1ヶ月記念 ありのままdiaryを始めて1ヶ月が経ちました。 すごいですよね、淡々と歩く日々の中に、一応書くことがあるという訳で、つまり何かしらのことを感じ、考えながら過ごしているんだなと実感します。 ブログのために始め ...
ご挨拶 日々それぞれの持ち場立場において、八生兵庫分教会の上に絶大なるお力添えを賜り、誠にありがとうございます。 春爛漫のこの月4月は、私達全人類の母なる教祖が御誕生遊ばされた縁りの月としておぢばでは教祖御誕生祭が執り ...
ご挨拶 “をやの切なる思い”を聞き分け成人の歩みを進めよう! 日々それぞれの持ち場立場において、八生兵庫分教会の上に絶大なるお力添えを賜り、誠にありがとうございます。 現今の世上を見渡しますと、いつ終わるともわからない ...
ご挨拶 ひながたを目標に教えを実践したすけ一条の歩みを進めよう! 日々はそれぞれの持ち場立場において、八生兵庫分教会の上に絶大なるお力添えを賜り、誠にありがとうございます。 去る一月二十六日、教祖が現身を隠された明治二十 ...
ご挨拶 ひながたを目標に教えを実践したすけ一条の歩みを進めよう! 日々はそれぞれの持ち場立場において、八生兵庫分教会の上に絶大なるお力添えを賜り、誠にありがとうございます。 去る一月二十六日、教祖が現身を隠された明治二十 ...
ご挨拶 教祖のひながたを手本に明るい心で通りきろう! 昨年中はそれぞれの持ち場立場において、八生兵庫分教会の上に絶大なるお力添えを賜り、誠にありがとうございました。 顧みますれば、昨年は未だ終息の兆しのないコロナ渦や戦争 ...
神戸の布教師 余命宣告された人の300人に一人は生きている。 三ヶ月の余命宣告とは、同じ病気の人が1000人いたら500番目に亡くなる人のことです。 つまり、一月から6ヶ月に90数パーセントが亡くなり、その前その後ろに残 ...
ご挨拶 教祖百四十年祭活動に向けて─明るい心で通りきろう! 日々はそれぞれの持ち場立場において、八生兵庫分教会の上に絶大なるお力添えを賜り、誠に有難うございます。 さて、本年を振り返りますに、依然として感染の波が止まらな ...
初代真柱様ご諭達 諭達第一号 明治36年(1903年)12月13日 「神道天理教会長大教正中山新治郎」名で、天理教教典編纂、頒行などに関してのご諭達 諭達第二号 明治37年(1904年)2月13日 日露戦争に関してのご諭 ...
諭達とは? まず諭達とは何か、耳慣れない言葉ですね。 我々お道の者は聴き慣れておりますが、一般の方は初めて聴く単語だと思います。 諭達は年祭に限らない これは所属大教会の神殿講話でのお話しですが、 「節目々々に真柱様から ...
ご挨拶 日々はそれぞれの持ち場立場において、八生兵庫分教会の上に絶大なるお力添えを賜り、誠に有難うございます。 去る10月26日、コロナ以前のように礼拝場が参拝者で埋め尽くされる中、立教185年秋季大祭が中山大亮様祭主の ...
立教百八十九年、教祖百四十年祭を迎えるにあたり、思うところを述べて、全教の心を一つにしたい。 親神様は、旬刻限の到来とともに、教祖をやしろとして表にお現れになり、世界一れつをたすけるため、陽気ぐらしへのたすけ一条の道を創 ...
網走大教会(あばしりだいきょうかい) 設立の元一日と初代会長時代 明治24年(1891)、干葉県安房郡富崎村の漁師小山福太郎(27歳)は、静岡県伊東港で帆の修繕中に目を傷め、通りすがりの老女に勧められるまま、林與兵衛(後 ...
東大教会(あづまだいきょうかい) 初代会長の生い立ち 東大教会の道は、初代会長上原佐助の入信に始まる。 佐助の幼少より壮年に至る波乱の人生が、その信仰の土台となっていると言えよう。 佐助は嘉永3年(1850)、備中国小田 ...
芦津大教会(あしつたいきょうかい) 井筒梅治部の入信 井岡梅治郎は天保9年(1838)4月28日大阪市西区本田町に生まれる。 明治12年(1879)5月、梅治郎42歳の時、長女たね(後の3代会長)の身上より信仰し始めた。 ...
旭日大教会(あさひだいきょうかい) 岡本家の入信 おぢば近在には、早くから教祖のおたすけに浴した人が多い。 それぞれ各自おぢばに運ばせて頂いていたが、次第に地縁で講を結ぶようになった。 明治18・9年頃になると、おぢば周 ...
