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龍安寺(りょうあんじ)は、臨済宗妙心寺派。1450年(宝徳2年)、細川勝元が徳大寺家の別荘を譲り受け、妙心寺の義天和尚を開山とし禅寺に改めた。石庭として有名な方丈庭園(史跡・特別名勝)は三方を築地塀に囲まれた枯山水の平庭で、「虎の児渡しの庭」とも呼ばれる。二方を油土塀で囲み、東西30メートル、南北10メートル余りの長方形の白砂の庭に15個の石を5・2・3・2・3に配置した名庭。方丈の東庭には龍安寺垣があり、その横に秀吉が賞賛したと伝わる侘助椿がある。また、その東庭を隔てた東北隅にあるのが茶室「蔵六庵」である。1994年(平成6年)12月、「古都京都の文化財」として、「世界遺産条約」に基づく世界…
大覚寺(だいかくじ)は、真言宗大覚寺派の本山。876年(貞観18年)、嵯峨天皇の離宮嵯峨院を寺院に改め、歴代の天皇や皇族が住持された門跡寺院であり、嵯峨御所として知られる。境内にある宸殿(重要文化財)は徳川2代将軍秀忠と浅井長政の三女であるお江の間に生まれた東福門院和子が女御御殿の宸殿として使用していたもので、狩野山楽筆の牡丹図・紅梅図(重要文化財)などがある。また、嵯峨天皇をはじめ後光厳・後花園・後奈良・正親町・光格の各天皇の写経が勅封心経として奉安されており、般若心経写経の根本道場として、心経信仰が盛んに行われている。 境内の東側に広がる大沢池(名勝地)は、平安時代、唐(現在の中国)の洞庭…
柊社(ひいらぎしゃ)は比良木社とも呼ばれ、左京区一乗寺青城町にある氏神社。室町中期の1438年(永享10年)に建立されたと伝えられる。古くは藪里の社でありましたが、八大神社に合祀され、現在は一乗寺住宅自治会の氏神社として祀られています。 この社がある修学院から一乗寺へ抜ける縦の疎水沿いの路地は桜の頃並木が美しく、観光ガイドには載らない絶好の散策スポットと言えるでしょう。
平安神宮(へいあんじんぐう)は、1895年(明治28年)に平安遷都1100年を記念して市民の総社として鎮座。桓武、孝明両天皇を祀る。平安京大内裏の正庁「朝堂院」を模した応天門、大極殿など朱塗りの建築が美しい。神苑(名勝)は約3万平方メートルの池泉回遊式庭園で、東、中、西、南の4苑にわかれ、それぞれの四季の花が見事。10月22日の時代祭行列は京都の伝統工芸技術を披露するお祭りで、創建とおなじ1895年に始まり、現在では京都三大祭りのひとつに数えられる。江戸時代、安土桃山時代、室町時代、吉野時代、鎌倉時代、藤原時代、延暦時代の計8つの時代の装束や道具を身にまとい、当時の人々の営みと京都の繁栄を再現…
竹中稲荷神社(たけなかいなりじんじゃ)は、吉田神社の末社で、吉田山の上に広がる。宇賀御魂神(うがのみたまのかみ)・猿田彦神(さるたひこのかみ)・天鈿女神(あめのうずめのかみ)の三柱が祀られている。創建等の由緒は不明。古記によると、在原業平の住居が「神楽岡稲荷神杜の傍にトす」とあり、天長年間(824年~834年)にはすでに社殿があったことがうかがえる。春は桜、秋は紅葉の隠れた名所でもある。
法然院(ほうねんいん)は、鎌倉時代の初め、専修念仏の教えを説き、のちに浄土宗の開祖と仰がれた法然房源空が弟子の住蓮・安楽とともに六時礼讃を勤めた旧跡で、1680年(延宝8ねん)知恩院第38代門主万無上人が再興した。浄土宗系単立寺院。方丈の襖絵(重要文化財)は、狩野光信筆。境内には池泉と砂盛があり、善気水が湧く。墓地には谷崎潤一郎や河上肇ら著名人の墓が多い。通常は、山門から白砂壇(びゃくさだん)を経て本堂までの参道を開放しているが、方丈庭園や伽藍の公開は春と秋、それぞれ1週間の限定公開となる。
