歴史を学んで、情景を思い浮かべれば、いつでも、どこからでも旅はできる。 隙間時間を使って、旅をしませんか? ※歴史好きの私の自由研究まとめブログです✧٩(ˊωˋ*)و✧
「魏元忠と高戩が、陛下の悪口を言っていました」と、張兄弟が武則天に訴えた翌日、魏元忠、高戩、張兄弟は武則天に呼び出されました。 張兄弟は「証人がいます」と言…
2020年9月から、毎日書いている私の完全趣味ブログ(笑) 三日坊主の私が毎日書き続けることができたのは、皆様の温かい「いいね」やアクセスのおかげです✨ 本年…
武則天は、張兄弟の弟・張昌期を、雍州(長安市)長史に抜擢しようと思いました。 一方、武則天は、張兄弟に対する高官の目が気になっていました。 そこで、魏元忠に…
吉頊が、張兄弟に、「李顕を後継ぎにするよう、陛下に進言してください」とアドバイスしたことを知った武三思。 『皇太子・李顕復位』 唐が突厥の侵攻に悩んでいる間…
702年、武則天は74歳となりましたが、武則天の張兄弟に対する寵愛は深まるばかり。 張兄弟が武則天の愛人になる前、薛懐義が寵愛を受けていましたね。 『愛人・…
698年、武則天は、吉頊を天官次郎(吏部次官)同鳳閣鸞台平章事任命し、宰相としました。 そして、狄仁傑の推薦で、右台中丞・魏元忠を鳳閣侍郎(中書省次官)同鳳…
体調を崩しても、張兄弟を溺愛する武則天。 高官は武則天に不満を募らせ、民は武則天を嘲笑しました。 右補厥・朱敬則は死を覚悟して、武則天に、「張兄弟をそばに置…
700年、77歳になった武則天は、体調を崩し始めました。体調を崩しても、張兄弟に対する寵愛は変わらず、張兄弟を中心とした宴会に度々顔を出していました。 毎日…
狄仁傑は河北道安撫大使に任命され、河北一帯の戦後処理を任されました。 狄仁傑が戦後処理を無事こなし、河北一帯が安定した頃、閻知微は默啜の要求書を持って、武則…
699年、皇太子・李旦が、「皇太子の座を兄・李顕に譲りたい」と申し出ました。 武則天の逆鱗に触れ、均州に流されていた李顕。 『中宗の即位と廃位』 武后が予想…
唐が突厥の侵攻に悩んでいる間に、一大事が起きます。 なんと、武則天の後継ぎ候補の武承嗣が病死したんです。 邪魔者を排除し、武則天の愛人・張兄弟に取り入って、…
698年に、唐と和平協定を結んだ突厥。 『默啜の裏切り』 696年、自ら契丹征伐を申し出、武則天に任された突厥出身の黙啜。 『吐蕃、契丹、突厥の同時侵攻②』…
697年、李恪の長子・李仁が武則天を訪ねました。 李恪が自害を命じられたにもかかわらず、李仁は嶺南の産品を献上して、武則天のご機嫌をとり続けていましたね。 …
索元禮や周興、来俊臣を処刑し失った武則天は、新たな人材を探していました。少し前に、姚崇から「来俊臣の密告は、ほとんど作り話でした」と明かされた武則天は、左遷…
薛懐義が武則天の愛人になった時、薛懐義をそばにおくために出家させ、名前を変えましたよね。 『愛人・薛懐義』 千金公主に紹介された馮小宝の虜になった武太后。 …
張兄弟の父・張希緘は既に亡くなっていたため、母・韋阿臧は寡婦でした。 武則天は、韋阿臧に、豪邸と豪華な衣装、化粧品を渡しました。 そして、韋阿臧が楽しめるよ…
武則天には、薛懐義や沈南璆という愛人がいましたね。 『愛人・薛懐義』 千金公主に紹介された馮小宝の虜になった武太后。 でも、馮小宝は武太后と孫ほど年齢が離れ…
李昭徳に続いて、来俊臣の次の標的となったのは、武則天の親族です。 かねてより、来俊臣は、収賄の他、他人の妻を奪取するなどしていました。ある日、「左補厥・喬知…
来俊臣は昇進させてもらえるように、虚偽の密告を繰り返しました。来俊臣の嫉妬に気付いた武則天は、来俊臣を落ち着かせるために、来俊臣を司僕少卿(公用の馬や輿を担…
697年、明堂尉・吉頊が、「太師の座を狙っていた」として、箕州(山西省晋中市)刺史・劉思禮と洛州(河南省東南部)録事参軍・綦連耀を密告しました。 来俊臣は…
突厥と和平協定を結び、捕虜となっていた田帰道は解放されました。 都に戻るなり、田帰道は「軍をすぐに整えて、突厥を征討するべきです」と言い、閻知微は「和平を保…
696年、自ら契丹征伐を申し出、武則天に任された突厥出身の黙啜。 『吐蕃、契丹、突厥の同時侵攻②』 契丹の首領・李盡忠から、「『周軍が攻めてきたら、私達契丹…
契丹が平州(河北省秦皇島市)に侵攻してきたため、武則天は狄仁傑を魏州(河北省邯鄲市)刺史に任命して、赴任させました。 狄仁傑が魏州に着くと、前魏州刺史・独孤…
契丹の首領・李盡忠から、「『周軍が攻めてきたら、私達契丹は降伏するつもりだ』と伝えるように」と言われて解放された唐軍の捕虜。 捕虜は幽州(北京市)で、曹仁師…
封禅を終えて間もなく、吐蕃が再び攻めてきました。 武則天は、王孝傑を粛辺道行軍大総管に、婁師徳を副総管に任命し、吐蕃を征討するように命じましたが、洮州(甘粛…
唐に度々侵攻していた突厥。695年、武則天は武威軍総管・王孝傑に突厥を征討するように命じ、突厥を大破しました。長年、吐蕃の侵攻に悩まされてきた武則天は、よう…
明堂が完成し、武則天が皇帝の座に就くサポートをした薛懐義。 薛懐義は坊主にも関わらず、総大管に任命されて、吐蕃や突厥と戦っていましたね。 『対東突厥、対吐蕃…
左遷された李昭徳の代わりに、宰相となった周允元。 しばらくして、周允元は、「現在の宰相は無能です。李昭徳が権力を握っていたのも無理はありません」と上奏しまし…
李昭徳に邪魔されて、手柄を挙げられなかった豆蘆欽望。豆蘆欽望は李昭徳に不満を抱きましたが、実は、豆蘆欽望の他にも、李昭徳を良く思っていない臣下がいました。 …
「軍事を拡大するために、(京官九品以上の者は)月俸2ヶ月分を献金してはいかがでしょうか」と上奏した豆蘆欽望。 豆蘆欽望の上奏を、武則天が褒め称えると、姚璹が…
当時、宰相の座には、李昭徳、豆蘆欽望、韋巨源、陸元方、蘇味道、杜景倹、姚璹、楊再思などが、就いていました。 宰相の中で、武則天から最も信頼されていたのは、内…
「李旦が臣下と一緒に謀反を企んでいる」と密告がありました。 李旦の周りには権力を握っている高官もいなければ、権力を握ろうと企んでいる高官もいません。李旦が謀…
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