくさん演奏されていて、「何かうまいぞ」と思ったらやっぱり一流のウィーンフィルだった、というわけだったのだ。 ウィーンフィル(ウィーンフィルハーモニー管弦楽団)。クラシック愛好家なら知らない人はいない世界的にも超有名な一流の管弦楽団。一流の演奏家がそこに所属することを望み、いわば一流のステータスとなるような、そんな世界でも屈指の管弦楽団。
今日は元旦。2023年が始まった第一日目。そして、日曜日で教会へ行ってきた。 が、何だか不安になってきた。教会へ行ってきて不安になるなんてそんなことなさそうだけれど、実際不安になってきたのだから仕方がない。で、何に不安になったのか? それは本当にこの道でこの生き方でいいのか、という不安であり迷いだ。「何言ってるんですか、星さん。あなたはもう自分の人生をこう生きていくんだ。イエスさまに一生従っていきますと誓ったんでしょう? 何を今さらそんなことを言っているんですか。あなたは
今朝7時頃、祖父が亡くなった。93歳。ともかく祖父にお疲れさまとわたしは言いたい。1月2日の誕生日を目前にしての永眠。誕生日を祝ってあげられなかったのが残念だったな。 90年も生きていればきっといろいろなことがあったかと思う。祖父はこの人生という海を今まで泳ぎ続けてきた。そしてやっとその営みから解放されて安らぎの場所へと旅立っていったのだ。 この二週間あまりは本当に長く感じられて濃密な日々だった。12月13日に入院して、2日後の15日に命が危ないんじゃないかってことで特別
もうかれこれ2ヶ月あまりになる。何がかと言うと、ヘブライ語をさぁやろうとまた再開してからがだ。しかし、人間の心は移ろいやすいもので、またもや減速し始めていて、母の受洗もあって気持ちが落ち着かなかったこともあったのだけれど、それにしてもここ一週間あまりはヘブライ語の学習時間がゼロという日が続いた。わたしは人間なんだもの。人間なんだからアップダウンがあるのは当たり前、と言いたいところ。けれど、そういうやる気の減退ではなくて、何というか自分にとってイエスさまという存在が何だか遠
昨日、祖父が入院している病院へ行ってきた。金曜日に病院の病棟から電話がかかってきて、土曜日か日曜日に主治医の先生が話をしたいので来てもらえないだろうか。何が何でも急いでいるわけではないのだけれど、とのこと。土、日はゆっくりしていたかったわたしは(というか日曜日は母の洗礼式が行われるクリスマス礼拝だった)、月、火なら大丈夫ですと電話で答えたのだった。では、ということで主治医の先生と話をするのが月曜日になったのだった。 と、昨日(つまり月曜日)の午前10時頃、病院からひげ剃り
長い一日が終わろうとしている。今日は12月25日の日曜日。教会でクリスマス礼拝が行われた。今日、この日に母は洗礼を受ける。「おめでとう、お母さん」。となるためにはわたしと母の二人が大きな病気や怪我などをすることなく礼拝に出席していなければならない。このことにわたしと母がどれだけ神経を使ったことか説明するまでもないくらい、それはそれは気を使った。どちらかがコロナとかインフルエンザに感染してしまったらどうしよう。そうなったら母の洗礼式は後日に延期。そんな最悪の事態に怯えながら
人間はほとんど何も分かっていないんじゃないか。科学万能の時代だけれどもわたしはこう思う。 分からないもの。それは世界であって、もっと小さなところまで降りていくと、わたし自身であったりする。今まではわたしというものはわたしであって、何も難しいことはなくて明解に分かっているつもりでいた。けれど、突き詰めていくと、というかどこまでも真面目に探求していくと分からない。分からないのだ。今までは何とも思っていなかったのに、急に急転直下するかのごとく分からなくなった。得体が知れなくて気
早い。とても早い。まだまだ先だと思っていたクリスマスがもう迫ってきている。12月25日まであと3日。皆さんいかがお過ごしでしょうか? さてさて、今のところ特にこれといったトラブルもなくわたしたち親子は過ごしておりますよ。 明日やること。いや、今日やってもいいんだけど、ほぼ一年ぶりのスーツだからとりあえず着てみる。それで礼拝に行く格好のフル装備(?)をしてみて問題がないか事前に確認しておくつもりなんだ。何だか気持ちが高鳴ってまいりましたよ。自分の洗礼式でもないのに、まるで自
もう夕方の5時。今とても疲れていて、何だかさぁやるぞみたいな気持ちがわいてこない。それもそのはず。ずっとかかりきりだったのだ。何にかと言うともろもろの雑事に、である。 午前中はお料理に忙しかった。11時くらいから始めて、わさわさ、わさわさ作って出来上がったのが12時15分。で、食べる。と、もう何だかんだで1時になっている。2時からは祖父の施設利用代金を支払いに出掛けるのだ。出掛けました。と、もう4時近くになっている。帰ってきたらもう4時。で、お米がない。買いに行かねば。行