慈照寺(じしょうじ)は、臨済宗相国寺派。1482年(文明14年)、足利義政が営んだ山荘東山殿を寺に改めた。1489年(延徳元3年)に上棟した銀閣(国宝)は宝形造り二層の楼閣。上層は潮音閣。下層は心空殿。庭の北にある東求堂(国宝)内部に同仁斎があり、四畳半茶室の原型といわれる。仏間は阿弥陀如来像、義政公像を安置。下段の庭園は池泉回遊式庭園(特別名勝・特別史跡)で、本堂前の銀沙灘、向月台の二つの砂盛りが印象的で、江戸時代初期からつくられたといわれる。上の庭園はお茶の井庭園ともいい、昭和6年に発掘した岩石群は枯山水庭園である。1994年(平成6年)12月、「古都京都の文化財」として、「世界遺産条約」…
吉田神社(よしだじんじゃ)は、859年(貞観元年)藤原山蔭が奈良は春日の神を勧請し、平安京の鎮守神にしたのが起こり。室町期吉田兼倶が吉田神道を唱え権威を高めた。本殿は慶安年間(1648-52年)再建の春日造。境内に重要文化財の「斎場所大元宮」ほか摂社、末社が多数。節分の当日を中心に前後三日間にわたり執行される節分祭には全国より数十万人の参拝者でにぎわう。主な祭儀は疫神祭、追儺式、火炉祭がある。
本満寺(ほんまんじ)は、日蓮宗本山。1410年(応永17年)近衛関白道嗣の嫡子、玉洞妙院日秀が今出川新町に朝廷より敷地三万坪を与えられて創建。広宣流布山、本願満足寺と号す。1536年(天文5年)の天文法華の乱後、12世日重の代、1539年(天文8年)関白近衛尚道の外護により現在の地に移り、後奈良天皇の勅願所となる。1751年(宝暦元年)35世日鳳が8代将軍徳川吉宗の病気平癒を祈り、以来、将軍家の祈願所ともなった。本尊は十界大曼陀羅。境内の枝垂桜は樹勢もよく美しい。
上善寺(じょうぜんじ)は、千本今出川の交差点近くに位置する、天台宗の寺院である。山号は千松山。貞観5年(863年)、慈覚大師により創建されたが、文禄3年(1594年)に北区鞍馬口に移転した際、元の場所に再興されたのが当地の上善寺となります。
法金剛院(ほうこんごういん)は、平安時代の初め、右大臣清原夏野の山荘を没後寺とした律宗の寺院。1130年(大治5年)待賢門院の御願により当院を建立。円覚上人によって再興。丈六の本尊阿弥陀如来坐像(重要文化財)は定朝様、平安時代後期の代表的な仏像である。庭園(特別名勝)は平安末期の池泉回遊式浄土庭園である。
白峯神宮(しろみねじんぐう)は、明治天皇が1868年(明治元年)、讃岐の白峯陵から崇徳天皇の御霊を遷し創建された旧官幣大社。のち明治6年に淳仁天皇も淡路陵から御霊を遷し合祀。御祭神の崇徳天皇は「保元の乱」で、淳仁天皇は「藤原仲麻呂の乱」で、それぞれ配流となった。 境内地主社の「精大明神(せいだいみょうじん)」は蹴鞠の神様として知られ、それが転じて球技、サッカーの守護神として崇められています。また、七夕の神様として有名です。 境内には、黄緑色の花弁で知られる鬱金の桜(黄桜)と、左近の桜(撫子)のほか、様々な霊木が植えられている。
真正極楽寺(しんしょうごくらくじ)は、永観2年(984年)、戒算上人が延暦寺の常行堂に安置された阿弥陀如来像を神楽岡に移し開創。応仁の乱のあと各所を転々、元禄6年(1693年)、現在地に落ち着いた。 広々とした境内には、通称である「真如堂」を指す本堂(重要文化財)や、三重塔、総門、元三大師堂、鐘楼堂(この四棟は府指定文化財)などが建ち並んでいる。 東山を借景にした「涅槃の庭」や和風モダンな「随縁の庭」、秋の紅葉も見事。
上賀茂神社(かみがもじんじゃ)は、正しくは賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)といい、京都最古の歴史を有する一社であり、かつてこの地を支配していた賀茂氏の氏神を祀る神社として、賀茂御祖神社(下鴨神社)とともに賀茂神社(賀茂社)と称される。いずれの正式名称にも賀茂氏の「賀茂」が付くが、通称としてなぜ「賀茂」と「鴨」と分かれているかは諸説ある。 平安遷都後は皇城の鎮護社として、京都という都市の形成に深く関わってきた。毎年5月15日には、賀茂神社両社の祭事である賀茂祭(通称・葵祭)で有名である。 厄除、八方除、電気の守り神、必勝の神として信仰を集めている。本殿・権殿は共に流造の典型として国宝に指…
