消化や心臓の動き、筋肉の動き、どれ一つとってもそこに「自分」は介入していない。 なのに人は身体は自分の思い通りであるかのように振る舞う。少なくとも手足は自分で動かしている(ように見える)からだろうか? 怪我を負って、治癒するのも自分でないし、病気を治すのも意思するだけでは無理である。 加えて、四肢を動かしているのも本当に自分か怪しいところである。だって赤ちゃんの時、その身体を動かしているのは明らかに「自分」では無かった。 そもそも身体を「動かす」という表現自体が変だ。身体は別にほっといたって、呼吸してるし、脈だってうってる。 身体はいつも「ひとりでに」動いているでは無いか。なぜ四肢となると話は…
前回は評価についての話をした。評価とは恐れの蓋なのだと。今回はその評価についてもう一歩踏み込んでみたい。 人はよく言う「〇〇だから好き」なのだと。かっこいいから好き、可愛いから好き、面白いから好き。 だが、実はそうでは無いのである。これは恋愛の衝動的なあの感じを思い浮かべたらすぐに分かるであろう。 本当に「かっこいいから好き、可愛いから好き、優しいから好き」なのだとしたら、その人よりもっとかっこいい人がいたら、もっと可愛い人がいたら、もっと優しい人がいたら、自分はもうその人を好きでいる理由は無くなってしまう。 しかし実際にはそうでは無い。誰かに恋い焦がれている時、人はもうほぼその人しか見えてい…
可愛い!綺麗!かっこいい!素敵!面白い!凄い!上手!美味しい!良い! ダサい…汚い……キモイ…つまらない…馬鹿…怖い…危ない…まずい… 世の中〇〇を評価する言葉で溢れている。今回は評価するとはどういう事なのか?を見ていきたい。 例えば〇〇をかっこいいと思う。「かっこいいと思える」ということは、即ちその人が「かっこいいとは何か」をまず理解しているということである。 当たり前である。かっこいいという語がどういう意味か分からない日本語母語話者はいないだろう。そして誰もがその意味で話していると人々は確信しているはずだ。 つまり「かっこいい」という語は誰にとっても同じ意味である、と我々は知っている。 と…
人生どう考えても、どう歩んでも、 結局死ぬまで生きている。 どの時代に生まれようが、どの性別に生まれようが、どの人種に生まれようが、絶対に逃れることの出来ないこの「枠」。 これが「人間」の枠である。ところで、この枠を捉えている「私」は果たして人間なのか。 明らかに違う。「今のところ」認識という精神の動きが(一部の)人間の脳にしか宿っていない、と言うだけである。 人間とはホモ・サピエンス以上の言葉ではない。そこに哀愁を漂わせたり、何か動物を指す意味以上で使用するのなら、それは誤りである。 精神と人間とは明らかに別物である。人間が精神を所有しているのではない。精神が人間というものを認識しているので…
路地裏で毛繕いしている猫、住宅街にひっそり佇むこじんまりとしたスナック、潮がかおる海辺での朝日、クラシックが流れている地元の喫茶店。繁華街で路上ライブしている夢みるバンドの音。 そういうものを思い浮かべると、私は「あぁいいな〜」と思う。心の底から、その思いを堪能する。 ところが、実際にそれらを経験した時、私は「うーん、なんか違う」という気持ちになる。それはそれらが理想的(形式)なものとは違った、という失望からくるものと、そこに実際に「私」がいるということという二点が問題である。 妄想のそれらの場面にも実際に「私」は現れる。だがそれはこの1996年に生まれ、2020年まで生きていて、フリーターを…
「私」とはドーナッツの穴である。 最近ミスドでポン・デ・リングをリピートしているせいか、そのような考えがふと頭におりてきた。 ドーナッツがなければ存在しない。ドーナッツが存在することによって初めて「私」は存在する。 はて、そしたらこの場合のドーナッツとは何を指しているのだろうか。意識?認識?言葉?宇宙?様々な単語を当てはめてみたが、一番しっくり来たのは肉体であった。 肉体が個体をつくる。われわれは肉体がなければそも、「全」であった。肉体というものが「全」を「一」にした(ように見える)。 「私」というドーナッツの穴は、ドーナッツによって生まれた幻想である。ドーナッツなしに、ドーナッツの穴は認識で…
最近とても活用していたアプリをアンインストールした。私は自身の居場所を削除した。 そのアプリはTwitterみたいな自身の思ったことをつぶやけるというものだったが、匿名性が非常に高く、投稿ごとに別人になれるものであった。 私はそのアプリで、主婦になってみたり、彼女もちになってみたり、50代のおじさんになってみたり、同性愛者になってみたり、JKになってみたりした。 なぜ、そんなことをしたかは自分でもよくわからない。というか多分理由なんてなかった。 そこは実に居心地がよかった。2分前の投稿と真逆な言論を唱えても、まず異議を申し立てられることは無い。 そのアプリには、自己の連続性から来る言葉への責任…
このバイトを始めてから、満員電車に乗るようになった。知らない人と知らない人があれだけ密集して、同じ空間に閉じ込められる。 この異様性をもはや大東京で唱えることは出来ない。肌が触れ合い、時には相手の呼吸や心拍ですら感じる距離感にいながら、その人達は私にとっては全くの赤の他人であり、電車を降りたらもう一ミリとて思い出すことは無い存在である。 他人同士がこれだけ平気で物理的距離をつめられるのは、何かおぞましいことではあるまいか。 人が一般に人と近しい距離になる時、それは必然的に相手への安心と親密さを表す。物理的距離感と心的距離感は一致しており、見ていても大変微笑ましいものである。 しかし、満員電車の…
