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  • 北越戊辰戦争長岡城落城

    悠久山に集結した長岡藩河井らは諸隊長を集め軍議を行った。遥かに黒煙のあがる長岡城を望見しながらの軍議であったという。ここで長岡城に固執するとの得策でないことを説き、栃尾に退き、再挙を計ることに決した。さらに榎峠、朝日山方面の守備陣にも、栃尾に後退することを命じる使者を派遣した。

  • 北越戊辰戦争西軍信濃川を渡河

    必死の渡河をした西軍は直ちに銃撃しながら長岡藩の陣屋に突入した。突如の攻撃にも長岡藩士毛利幾右衛門らは奮戦するが、半小隊(約十五~二十人)では支えきれず散乱して敗走となった。残る半小隊は銃声に駆けつけるが圧倒的な西軍勢である。激しい銃撃にやむなく退却となった。

  • 村松藩への出兵要請、西軍長岡城攻略へ

    西軍は信濃川の西側対岸よりの長岡城攻略に決し、三仏生や横渡村の砲陣営には榎峠、朝日山への砲撃を続行させ、同盟軍をくぎづけにさせておき、その隙に長岡城を攻略するーとの作戦であった。

  • 司馬遼太郎「峠」の文学碑

    武士の世の終焉にあたって、長岡藩ほどその最後をみごとに表現しきった集団はない。運命の負を甘受し、そのことによって歴史にむかって語りつづける道をえらんだ。「峠」という表題は、そのことを小千谷の峠という地形によって象徴したつもりである。書き終えたとき、悲しみがなお昇華せず、虚空に小さな金属音になって鳴るのを聞いた。

  • 北越戊辰戦争・朝日山攻防戦2

    同盟軍は西軍が作戦変更の軍議が行われている事など露程も知らず、榎峠、朝日山の砲撃で応戦していた。しかし、十六日に長岡城に近い草生津の砲台が砲撃され三仏生より更に先の草生津まで西軍が信濃川沿いに北上している事を知らされたのである。

  • 北越戊辰戦争・朝日山攻防戦1

    白虎隊士と伝わる新国英之助だが、士中組ではないようで、父と共に参加したとすれば、年齢的に白虎隊であるためそう思われたか、それとも隊から離れ父と共にその隊の付属となって出陣したのではないだろうか。戦死の日も、五月十二日か十三日か定かではないが、恐らく十三日の長州・奇兵隊の奇襲時にこの地で守備陣地に守っていたと推測する。

  • 榎峠の戦い

    榎峠は、当時は東に石坂山・金倉山の山々が連なり、西は断崖となって信濃川に落ち込んでいたという。その断崖の上を通るという難所で軍事上の要衝でもあったという。西軍は精兵の守備軍を配置せず、一度も戦いをした事のない尾張・上田藩を配備したことが裏目となった。

  • 会津藩諸隊・同盟軍(水戸諸生党など)長岡へ集結②

    新潟方面に守備していた会津藩佐藤織之進は、五月十三日(7月3日)出雲崎方面の風雲急なるを知り、隊士二十五名を率いて出陣し、五月十四日の戦いで敗走した同盟軍が寺泊に居なくなったため、出陣、守備に当たったという。(やはり戦いは十四日)※従って上記の資料は十一日ではなく、この頃のものと思われる。

  • 会津藩諸隊・同盟軍(水戸諸生党など)長岡へ集結①

    出雲崎陣屋を本営とする諸生党市川三左衛門らが滞陣、会津藩が布陣していた。結義隊は陣屋に赴き、市川と面談後、物見として両隊長が十人程率いて先鋒陣営として布陣する諸生党・筧助太夫、朝比奈弥太郎、会津藩陣営を訪れ軍議を行った。

  • 江戸城無血開城、大久保利通都内史跡巡り

    三月十四日(4月6日)の再会見で江戸総攻撃は中止と決まったが、徳川慶喜の処分は、大総督府参謀西郷でも一存では決められない。朝廷の三職会議(総裁・議定・参与)を開き、慶喜の処分の評議を行い、慶喜の水戸隠退を認める事に決した。

  • 山岡鉄舟と西郷隆盛会見、徳川慶喜謹慎の地宝台寺

    山岡鉄舟は二月下旬、慶喜に拝謁し、大総督府西郷隆盛との直接の面談を依頼され、元薩摩藩士益満休之助を道案内として同行させ単身、駿河まで進軍していた。大総督府は東海道鎮撫総督府へ出立した。

