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2019/11/23

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  • 3/31 生きることのルールを知ろうぜ

    生きているのに、生きることのルールを知らない人が多すぎる、と私は思う。 この場合のルールというのは世間的な一般常識でもなければ、国家の憲法の話でもない。 それは、どのアイテムをゲットしたら自分のレベルがアップするかとか、自分はそもそも何タイプなのか、どのダンジョンを攻略すべきなのか、どんな仲間を集めたら良いか、という話である。 ゲームをする上では、ルール確認は必須なのに、現実(というゲーム)ではそれをしない人がほとんどである。それをしないから人は苦しむことになる。 サッカーをしなきゃいけないゲームで、剣を振り回してたら、そりゃあいつまで経っても点数は入らないし成長もしないから、苦しいのは当たり…

  • 3/30 汝自身を知れ~宇宙が存在するのは誰のせい?~

    何かのせいにするのは本当に楽なことだ。人のせい、社会のせい、国のせい、そして自分のせい。何かのせいにできれば、責任が生まれる。あとはその責任を取るか、取ってもらうかだけで事が済むし、何より、取れないとなればそれを責める「正当な」理由が持てる。 時間列の話でもこれは同じである。現状は過去のあの出来事のせいだ。この不安は未来を憂いてのことだ。現状をすぐに過去や未来と結び付け、責任を作り出しては、何かに負ってもらう。 人はどうも原因というものがないと気が済まないらしい。それもその筈だ。人生とは即ち価値探しの旅に他ならないのだろう。つまり自分が生まれた原因を人はどうしても知りたいのだ。 「なぜ当社に志…

  • 3/25 常識とは何か

    「死はない、故に恐れられない」 「幸せは生活条件ではなく、自覚次第である」 「好きなことをしたらいい、人間は元々自分の好きなようにしか生きられないのだから」 上記の事は今の現実では「綺麗事」に分類される。私にとってこれらは、理論上構造上の「ただの事実」であるのだが、それを認めてくれる人は滅多にはいない。 これは人が星空や自然を見て「綺麗」と感じる、と言うことと同じ状況である。ただの存在を何がしかの価値であるかのように思うのは、普段の人々の生活が汚れているからに他ならない。 1+1がもし2にならないのなら、それは自身の計算の仕方に問題があるのであって、決して数学の方の問題ではないはずだ。 それと…

  • 3/24 評価なんてクソくらえ

    評価というのは、比較によって生まれる。 人が「〇〇がかっこいい」という時、そこには「と比べて」という括弧書きが省略されている。 比較によって生まれる評価、ということは比較対象が失われれば、必然的にその評価の価値も失われるということである。 だから評価というのはくだらないものである。評価は所詮人間が生きていくために、分かったつもりになれる、ラベル貼りの作業でしかない。 しかし、人間はこのラベルを貼られるのが大好きなのである。かっこいいや可愛いと言われて喜ばない人間は少数であろう。 人は他人からどう見られているか、という事を酷く気にする。特にそれが親しい人ともなれば尚更である。 なぜ気にするか、そ…

  • 3/23 存在は価値ではない

    存在はただ存在する。そこにはいかなる目的も意味もない。故にそこに価値はない。いや価値は問えない、というべきであるか。 人間が何かものごとに抱く感情が好き、嫌い、無関心の三種類であるように、世界にも「価値がある」「価値がない」「価値でない」ものの三種類がある。存在者はどれも「価値でない」ものに分類される。 価値でないもの、というのは即ちただの事実に過ぎない、ということである。 1+1=2 であることには如何なる価値もない。それはただの事実として、存在している。1+1=2が良いか悪いかなんてことは人は問わないであろう。 世界には三種類のものがある、と言ったけれど、実はこれも厳密には違っている。なぜ…

  • 3/22 世界を存在させた者との戦い

    我々の体は明らかに与えられたものである。いや体だけでは無い。「自意識」とてそうである。 存在は必ず、過去形受動態である。この世の何もかもは明らかに「存在させられた」ものであろう。 何にもよらずに存在するという事態は人間には想像不可能である。全てのものは相対して存在する。「A」と「A以外」があるからこそ、我々はAにAという名前をつけるのである。 そのため、人間は必ず「宇宙をつくった者」や「世界を存在させた者」を想定してしまうのだ。ビッグバンしかり、神しかり、そこは些細な違いである。 ところが「世界を存在させた者」が「ある」と言い切ってしまえば、その「世界を存在させたもの」も存在として世界の中に存…

  • 3/18 「我思う、故に我はあるのか?」

    「彼が立っている」と人は言う。この主語述語の並び、もうあまりに馴染みすぎて、ここに違和感を覚える人は多分あまりいない。 だが、私にはこれがすごく変に感じるのである。この言い方だとまるで「彼」と「立っていること」が分離可能な様ではないか。 あらゆる述語を封じ込められても、主語が存在可能であるような言い方である。 果たして人には、寝てもいない、座ってもいない、立ってもいない、話してもいない、聞いてもいない、食べてもいない…その他全ての動詞を除いて「ただ存在している」ことができるだろうか。 答えは明らかにNOであろう。「人そのもの」なんてものはどこにもないのである。人は生きている間必ず「何かをしてい…

  • 3/14 幸福からは逃げられない

    何かによって幸福であることは、不幸である。なぜならその何かを失えば簡単に事態は覆るからだ。 しかし、この世の全てのものは何かによって存在しているのも、また事実である。何にもよらずに存在するということは不可能である。 問題は幸福の存在根拠をどこに置くかだ。世の大抵の人はそれを円満な家庭、裕福な暮らし、健康な身体に依拠させる。 だからそれらを得られないと自分は不幸であると思う。人はそも幸福とは何かということを考えたことがないのだ。 幸福は境遇に比例する、とほとんどの人は思っている。だからこそガムシャラに働き、より良い生活条件を得たいと考えるのだろう。 しかし、今を幸福と思わない人間が果たして幸福に…