ご挨拶 日々それぞれの持ち場立場において、八生兵庫分教会の上に絶大なるお力添えを賜り、誠にありがとうございます。 さて、私共も8月に感染し、全国的に猛威を奮った新型コロナウィルス感染第七波は徐々に治まってきておりますが、 ...
愛豫大教会(あいよだいきょうかい) 神の手引き 「この子は、盲目の子です。ご両親のお心としては、両眼共に開けてもらいたいでしょうが、それは無理なお願いです。一眼だけなら、この井上が身を削ってでも神様に開けていただくように ...
朝倉大教会(あさくらだいきょうかい) 教会設立まで 河原町大教会の初代・深谷源次郎によって興された期道会の道が、四方八方へと伸びゆく中で、佐治登喜治良によって湖東大教会の道となり、明治24年 (1891)春、湖東の信者・ ...
浅草大教会 あさくさだいきょうかい 浅草の道の始まり 明治18年(1885)、東京布教を志して上京した、後の東大教会初代会長上原佐助によって拓かれた「東京の道」は、最初、下谷金杉、続いて竜泉寺町を中心に波紋のように八方へ ...
愛知大教会(あいちだいきょうかい) 橋本伊平の入信 愛知大教会の創始は、2代会長となった橋本伊平が、明治20年(1887)1月、静岡県周智郡森町村で寿司屋をしている時、ノボセ眼(結膜炎か)となり、後見役で親代りの岡野桂次 ...
愛静大教会(あいせいだいきょうかい) 澤田家の入信と道一条への胎動 愛静大教会の道の初代澤田惣右衛門は、安政元年(1854)5月5日、愛知県知多郡豊浜村に生を享けた。 当時澤田家は穀物屋を業として、経済的にも何不自由なく ...
ご挨拶 主体性をもって─確固たる信仰信念を! 日々それぞれの持ち場立場において、八生兵庫分教会の上に絶大なるお力添えを賜り、誠にありがとうございます。 新型コロナウィルス感染第7波は爆発的な広がりを見せており、ついに当教 ...
吉川万次郎 よしかわまんじろう 明治14年(1881)奈良県添上郡櫟本村(現、天理市櫟本町)に、父吉川宗七、母たけの長男として生まれる。 母たけは、中山眞之亮初代真柱の長姉で、吉川万次郎は、教祖(おやさま)の外曾孫にあた ...
山本いさ やまもといさ 大和国式上郡笠間村(現、奈良県字陀市棒原參間) に、森本甚三郎の二女として生まれる。 明治元年(1868)3月に大和国十市郡倉橋村出屋鋪(現、奈良県桜井市倉橋)の山本与平と結婚し、同4年に長男徳治 ...
山中忠三郎 やまなかちゅうざぶろう 金剛山地福寺の配下として転輪王講社を結成したときに協力した乙木村(現、天理市乙木町)の人(『稿本天理教教祖伝』148頁)。 忠三郎は金剛山地福寺の日参講に関係があったという。 明治13 ...
山田長造 やまだちょうぞう 安政4年(1857)10月13日、河内国曙川村刑部(現、大阪府八尾市刑部)に山田佐助の長男として生まれた。 明治10年(1877)頃、悪性の病を患い5年間病床に呻吟していた。 ある人から大和の ...
矢追楢蔵 やおいならぞう 明治2年(1869)9月28日、伊豆七条村(現、奈良県大和郡山市伊豆七条町)に、父惣五郎、母なかの長男として生まれた。 入信は明治10年である。 楢蔵9歳のとき、近所の佐保川で遊んでいたところ、 ...
村上幸三郎 むらかみこうざぶろう 専東分教会(大阪府堺市)の初代会長。 天保12年(1841)9月19日、父村上源次、母乃婦の長男として生まれる。 経済的に豊かな環境で育った村上幸三郎は、明治8年(1875)に北野清平の ...
松井忠作 まついちゅうさく 明治7年(1874)13日、奈良県第4大区第13小区十市郡木原村31番屋敷(現、奈良県橿原市木原町279番地)に父忠四郎、母けいの長男として生まれた。 松井家は田地2町5反(2.5ha)を所有 ...
林九右衞門 はやしくえもん 天保元年(1830)、摂津国住吉郡喜連村(現、大阪市平野区喜連)にて、林忠右衞門、ふさの長男として生まれた。 明治15年(1882)、弟である利助の身の患いから、話を聞き入信、同年、二男の長造 ...
仲野秀信 なかのひでのぶ 仲野秀信は、嘉永5年(1852)8月4日、大和国添上郡小泉村(現、奈良県大和郡山市小泉町)において、父仲野秀興、母久江の長男として生まれた。 父が大和小泉藩の藩士でお馬廻役をしていたせいであろう ...
