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ブログタイトル
会津戊辰戦争
ブログURL
https://www.bakumatsuaidu.blog/
ブログ紹介文
会津出身の父が辿った戊辰戦争史跡巡りを綴るブログ
更新頻度(1年)

2回 / 12日(平均1.2回/週)

ブログ村参加:2021/09/09

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ハンドル名
会津親父さん
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会津戊辰戦争
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会津親父さんの新着記事

1件〜30件

  • 松平容保、会津へ

    イ)慶喜の江戸帰還に従わざるを得なかった情況 ロ)家督を若き喜徳に譲ること ハ)逆賊の汚名を回復すべきこと 全藩士一致してこれらのことを頼むと、告げた。 容保には神保を失うようなことは繰り返すことなく、勉励して会津藩のために尽くしてくれと頭を垂れた。

  • 〈神保修理「切腹」となる〉

    大阪城に於ける大評定で徳川慶喜の「最後の一兵まで」の言葉に、七日「いざ出陣」と意気上がる東軍は、総大将の慶喜らが不在と知りその憤懣は大変なものであった。 更に神保修理までも見当たらない事に神保がそそのかして江戸へ帰したとの思いが募り、将軍、藩主の「責」を追求することはできず、その怒りの鉾先は神保に集中してしまっていた。

  • 慶喜恭順決定後の容保動向

    「評定」の席上で慶喜の袴にすがって再度の戦いを願った主戦論者の幕臣・小栗上野介は、幕末当時、揺らぐ幕府の財政・軍備に多大な貢献をするも、その場で「罷免」を申しつけて慶喜は評定場を去ったという。

  • 徳川慶喜恭順へ

    しかし、慶喜は「朝敵」を恐れ、薩摩・長州藩が牛耳る朝廷に「恭順」すると決めたのである。最後に席を立つ慶喜の足にすがり「もう一度考え直し」と強く迫った、当時幕府の頭脳といわれた勘定奉行小栗上野介を振り払って退席したという。

  • 〈松平容保「東帰」を謝罪し家督を譲る〉

    一月二十一日(2月14日)容保は家老を召し出し、慶喜の命令とはいえ藩士を置いての「東帰」を謝罪し家督を国元にいる松平喜徳に譲ることを伝え、さらに西軍より逆賊の汚名を着せられた徳川家の名誉回復を図るよう伝えた。

  • 徳川慶喜、会津藩負傷者を見舞う

    この時、負傷者の「高津忠三郎」は大声で、幕兵の不甲斐なさになぞらえて(例えて)慶喜のこれまでの態度を詰った。負傷者たちは日頃、陰にて口々に悪口をいっていたという。それを代弁するかのように高津は病床から言ったのであろう。慶喜をはじめ、同行した幕閣者は、どんな思いであったろうか。

  • 〈諸藩の重臣、水戸藩邸(小石川後楽園)に参集する〉

    「徳川家の辞官・納地の返上」要求による薩長の「朝廷」の名の下に強引な行為から「鳥羽伏見の戦い」に至り「朝敵」の名をつけられた旧幕府の思いを語り、その汚名を取り払うべき「紀州藩」から江戸詰の諸藩に「評議」の招集があり、一月十八日(2月11日)「水戸藩・小石川屋敷」に於いて行われた。

  • 〈会津藩負傷者、江戸に着く〉〈松平容保胸中を語る〉

    慶喜は「大阪城を枕に討死するとも最後まで戦う」と宣言したが、本当は宣言したようには考えていないように思えて憂慮していたので、そのことを神保修理だけには知らせておいた。案の定慶喜公より「お供せよ」との厳命が夜遅くあった。公に従えば残された家臣に義を欠く。家臣に義を立てれば、公に対して義を失う。二つをとることはできなかった

  • 〈徳川慶喜、江戸に入る〉

    一月十二日(2月5日)徳川慶喜、松平容保らは品川に上陸し「海軍所」に入った。多分、人目をしのぶため、午前三時頃であったろう。暁七ツ(午前四時頃)には江戸城登城前の海軍奉行・勝海舟は使者に、直ちに「海軍所」へ出立するよう伝えられている。

  • 〈会津藩、大阪を撤退〉

    会津藩士らは負傷者は旧幕軍海軍の軍艦で、他は陸路でそれぞれ江戸をめざすこととなった。その胸中はいか程のものであったろうか。一年おきに交代とあっても文久二年に「京都守護職」の会津藩士として奮闘し、孝明天皇の絶大な信頼を得た会津藩、それが薩長の陰謀によって京を去る思いは無念さで一杯であったと思われる。

  • 〈徳川慶喜、秘かに大阪城を脱け出す〉

    六日、午後十時頃、突然、松平容保は徳川慶喜より呼び出された。「東帰する、供せよ」との厳命が下されたのである。主戦論者の桑名藩藩主松平定敬も同様であったという。 容保は引き止めようと説得するも慶喜は東帰することを変えなかった。藩士に告げるいとまもなく、大阪城を出ることになってしまっていた。

  • 〈鳥羽・伏見の戦い四日目〉

    奮戦を続けた幕府陸軍歩兵隊、伝習隊、会津藩、幕臣京都見廻組、桑名藩士、新選組らは疲労と悔しさ等々の入り混じった面持ちでの撤退であったと想像できる。難攻不落といわれた大阪城での一戦をの思いを胸に秘め、また大阪・天保山沖に停泊中の、当時日本随一の海軍があり、共に西軍への攻撃を図れば勝利すると信じていたのである。

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