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  • 長岡城奪還へ向けての各地の戦い⑤与板、与板周辺の戦い

    五月二十七日(7月16日)から三日間、与板城攻略の戦いを展開するが、その目的を達成できなかった同盟軍は二十三日の同盟軍の軍議で決定したこの攻略をどうするか、桑名藩が守備する塩之入峠に六月一日(7月20日)集結し軍議を行った。

  • 長岡城奪還へ向けての各地の戦い④ 与板城攻略へ

    同盟軍は進撃、城下を目前まで進んだ。城下の数か所から火の手が上がり、その黒煙が同盟軍の進撃を阻止する。一斉射撃を開始しながら猛進、数刻戦った。胸壁を攻略しながら追撃するも次第に火災が猛煙となり、ついに退かざるを得ない情況となり、与板城攻略はこの日もならなかった。

  • 長岡城奪還へ向けての各地の戦い③狩谷川の攻防、久田の戦い

    六月二日の今町攻略の戦いに勝利し周辺の村々に守備・宿陣した諸隊の米沢・長岡藩は四日片桐より傍所に進軍、刈谷田川の対岸鹿熊に布陣する西軍と砲戦を展開する。六月五日も続いて激しい砲戦が続行する。西軍は秘かに大里と福井の間に強固な大規模な胸壁を構築中であったのである

  • 長岡城奪還へ向けての各地の戦い②

    卓越した長岡藩軍事総督河井継之助の作戦が当たった。西軍の主力が囮となった牽制隊と激しい戦いを展開中に二手に分かれて今町を攻撃した同盟軍主力隊は手薄になったとはいえ必死に防戦する西軍本陣隊を攻めた。激しい銃弾が飛来する中、会津・長岡藩の槍隊が斬り込みを決行、河井自らも白刃を振って突入したという。勇敢なる衝鋒隊も突撃する。

  • 長岡城奪還へ向けての各地の戦い①

    西軍の小栗山の頂からの砲銃撃に米沢藩は弾薬尽きるを理由に前進しない。怒った衝鋒隊副隊長松田昌二朗は大砲を取って正面に据え砲撃を開始、また同永井蠖伸斎、木村大作らは山の左側に回り激しい銃撃の中、攻め登り猛射を展開、その隙を狙って自刃をかざして斬り込みをかけた。

  • 長岡城落城後、同盟軍加茂に集結、米沢藩庄内藩も参戦

    五月二十二日(7月11日)長岡、朝日山方面の撤退した諸藩諸隊が殆ど加茂に集結した。会津藩越後口総督一瀬要人は各藩、諸隊に呼び掛け、会津本営に於いて列藩同盟の軍議を開いた。しかし、この軍議には会津藩佐川官兵衛、桑名藩山脇十左衛門、長岡藩川島億二郎らは出席していなかった。

  • 北越戊辰戦争長岡城落城

    悠久山に集結した長岡藩河井らは諸隊長を集め軍議を行った。遥かに黒煙のあがる長岡城を望見しながらの軍議であったという。ここで長岡城に固執するとの得策でないことを説き、栃尾に退き、再挙を計ることに決した。さらに榎峠、朝日山方面の守備陣にも、栃尾に後退することを命じる使者を派遣した。

  • 北越戊辰戦争西軍信濃川を渡河

    必死の渡河をした西軍は直ちに銃撃しながら長岡藩の陣屋に突入した。突如の攻撃にも長岡藩士毛利幾右衛門らは奮戦するが、半小隊(約十五~二十人)では支えきれず散乱して敗走となった。残る半小隊は銃声に駆けつけるが圧倒的な西軍勢である。激しい銃撃にやむなく退却となった。

  • 村松藩への出兵要請、西軍長岡城攻略へ

    西軍は信濃川の西側対岸よりの長岡城攻略に決し、三仏生や横渡村の砲陣営には榎峠、朝日山への砲撃を続行させ、同盟軍をくぎづけにさせておき、その隙に長岡城を攻略するーとの作戦であった。

  • 司馬遼太郎「峠」の文学碑

    武士の世の終焉にあたって、長岡藩ほどその最後をみごとに表現しきった集団はない。運命の負を甘受し、そのことによって歴史にむかって語りつづける道をえらんだ。「峠」という表題は、そのことを小千谷の峠という地形によって象徴したつもりである。書き終えたとき、悲しみがなお昇華せず、虚空に小さな金属音になって鳴るのを聞いた。

  • 北越戊辰戦争・朝日山攻防戦2

    同盟軍は西軍が作戦変更の軍議が行われている事など露程も知らず、榎峠、朝日山の砲撃で応戦していた。しかし、十六日に長岡城に近い草生津の砲台が砲撃され三仏生より更に先の草生津まで西軍が信濃川沿いに北上している事を知らされたのである。

  • 北越戊辰戦争・朝日山攻防戦1

    白虎隊士と伝わる新国英之助だが、士中組ではないようで、父と共に参加したとすれば、年齢的に白虎隊であるためそう思われたか、それとも隊から離れ父と共にその隊の付属となって出陣したのではないだろうか。戦死の日も、五月十二日か十三日か定かではないが、恐らく十三日の長州・奇兵隊の奇襲時にこの地で守備陣地に守っていたと推測する。

  • 榎峠の戦い

    榎峠は、当時は東に石坂山・金倉山の山々が連なり、西は断崖となって信濃川に落ち込んでいたという。その断崖の上を通るという難所で軍事上の要衝でもあったという。西軍は精兵の守備軍を配置せず、一度も戦いをした事のない尾張・上田藩を配備したことが裏目となった。

  • 会津藩諸隊・同盟軍(水戸諸生党など)長岡へ集結②

    新潟方面に守備していた会津藩佐藤織之進は、五月十三日(7月3日)出雲崎方面の風雲急なるを知り、隊士二十五名を率いて出陣し、五月十四日の戦いで敗走した同盟軍が寺泊に居なくなったため、出陣、守備に当たったという。(やはり戦いは十四日)※従って上記の資料は十一日ではなく、この頃のものと思われる。

  • 会津藩諸隊・同盟軍(水戸諸生党など)長岡へ集結①

    出雲崎陣屋を本営とする諸生党市川三左衛門らが滞陣、会津藩が布陣していた。結義隊は陣屋に赴き、市川と面談後、物見として両隊長が十人程率いて先鋒陣営として布陣する諸生党・筧助太夫、朝比奈弥太郎、会津藩陣営を訪れ軍議を行った。

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