一年生になったら~一年生になったら~友達100人できるかな~♪ 友達のことを考えるときにはいつもわたしはこの歌を思い出す。友達ってね、たくさんいた方がいいんだよ。それもたくさんたくさんいたほうがいいんだよ。そんなメッセージをこの歌は伝えようとしていて、これはこれでまぁ一貫している。 けれど、今のわたしはそうは思わない。人生を40年あまり生きてきて、そういうあり方が自分に合わないということを自覚しているからだ。今のわたしの考え。それは友達はいてもいなくてもどちらでもいい。い
木曜日に病院へ行って、金、土、日、月で今日は月曜日。あれから病院からは祖父の危篤を伝える電話はかかってきていない。便りがないのは良いことなのかな、と思いつつずっと祖父のことが気になっていたわたしは思い切って祖父が入院している病棟に電話をかけてみることにした。もしかしたら深刻な状態がずっと続いているのかな、などとおっかなびっくり電話してみたのだ。が、少なくとも連絡が来ていないということは祖父は死んではいなくて生きながらえているということ。一番の最悪の事態は訪れていない。 電
何の本だったか、多分、精神科医の樺沢紫苑さんの本だったような気がするのだけれど、そこでは自分の軸、つまりは自分軸について書いてあったかと思う。 人の意見に流されやすい人は自分軸を持った方がいいとのことで、それを読んでそうだよなぁと樺沢さんの意見に流されているわたし。結局、自分軸がないから自分軸を持った方がいいっていう主張に流されているわけであって……。 かく言うわたしはすごく素直な人間であって、誰かからこう言われると「そうだよなぁ」と思い、また別の誰かからまた違うことを言
わたしはもうなかば諦めている。何をかと言うと、日本が場合によっては戦争へと巻き込まれてしまうのではないか、ということをだ。 などと政治的な発言は基本的にこのブログではしてこなかったわたしだけれど、今回ばかりは何だか重い空気がわたしに、そしてこの国にまとわりついている。 未来はどうなるのだろう。どうなっていくのだろう。ま、なるようにしかなっていかないことは分かっている。けれど、不安になってくる。 わたしは戦争を知らない。祖父母の世代は太平洋戦争の経験があるものの、それから平
火曜日に施設から電話があり、市立病院へ行ってくださいとのことで、行ったら腸閉塞で入院になった星さんのおじいさま。で、その二日後、つまり昨日の木曜日に今度はわたしが病院に呼ばれた。何でも祖父の治療にあたってくれている主治医からすぐにお話があるらしい。何か電話の看護師がすぐに来て欲しい感を話し方やテンポや間などで表していたので空気が読める男のわたしは、これはきっと今後の治療方針について決めて欲しいということなのだろう、と思ってあまり身構えないで一人で病院へと向かったのだった(
この社会には安全な人とそうでない人がいる。受容的な人がいる一方で何事に対しても批判的にしか受け取れない人がいる。Yさんとコメント欄でやりとりをしているとそんなことを考えてしまう。 わたしは彼が苦手だ。何ていうか、相手のことを素直に認めることができない、この場合わたしを手放しで受容して肯定してくれない彼が苦手なのだ。でも、彼は要らんお節介だと言うだろうけれど、だからと言って「わたしの前から消えてください」とか「いなくなってください」というのも気が引けるのだ。偽善と言われるの
何だか疲れているわたしである。疲労困憊で立ち上がれないというわけではない。けれど、全身にたちこめるような疲れがあり、どうもスッキリしない。 わたしがよく自分にたずねる質問がある。それが「Are you happy?」なのだ。この質問は核心をついていて、大抵これに気持ちよく「もちろん!」と答えられるかどうかで自分の幸福度を知ることができる。 今、わたしにこの質問をするなら、答えはこんな感じだろうか。「何かちょっと疲れていてだるいんです。不幸せというわけでもないけれど、かと言
先日、「ヘブライ語の難所の前で」という記事を書いた。読んでもらえば分かると思うけれど、わたしがヘブライ語で前回挫折したところにまた再びやってきて、諦めることなく頑張っていきたい、みたいなことを書いた。Twitterでその記事を拡散したら結構手応えがあって、なかなか自分でもいい記事が書けたんじゃないかと思っていた。 と、その記事に一つのコメントが寄せられた。また例のごとくYさんで、以前の記事でわたしに貴重な時間を使うよりも、ご自分のために使った方が生活の質も上がりますし、な