  • 勝海舟

    勝はさらに万が一の事も考え、イギリスに戦争回避の仲介、また江戸市中の市民救出のため、近海河川のあらゆる船を房総沿岸に新門辰五郎に依頼して待機させ、幕軍が敗れた場合は、江戸市中に放火し、進軍を阻止する作戦であったという。勿論、陸軍・海軍の総出陣態勢を整えていたのである。

  • 幕末の江戸情勢

    ペリーの来航は、それまで潜在していた内政・外交の弱点が露呈し、現状のままでは太刀打ちできないものをはっきりと認識されだしたのである。一方、欧米列強国も自国だけでは経済の発展にかげりを感じ、ロシア以外の未開発国のアジア進出をめざしていたのである。

  • 長岡藩家老河井継之助、小千谷階段決裂から開戦決意、会津藩との同盟成立

    小千谷の慈眼寺で新政府軍軍監岩村精一郎らと会談したが、その非道な取り扱いを相談するためでもあった。川島は開戦することに反対したが、熟議の末、長岡藩は抗戦することになった。二人はこの地から同行して摂田屋の本陣に向かい諸隊長を前に開戦の決意を述べるに至った。

  • 片見の戦い・会津藩諸隊長岡へ・慈眼寺

    五月三日(6月22日)正式に二十五藩による奥羽列藩同盟が仙台領白石に於いて成立した。越後では、前日長岡藩家老河井継之助と西軍・山道軍岩村精一郎の会談」が行われ、決裂していた。そんな情況の中、西軍が片見に侵攻し、会津藩との戦いが展開されたのである。

  • 会津藩長岡藩との同盟不成立、衝鋒隊の全集結後与板藩領へ

    長岡藩家老河井継之助との面談で長岡藩領内からの退去を求められた会津藩佐川官兵衛らは信濃川を挟んだ与板藩城下へ入り滞陣を続けている。一方、西軍山道軍は小千谷陣屋に入り滞陣、海道軍も柏崎へ入り海岸沿いを北上。武装中立を貫く長岡城周辺に次第に戦雲が垂れ込めてきていた。

  • 桑名藩主松平定敬の動向と鯨波の戦いでの桑名藩士立見鑑三郎の活躍

    高田城を発した西軍は日本海沿いを北上、桑名藩領柏崎に迫った。桑名藩は鯨波に防御線を張った。鯨波は柏崎への通過点で海岸に断崖が落ち込む要地だった。午前四時、暴風雨の中戦闘は長州・薩摩藩兵の突撃が始まった。これに高田・加賀・畠山藩兵が続いたが、桑名藩士立見鑑三郎の活躍により西軍を撤退させている。

  • 会津藩諸隊小千谷へ集結、雪峠の戦い、小出島の戦い

    真人村近くまで追撃すると本隊が布陣しているのが望見でき芋坂へ戻った。西軍の本隊は山道軍の本隊で薩摩・長州・尾張・大垣藩のほか、信州の諸藩合わせて十二藩の軍勢で六千~八千名といわれる大部隊であったという。

  • 佐川官兵衛の出陣と三国峠の戦い

    三国峠に守備する会津藩町野源之助隊、援軍の池上武助隊は西軍の激しい砲銃撃に屈せず、奮戦に次ぐ奮戦を展開した。町野隊長の弟は槍を振って突進し敵中を突破し前橋藩隊長八木始の目前まで進むが銃弾を浴び戦死する。激戦を繰り広げたが多数に無勢、ついに峠の権現社まで引き上げた。

  • 会津藩の越後方面での布陣と偽名西郷蔵之進の借用金事件

    会津若松城では会津救解のための奥羽諸藩連盟「嘆願書」が西軍総督府参謀世良修蔵に却下され、再び会津追討の命令に諸藩は逆にそのために出陣した藩の出兵の解除を求め、列藩同盟成立へ向けて大きく進み始めた事を受け、西軍との一戦に決し、藩境防備陣の出陣を決定していくのである

  • 飯山藩の裏切り、衝鋒隊敗北、酒屋陣屋まで撤退

    まさか飯山藩と戦っていると考えもつかなかった事が眼前に展開されているに驚くが、合流して落城させようと戦いに加わった。教導役として同行していた飯山藩兵は事の意外なるさを知り驚き、隊を乱して遁走した。

  • 新潟治安維持にむけ越後同盟成立す

    四月四日(4月26日)長岡藩河井継之助は村上、新発田、黒川、三根山、村松の諸藩の重臣を集結し、新潟港を含む新潟の治安等々に協議し、その結果を持って衝鋒隊総督古屋にい面談し、越後六藩同盟を伝え、新潟の治安を維持することになった。