  • 3/13 内容である我々が成すべきこと

    形式、つまりは内容を取り囲む枠は存在するのだろうか。前回は心についての話をした。心という枠は幻想で本当にあるのは感情の動きだけであると。 今回は、その「枠」というものに焦点を当てて考えていきたい。 まず枠は存在すると言えるかである。例えば椅子であるもの、椅子でないもの、それらをはっきり二分することができるだろうか。 椅子を座れるものと置き換えて考えてみると、ちょっとした段差なども椅子に含まれてしまう。また足が一本折れたりなどして、座れなくなった椅子はもう椅子に含むことはできないのだろうか。 今度は椅子を焼却する場面を想像してみる。椅子から煤や灰に変わる時、それは一体どの時点で椅子とは呼べなくな…

  • 3/11 心とは何か

    心というものはどこにあるのだろう。いや、心というものは本当にあるのか、そこから問を始める必要性があるのかもしれない。 何かを見て感動する。いわれの無い言葉を浴びせられて傷つく。そういう「反応」によって我々は心というものの存在を確信する。 心とは反応そのものであるのかもしれない。心というものが傷ついたから、我々は悲しくなるのでは実はない。悲しくなった自身の状態から「心がそう感じたから」という理由を後付けしているのであろう。 心という入れものがあって、そこに様々な感情が入り浸っているのでは無い。様々な感情そのものが心なのである。 我々が感情を感じるのではない。感情が我々を包んでいるのである。いや我…

  • 3/8 問のない人生を送りたい

    「私は何者か」「人生とはなにか?」「死とは何か?」 これらの問を口に出すと、人は決まって「どうしたの?なんか病んでる?」「嫌なことでもあった?」と訪ねてくる。 私は甚だ疑問なのだ。突如として存在させられた「私」とは何か。存在するとはどういうことか。それらが不明なまま、なぜ人々は何事もないかのように生活することが出来るのか。そっちのほうが病んでいるのでは無いだろうか。 「あなただって生活しているでしょう?」否、生活しているのは断じて「私」などでは無い。認識されるものは全ては対象であり、私ではない。私は認識の主体としてのみ存在する。よって自身の存在は絶対に認識不可である。 「知りえない」だからこそ…

  • 3/4 (2) 永遠に一線を画す間柄

    「賢者は愚者に学び、愚者は賢者に学ばず。」という言葉がある。ビスマルクという人の言葉であると言われているそうな。 愚者と賢者の違いというのは、実は「学ぶ姿勢」だけではないだろうか。 愚者は「信じる」。賢者は「考える」。 その為愚者は自身がより信じられるものを正しいとする。それは大抵が自分とアイデンティティの近いものである。 自分と同じ国、同じ地元、同じ性別、同じ世代、同じ職場、同じ金銭感覚、同じ趣味、一緒に過ごした年月の長さ。 愚者の間では、親近感=正しさ なのである。愚者は考えたことがないので、そもそも考えることに切実とした必要性を感じていない。 考えることの必要性は無知を知ることによって生…

  • 3/4 死ぬ事さえもかすり傷

    生きてりゃどうにでもなる。死ぬこと以外かすり傷。生きててなんぼ。命あっての物種。 人はどうしてこう生に価値を置くのだろうか。生の何を、死の何を人間は知っているというのか。 死にたい、死にたくない。人はまるで死んだことがあるみたいな言い方を平気でする。死を望めると思う、その傲慢さにもの申す人を私は見た事がない。 「生きていれば良いことは沢山あるよ」と人は慰める。なぜ死ぬことが良い事では無い、と人は決めつけるのか。 生きているのはなんだ!?一体誰が死ぬというのだ。死とはなんだ。 葬式の時、人は一体何に悲しんでいる。その人の身体が冷たくなって、動かなくなっただけなのに、人は死んだと決めつける。そして…

  • 3/3 ネガティブモード解除ルーティン

    最近すごーく嫌なことがあった。ネガティブモードがオンになり、考え事が手につかなくなってため息ばかり。 そんな自分にはっと気づき、私は「ネガティブモード解除ルーティン」を実行した。 おかげで今はまた「いつも通り」の私に復活である。頭のキレも回復してきた。好調である。 人間生きてりゃ良いここも悪いこともある、とは使い古された常套句であるが、本当にその通りである。だがここで大事なのは、悪いことを良いことの対極におかずに、良い事の一部と解釈することだ。 「悪いこと」とは「今の自分にとって」という酷く限定されものである、ということを知り、物事の方が悪いのでは無く、悪いと捉えるから悪いのだと認識することが…

  • 3/1 読書を始めたいと思っているそこのあなたへ

    ブログを書いていると、次の言葉が出てこない!という時がある。 私のブログは全部が下書きなしに、その場の勢いにまかせて指をはしらせているので、急に失速することは多々ある。 結局何が言いたいの?となることも。だから私はそういう時は素直に言葉の摂取に徹する。つまりは読書である。 読書は本当にいい。新たに視点が増えるのはもちろん、今まで自分が考えていたことが一層深く定着してくる。 読書はその文章をなぞる、と言うよりは、私は文を読んでいる時の自身の思考をなぞっている。 私の読書のスピードは驚くほど遅い。3行読んでは止まって、1ページ読んでは止まって、1冊読み終わるのに優に1、2ヶ月はかかる。下手したら半…

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