今回は、高校の友人でもあり、喜び勇んでブログの管理人から委託されたので、記事を投稿していきたいと思います。 天理教との馴れ初め 自分は七人兄弟の末っ子として生まれてきました。 自分が生まれる前から、父親も母親も天理教を信 ...
中川文吉 なかがわぶんきち 大阪市西区本田通りの中川文吉は、井筒梅治郎(現、芦津大教会初代会長)宅の一軒おいて東隣の染め物屋の主人である。 明治12年(1879)、井筒の娘たねのお尻に腫れ物ができたとき、「種市」(前田藤 ...
冨田伝次郎(旧姓藤村) とみたでんじろう 藤村伝次郎は、天保11年(1840)、播磨国美囊郡三木村(現、兵庫県三木市)にて生まれ、後に神戸の冨田に入婿する。 富田家は、代々蒟蒻(こんにゃく)屋を家業としていた。 明治15 ...
谷岡宇治郎 たにおかうじろう 明治18年(1885)10月、山辺郡苣原村(現、天理市苣原町)に住む谷岡宇治郎は、娘ならむめが足を挫いてリュウマチとなっているのを、同村松浦みつに「お燈明を種油で小皿に上げて、おぢばの方に向 ...
立花善吉 たちばなぜんきち 大阪府西区本町通りに住む立花善吉は、明治13年(1880)4、5月頃(陰暦3月)自分のソコヒを、つづいて父の疝気を、井筒梅治郎の導きによってお救けいただいて入信し、おたすけに精を出していた。 ...
小西定吉 こにしさだきち 安政3年(1856)8月3日生まれ。 奈良県宇陀地方へは、早くから信仰が伝わっていた。 小西定吉は、明治15年(1882)3月頃、森本治良平の導きにより、自身の胸の病と、妻のイエが妊娠中であった ...
櫟本村 いちのもとむら 現在の奈良県天理市櫟本町。竜田道(業平街道)と上ッ道(上街道)の交差点に立地する。教祖の三女旦昼旦が嘉永5年(1852)この村の梶本惣治郎へ嫁入り(F稿本天理教教祖伝』32頁)、後にその三男の眞之 ...
大浦伝七 おおうらでんしち 大和国式上郡笠間村(現・奈良県宇陀市榛原笠間)の人。 嘉永元年(1848)9月3日生まれ。 明治18、19年(1885、1886)頃のことと言い伝えられている話に、妻のなかが急に人差指に激しい ...
榎本栄治郎 えのもとえいじろう 現、福井県三方郡美浜町菅浜の人。 明治8年(1875)4月上旬、榎本栄治郎は、娘きよの気の違いを救けていただくために教祖(おやさま)のもとを訪ねた。 教祖は、 「心配は要らん要らん。家に災 ...
梅谷たね うめたにたね 嘉永3年(1850)8月4日、上野早蔵、やすの長女として出生、明治4年(1871)、梅谷四郎兵衞と結婚。 明治14年、四郎兵衛が、長兄である浅七のソコヒ平癒のため、「おやしき」に帰り、中山秀司、ま ...
今川聖次郎 いまがわせいじろう 今川聖次郎は、弘化元年(1844)、6月11日に生まれた。 今川は、長年胃を病んで少しも治らなかった。 明治15年(1882)頃、近所の人から「結構な神様」の話を聞きつけ、三日三夜のお話と ...
飯降まさゑ いぶりまさえ 明治5年(1872)4月19日、飯降伊蔵、さとの二女として生まれる。 教祖(おやさま)は、櫟本にいる伊蔵夫妻に、早く教祖の住む「おやしき」へ移り住むように諭されていた。 しかし、3人いる子供や、 ...
井筒たね いづつたね 慶応2年、父梅治郎29歳の時、和歌山県周参見村湯川清五郎の娘とよと結婚。 明治12年2月28日、井筒家入信のきっかけとなる長女たねが生まれる。 生後間もない長女たねが、百いぼの病という臀部に身上とな ...
岡本シナ(旧姓尾田シナ) おかもとしな 岡本善六の妻。 明治5年(1872)に善六と結婚する。 元治元年(1864)入信していた重治郎、ルイ(山中忠七、べんの二女)の薫陶をうけ、夫善六とともに信仰の道を歩む。 明治12年 ...
岡本善六 おかもとぜんろく 岡本重治郎、ルイの長男として、嘉水2年(1849)11月24日、大和国山辺郡朝和村永原(現、天理市永原町)に生まれる。 明治5年(1872)に尾田シナと結婚する。 元治元年(1864)入信して ...
平野トラ ひらのとら 安政元年(1854)8月8日、大和国添下郡洞泉寺町(現、奈食県大和郡山市洞泉寺町)で、貸座敷業大和川楼を営む、平野平野富蔵、みすの長女として生まれた。 明治13年(1880)8月6日、「恩智楢」とし ...