ヘブライ語の学び、ぼちぼち続けております。そんなこんなでもう独学中の日本ヘブライ文化協会『ヘブライ語入門』も「第7課 前置詞」。 ここだ。ここなのだ。何がここかと言えば、前回挫折して勉強を中断してしまったところが。だから、わたしにとっては大きな壁というか難所なのです。ここを乗り越えることができるか。クリアーすることができるか。もちろん、テキストの内容は変わっていなくて(当たり前だけれど)、変わっているとしたら今のわたしがその当時のわたしとは違うことだろうか。ともかく、前回
昨日、教会で聖書研究会があり、その後、少し立ち話となって言われたことが何だか意外で自分でも驚いている。「星君(その方はわたしのことをさん付けではなくて君付けで呼ぶ)、変わったよね。表情が優しくなったよね」とその方はわたしに言うのだ。で、それを聞いていた奥様も「そうだよね。変わった、変わった」とうなずく。 自分のことというのは案外分からないもので自分が変わっている、変わってきているということに気が付いていなかったのだ。でも、彼らが二人揃って「変わったね」と言うものだからあな
今日のテーマは罪を滅することについて。仏教、それも浄土真宗でそのことについてどのように考えているのか牧師が解説してくれた。その解説自体はしっかりとしたもので、ここに再掲してもいいとは思うのだけれど、それだとただ牧師の言ったことの口移しになってしまう。というわけで、今日の話を踏まえてわたしが思ったこと、感想のような文章を書いていきたいと思う。 キリスト教にしろ仏教にしろ、人間というものは罪というものを考えるのだけれど、罪って目に見えないんだよね。たしかに目に見える様々な行為
生きていくのに欠かせないもの。いろいろあるとは思うけれど、その中でも筆頭格が三度三度のご飯、つまり食事ではないだろうか。毎回、毎回食べて栄養補給をする。おいしく食べて心をも満たす。それが食事なのだ。 と書きながらも、最近わたしはやりたいことがたくさんあって、料理に時間を費やすのがもったいないように思えてきていた。一応、カレーとかパスタとか作ってはいたけれどどうも身が入らないというか、腰が入っていないというか、どうも手抜きのお手軽メニューの日々が続いていたのだ。 何も三食カ
昨日、『防衛白書』を読んでいてわたしはここまで進んできているのかと驚いてしまった。何でも科学技術が発達してきていて、戦争が無人化する方向へとなってきているらしいのだ。無人機と呼ばれる人が乗っていない戦闘機。現段階ではまだ有人機(人が乗っている飛行機)が無人機を率いて、という形らしいのだけれど、このまま技術が進歩していけば無人機だけで敵国へと戦争に行くことも可能になるのではないか。で、その無人機がおびただしい群れを作って襲来してきて、それを防ぐ側も敵機の遠隔操作を狂わせるよ
今、もやもやしている。それも、かなりもやもやしている。何にもやもやしているのかと言うと、自分の文筆についてだ。 今日も迂闊にもこのブログのアクセス数を見てしまった。そこから、そこからなのだ。気分が滅入り出したのは。 いかんせん今日のアクセス数が少なくて一桁。これは、こんなに頑張って更新しているのに、記事だってもう400近く書いているのに一桁って……。もしかしたら、今日は少ない日だったのかもしれない。でも、それにしてもこれは不当な評価ではないのか。こんなに溢れんばかりにいい
昨日は日曜日で教会だった。毎週、毎週、礼拝に集うことによって自分がキリスト教徒であることを実感する日々。特に昨日はうちの教会では聖餐式があり、ウエハースとぶどうジュースをいただいた。あぁ、クリスチャン。それを強く感じるのだった。 で、礼拝が終わって男子トイレへ行ったら、教会員のTさんがいて、お互い小用を足しながら男の会話(?)をした。Tさんは現在80歳。以前、「私は100まで生きたいと思っているんです」と言っていたTさんだったから、わたしは彼に「100まで生きるっていう計
わたしたちは普段、何気なく「ありがとう」と言う。何かをやってもらった時や助けてもらった時などに感謝を伝える言葉としてだ。じゃあ、何もしてもらったわけでもないのに「ありがとう」と言うのはおかしいのだろうか。 わたしが格闘してきた問題。それはメリット、利益の問題で、人間は結局メリットがなければ感謝しないのか、という身も蓋もない問題だ。人間はメリットを求めている。でなかったら何も行動しない。この強靱な理屈の前でわたしたちは黙らされているしかないのか。何もメリットがなくても人に感
相変わらずだなって思う。わたしに働けと言い続けるYさんは今日も変わらず、ブレずにわたしに働けと言う。 ここ数日間のわたしのこのブログのコメント欄を見ていただければ、どうやらまたYさんが星に働けと言っているらしいぞ、ということが分かる。 うむ。ま、いいんですけどそんなにわたしに働いてほしいんですかい? わたしが働く。働いたらどんなバラ色の未来が待っているのだろう。 どうやら彼はわたしを救いたいと思っているようだ。仕事なしのいわばプー太郎な星さんを何とかして立ち直らせて、そし