松ヶ崎大黒天(まつがさきだいこくてん)は、「妙」「法」の送り火で知られる松ヶ崎東山の「法」の下にある。正式には山号を松崎山、寺号を妙円寺という。1616年(元和2年)日英上人が創建の際、法華経の守護神として別棟にまつったのが大黒さん。「松ヶ崎の大黒さん」として親しまれている、都七福神の一つ。日蓮宗。1969年(昭和44年)の火事で無事だったので、「火中出現の大黒天」とも呼ばれる。60日に1回の甲子(きのえね)の日にご開帳。諸願成就・寿福円満の御祈祷が執行される。寺の境内と周囲はモミジが生い茂り、GWのころは青もみじが、晩秋から初冬にかけ美しい紅葉が堪能できる穴場である。 寺の境内をはじめ、寺が…
実相院門跡(じっそういんもんせき)実相院は、左京区岩倉にある仏教寺院。宗派は単立(包括宗教団体に属さない独立した宗教団体)、開山は静基。本尊は不動明王。門跡寺院の1つである。岩倉実相院門跡とも呼ばれる。かつては天台宗寺門派三門跡の一つであった。 京狩野、江戸狩野の障壁画を有す。本堂と四脚門は御所の旧殿と御門を移築したもの。 裏山を背にした池泉式庭園と表の石庭は趣を全く異とする。その2つをむすぶ通路のかえでが室内に映りこむ様子は「床もみじ」「床みどり」と呼ばれているが、現地での撮影は禁止されている。
寂光院(じゃっこういん)は、天台宗の尼寺で、594年(推古2年)、聖徳太子の創建と伝える。平家滅亡後の1185年(文治元年)、平清盛の娘、建礼門院が入寺、仏門の生涯を送ったことで知られる。平成12年5月9日の火災で本堂全焼、平成17年6月再建された。旧本堂は桃山時代の様式からなり、内陣に飛鳥、藤原様式を残していた。旧本尊(重要文化財)も火災によって大きく焼損したが像内の納入品は無事であった。宝物殿に一部が展示されている。境内は、『平家物語』の「潅頂の巻」、「大原御幸」に描写されている。 京都バス、大原停留所からの道中はのどかな田園が広がり、途中の大原温泉に立ち寄るのも良いだろう。
三千院(さんぜんいん)は、左京区大原にある、四季折々の美しい風景が広がる名刹で、天台宗五箇室門跡の一つ。最澄(伝教大師)が比叡山に庵を結んだ時、東塔南谷に一堂を建立したのが起こりと伝わる。往生極楽院に安置されているのは、国宝の阿弥陀三尊像。昼なお暗い苔むす庭園が美しい。
今宮神社(いまみやじんじゃ)は、平安期以前から疫病鎮めに疫神を祀った社があったといわれる。994年(正暦5年)、都の悪疫退散を祈り、御輿を造営し紫野御霊会を営んだのが今宮神社の起りである。現在の社殿は1902年(明治35年)の再建。「阿呆賢さん」と呼ばれる神占石は叩くと怒るともいわれ、撫でて軽くなれば願いが叶うとされる。四面仏石(現在は京都国立博物館に寄託)などが有名。4月第2日曜のやすらい祭は京の三奇祭の一つ。徳川五代将軍綱吉の生母 桂昌院の氏神社として、良縁開運「玉の輿」のご利益を願う人で賑う。東側参道の両脇に建つ2件の〈あぶり餅〉屋が名物。
光悦寺(こうえつじ)は、江戸初期の文化人・本阿弥光悦が1615年(元和元年)徳川家康から与えられたこの地に草庵を結び、法華題目堂を建てたのが起こり。光悦の死後、寺(日蓮宗)となった。境内には、大虚庵など7つの茶室がある。竹を斜めに組んだ垣根は光悦垣と呼ばれる。 秋は特に美しく、公道から参道の紅葉に染まる石畳は風情があるが、ここから山門まで観光客が滞留し、拝観せずに立ち去ることもしばしばで、近年は拝観時間まで参道は封鎖され、紅葉期は警備されている。
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