西田佐兵衛 にしださへい 船場大教会初代会長梅谷四郎兵衛は、明治14年(1881)2月に入信し、5月に明心組講名拝戴、講元となった。 左官職人であったので、その同業者や得意先に道を伝えていた。 その中に西田佐兵衛がいた。 ...
西尾ゆき にしおゆき 本名ユキ、伊豆七条村(現、大和郡山市)の人。 養子の夫が中風のため、そのいんねんを切って欲しいと教祖(おやさま)に願って、それ以後いんねんは出なかった。 ユキはそれを願うため、毎日2里の道を雨や雪の ...
あ い う え お か き く け こ さ し す せ そ た ち つ て と な に ぬ ね の は ひ ふ へ ほ ま み む め も や ゆ よ ら り る れ ろ
諸井国三郎 もろいくにさぶろう 諸井園三郎は、天保11年(1840)7月20日、現、静岡県袋井市の下貫名で、父十郎兵衛、母モンの三男として生まれた。 幼名を竜蔵といい後、国三郎と改名、人々より聡い子といわれるが、農事を嫌 ...
守屋筑前守 もりやちくぜんのかみ 森本筑前守が正しい呼び名であるが、通称、守屋神社(村屋坐弥冨都比売神社)の神職であるところから、守屋筑前守と呼ばれる。 文化6年(1809)10月15日、大和国式下郡蔵堂村(現、奈良県磯 ...
森田清蔵 もりたせいぞう 明治7、8年頃から19年頃までの河内伝道の上に大きな役割を果たし、また天理教会設置運動にかかわった。 森田清蔵は安政元年(1854)11月27日、現在の生駒郡三郷町南畑に生まれた。 信仰は、現在 ...
村田長平 むらたちょうべい 弘化4年(1847)大和国山辺郡前栽村(現、奈良県天理市前栽町231番地)に、父幸右衛門、母史星の長男として生まれ明治5年(1872)長平は眼が悪く、徴兵の心配がなかった。 当時家の相続人は徴 ...
村田すま むらたすま 安政4年(1857)7月8日、大和国添上郡伊豆七条村に、父桝井伊三郎、母キクの子として生まれる。 兄は伊三郎(父と同じ名前)。 父の代からの信仰で、慶応3年(1867)11月の頃、父の身上にて、母キ ...
村田幸助 むらたこうすけ 嘉永5年(1852)7月12日、大和国山辺郡前栽村に、父幸右衛門、母と星の子として生まれた。 明治5年(1872)、当時は一家の相続人は徴兵免除の特典があったので、兄長平は目が悪くて徴兵の心配も ...
松村さく まつむらさく 松村さくは、弘化3年(1846)12月29日、大和国平群郡平等寺村の中東政吉の長女として生まれ、元治元年(1864)2月22日に松村栄治郎と結婚、長男吉太郎をはじめ、4男3女の母となる。 旦⊥は、 ...
松村吉太郎 まつむらきちたろう 松村栄治郎、旦Iの長男として、慶応3年(1867)2月10日に生まれる。 両親の熱心な信仰により、幼少の頃から母に連れられてよくおぢばへ帰っていたという。 明治17年(1884)7月から南 ...
松村栄治郎 まつむらえいじろう 松村栄治郎は、天保13年(1842)10月8日、河内国高安郡教興寺村に生まれ、元治元年(1864)、平等寺村の中東政吉の長女さくと結婚し、長男吉太郎、二男亀次郎、三男五三郎、四男隆一郎の4 ...
松田利平 まつだりへい 文政6年(1823)大和国式下郡小坂村(現、奈良県磯城郡田原本町小阪)に生まれ、明治36年(1903)2月に71歳で出直す。 妻ナツ(天保2年(1831)生まれ、通称旦旦)は海知村(現、天理市海知 ...
松田音次郎 まつだおとじろう 松田音次郎は、弘化元年(1844)2月1日、河内国君江郡刑部村(現、大阪府八尾市刑部)で、父長七、母佐喜の2男4女の二男として生れ、呼名は島右工門といった。 松田家は2町余の農地を持っていて ...
松尾市兵衛 まつおいちべえ 松尾市兵衛は天保6年(1835)4月15日、現、奈良県生駒郡平群町自石畑で、野口吾平の長男として生まれた。 安政4年(1857)5月13日、近村、若井村の松尾市郎兵衛の長女堕互のところへ婿養子 ...
梶本ひさ かじもとひさ 文久3年(1863)9月18日、大和国添上郡轢本村(現、天理市轢本町)で父梶本惣治郎、母旦互の二女として出生。 明治13年頃、17歳の時からおやしきに始終引き寄せられた。 当時は伯父の中山秀司が身 ...