最近、どうもうまくいかない勉強がある。それはヨガをやっていたらやりたくなった分野の勉強で、体の仕組みについてだ。筋肉とか骨、ならびに姿勢とか。その分野を勉強するとしたら、人体解剖学とか生理学とかそんな感じになるとは思うのだけれど、どうも積み上がっていかない。というか、あまりにも壁が高すぎて立ち往生しているのだ。 未開の分野、初めて勉強する分野ではまずは入門書を買いましょう、とのことは分かっている。が、入門書らしきものを読んでもどうもしっくりこない。これはたまたま自分が求め
わたしの心をざわつかせるもの。それは言うまでもなくお金だ。お金に絡んだり、そのことを持ち出されると途端に気持ちが揺れ動く。揺れ動いて不安定になる。 わたしが以前見た番組で一番頭に来たものがある。それは50代の人向けの老後のお金についての番組で、本当にあれは怒り心頭ものだった。なぜその番組を見たかと言うと、母から録画しておいてと頼まれたからだ。で、物の試しにとわたしは検閲するもりはないものの、母に見せる価値のある番組なのかどうか確かめてみた。 何が頭に来たかと言うと、その番
コロナ禍となり、地域活動支援センターまで行って精神保健福祉士のWさんと面談をすることがなくなった。その代わりに、ということで電話でお話しさせていただくことになったわたしである。 思えば、あれはもう15、6年くらい前のことになるだろうか。精神の病気と診断されて右も左も分からない状態のわたしは父に連れられて嫌々、不本意ながらも従わないと父の機嫌が悪くなるので、地域活動支援センターに行った。 不安に包まれてたどり着いたセンターで面談に応じてくれたのが、今もお世話になっているWさ
もう明日から12月。月日が流れるのは本当に早いものだなぁとしみじみ思う。12月ってまだまだ先のことだと思っていたのに、それがもう明日。で、クリスマスまで1ヶ月を切った。今年のクリスマス礼拝では以前にもこのブログに書いたけれど、母の洗礼式が行われるのだ。 そうなれば、ぼちぼち準備の方も始まる。というわけで、当日どんな服装で行くのかだいたい決まったわたしだけれど、母の方がまだどの洋服を着ていくのか確定していないのだ。というのも、洋服屋さんが母がいいなと思った服が在庫がなく、別
理想。わたしたちにはこうあったらいいな、という理想がある。それが高い基準にせよ、そんなに高くない基準にせよ、ともかくそういったものはおそらく多くの人にはあるだろうと思う。 わたしにも理想がある。 まず、朝は5時か5時半に起床。ってまず、それから今日はできていなかった。昨日、何だかんだ寝るのが11時になってしまったわたしはその時間に起きることができなかったのだ。で、結局朝は8時頃起床になってしまい、一日を有効に使えずじまい。 それからわたしの二つ目の理想は(目標と言い換えて
かたつむりを飼い始めてもうかれこれ2ヶ月になろうかとしている。飼ってみるとそののっそりとしたマイペースさが面白い。まさにスローライフの象徴。彼らを眺めるたびに日々の喧噪はどこかへ飛んでいってしまう。かたつむりを眺めている時、わたしは心が落ち着いてゆったりできる。急がず、焦らず、そんなにカリカリしなさんな。そんなことを彼らに言うつもりがあるかどうかは別としても、わたしはそんなメッセージを受け取っている。 もっとかたつむりのことを知りたい。というわけで本(脇司『カタツムリ・ナ
わたしは素直すぎるのだろうか。そして他者からの言動に影響を受けやすすぎるのだろうか。今朝、久しぶりに新聞を読んでいたら、前のように気持ちが滅入ることは豆腐メンタルから厚揚げメンタルに成長したせいか、なかったんだけれどやっぱり他の人、ならびに本のことが気になり出す。特に本の広告とか書評が出ていると、本が好きなわたしは読んでしまう。そして、いいなぁ。こんな世界もあるのかぁ。この人はまた新しい本を出した。すごいなぁと購買欲を刺激されると同時に羨望の感情がわたしの中に生じてくるの
わたしのこのブログ、アクセス数がまた低迷している。自分に自信がないわたしはその数字に一喜一憂する。そして、その数字が少なくなればなるほど、わたしの根拠のない自信はへし折られて「わたしの文章っておもしろくないんだろうか」と思ってしまう。 実は、と言うまでもなくブロガーというものはやはり自分のブログを人気ブログにしたいものだ。毎日たくさんのアクセス数を得て、多くの人に読んでもらい、たくさんの感想をもらい、たくさんの人を幸せにする。そんなことができたらと思い、それに近付こうと日
「ブログリーダー」を活用して、星大地さんをフォローしませんか?
