地球上には70億を超す人類がいます。その人々には「誰でも平等に普遍的に他と共通性を持ちつつ、独立した尊厳を保つ」存在として認める世界の三大宗教があります。キリスト教・イスラム教、そして仏教です。世界人口の概ね3人の内1人はカソリック+プロテスタント+東方正教会系などのキリスト教徒、5人に1人はイスラム教徒、20人に1人が仏教徒です。外にもヒンズー教、ユダヤ教などが世界に分布しています。さて「真実の教浄土真宗」と親鸞聖人は仰せになったのです。私の素朴な疑問は「浄土真宗が真実ならば、なぜ世界には違う宗教の人々が多いのか」ということでした。真実は不実を許さない、または真実が不実を包み込み同化させる働きを持っているのではないか、と。では真実であるということを証明するには「すべてが真実」という命題を論証することで成立する...悪人でも成仏させていただく教えが真実
一般論を根底として出来事について考えると仮説が出てきます。この仮説を検証して一般論化して行くのが演繹法です。ですから一般論は正当に正常な論理を持たなくてはなりませんし、正常・正当であるから一般論として誰でもが前提とする論理となるわけです。では「結論」ということについて考えてみましょう。それは最後に導き出されるか、または最後に総まとめとして述べられるものだというのが一般論ではないでしょうか。では釈尊の結論は何だったのでしょう。『大般涅槃経』には次のように述べられています。「この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。」と、有名な自帰依自灯明、法帰依法灯明が書かれています。また「さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう、『もろもろの...釈尊の結論は何だろう
私の疑問の解決方法は結論から推測することです。演繹法的といえるようです。ご承知のように演繹法とは、Aが起こればBとなるということがわかっている「一般論」を使って「出来事」の「結果」を推測します。私の疑問は親鸞聖人の『教行信証』に「それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり。」という表現されていることです。「真実」と断定されているのは何故なのかということなのです。宗教における「信」は、他者から見れば根拠がない事柄に執着しているように感じられる面があっても、それを信じる者にとっては絶対なものでありましょう。恋は盲目というように宗教にも盲信としか言えないような、一般常識では偽であり邪である判断されるようなものが、現実世界に存在していることは論を待たないでしょう。したがって「真実の教」ということは宗教だから真...結論から推定し始めます
小冊子にしようとこのブログを90歳を迎えられる高校2~3年の担任先生にプリントを送って、読んでもらいました。「難しいね~。君はわかりやすい話や言葉を使うのに」このことを胸にして、再度ブログに取り組んでみます。初心に帰る
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