  • 会津藩藩境防備体制強化、越後方面への出陣

    三月十五日新発田藩前藩主溝口直溥が帰国のため会津若松城下へ止宿していた。その宿へ家老西郷頼母が訪ね、(1)新発田藩の京都出兵(2)藩内の薩摩・長州人の潜伏などを責め、激論となった。その結果、西郷頼母は新発田藩の真意に疑念を持ち関門の警備を伝えたのである。

  • 〈越後に於ける会津藩の動向②〉

    酒屋陣屋の代官井深宅右衛門は茂原半兵衛、丹羽右近を連れて村松藩を訪ね、坪井静作と面談している。刻々と変わる越後を取りまく情況を勅書の到達なども含め、語り合わされている。特に村松藩とは親密さも加わり面談の回数も増えている。

  • 〈越後に於ける会津藩の動向〉

    新潟港は旧幕府領で新潟奉行所が置かれていたが、大政奉還後は徳川領地となったが、幕府が崩壊し、その運営は不安定な情況であったため、諸藩が力を合わせて運営する必要から会津藩の提案で実現した「酒屋会議」であった。

  • 信州鎮撫隊会津へ、衝鋒隊と改称し越後へ出立

    仙台藩士・玉虫十左衛門、米沢藩士千坂太郎左衛門に面談し奥羽諸藩の会津救解の動きを聞き、微妙な立場にある会津藩を思い、三月二十六日(4月18日)日新館を出立し坂下宿へ向かい、片門から船で阿賀川を下り、会津藩領の水原陣屋に宿陣、その後、越後へ進む

  • 信州鎮撫隊・梁田の戦い

    戦いが次第に不利となり戦傷者が続出するに至り、総督古屋佐久左衛門は撤退と決し、まず負傷者を梁田の渡しから田沼へ向かわせ、激しい砲銃戦を渡良瀬川の堤防で展開しながら撤退した。西軍もそれ以上追撃する余力はなかった。

  • 信州鎮撫隊、江戸-桶川宿-忍藩-羽生宿を経て梁田へ

    三月七日に隊の再編成を成した古屋佐久左衛門は何日たっても侵軍しない西軍に、ついに行程を変更し信州に向かう事に決し羽生から出陣する。道は本庄に滞陣する西軍の本隊を避け、迂回路を進んだ。 八百五十余名~八百七十余名であった。

  • 旧幕陸軍歩兵隊の江戸脱走と古屋佐久左衛門らによるその鎮撫

    「古屋佐久左衛門」は、脱走した歩兵隊の乱暴狼藉の報を幾度なく耳にすると強盗集団と化した歩兵隊を収拾しようと考え、勝海舟を訪れ許可を得、親友の「今井信郎」「内田庄司」「永井蠖伸斎」「天野新太郎」らと共に歩兵隊の後を追った。

  • 桑名藩藩主松平定敬・海老名郡司・請西藩主林忠崇動向

    磐城方面で同盟軍と共に西軍と戦いを展開するが、泉・湯長谷藩が落城し、平藩が七月十三日(8月3日)ついに落城し七月二十三日に会津若松に入ったのである。八月五日(9月20日)請西藩主林忠崇ら一行は会津に在った仙台藩士国分平蔵の案内で若松を出立する。

  • 棚倉藩主と長岡藩主の宿陣跡

    西軍は軍監三好軍太郎(長州藩)に一隊を率いさせ、大雨で水嵩が増している信濃川を渡河し「中島」に上陸、長岡城下へ奇襲攻撃をかけ「朝日山」方面に主力を出陣させていた長岡藩筆頭家老河井継之助はがドリング砲を持って馳けつけ反撃するが,ついに「落城」した

  • 旧幕典医の松本良順と旧幕府老中板倉勝静、会津若松へ

    旧幕典医の松本良順が若松城下に入ったのは江戸城明け渡しの前後の頃であったと思われる。会津に入ってからは「日新館」に滞在し、医学の指導をするかたわら、負傷者が送られてくるとその治療に当たった。新選組土方歳三も足に負傷し治療を受けている。

  • 会津若松で奮闘した土方歳三

    閏四月五日(5月26日)白河方面への出陣が命じられるまでの間、土方歳三は天寧寺住職と共に松平容保に拝謁し、近藤勇の墓建立を願い出て戒名を書いてもらったという。また、五日の前日、隊士一同を率い、容保に拝謁し歓迎の宴を受けたとも伝わる。

