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  • 成海神社

    成海(なるみ)神社は、延喜式内社の1つであり、「日本書紀」に記されている歴史を持つ1級神社で「日本武尊」が祭られている。 「熱田神宮」が現在の地に遷宮された際の「熱田太神宮御鎮座次第神体本記」に、日本武尊東征の縁に由る祭神としての県下10社の中に入っている。 秋の例祭には、...

  • 善照寺砦

    今川と織田の桶狭間の戦いの際に、「善照寺砦」は、織田勢の陣地となった場所として有名です。 合戦説明図は下記のページから引用しました。 https://jinja.dr-leather.com/zensyouzitoride-nagoyamidori-narumi/ 昭和初期...

  • 鳴海の山車

    祭礼を執り行う神社が異なるので、「鳴海表方まつり(鳴海八幡社)」「鳴海裏方まつり(成海神社)」に分かれて、別々に行われています。 [ 鳴海表方まつり(鳴海八幡社)] 毎年、10月の土曜日・日曜日に例祭が行われます。 5輌の山車と傘鉾車が旧東海道の鳴海宿場跡を曳かれます。 ま...

  • 有松・鳴海絞り

    「絞り」とは、絞り染め(しぼりぞめ)のことです。 素材の布の一部を糸で括って絞ったり、パターンに沿って縫い締める、筍の皮を巻いて縛るなどの方法で、布の一部分だけ染料が染み込まないようにして、染料液に浸すことで、生地に模様を作り出す模様染めの技法です。 また、細かく網目状に糸...

  • 松尾芭蕉ゆかりの地

    俳人「松尾芭蕉」が鳴海とゆかりがある事は、あまり知られていません。 1685年(貞享2年)に来遊するや、俳人たちから款待を受けて、下郷家の別荘であった細根山や山王山に句碑を残しています。 三王山には「千鳥塚」が残っています。 これは、日本最古の芭蕉塚と言われています。 鳴海...

  • 慰霊碑

    終戦後10年ほどして、鳴海小学校の築山に「太平洋戦争の戦没者名を刻んだ慰霊碑」が建立されました。 そして、毎年、「戦没者慰霊祭」が催行されるようになりました。 昭和40年頃になって、小学校の拡張工事に伴い、築山が撤去されることになりました。 そこで、慰霊碑と関連する石塔など...

  • 鳴海小学校

    戦前は「町立鳴海尋常小学校」でしたが、民主教育制度になって「町立鳴海小学校」となり、本校と2つの分校がありました。 「平手分校」と「平子分校」でした。 分校は4年生までが対象で、5年生になると、本校へ移籍されて、通学距離が大きくなりました。 町はずれに住まっていた子は、片道...

  • 盆栽村

    昭和4年に、愛知電鉄が「盆栽村」として宅地分譲しました。 最初に、専門業者を2・3軒を誘致内定しておいて、募集されたように推察します。 新たに入居した素人が、専業者から盆栽技術を見習って、順次開業した様子です。 数年して業者の集合団地としての形態となったようです。 昭和20...

  • 鳴海球場

    「鳴海球場」は、「甲子園球場」「明治神宮野球場」に次いで、日本で3番目に開設された公式野球場として、昭和2年に完成しました。 球場の周囲にはプラタナスの木が沢山ありました。 内野席側の裏手は芝生の広場で松の木の植え込みがありました。 立派なクラブハウスもあって、選手が宿泊出...

  • 神社・仏閣などの現状

    旧鳴海町について、現地に出かけて、神社・仏閣などの撮影をしてきました。 予想外に多くの建物が残されています。 [ 神社 ] [ 仏閣 ] [ 稲荷 ]

  • 現在の鳴海

    上図は、Google Mapに、赤く縁取りして旧鳴海町を表示しています。

  • 名古屋市と合併後の鳴海

    昭和38年4月1日に「愛知郡鳴海町」と、昭和39年12月1日に「知多郡有松町」と「知多郡大高町」が名古屋市と合併した結果、「名古屋市緑区」が創設されました。 合併当時の緑区の人口は、7万人ほどでした。 上図は、1999年の地図です。 地下鉄は天白区の野並止まりでした。 合併...

  • 終戦直後の鳴海

    上図は、昭和23年の鳴海です。 工場が2社あり、中央部(新海池の上)に鳴海製陶(株)の工場、左下部(天白川の右)に中央発條(株)の工場が表示されています。 地場産業は絞り染め加工でした。 このように、中心部に家屋が集中した状態で、周囲は農地でした。 戦争では爆弾を数か所落と...

  • 近世の鳴海

    上図は、昭和13年の地図であり、赤枠内が鳴海町です。 黒くなっている部分が宿場のあった場所です。 その上には「鳴海球場」が記されています。 周囲は、農地ですが、山林も多くを占めています。

  • 江戸時代の鳴海

    上図は、桶狭間の戦いでの織田方の移動経路です。 この時から、鳴海が知られるようになりました。 上図は、江戸時代の鳴海です。 東海道筋の鳴海宿本陣や鳴海城址、成海神社、善照寺砦などが表示されています。 上図は、鳴海宿場です。 この時代の鳴海は、家数が約1,000軒で、人口が約...

  • 中世の鳴海

    上図は、東海道ができる以前の鳴海の中心部です。 赤線は東海道であり、相対位置を説明するために書き加えたものです。 古墳や貝塚の位置も記されています。 鉄道路線が書かれていますが、これは、相対位置を説明する為のものです。 また、天白川と扇川についても同様で、説明のために書き加...

  • 古代の鳴海

    上図は、古代の鳴海の地形図です。 赤枠内が旧鳴海町です。 上部の天白川と下部の扇川で挟まれた三角州でした。 弥生時代や古墳時代の遺跡が記されています。 具体的には、縄文時代の雷(いかづち)貝塚、上の山貝塚、光正寺貝塚、鉾ノ木貝塚、大根貝塚などがあります。 弥生時代になると、...

  • はじめに

    筆者が生まれ育った郷里は、昭和14年の生誕日には「愛知県愛知郡鳴海町」でした。 昭和34年に名古屋市と合併し、次いで隣町の有松町と大高町が合併して、この3町で昭和35年に「名古屋市緑区」となりました。 旧鳴海町は、東海道53次の宿場町「鳴海の宿」で栄えた街です。 古くは、縄...

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我が郷土史・・・鳴海町
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