秋山好古と明石元二郎は囲碁の好敵手でした。 明石元二郎(あかしもとじろう)と云えば、日露戦争時のロシアに対する諜報活動で著名な陸軍軍人です。彼はロシア公使館付武官として任命され、ロシアの政情不安を利用して反皇帝勢力と連携し、ロシアを内部から
「坂の上の雲ノロジー」とは、坂の上の雲と年表のクロノロジー(Chronology)を合わせた造語です。弊サイトでは、小説『坂の上の雲』(司馬遼太郎著)の物語である幕末と明治の出来事を、時系列にてまとめています。
小説『坂の上の雲』の主役の一人である正岡子規の略歴と、その人物像について5人の談話をご紹介いたします。 1. 正岡子規とは 正岡子規 1867年(慶応3年)、伊予松山藩士正岡隼太の長男として生まれる。幼名は升(のぼる)。 父隼太は早世するが
小説『坂の上の雲』の主役の一人である秋山兄弟の兄・秋山好古の略歴と、その人物像について7人の談話をご紹介いたします。 1. 秋山好古とは 秋山好古 1859年(安政6年)、伊予松山藩士秋山平五郎の家に生まれる。 幼名は信三郎。「日本騎兵の父
小説『坂の上の雲』の主役の一人である秋山兄弟の弟・秋山真之の略歴と、その人物像について11人の談話をご紹介いたします。 1. 秋山真之とは 秋山真之 1868年(明治元年)3月20日、父平五郎と母貞の五男として生まれる。幼名は淳五郎。 「日
「ブログリーダー」を活用して、sakanouenokumoさんをフォローしませんか?
指定した記事をブログ村の中で非表示にしたり、削除したりできます。非表示の場合は、再度表示に戻せます。
画像が取得されていないときは、ブログ側にOGP(メタタグ)の設置が必要になる場合があります。
秋山好古と明石元二郎は囲碁の好敵手でした。 明石元二郎(あかしもとじろう)と云えば、日露戦争時のロシアに対する諜報活動で著名な陸軍軍人です。彼はロシア公使館付武官として任命され、ロシアの政情不安を利用して反皇帝勢力と連携し、ロシアを内部から
昭和5年に発行されました『海軍逸話集』より、竹内重利中将の談話「秋山真之中将逸事」を現代文に訳してご紹介いたします。 1. 秋山真之の銅像建立に寄せて 秋山真之の銅像が近々故郷である松山に建てられることになったのは、本当に喜ばしいことです。
結婚は人生の重要な節目であり、夫婦が互いに調和し、理解し合うことは必要不可欠です。本文は、秋山真之が親族の令嬢の婚礼に際して贈った、結婚に関する古の智恵を集めた教えです。 これらの教えは、時代背景を反映したものであり、現代の視点から見ると一
「出来た人」というのはこうもあろうかと思うことがある。秋山好古大将がそういう人であった。 1. 大将の墓 大将の墓は、伊予松山市道後温泉の鶯谷という山にある。累々たる墓石の中に、一見しただけでは容易には見つけられないほど小さな墓で
1. 同胞(はらから)の交わり 『同胞(はらから)』という言葉や、『連枝』という表現は、兄弟間の年長者と年少者の序列を示し、これは君臣の義理、父子の親愛、夫婦の区別、友人間の信頼とともに、人間関係の基本的な道徳として称賛されていま
広瀬武夫は海軍兵学校の15期生、秋山真之は17期生になり、広瀬は秋山の先輩となります。 一方、この二人の誕生日はというと、秋山真之は1868年(慶應4年)の3月20日生まれで、広瀬武夫は同年の5月27日生まれとなるため、秋山真之の方が2ヶ月
(前編のあらすじ) 松山で誕生した正岡子規と秋山真之は外の世界への憧れを強めるようになり、上京を決意。憧れの東京で東京大学予備門に入学した二人は、立身出世を夢見て学問に励みます。そして、同じ夢を目指す同郷の仲間たちと青春を謳歌していました。
志半ばにして亡くなった友の死に、秋山真之と正岡子規は、友の為に必ず立身出世し、功を成し遂げようと誓います。様々な困難を励ましあい支えあい克服していった、二人の熱き友情の物語をご紹介いたします。 本文の構成は、2008年(平成20年)4月4日