ここんところ、どうも調子が良くない。イライラするし、怒りはわいてくるしで調子が下がり気味。 なぜだろう、というのは言うまでもなく、あのわたしの意中の人がてんでわたしを相手にしてくれないから。男として見てくれないばかりか、わたしのことをダメな
わたしはここ数年、テレビを見ていない。だからなのか、どうもブラックな笑いというものについていけない。 人はどんな時に笑うかと言えば、これがすべてではないけれど、人を見下して小馬鹿にする時なのだと思う。容姿が良くないこと、髪の毛が少なかったり
結局わたしを含めた多くの大半の人たちというのは、自分の価値があるとかないとか、高いとか低いとかなどとワーワーワーワー言って騒いでいるだけでしかないのだろうか? 価値という観念に踊らされて振り回されている。それで気持ちが上がったり下がったりと
あなたのほしいものは何ですか? そう訊ねられたらあなたは何と答えるだろうか。きっとあれがほしい、これがほしいといくつも挙げることだろう。そう答えることのできる人はきっと健康度が高い人で、生きようという活力ややる気に満ちている人なのだと思う。
弱者男性か。それってわたしのことじゃん。 それに関連するネットの記事なんかを読んでいたら急に気分が悪くなってきた。 男にはモテる男とモテない男がいる。当たり前のこと。で、モテない男は生涯独身で結婚できなくて、独り寂しく生きていくことになり、
ひょんなことからこの本を図書館で見つけて読んでみようと思い、やっと読了。いやはや、なかなか読み応えのある重厚な一冊でありました。この本には依存症のいろいろな歴史が載っていて、アメリカの依存症史が一通り見渡せるのです。 で、詳しい細かい内容は
誰しもが思うこと。わたしたちの多くは凡人だから人から認めてもらえないと心がカラカラになってくる。それはまるで植物にとっての命の水のようなもので、それがないと生きていけない。 わたしのことを分かってほしい。理解してほしい。みんな多かれ少なかれ
今日、地域活動支援センターに5、6年ぶりに行ってきた。地域活動支援センターというのは精神障害がある人が利用するサロンのような場所で、各自来ている人たちと話をしたり、好きなことをして時間を過ごすそんな場所。「何か運動をやっているんですか?」と
あなたは価値というものがちゃんと存在していて実在するものだと思っているだろうか? つい先ほどまでわたしもそう思っていた。価値は実在する。厳然とあって疑う余地もない。そんな風に思っていたし、考えてもいた。が、どうやらそうではないらしい。 ここ
昨日の記事、かなり赤裸々に書いてしまったけれど大丈夫だっただろうか。SNSとかに批判が続々と寄せられていないだろうか、なんて心配していた。が、大丈夫だった。そんな影響力わたしになかったですから、やっぱり。 昨日アップした記事のアクセス数は1
先日、長い間ひたすら夢見て憧れていたことをやった。もう何十年も憧れて恋い焦がれてきたことだ。それをわたしはどうしてもやりたかった。だから、きっと明日死ぬとしたらそのことを後悔するんだろうなと思い続けてきた。そんなわたしにとっての一番やりたか
どうもー、星です。みなさん元気にしてますか? わたしは元気ですと言いたいところだったけれど、実は元気ではなかった。あることで悩み傷付いていて、それは恋の悩みだった。気になる人がいたのだけれど、てんでわたしが相手にされないのだ。無視はされてい
どうもー。愛と勇気とヨガパワーで元気100倍の星さんこと星大地です。アシュタンガヨガを始めて絶好調! もう怖いもの知らずで順風満帆です。さぁ、かかってきなさい(謎)。 なんて、のっけからいかにもうまくいってますよオーラ全開かと思いきや、なか
昨日、YouTubeの動画を観た。その動画はある精神科医のもので、その動画ではビジョンを持つことの大切さが語られていた。その人はものすごくハッキリとした人でビジョンを持て、と言う。 けれど、ビジョンを持てない人がほとんどではないかと思う。ビ
J・モンクリフ『精神科の薬について知っておいてほしいこと 作用の仕方と離脱症状』 いつもの精神科の外来に行くと、ひたすらみんな調子が悪そうで、顔色が悪く動作は緩慢であまり幸せそうには見えない。みんなお薬を飲んでいる。それで良くなっていて、今
