ある時、ふと寝てしまった。夢の中で自分の今までの人生のいろいろな出来事がまるで映画のように映し出されていた。いつも自分は独りで歩いていた。ある時、惨めだった自分に主が膝を屈め寄り添ってくれた。その時、自分は主に付いていくと決めた。その十数年後・・・・自分は洗礼を受けてカトリック者になった。カトリック者になったのに、なった前も後も苦しいことばかり。主よ、私はあなたの子になったのにあなたは私を愛しては下さらないのですか?メッセンジャーたちには現れるのに、こんなにあなたを愛している私の所にはどうして現れては下さらないのですか?すると主は答えた。子よ、あなたの目の前を霊的に見なさい。私はあなたのそばにいつもいる。あなたの祈りをいつも聞いているそして、天にてあなたに会える日をいつも楽しみに待っている。😄😄😄😄😄😄😄😄😄😄...足跡の自分バージョンを作ってみました
カタリナ・エンメリックの本。聖ファウスチナの日記この本はいつくしみについてイエズス様がファウスチナに教えている。最も小さい霊魂の会イエズス様がコンソラータに教えたもの聖テレーズの信仰の継承者聖テレーズが自分で書いた自叙伝この本により聖テレーズが世界中に広まった。あまり大聖ヨゼフ様について書いた本はないが、この本は大聖ヨゼフ様を知るのには最高の本です。カトリック者が読む定番。みどりのスカプラリオの成り立ちがわかります。みどりのスカプラリオをもらった、または持っているけど・・・・という方は必読。聖ピオ神父は大聖人です。なぜ、そう呼ばれるのか!この本を読めばわかります。お勧めの本5めんどくさいんで一気に紹介
もう、カバーもなくボロボロになってます(笑)この本修道者向けと言われていますが、これも定番ですね。今は、改訂版で昔の言い回しとは違っているようですが、私は昔のが好きだなぁ。お勧めの本その4キリストにならいて
この本も有名です。聖母マリアの信心が正しい形で行われているかを確かめる事ができます。お勧めの本その3聖母マリアへのまことの信心
カトリックブログであまり本の紹介がないもんで、どういう本を読んでいいかわからない方の為に。自分が読んだ本を紹介。その1はマリアワルトルタの聖母マリアの詩(上)ほか、全10冊この本は絶対に外せない。賛否両論あるのは承知。でも外せない。お勧めの本の紹介その2聖母マリアの栄光
イエズス様ではありますが、違っているとの指摘がありました。前記事のコメントを参照してね😃でもいいんじゃないですか、イエズス様だと思って祈ることは、悪いことじゃないし。イエズス様の御絵だってごまんとある。メジュゴリエも怪しいのかもしれないし、でも、メジュゴリエに聖母が出て、人々が聖母に祈るんならいいと思う人間です。だましたり、商売したりする人は嫌だけどね。リデンさんは30年くらい前に一度もらった本を読んだだけ。ほほ覚えていない。たまたまYouTubeで見て、良いこと言っているなぁと思って聞いてた程度。信じるとか、信じないとか、別にリデンさんを信じているわけじゃない。メッセージ信者はとっくに卒業してますよ。リデンさんの言っているずっと向こうにいるイエズス様を信じている。リデンさんが何か悪いことしてきたとは思えないし...前記事に対して
昔、誰だろうー?聖人の小さい時の姿かな?なんて思ってた。でも、イエズス様だった!!みんなー!礼拝せよ!イエズス様だよ!!聖シャルル・ド・フーコーが見た幼きイエズス様
ブログ村やめて、ブログだけと思いきやランキングは外せることはわかったがブログ村から抜け出すことが出来ない。ブログの新着記事が載ってしまうので再度戻した。ログアウトしたら、ブログ自体が行方不明にならないか?と思い、ログアウトできない。で、続けてます(笑)いやいやほんとブログ村ランキングにため息しか出ないなぁ。ブログ村のランキングって何なの!上位だからって、何か心に響くものある?読んでいて空しさを感じるものが多い。昔からなんでこんなブログが上位?裏工作しているんじゃないの?ってブログが一つある。題は書かないけれど、コピペブログ。カトリックブログとしては絶対にゆるせん。中には下位でも良いブログはある。私が尊敬してやまないのは、リセットさんという方が書いているブログだ。数多くの病気に悩まされながらも、働き続けてカトリッ...あー、ってため息が出る。