  • 旧幕軍諸隊、唐津藩世子・小笠原長行、会津へ

    会津藩士が帰国を開始した三月三日(3月26日)、小笠原長行は江戸諸藩士十数人を率いて江戸を脱し、元領地であった棚倉へ向かった。奥羽諸藩の「会津救解」の動きを知ったのか、小笠原は棚倉を出て若松へ向かった。

  • 会津藩四藩境への防備体制強化

    三月十二日(4月4日)「藩四境防備体制」を改めた。(1)津川(越後口)木村隊、諏訪隊(2)浜崎(  )堀隊、蜷川隊(3)三代(白河口方面)横山隊、鈴木隊(4)田島(日光口方面)原隊、有賀隊、さらに「軍事方」は周辺各地に「鎮撫隊」の派遣を通告した。

  • 会津藩士の軍事訓練と武器商人スネル

    会津藩がスネル兄(ヘンリイ)弟(エドワード)を知ったのは、近代的武器購入に際して家老梶原平馬が横浜に赴く時、長岡藩家老河井継之助を通じて知った。梶原平馬はスネル(ヘンリイ)に会津藩の軍事顧問を依頼、承諾を得る。名を「平松武兵衛(武平)」と改め会津城下に居住する。

  • 会津藩と新発田藩の関係

    前藩主溝口直溥が会津城下を通過するため入ってきたのである。鳥羽伏見の戦いにも出兵させず、また薩摩・長州藩士を潜伏させているとの風聞、京都に於ける新発田藩の行動に対して、その疑念、不満が積もり積もっていたのか、会津藩家老西郷頼母、若年寄西郷勇左衛門は、宿を訪ね二日間に亘って激論をたたかわした。

  • https://www.bakumatsuaidu.blog/1776-2/

    会津藩松平容保、武備恭順と軍制改革へ新発田藩の前藩主と西郷頼母家老、激論を交わす二月十四日、新発田藩主溝口直正が帰国途中、若松城下に宿泊した折、家老萱野権兵衛は会津藩士武田五郎らを護衛として新発田藩城下まで同行させ新発田城下にそのまま滞留さ

  • 会津藩松平容保、武備恭順と軍制改革へ

    松平容保は「恭順謹慎」を朝廷に届け出ていたが、朝廷を牛耳る薩摩・長州藩の参議らは奥州諸藩に「会津追討」の命を発し「北陸道」「東山通」「東海道」「奥羽」への鎮撫隊を出動させていた。西軍の侵攻が強化される中では、「武備」もやむを得なかったといえる。

  • 松平容保会津鶴ヶ城へ帰国する

    松平容保が万延元年(1860年)に江戸に出府してから「八年ぶり」の帰国であった。江戸から会津若松までおよそ六十五里(約260㎞)であるという。随行する「先備(さきぞなえ)隊」(頭=千葉権助)約十七名が容保と共に会津へ向かい六日間で到着したのである。

  • 江戸残留の会津藩士と新撰組動向

    会津藩士の江戸潜伏者は旧幕軍に加入する者、上野彰義隊に加入する者など結構な人数が江戸の情勢を見守っていたと思われる。また、甲州柏尾の戦いに参加した「田中左内」ら一隊は、結城にて結城藩主を擁護して帰藩途中、彰義隊と共に戦いをしている。

  • 〈会津藩、江戸を去る〉

    二月十六日(3月9日)藩主松平容保の帰国、十八日(3月11日)江戸詰藩士の婦女子の帰国開始、三月一日負傷者の帰国開始、三日(3月26日)砲兵隊ら藩士の帰国が始まり、「台場構築研究」の「武器調達」以外の残留者は旧幕府陸軍に参加、また諸隊を結成し新選組に参加する者など、 すべて西郷頼母は承知していたものと考える。

  • 松平容保、会津へ

    イ)慶喜の江戸帰還に従わざるを得なかった情況 ロ)家督を若き喜徳に譲ること ハ)逆賊の汚名を回復すべきこと 全藩士一致してこれらのことを頼むと、告げた。 容保には神保を失うようなことは繰り返すことなく、勉励して会津藩のために尽くしてくれと頭を垂れた。

