2021年2月
龍安寺(りょうあんじ)は、臨済宗妙心寺派。1450年(宝徳2年)、細川勝元が徳大寺家の別荘を譲り受け、妙心寺の義天和尚を開山とし禅寺に改めた。石庭として有名な方丈庭園(史跡・特別名勝)は三方を築地塀に囲まれた枯山水の平庭で、「虎の児渡しの庭」とも呼ばれる。二方を油土塀で囲み、東西30メートル、南北10メートル余りの長方形の白砂の庭に15個の石を5・2・3・2・3に配置した名庭。方丈の東庭には龍安寺垣があり、その横に秀吉が賞賛したと伝わる侘助椿がある。また、その東庭を隔てた東北隅にあるのが茶室「蔵六庵」である。1994年(平成6年)12月、「古都京都の文化財」として、「世界遺産条約」に基づく世界…
大覚寺(だいかくじ)は、真言宗大覚寺派の本山。876年(貞観18年)、嵯峨天皇の離宮嵯峨院を寺院に改め、歴代の天皇や皇族が住持された門跡寺院であり、嵯峨御所として知られる。境内にある宸殿(重要文化財)は徳川2代将軍秀忠と浅井長政の三女であるお江の間に生まれた東福門院和子が女御御殿の宸殿として使用していたもので、狩野山楽筆の牡丹図・紅梅図(重要文化財)などがある。また、嵯峨天皇をはじめ後光厳・後花園・後奈良・正親町・光格の各天皇の写経が勅封心経として奉安されており、般若心経写経の根本道場として、心経信仰が盛んに行われている。 境内の東側に広がる大沢池(名勝地)は、平安時代、唐(現在の中国)の洞庭…
柊社(ひいらぎしゃ)は比良木社とも呼ばれ、左京区一乗寺青城町にある氏神社。室町中期の1438年(永享10年)に建立されたと伝えられる。古くは藪里の社でありましたが、八大神社に合祀され、現在は一乗寺住宅自治会の氏神社として祀られています。 この社がある修学院から一乗寺へ抜ける縦の疎水沿いの路地は桜の頃並木が美しく、観光ガイドには載らない絶好の散策スポットと言えるでしょう。
平安神宮(へいあんじんぐう)は、1895年(明治28年)に平安遷都1100年を記念して市民の総社として鎮座。桓武、孝明両天皇を祀る。平安京大内裏の正庁「朝堂院」を模した応天門、大極殿など朱塗りの建築が美しい。神苑(名勝)は約3万平方メートルの池泉回遊式庭園で、東、中、西、南の4苑にわかれ、それぞれの四季の花が見事。10月22日の時代祭行列は京都の伝統工芸技術を披露するお祭りで、創建とおなじ1895年に始まり、現在では京都三大祭りのひとつに数えられる。江戸時代、安土桃山時代、室町時代、吉野時代、鎌倉時代、藤原時代、延暦時代の計8つの時代の装束や道具を身にまとい、当時の人々の営みと京都の繁栄を再現…
竹中稲荷神社(たけなかいなりじんじゃ)は、吉田神社の末社で、吉田山の上に広がる。宇賀御魂神(うがのみたまのかみ)・猿田彦神(さるたひこのかみ)・天鈿女神(あめのうずめのかみ)の三柱が祀られている。創建等の由緒は不明。古記によると、在原業平の住居が「神楽岡稲荷神杜の傍にトす」とあり、天長年間(824年~834年)にはすでに社殿があったことがうかがえる。春は桜、秋は紅葉の隠れた名所でもある。
法然院(ほうねんいん)は、鎌倉時代の初め、専修念仏の教えを説き、のちに浄土宗の開祖と仰がれた法然房源空が弟子の住蓮・安楽とともに六時礼讃を勤めた旧跡で、1680年(延宝8ねん)知恩院第38代門主万無上人が再興した。浄土宗系単立寺院。方丈の襖絵(重要文化財)は、狩野光信筆。境内には池泉と砂盛があり、善気水が湧く。墓地には谷崎潤一郎や河上肇ら著名人の墓が多い。通常は、山門から白砂壇(びゃくさだん)を経て本堂までの参道を開放しているが、方丈庭園や伽藍の公開は春と秋、それぞれ1週間の限定公開となる。