アダム・オルター『「依存症ビジネス」のつくられかた 僕らはそれに抵抗できない』 世の中というものはうまく、それもずる賢くできているもので、依存症ビジネスというものがある。現にわたしたちが日々利用しているネットもその一つのようなもので、便利に
今朝もヨガの道場へ行ってクラスに参加してきた。いつもと変わりないようでありながら今日はある意味特別な日。何でもある練習生の人が転勤で道場へと来られなくなるというからだ。昨日、わたしはその人に道場で話をして「明日が最後なんですね?」という確認
その駅は都会の駅のすぐ近くにあるというのに、ほとんどその駅では誰も降りようとはしない。きっと多くの人がその駅で降りると、そこは海の街で駅から7、8分も歩けばそこが海だということを知らない。 最近わたしはとあるフリーペーパーで、その駅からすぐ
ロバート・ウィタカー『心の病の「流行」と精神科治療薬の真実』「お薬を飲んでください。そうしないと再発しますからね」と精神科のお医者さんは言う。看護師さんも言う。ワーカーも言う。そんなわけで統合失調症のわたしはひたすら毎日決められたお薬を飲み
量よりも質だ。分かってはいる。分かってはいるんだ。でも、どうしても数を求めてしまう。 平凡なわたしはやっぱり数というものの持つ力にひれ伏しているのかもしれない。数があるもの、それもたくさんあるものには力がある。SNSのフォロワーの数にいいね
どうもー、星です。生きていればみんな調子が悪くなることだってありますよね。そんなわけで、調子が悪いのでレッツぐだぐだ。 わたしは囚われの菜食の王子様なのかもしれない。菜食を道徳的な理由や環境的な理由やら、ともかくいろいろなことを理由にしてやってみようと思い立ったわたし。が、もしかして栄養失調というやつですかい? 何て言うんですかね。思考とか気分はスーっとフラットなんだけれど、何にもやる気が起きないの。で、自分の腕の甲の血管を見て「老けてきたなぁ。このまま死ぬのかなぁ」って
最近、このブログ、パッタリと読んでくれる人が減った。アクセス数を見るとため息は出ないものの、それでもこの不人気ぶり。不盛況ぶり。何でこんなに読んでもらえないのだろうと考えざるをえない。でも、いい。気にしないと言うよりは、そもそも大衆ウケは狙っていないのだ。自分が書きたいことを書く。それも自分のために。で、それをたまたま通りかかった人が読んでくれて、「このお兄ちゃん(もう今年40のおじさんですけどね)、なかなか面白いこと言ってるじゃん」と思ってもらえたらそれでいい。何も、こ
わたしにとっての永遠の謎。それはこの世界が実在するかどうか、という至ってシンプルなこと。 もしかしたら、いや、もしかしなくてもこの世界は存在しないのかもしれない。誰か教えてよ、などと言いたくなってくる。でもこればっかりはわたしに誰も教えることができない。なぜなら、その教えてくれた人もわたしが見ているこの幻の登場人物でしかなく、幻の中で「これは幻なんでしょうか?」とたずねてもまさしくこれはナンセンスだからだ。分からない。謎。真実はどこにあるのか? もしも、この世界が幻なのだ
今朝の新聞の一面に、2070年には少子化が進んでいって日本の人口が8700万人になる、という記事が載っていた。2070年か。今、2023年だから47年後か。ということは、わたしが生きていたとしたら87歳くらいになっているわけか。うむ、どうでもよくはないけれど、どうでもいいな(笑)ってまるで他人事か何かのように思っている自分がいる。日本の人口のうち1割が外国人になるということも書いてあって、その頃には当たり前のように外国人がいる風景がある。でも、どうでもいい? よくないかも
只今の時刻は夜の11時半を少し過ぎたところ。何でこんな時間に書いているかと言うと、これは書かねばと思ったからだ。と言いつつも別に大したことではない。月並みなありふれた体験がとても印象的だった。ただそれだけのこと。 何について書くかと言えば、蚊だ。最近、アヒンサー(非暴力)を偽善まっしぐらのごとく実践し始めたわたしなのだけれど、部屋に蚊がいたのだ。寝よう、寝ようと思っていると顔のところにブ~ン、ブ~ンと電気を消しているからその姿は見えないものの、まるで眠りを妨害するかのごと