西浦弥平 にしうらやへい 弘化元年(1844)、大和国山辺郡園原村(現、天理市園原町)の農家に生まれる。 明治7年(1874)、園原村の戸長をつとめていた時、長男楢蔵が医者も見放すような重いジフテリアにかかったところを仲 ...
中山やす なかやまやす 文政10年(1827)9月9日(陽暦10月29日)、中山善兵衛、旦旦(教祖)の二女として生まれる。 天保元年(1830)わずか4歳で出直す。 文政11年教祖31歳の頃、預かり子が痘瘡に確り、命乞い ...
中山まつゑ なかやままつえ 嘉永4年(1851)、大和国平群郡平等寺村、小乗政吉とトミの二女として生まれる。 松村栄治郎の妻旦⊥は長姉にあたる。 明治2年(1869)19歳の時、魂のいんねんにより教祖(おやさま)が仲介し ...
中山まさ なかやままさ 文政8年(1825)4月8日(陽暦5月25日)、中山善兵衛、みき(教祖)の長女として生まれる。 立教のときは14歳。 立教以来、神意のままに、貧に落ちていく中山家にあって娘盛りを過ごし、どん底の嘉 ...
中山つね なかやまつね 天保4年(1833)11月7日(陽暦12月17日)、中山善兵衛・みき(教祖)の四女として生まれる。 天保6年(1835)わずか3歳で出直す。 文政11年(1828)教祖31歳の頃、預かり子が痘瘡に ...
清水ゆき しみずゆき 嘉永7年11月5日、垂旦互が「をびや許し」(おびやゆるし)を頂いて安産したことを知って、翌日旦主も、「私も出産の時御願いすれば安産させてもらえるか」と教祖(おやさま)に尋ねると、「同じ事や」と仰せに ...
清水惣助 しみずそうすけ 嘉永7年(1854)11月5日、皐旦旦が「をびや許し」(おびやゆるし)を頂いて安産したことを知って、惣助の妻ゆきも2度願い出ている。 惣助の家は、中山家の北側にあった(活水利八の名で明治10年頃 ...
島村国治郎 しまむらくにじろう 明治19年(1866)奈良県添上郡轢本村(現、天理市轢本町)に、父梶本松治郎、母ウノの二男として出生。 初代真柱の甥。本部員、鍛冶惣分教会初代会長梶本宗太郎の実弟。 小学校、天理教校と初代 ...
島村菊太郎 しまむらきくたろう 安政5年(1858)土佐国香我美郡久枝村(現、高知県南国市久枝)に父島村庄七、母伊佐の良男として出生。 実弟伊助は、笠岡上原家の養子となり笠岡大教会2代会長となった人。 明治5年(1872 ...
芝村清蔵 しぼむらのせいぞう 木下清蔵のこと。 『稿本天理教教祖伝逸話篇』12ページに出てくる芝村の清兵衛も同一人物と思われる。 大和国式下郡法貴寺村(現、磯城郡田原本町大字法貴寺)の前川家に生れる。 前川喜三郎(城法大 ...
澤田義太郎 さわだよしたろう 石上村(現、天理市石上町)の人。 『稿本天理教教祖伝』(137頁)には明治10年(1877)5月14日、丹波市村事務所の澤田義太郎が、お屋敷へやって来て、神前の物を封印したと記されているが、 ...
梶本惣治郎 かじもとそうじろう 文政10年(1827)大和国添上郡轢本町で、父惣兵衛、母きみの二男として出生。 嘉永5年(1852)中山善兵衛、みきの三女はると結婚、子ども7人を挙げたが、そのうち三男眞之亮(新治郎)は、 ...
音吉 おときち 人名。大工飯降伊蔵の弟子。 奥村青書とは別人の由。 明治16年(1884)8月15日の三島村の雨乞づとめに参加した人の一人。
岡本重治郎 おかもとじゅうじろう 文政2年(1819)11月25日、大和国山辺郡木堂村(現、天理市柚之内町大字木堂)に、中西嘉平治の二男として生まれた。 永原村の名望家であった岡本家には嫡子がなく、式上郡笠村より、士族の ...
大東重兵衛 おおひがしじゅうべえ 奈良県平群郡白石畑村(現、生駒郡平群町)に生まれた。 平群谷の信仰者として、白石畑村の大東重兵衛と野口吾平、また吾平の子の市兵衛(若井村の松尾家へ養子に行き松尾市兵衛)は初期信者として活 ...
梅谷四郎兵衛 うめたにしろべえ 弘化4年(1847)7月7日、河内国古市郡東坂田(後に西浦相乗阪田、現在は大阪府羽曳野市東阪田)に梅谷久右衛門・小きんの三男勝蔵として生まれた。 万延元年(1860)、数え14歳の時、親戚 ...