戦艦「三笠」とは 日清戦争後、海軍は仮想敵国ロシアとの対決に備えて六・六艦隊の整備に着手します。六・六艦隊とは、戦艦6隻、装甲巡洋艦6隻を基幹とするもので、この拡張計画は1896年(明治29年)度から1905年(明治38年)度までの10年計
日本海海戦における秋山真之の名文「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」。 では、この「浪高シ」とは実際にはどのくらいの高さの波なのでしょうか。 1. 「浪高し」の波の高さはどのくらい? やがて飯田少佐が真之のところへやってきて、草稿をさし出した。「
1894年(明治27年)7月25日、日清戦争開戦時に東郷平八郎艦長の指揮する巡洋艦浪速がイギリス商船高陞号を撃沈する事件が起こりました。 1. 高陞号事件 高陞号撃沈の図 午前十時、済遠をさがしていた浪速は、べつの目標を発見した。大型汽船で
東郷平八郎の経歴 1847年(弘化4年) 12月22日 鹿児島城下、加治屋町の邸に誕生 1870年(明治3年) 12月11日 「龍驤」艦見習士官 1871年(明治4年) 3月12日 英国へ海軍修業として留学 1878年(明治11年) 1月3
1934年(昭和9年)5月30日午前7時、元帥・海軍大将・正二位・大勲位・功一級・侯爵東郷平八郎が逝去します。その生前の偉大な功績に対し、従一位に昇位、そして国葬を賜ります。 東郷平八郎、逝去 晩年の東郷平八郎(昭和8年11月頃撮影) *東
1. スペシャルドラマ坂の上の雲、第13回「日本海海戦」のロケ現場 撮影日:2010年5月27日 戦艦三笠ロケセット全容 セット 撮影中 水柱を上げる為の噴射機 三笠のファンネル(煙突)が被弾したシーン 戦艦三笠正面 被弾した煙突 本番前
1. 秋山家の人々 秋山真之(淳五郎) 【海兵17期】本ドラマの主人公。海軍の道に進み、後に連合艦隊参謀を務める 配役小林廉(幼少期)→ 本木雅弘 秋山好古(信三郎) 【旧陸士3期】秋山真之の兄。日本騎兵を戦略機動集団に育て「騎兵の父」と呼
第1部(2009年放送) 第1回「少年の国」 松山城 260年続いた幕藩体制を倒して、日本には「明治」近代国家が誕生した。その国は、帝国主義まっただ中の西欧列強という「大人」たちに囲まれた「少年の国」であった。 四国・伊予松山に三人の男がい
原作となる小説『坂の上の雲』は、1968年(昭和43年)~1972年(昭和47年)の4年3ヶ月に渡って「産経新聞」に連載され好評を博した作品で、日露戦争の時代を生きた明治の青春群像を、司馬遼太郎が10年の歳月をかけ渾身の力で書き上げた壮大な
1. 軍服で押し通す 乃木希典は新婚の初夜、花嫁の静子を放ったらかしにして酒を飲みに出かけほど、若い頃はかなり荒っぽい遊びをしていましたが、1888年(明治21年)、2年間のドイツ留学をを終えて帰ってくると、ガラリと変わって、衣食住にはまる
武士道は言葉ではない かってある人が乃木に「武士道」とは如何なるものでありましょうかと尋ねたところ、乃木は言下に、 武士道は言葉ではない と答えた。 そして自分は軍人であるから、政治など関係すべきでないと議員選挙にはいつも棄権した。 他人か
乃木希典(のぎまれすけ)とは 乃木希典 1849年(嘉永2年)11月11日、江戸の長府藩邸に生れる。 1865年(慶応元年)、報国隊に参加し幕府軍と戦う。 1869年(明治2年)、伏見御親兵兵営に入営、翌年脱藩騒動鎮圧のため帰藩する。 西南
結婚は人生の重要な節目であり、夫婦が互いに調和し、理解し合うことは必要不可欠です。本文は、秋山真之が親族の令嬢の婚礼に際して贈った、結婚に関する古の智恵を集めた教えです。 これらの教えは、時代背景を反映したものであり、現代の視点から見ると一