自分の家は仏教の曹洞宗。自分だけカトリック。家族の理解は得られていないし、得られる環境ではない。一生得られないんだろうなと。今の世の中、特に成人洗礼で家族で一人カトリックになったという人少なくないんじゃないかなと。神様がそうしたんだからしょうがない。家族の無理解は他人の無理解以上に自分を苦しめてきた。家族からの迫害。でも、昔は権力のために家族であっても殺しあいをしていたんだからなぁ。今読んでいる本だとルワンダの虐殺が酷いよな。カトリックは、神様と聖母を大切にしているイメージがあるかもしれないけれど、しっかりと先祖も大切にしているし、死者も大切にしている。カトリックは、特に煉獄の霊魂への祈りを忘れない。煉獄の霊魂は、地上における私達の罪への傾きや、罪への後悔、神様への思いをすごくわかってくれている人たちだから。だ...カトリック者は家族で自分だけ
最近、あるブログを見てふと思ったことがあった。ブログ村からの撤退。ふと、自分が空回りしているのかなぁ?と感じた時があったもんで。まぁ、そこそこ読んで頂いているのはわかるし、感謝もしています。でも、何の反応もないのは何故なんだろうか?と思っていたりします。最近、見ていてくれた人が洗礼を授かった。神様、ひとまずこれでいいでしょう、と。まぁ、読んでくれている人はいるけど、読んでいる程度なものということかな。まぁ、ブログ村は撤退するけど、ブログは続ける感じでいこうかなと。時期は決めてないけど、ブログ村から消えていたらそういうこと、という事なんで。ヨハネの雑記~最近のこと
つづき。堅信を授かるとは「キリストの兵士」となることだと書いたが、どうやら今のカトリック教会は必ずしもそうだとは考えていないらしい。自分が受けた時はそうだったし、今でもそう思っている。ましてや堅信の講座も受けていないし、教わってもいないから昔の教えは自分のなかでは続いているのです。じゃこれも違うのか?堅信をうけた者はカトリック教会では大人として扱われる。つまり、一人前のカトリック者だということだ。聖霊の導きのもとに信仰生活を歩んでいくことになる。確かに一人前のと言われたらちょっと引いてしまう部分もあるが、何かのタイミングで"証"をしなければならない時がくるかもしれない。最悪な場合でも一人になることはない。確かに人間側からは捨てられる時がくるかもしれない。でも、私達の信仰はなんと教えているか、考えてほしい。私達に...その覚悟があるか!!part2
堅信を受けるとは聖霊の恵みを受けると共に「キリストの兵士」になることを意味する。「キリストの兵士」とは、どんな不利な状況におかれても、一人になってあざけられてもキリストの側につくことを言う。あなたたちにその覚悟はあるのか?その覚悟があると答えた人を神友(とも)と呼びたい。なぜ、こんな事を書いたかというと、コロナであまりにも口から手での拝領に移る人が多いからなんです。たしかに、ミサが再開され聖体拝領できる人はいる。教会は、根拠のないにも関わらず、ご聖体の拝領は手でして下さいとうながす。いままで頑張って口で拝領してきた人の努力はなんだったのか?と思いました。今、教会で口で聖体拝領する人はごくわずか。回りからみても、司祭から見ても違和感をかもしだしている。でも、主のために我慢してやってきた。主を守るために。コロナに便...その覚悟があるか!!
8カ月ぶりに教会にいきました。所属教会ではないので、ミサには与れませんでなので、午後にふらっと聖体訪問と祈りに行ってきました。いつくしみのチャプレットとコンソラータの祈りをしてきました。この教会は以前と変わったところがあります。聖母子像の横にいつくしみのイエズス様の御絵を飾ってあることです。いままで、入った教会でいつくしみの御絵があった教会はありませんでした。イエズス様は聖ファウスチナにおっしゃいました。「この御絵はまず、お前たちの聖堂に飾られるべきである。」と。私たちは神様の正義により救われることはありません。神様の憐れみよって救われるのですから。今回、本当に教会に入れただけでも感謝です。いつか、また、ミサに与りたい。きっと昔とは違った心が生まれることでしょう。8カ月ぶりに教会にいく
ベネディクト16世教皇様が危篤と聞いてから、コンクラーベから信者の前に出てきた場面を思い出してしまった。神から託された世界中のカトリック信者の全責任という重責を背負う覚悟を決め、教皇という地位に着いた。その重荷はその地位についたものでなければわからないと思う。いろいろ問題もあったからなおさらその重荷はさらに重くなったことだろう。ましてや辞意に際しても同じだったろう。各時代の教皇は全て同じだったろうと思う。そう考えると、やはりその究極はイエズス様が背負った十字架になる。神だから全能だからという理由だけで背負えるものではないと思う。イエズス様は、ゲッセマニの園で御父に祈った。出来うるならこの杯を取り除いてください、と。でも、み旨を受け入れ、受難を受け入れた。実際にイエズス様の背負った十字架は、肩の骨が出るほどに重か...背負うについて考える。
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