梅谷梅次郎 うめたにうめじろう 明治10年(1877)4月3日、大阪第3大区(西区)阿波座戸屋町三丁目箱屋町(現、大阪市西区西本町1丁目)に当時浦田姓であった梅谷四郎兵衛、たねの三男として生まれた。 明治14年、梅次郎5 ...
宇平 うへい 教祖(おやさま)の「今日より、巽の角の瓦下ろしかけ。」との言葉によって、前川半三郎とともに瓦を下ろした人物(『稿本天理教教祖伝』25ページ)。 中山家の男衆というが未詳。
宇野善助 うのぜんすけ 天保7年(1836)10月25日、近江国野洲郡野洲村(現・滋賀県野洲郡野洲町野洲)に宿屋清水屋を営む宇野五郎助の二男として生まれた。 7歳で寺子屋に入る。13歳の時、初級を代講するが、父が出直し、 ...
内海正雄 うつみまさお 神道本局幹事、その後幹事長。 『稿本天理教教祖伝』には、明治19年(1886)取り調べのために、権中教正古川豊彰の随行として、権中教正内海正雄が、大神教会会長の小島盛可と共に「おぢば」を訪れたとあ ...
内統領(うちとうりょう)とは? 教会本部役員の一つで、真柱が本部員に諮って任命されます。 内統領は次の教務を行います。 これらの内統領の教務を処理するため、内統領室、祭事室、御用方室、おやさとやかた管理室、修養科、会計室 ...
上村吉三郎 うえむらきちさぶろう 天保9年(1838)1月28日、大和国十市郡倉橋村(現、桜井市倉橋)に、上村庄三郎、アイの長男として生まれる。 文久元年(1861)に家督を相続して後、倉橋村出屋舗総代、倉橋村什長、組癌 ...
奈良華族とは? 奈良華族とは、明治維新後に天皇からの勅令により、奈良・興福寺の僧侶で、公家の子弟出身であった人たちが公家社会に復帰して華族となった人々の総称です。 ちなみに、元々僧侶であった者が一般人や公家に戻ることを「 ...
上田平治 うえだへいじ 大西村(現・桜井市大字大西)の人。 上田民蔵の父。 明治26年(1893)6月13日のおさしづに「上田平治63才身上願」とあるので、天保2年(1831)の生まれか。 元治元年(1864)に入信。 ...
植田平一郎 うえだへいいちろう 弘化3年(1846)5月25日大和国葛下郡池田村で父萬田平次郎、母コトの長男として生まれた。同じ村の植田家とは昔からの親戚の関係から、植田家の一人娘きぬの婿養子にと懇望されていた。 家には ...
一粒万倍とは? 親神様のご守護を農業の実感に例えてお教え下されています。 たとえば米は、一粒の籾種から、稲穂になり、それをまた蒔き、またまきと繰り返していくと、やがて万倍の米ができます。 原典・おさしづに 雨ふる中もだん ...
一手一つとは? 原典・おさしづに 一手一つという、これが第一理である。心の理と道の理としつかりあわせてくれにやならん 明治35年7月20日のおさしづ とありますが、親神様は皆が心を一つに天の理にあわせていくことが最も肝 ...
上田民蔵 うえだたみぞう 文久元年(1861)1月3日、大和国式下郡大西村(現、桜井市大字大西)で父平治、母いその長男として出生。 母といそは新泉村の山澤良治郎の妹、山澤為造の叔母に当たる。 家は代々農業を営んできた。 ...
上田嘉治郎 うえだかじろう 天保元年(1830)6月2日、大和国添上郡古市村(現、奈良市古市町)で出生、父は近藤与惣太是春といい、代官所に務める士族。 古市は藤堂藩の代官所が置かれていた。 本数にゆかりのある山辺郡丹波市 ...
上田いそ うえだいそ 山澤利助、王立の娘として生まれた。 山澤良治郎の妹。 明治26年(1893)10月2日の「おさしづ」に「上田とこそ58才身上障りの願」とあるので、天保7年(1836)の生まれか。 その後、大西村(現 ...
上田いそ うえだいそ 山澤利助、王立の娘として生まれた。 山澤良治郎の妹。 明治26年(1893)10月2日の「おさしづ」に「上田とこそ58才身上障りの願」とあるので、天保7年(1836)の生まれか。 その後、大西村(現 ...
今園国映 いまぞのくにはえ 「稿本天理教教祖伝』279頁に、「くにはえ」とあるが、「くにてる」が正しいようである。 芝山国典の二男国峡は、文久2年(1862)奈良興福寺の賢聖院に入り僧となり、明治元年(1868)正月、同 ...
飯降政甚 いぶりまさじん 飯降政甚は、明治7年(1874)12月26日、轢本村で、父伊蔵、母おさとの二男として生まれる。 数え年、5歳で亡くした長男政治郎のことを思い出しては悲しんでいるおさとに、ある日教祖(おやさま)は ...
