教会のミサに行けなくなってからもう一年と9か月が過ぎてしまった。ミサに与りたい。告解も聖体拝領もしていない。教会に行って、聖母子像に向かって祈りたい。聖櫃にましますイエズス様に会いたい。きっとイエズス様は会いにきた者をただでは返すことはなさらないから。おお、愛する子よ、貴重な時間を私のために使ってくれてありがとう。私を慰めに来てくれる人は少ないのだ‼️どうか、また、私を慰めに来ておくれ!!と、言って恵みを与えてくれるに違いない。やはり、ライブミサはミサの幻影に過ぎない。もう、ライブミサはリアルタイムでは見なくなってしまった。ミサは、自分の意志で、自分の足によって行き、与ることに意味があると思う。朝、眠い中、必死に頑張って起き、または、やりたいことなどを我慢して、神様のために時間を使う事に意味があると思う。聖堂は...聖櫃にましますイエズス様を慰めたい
日々、神を愛するカトリック信者ならこう思いながら、生活するのを余儀なくされているのだと思う。ワクチンを打つべきか、否かも考え、そして、神のみ旨は打つべきなのか、そうではないのかを絶えず自問する日々が続く。TVでは感染者の数が絶えず流れ、私達の不安を煽り、打たないことが悪いことのような感じさえもする。しかしながら、ネットにおいてはワクチン派と反ワクチン派に分かれ、情報の共有を絶えず発信している。政府もワクチンに頼りっきりで、接種もなかなか追いついていない。経済に関しても今年は持つかもしれないが、来年は悲惨になるという人もいる。結論からいうと誰が総理になってもコロナは続く。天災を含むすべての災いは神が起こしたという人がいるが、それは違う。人間が災いを招いた結果なのだし、神を無視し続けている結果が今の状況なのだ。神自...神は私達をどうするおつもりなんだろう?
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