  • 〈神保修理「切腹」となる〉

    大阪城に於ける大評定で徳川慶喜の「最後の一兵まで」の言葉に、七日「いざ出陣」と意気上がる東軍は、総大将の慶喜らが不在と知りその憤懣は大変なものであった。 更に神保修理までも見当たらない事に神保がそそのかして江戸へ帰したとの思いが募り、将軍、藩主の「責」を追求することはできず、その怒りの鉾先は神保に集中してしまっていた。

  • 慶喜恭順決定後の容保動向

    「評定」の席上で慶喜の袴にすがって再度の戦いを願った主戦論者の幕臣・小栗上野介は、幕末当時、揺らぐ幕府の財政・軍備に多大な貢献をするも、その場で「罷免」を申しつけて慶喜は評定場を去ったという。

  • 徳川慶喜恭順へ

    しかし、慶喜は「朝敵」を恐れ、薩摩・長州藩が牛耳る朝廷に「恭順」すると決めたのである。最後に席を立つ慶喜の足にすがり「もう一度考え直し」と強く迫った、当時幕府の頭脳といわれた勘定奉行小栗上野介を振り払って退席したという。

  • 〈松平容保「東帰」を謝罪し家督を譲る〉

    一月二十一日(2月14日)容保は家老を召し出し、慶喜の命令とはいえ藩士を置いての「東帰」を謝罪し家督を国元にいる松平喜徳に譲ることを伝え、さらに西軍より逆賊の汚名を着せられた徳川家の名誉回復を図るよう伝えた。

  • 徳川慶喜、会津藩負傷者を見舞う

    この時、負傷者の「高津忠三郎」は大声で、幕兵の不甲斐なさになぞらえて(例えて)慶喜のこれまでの態度を詰った。負傷者たちは日頃、陰にて口々に悪口をいっていたという。それを代弁するかのように高津は病床から言ったのであろう。慶喜をはじめ、同行した幕閣者は、どんな思いであったろうか。

  • 〈諸藩の重臣、水戸藩邸(小石川後楽園)に参集する〉

    「徳川家の辞官・納地の返上」要求による薩長の「朝廷」の名の下に強引な行為から「鳥羽伏見の戦い」に至り「朝敵」の名をつけられた旧幕府の思いを語り、その汚名を取り払うべき「紀州藩」から江戸詰の諸藩に「評議」の招集があり、一月十八日(2月11日)「水戸藩・小石川屋敷」に於いて行われた。

  • 〈会津藩負傷者、江戸に着く〉〈松平容保胸中を語る〉

    慶喜は「大阪城を枕に討死するとも最後まで戦う」と宣言したが、本当は宣言したようには考えていないように思えて憂慮していたので、そのことを神保修理だけには知らせておいた。案の定慶喜公より「お供せよ」との厳命が夜遅くあった。公に従えば残された家臣に義を欠く。家臣に義を立てれば、公に対して義を失う。二つをとることはできなかった

  • 〈徳川慶喜、江戸に入る〉

    一月十二日(2月5日)徳川慶喜、松平容保らは品川に上陸し「海軍所」に入った。多分、人目をしのぶため、午前三時頃であったろう。暁七ツ(午前四時頃)には江戸城登城前の海軍奉行・勝海舟は使者に、直ちに「海軍所」へ出立するよう伝えられている。

  • 〈会津藩、大阪を撤退〉

    会津藩士らは負傷者は旧幕軍海軍の軍艦で、他は陸路でそれぞれ江戸をめざすこととなった。その胸中はいか程のものであったろうか。一年おきに交代とあっても文久二年に「京都守護職」の会津藩士として奮闘し、孝明天皇の絶大な信頼を得た会津藩、それが薩長の陰謀によって京を去る思いは無念さで一杯であったと思われる。

  • 〈徳川慶喜、秘かに大阪城を脱け出す〉

    六日、午後十時頃、突然、松平容保は徳川慶喜より呼び出された。「東帰する、供せよ」との厳命が下されたのである。主戦論者の桑名藩藩主松平定敬も同様であったという。 容保は引き止めようと説得するも慶喜は東帰することを変えなかった。藩士に告げるいとまもなく、大阪城を出ることになってしまっていた。

  • 〈鳥羽・伏見の戦い四日目〉

    奮戦を続けた幕府陸軍歩兵隊、伝習隊、会津藩、幕臣京都見廻組、桑名藩士、新選組らは疲労と悔しさ等々の入り混じった面持ちでの撤退であったと想像できる。難攻不落といわれた大阪城での一戦をの思いを胸に秘め、また大阪・天保山沖に停泊中の、当時日本随一の海軍があり、共に西軍への攻撃を図れば勝利すると信じていたのである。

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