飯降よしゑ いぶりよしえ 慶応2年(1866)8月17日、大和国添上郡轢本村高品(現、天理市轢本町高品)に、父伊蔵、母おさとの長女として生まれた。 父伊蔵は念願の子どもを授けて頂いたお礼に教阻(おやさま)の許へ伺うと、教 ...
飯降さと いぶりさと 天保5年(1834)、大和国式上郡小夫相で生まれる。 普段、おさととも呼ばれていた。 父馬場武右衛門、母おなみで、28歳の時、飯隆伊蔵と再婚する。 元治元年(1864)5月、2度目の流産の後、肥立ち ...
茨木基敬 いばらぎもとよし 安政2年(1855)、大阪の西成郡北野村の松本佐兵衛の二男として生まれる。 20歳頃に天満で乾物商を営んでいた親戚の茨木家を継ぐ。 明治15年(1882)、生来病弱だった娘が激しい痙れんを起こ ...
稲葉正邦 いなばまさくに 神道本局管長、子爵。 稲葉正邦は天保5年(1834)5月26日、岩代国二本松藩主丹羽長富の二男として誕生。 後、山城国淀藩主稲葉正誼の養子となる。 幕末は老中などを勤め、維新後は淀藩知事に任じら ...
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1ヶ月記念 ありのままdiaryを始めて1ヶ月が経ちました。 すごいですよね、淡々と歩く日々の中に、一応書くことがあるという訳で、つまり何かしらのことを感じ、考えながら過ごしているんだなと実感します。 ブログのために始め ...
大きすぎる飴と鞭 おぢばでの奇跡的な神さんのお働きを見せられ、すごいプレゼントを頂いた気がする。 おぢばにお連れしたいと思えるようになったのは、自分にとって大きな変化であるように感じる。 お連れしたい、たすかりのために動 ...
おぢばがえり 自身はお連れする方はいなかったが、泊まりでおぢばがえりさせていただくことになりました。 正直、人をお連れするイメージが出来なさ過ぎて、おぢばに帰りたい思いを強く持っていなかった。 これまでも当たり前におぢば ...
スペシャルday ご本部の月次祭ですね。 帰れないのが当たり前だから月次祭への気持ちが薄れていることを実感したが、おぢばはどうだったんだろうと考えながら過ごしていた。 今日はある仲間が回れるかわからないと伝えてくれたので ...
気持ちリセット 仕切ってつとめた期間が終わったことで、1つ気持ちが落ちてしまった日となった。 一旦休憩して切り替えるための日にしようと決めて歩き出した。 午前中はペースよく歩けていたが、日蓮宗の信仰を持ち、居酒屋を経営さ ...
仕切り根性 本日は、とりあえず仕切った何がなんでも100件に強い思いを持って歩くということをつとめきりました。 これまでは在宅率が異常に少なかったのに、仕切った途端に在宅率アップし、不思議なくらいに対応が増えたことが嬉し ...
今日もなんとか 今日は朝イチから、地域のハートクリーン活動に繰り出しました。 正直、眠くて憂鬱だったが、わりと時間が過ぎるのは早く、あっという間に終わった。 公園の掃除をさせていただき、終了後は公園の近くにある教会の方の ...
なにがなんでも 一昨日ある先生からケツを叩かれたため、今日は何がなんでも対応100件したる思いで出発した。 向かった先は家が多い方で、一軒家も多ければアパートも多いようだった。 特に、学生が住むアパートがめちゃくちゃ多か ...
交流会 今日は、地域の布教師と布教を志す方との交流会がありました。 それぞれの代表者2名による感話の後、布教に歩かせていただいた。 私は、仲間と先輩布教師の3人になり、短時間だったが勇んで戸別に回らせていただいた。 雨模 ...
お心と素直さ 今日はある先生にお連れ通りいただき、戸別に歩かせていただきました。 初めてご一緒するため、少し憂鬱な気持ちもあったが、先生がラフな対応をして下さったおかげで楽しんで歩くことができた。 先生は永らく単独布教を ...
酸いも甘いも 以前、仲間がガーデンカフェを無料で開いている方と出会い、皆んなで来ていいよということだったため、皆んなで行かせていただいた。 「畑カフェ」 という名称で、畑の余った土地を活用しておられた画期的なカフェでした ...
御誕生日 おやさまの御誕生日ですね。 私は帰ることが出来なかったが、この日に布教に歩くことも新鮮だと感じながら歩かせていただいた。 来年はきっと参拝させていただけるでしょう。 来年の御誕生日までに、おぢばがえりできるのか ...