どうも、星です。皆さん元気に過ごされていますか? わたしはわたしで元気にやっております。 さて、菜食生活、つまりベジタリアン生活を始めて5日目になるのでご報告を。 まず、調子がいいのかどうか。いいとか悪いとか、そういう感じではなくて、頭の中がスーっとしております。頭の中がフラットになっていて、平ら~みたいな感じ。これも、それも肉食をしていないからなのだろう。静かな波風立っていない穏やかな湖のようなそんな感じなんだ。というか、闘争本能ゼロです。確実に言えることは闘おうってい
最近、変わってきたことがある。何かと言うと、蚊を殺すことにためらいを感じるようになったのだ。以前のわたしであれば、何のためらいもなく、何も躊躇することなく叩き潰していた。それが一瞬考えるようになった。で、殺さないでそのままにしておくことが増えてきた。そのせいで(って当たり前だけれど)わたしはぼちぼち蚊に刺されている。刺されればかゆい。これも当たり前のこと。でも、何だかひと思いに蚊を潰していた頃よりも心が平和だ。あの蚊を潰した瞬間に感じる、それも一瞬だけ感じるどす黒いネガテ
わたしが嬉しく思う瞬間。それはヨガをやることによって、心と体が整えられていくことを実感する時。 毎日ヨガをやっている。自分に磨きをかけて、より向上しようと日々励んでいる。その甲斐あってか自分自身が良くなってきている。見た目も内面も心も、ありとあらゆる面が進歩している。 わたしが花だとしたらわたしは何のために咲いているのだろう? 誰かから「きれいだね」って言われるため? あるいは商品価値がわたしという花に付けられて、高値で取引されるため?(値段がついたとしたらよりその値段を
世の中にはすごい人たちがいるもので、ヨガの世界でもアシュタンガヨガと呼ばれる難易度の高いものすごく体を酷使するヨガがある。そして、それができるヨガの世界でもいわば優れた人たちが一定数いて、わたしはそんな彼らと自分のヨガの達成度を比較して、ああなりたい。アシュタンガヨガができるようになりたいと思ったりするのだった。 たしかにアシュタンガヨガは難しい。初心者には太刀打ちできないような、そんな難しいポーズがたくさんあって、とてもではないけれどわたしのようにまだヨガを始めて間もな
これで本当にいいのだろうか。このまま進んで行っていいのだろうか。不安とまではいかないけれど、どこか心許ない感じがする。 佐藤優さんと池上彰さんの本を読んでいたら、何だか自分がつまらない何も知らない、できていないダメな人間のように思えてきてしまった。そういうわけで、少し気持ちがどんよりしている。 と言いつつも、もうだめだというところまで落ち込んでいるわけではない。ただ、少し気持ちが重い。それくらいで済んでいる。おそらくヨガをやっていてヨガパワーに守られているからなのだろう。
前回、ブログを更新してから一週間あまり。「教会へ行きたくない」「ヨガをやってまた教会へ行きたくなった」と書いてから一週間。この間もわたしは時を過ごしておりましたよ。バッチリというか、時を過ごしておりました。 昨日はイースターだった。そして、わたしは母と一緒に教会へと行った。イースターということで簡単な祝会も教会では行われて、それはそれは皆さんでお祝いしたんだ。が、イースターの日のめでたい日であるはずの説教なのにわたしの心にはほとんど響いてこない。これは牧師の説教に問題があ
「教会に行きたくなくて」というタイトルの記事を書いてそれから2時間後。わたしは午後のヨガをやった。綿本彰「癒しのヨーガメソッド」というDVDを見ながらヨガをやったのだ。そうしたら奇跡が起きた。何とあれだけ行く気がしなくなっていた教会にまた行こうと思ったのだ。どういう風の吹き回しですか? 2時間前に書いた記事とはまったく逆の展開じゃないですか、と不審に思う人もいることだろう。それくらいの急展開というか、劇的な展開といいますか、ともかく気持ちを持ち直すことができたのだ。 ヨガを