慈照寺(じしょうじ)は、臨済宗相国寺派。1482年(文明14年)、足利義政が営んだ山荘東山殿を寺に改めた。1489年(延徳元3年)に上棟した銀閣(国宝)は宝形造り二層の楼閣。上層は潮音閣。下層は心空殿。庭の北にある東求堂(国宝)内部に同仁斎があり、四畳半茶室の原型といわれる。仏間は阿弥陀如来像、義政公像を安置。下段の庭園は池泉回遊式庭園(特別名勝・特別史跡)で、本堂前の銀沙灘、向月台の二つの砂盛りが印象的で、江戸時代初期からつくられたといわれる。上の庭園はお茶の井庭園ともいい、昭和6年に発掘した岩石群は枯山水庭園である。1994年(平成6年)12月、「古都京都の文化財」として、「世界遺産条約」…
吉田神社(よしだじんじゃ)は、859年(貞観元年)藤原山蔭が奈良は春日の神を勧請し、平安京の鎮守神にしたのが起こり。室町期吉田兼倶が吉田神道を唱え権威を高めた。本殿は慶安年間(1648-52年)再建の春日造。境内に重要文化財の「斎場所大元宮」ほか摂社、末社が多数。節分の当日を中心に前後三日間にわたり執行される節分祭には全国より数十万人の参拝者でにぎわう。主な祭儀は疫神祭、追儺式、火炉祭がある。
本満寺(ほんまんじ)は、日蓮宗本山。1410年(応永17年)近衛関白道嗣の嫡子、玉洞妙院日秀が今出川新町に朝廷より敷地三万坪を与えられて創建。広宣流布山、本願満足寺と号す。1536年(天文5年)の天文法華の乱後、12世日重の代、1539年(天文8年)関白近衛尚道の外護により現在の地に移り、後奈良天皇の勅願所となる。1751年(宝暦元年)35世日鳳が8代将軍徳川吉宗の病気平癒を祈り、以来、将軍家の祈願所ともなった。本尊は十界大曼陀羅。境内の枝垂桜は樹勢もよく美しい。
上善寺(じょうぜんじ)は、千本今出川の交差点近くに位置する、天台宗の寺院である。山号は千松山。貞観5年(863年)、慈覚大師により創建されたが、文禄3年(1594年)に北区鞍馬口に移転した際、元の場所に再興されたのが当地の上善寺となります。
法金剛院(ほうこんごういん)は、平安時代の初め、右大臣清原夏野の山荘を没後寺とした律宗の寺院。1130年(大治5年)待賢門院の御願により当院を建立。円覚上人によって再興。丈六の本尊阿弥陀如来坐像(重要文化財)は定朝様、平安時代後期の代表的な仏像である。庭園(特別名勝)は平安末期の池泉回遊式浄土庭園である。
白峯神宮(しろみねじんぐう)は、明治天皇が1868年(明治元年)、讃岐の白峯陵から崇徳天皇の御霊を遷し創建された旧官幣大社。のち明治6年に淳仁天皇も淡路陵から御霊を遷し合祀。御祭神の崇徳天皇は「保元の乱」で、淳仁天皇は「藤原仲麻呂の乱」で、それぞれ配流となった。 境内地主社の「精大明神(せいだいみょうじん)」は蹴鞠の神様として知られ、それが転じて球技、サッカーの守護神として崇められています。また、七夕の神様として有名です。 境内には、黄緑色の花弁で知られる鬱金の桜(黄桜)と、左近の桜(撫子)のほか、様々な霊木が植えられている。
真正極楽寺(しんしょうごくらくじ)は、永観2年(984年)、戒算上人が延暦寺の常行堂に安置された阿弥陀如来像を神楽岡に移し開創。応仁の乱のあと各所を転々、元禄6年(1693年)、現在地に落ち着いた。 広々とした境内には、通称である「真如堂」を指す本堂(重要文化財)や、三重塔、総門、元三大師堂、鐘楼堂(この四棟は府指定文化財)などが建ち並んでいる。 東山を借景にした「涅槃の庭」や和風モダンな「随縁の庭」、秋の紅葉も見事。
2021年2月
「ブログリーダー」を活用して、menehuneyasさんをフォローしませんか?
指定した記事をブログ村の中で非表示にしたり、削除したりできます。非表示の場合は、再度表示に戻せます。
画像が取得されていないときは、ブログ側にOGP(メタタグ)の設置が必要になる場合があります。