飴と鞭 今日は色んなことがあった一日でした。 簡潔に言えば、飴と鞭を一日で頂きまくった日となった。 1人で歩かせていただき、選んだ場所はお店や会社などの大きな建物が多い所であった。 100件には届かなかったが、とても充実 ...
今日も淡々と 今日は少し話がある仲間と2人で歩かせていただきました。 色んな話をしながら歩かせていただき、とても充実した時間を過ごすことができた。 戸別訪問は、これといった出会いもなく、ただただ断られるのみで、淡々と歩く ...
切り替え大事 昨日の反省を活かし、今日は気合いを入れて出発した。 大声を出して充分に気合いを入れ、昨日のことを忘れるかのように歩かせていただきました。 特別なお出会いはなく、ただ淡々と歩くような一日となったが、他宗教の「 ...
今日はお休み 今日はあまりにもやる気が起きず、申し訳なかったが回ることは出来なかった。 出発だけさせていただき、近くの総合運動公園へと向かうことにした。 気持ちを落ち着かせるためにベンチに腰かけ、ゆったりとした時間を過ご ...
心の葛藤 朝方は少し肌寒かったけど、歩き出したら急に暖かくなってきました。 最近は日焼けがすごく、日焼け止めと帽子で対策しているにも関わらず、今日は特に焼けていることを実感しながら歩いていた。 今日向かった先はアパートや ...
東京のとある布教師の声 本日、ありがたいことに東京からおぢばへお帰りいただく方をご守護頂き、おぢばに帰らせていただくことができました。 私とその方、そして妻と3人の子供を連れて帰らせていただきました。 正直、めっちゃくち ...
切り替えて挑んだが… 今日は名田の月次祭。 昨日は天浦、今日は名田ということで、気合いを入れて出発した。 回り始めて間もなく、先輩布教師の方々と深い付き合いのある人と出会った。 団参にも参加して下さる方のようで、今後は繋 ...
アドレナリン? 昨日から、左膝に痛みを感じている。 毎日20000歩程度歩いているし、自転車に乗ることもあるため、疲労が溜まっているとも言える。 掃除をしていても、おつとめ時の立ち座りの際も、痛くて右半身でかばうような動 ...
ご挨拶 日々それぞれの持ち場立場において、八生兵庫分教会の上に絶大なるお力添えを賜り、誠にありがとうございます。 春爛漫のこの月4月は、私達全人類の母なる教祖が御誕生遊ばされた縁りの月としておぢばでは教祖御誕生祭が執り ...
ご挨拶 “をやの切なる思い”を聞き分け成人の歩みを進めよう! 日々それぞれの持ち場立場において、八生兵庫分教会の上に絶大なるお力添えを賜り、誠にありがとうございます。 現今の世上を見渡しますと、いつ終わるともわからない ...
ご挨拶 ひながたを目標に教えを実践したすけ一条の歩みを進めよう! 日々はそれぞれの持ち場立場において、八生兵庫分教会の上に絶大なるお力添えを賜り、誠にありがとうございます。 去る一月二十六日、教祖が現身を隠された明治二十 ...
ご挨拶 ひながたを目標に教えを実践したすけ一条の歩みを進めよう! 日々はそれぞれの持ち場立場において、八生兵庫分教会の上に絶大なるお力添えを賜り、誠にありがとうございます。 去る一月二十六日、教祖が現身を隠された明治二十 ...
ご挨拶 教祖のひながたを手本に明るい心で通りきろう! 昨年中はそれぞれの持ち場立場において、八生兵庫分教会の上に絶大なるお力添えを賜り、誠にありがとうございました。 顧みますれば、昨年は未だ終息の兆しのないコロナ渦や戦争 ...
神戸の布教師 余命宣告された人の300人に一人は生きている。 三ヶ月の余命宣告とは、同じ病気の人が1000人いたら500番目に亡くなる人のことです。 つまり、一月から6ヶ月に90数パーセントが亡くなり、その前その後ろに残 ...
ご挨拶 教祖百四十年祭活動に向けて─明るい心で通りきろう! 日々はそれぞれの持ち場立場において、八生兵庫分教会の上に絶大なるお力添えを賜り、誠に有難うございます。 さて、本年を振り返りますに、依然として感染の波が止まらな ...
初代真柱様ご諭達 諭達第一号 明治36年(1903年)12月13日 「神道天理教会長大教正中山新治郎」名で、天理教教典編纂、頒行などに関してのご諭達 諭達第二号 明治37年(1904年)2月13日 日露戦争に関してのご諭 ...
諭達とは? まず諭達とは何か、耳慣れない言葉ですね。 我々お道の者は聴き慣れておりますが、一般の方は初めて聴く単語だと思います。 諭達は年祭に限らない これは所属大教会の神殿講話でのお話しですが、 「節目々々に真柱様から ...