のっけからネガティブな話で恐縮なんだけれど、話してもいいかな? ダメ? じゃあ、少し間を置いてそれから読んでほしい。 単刀直入に申しますと、今、教会へ行きたいという気持ちが起きないのだ。毎週、風が吹こうとも嵐がやってこようとも、日曜日に教会へ行っていた人間が何を言い出すのかと思うことだろう。でも、これが飾らぬままのありのままのわたしの気持ち。 2017年の10月から通い始めた今の教会。もう6年目にもなる。6年。思い返すと長いようで短かった。いろいろなことがあったな。1年く
星さんのブログが更新されなくなってから数日あまり。問題です。星さんは何をしていたのでしょう? 正解はヨガをやっておりました。ヨガです。ヨガなんです。何でまたブログの更新ほったらかしてヨガやってたの?、と不思議に思うかな。まぁ、そんなこんなでヨガをやっておりました。 でもね、24時間のうち寝ている時間以外、ヨガをやってました、なんてバカなことは言わないよ。そんなことしたら死んじゃう。肉体を酷使するヨガがそんなにできるわけがございません。でも、1日に少なくとも2時間はヨガをや
疲れているのだろうか。ともかく、生の喜びが感じられない。生きているのは素晴らしい。それは分かっている。が、どうも実感として感じられない。疲れている時ってあなたもこんな感じですか? 今日は日曜日だから教会で礼拝。式を進めていって、牧師の説教を聞く。けれども、その話の中でネガティブな部分ばかりが気になってしまい、牧師の語る慰めの部分が全然耳に入ってこない。まぁ、ネガティブな部分が多いというのは事実なのだろう。でも、そればかりが大きくまるで拡大でもしたかのように、大きく大きく感
もう既に幸せ。わたしはもう既に幸せ。必死になってそうではないのに、そう思い込もうとしているわけではなくて、わたしはこう思っている。と言いつつも、もっとほしいような気もする。もっとお金をザックザック手に入れて好きなことがしたい。あれがしたい。これがしたい。お金があったらこんなことできるのに、などと想像したりすることもある。でも、わたしは思う。と言うか思うことにした。無理矢理思わせるとかそういうのとは違うんだけど、それでも思うことにした。わたしはもう既に幸せで、幸せな人間なの
わたしたちはつい他の人に強引に「こうしたらいいよ」「こうすれば良くなるよ」って相手の様子などおかまいなしでアドバイスを押し付けてしまう。よくある光景というか、何というか。 人はアドバイスをする。それは相手に幸せになってほしいから。良くなってほしいから。良くなってもらって幸せに近付いてもらいたいから。 でも、わたしは思うんだけれど、誰かを幸せにすることなんてできないと思うんだ。えっ? 幸せにすることができない? 何をおっしゃるんですか、星さん。人は人を幸せにできますよ。何、
気持ちがくさくさしている。イライラしている。わたしのこのブログに批判的なコメントが寄せられてそのことで頭にきているのだ。 言葉。それは諸刃の剣のようなもので、あたたかい言葉は人を幸せにするけれど、反対に冷たかったり攻撃的な言葉は人を不幸にする。あたためて癒すか、希望を与えるか、それとも傷つけて相手を打ちのめすか。だからこそ、言葉というものは気を付けて用いなければならない。人を傷付けてしまうことがないように、と。 わたしは最初その記事に寄せられた記事を読んだ時、本当に頭に来
高校生の大地へ 前略。 毎日楽しくやっていますか? ってやっているわけないですよね。聞くのも野暮なくらい毎日に嫌気がさしていることと思います。高校生の時、本当に毎日が嫌で嫌で仕方がなかった。だって、学校の授業はチンプンカンプンで完全に落ちこぼれていたし、かと言って学校をやめようものなら結構有名人にさえなっていたわたしが「学校やめたんだってさ」と噂されかねないからやめることもできない。それで、毎日学校に行きたくないのだけれど、それでも渋々行く。もはや何のために学校へ自
祖母の遺品。その中に『総特集 佐野洋子』というムック本があって、それを何も考えずにわたしは手に取って読み始めた。本当に何も考えず、ただ何かにひかれるかのように手に取った。そうしたら考えさせられるものがあった。 わたしは「いい子ちゃん」だと思う。小さい時からずっといい子で来たのではないかと自分自身を振り返る。 いい子。いい子は人を困らせない。小さい頃のわたしは母から聞くところによれば、スーパーなどで「これ買って」とだだをこねたり、泣き叫んだりする子ではなかったらしい。おそら