信頼、その字の通り、信じて頼る。信じるとは何か。 「あの人は信頼できる」というセリフ、それはつまり、あの人は私の期待を裏切らない、という意味でしかないだろう。相手に何かを期待する、そして自身の期待通りに相手が動いてくれたら、その人は信頼できる。 逆の立場で考えると、少しばかり図々しくは思わないだろうか。勝手に期待されて、勝手に失望されて、そして信頼できないというレッテルを勝手に貼られる。信頼とは本当にこのようなものだろうか。 例えば、何か約束事を交わして、相手がそれを果たさなかったとして、それで失われるような信頼なら、そも人は相手の何を信じていたといえるだろうか。 もし、本当に相手を信じていた…
はぁぁスッキリしたここ何日かすごく嫌みったらしい文章が続いていたの気づいてくれた人はいますかね。まぁいつも嫌みったらしいんですけどね… 私の文章が嫌みったらしいのは普段溜まってる鬱憤を文章にのせているからです。で、普段何に鬱憤を感じているかといえば、もちろん思考です。楽しさと鬱陶しさはいつも背中合わせ、仕方なし。 考えれば考えるほどに、周りの考えていない人が目につく。そして、あぁ考えていないから行き詰るんだよ、と思ってしまう。だがそれを本人に伝えても何の意味もないということを知っている。 だからこそ、私はこんなところで誰に向けてでもなくねちねち文章を書いているのである。 結局わかる人にしかわか…
〇〇するのっていけない事ですか? 最近巷でよく耳にする言葉である。この問い方私的にはとても面白いなと感じている。だって「〇〇するのってどう思いますか?」ならまだその行為に疑問がある程度の問いかけであるが、「〇〇するのっていけない事ですか?」という問は問以前に答えが出ているではないか。 それなのに、人は問う。つまり自身でもういけないと感じている。おそらくそのいけなさの感じを誰かに否定して欲しくて、問を発するのであろうが、自身の思いを止められる他人など存在しない。よってこれは全くの茶番である。 そして、同じくいけなさを感じてはいるけど、否定したい人が引き寄せられ「いけないことじゃないよ」というお互…
これまで沢山の文章、いや独り言をここに書き残して来たれど、実のところ私の生き様はと言うと、全く自身の書いたものと反している笑。 もはや生き様とすら呼べない。普通に悩むし、普通に死にたいし、普通に働きたくないし、普通に後悔もしている。だがそれでええやんけ、とも思っている。正しい言葉は誰が言おうと正しい。 デブが超絶痩せるテクニックを紹介した所で、およそ耳をかす人はいないだろう。しかし痩せていて、プロポーションも抜群の人から同じ方法が語り出される時、人はそれを大いに信じる。 受動的に生きている人は、自己防衛の為(本人は意図せずに)「人」という単位で物事を判断する。その方が楽だからだ。この行為は危険…
人間は本質的に孤独である。なぜなら世界にはそも「私」しかいないからだ。そしてその孤独の治癒を求めて、人々は自己を顕示し、理解者を求める。 ミュージシャンは作曲という行為によって、作家は言葉を綴ることによって、「普通」の人々は誰かの悪口を言うことによって、また誰かの好きな物を好きになることによって…… 癒えぬ孤独を抱えた人々は兎角、評価されたい、共感されたい、認められたい。 そしてそれを得られないと知れば、人は自信喪失という手段を使い、自己を閉じ込める。 私は「ダメ」だから認められない、「ダメ」だから評価されない。まるでダメでない自分なら誰もに認められるかのように言い、逃げ道をつくる。 或いは逆…
言葉は全て嘘である。なぜなら人は最初から語る必要など少しもないからだ。 言葉とは神の余興にして娯楽である。世界が世界を物語的に語る為のものだ。 語るということは、二次的な行為である。 例えば、人が「〜したい」という。なぜ人は言うのだろうか。〜したいなら、すればいいのである。語る必要性など少しもない。しかし人はそこに一拍おいて、まず語るのである。 〜したいという人ほど、それをしていない。語るという行為は常に現実とは逆の方向を向いている。 「私は嘘なんかつかない。」 本当に嘘をつかない人は、そんなことは言わない。自分が嘘つきか正直者かなど、まずその人は気にしていない。気にしていないという、まさにそ…
結局自分とはなんなのだろうか。 存在は全てが過去形の受動態である。つまりは「存在させられた」。そして意識を所有するものだけがそれを自覚できる。 それなら、存在しているのは明らかに「私」ではないだろう。存在させられた「これ」を認識しているところの存在こそ「私」である。 人は疑いもせずに「自分」が生きていると思う。それは多分身体があるからだ。痛みは感じるし、見るのも聞くのも嗅ぐのも話すのも、そういったこと全部が、この身体を通してなされている。だから人が「私」を示すときには、自分の指で自分の顔を指す仕草をする。 しかし、やはり文法的には「私の身体」なのだ。「私は身体」では無いのである。身体はどこまで…
気持ちは目には見えない。当たり前である。誰かをこよなく愛していても、愛しているだけでは伝わらない。それは言葉や行動によって示されて初めて相手に伝わるものである。確かにその通りである。しかし、ここで留意していただきたいことがある。それは気持ち=言動ではないということである。 無論、われわれには他人の気持ちを個々の言動から推し量るしかすべはない。その人の心を直接的に覗いたり、テレパシーで伝えてもらうことなど、当然だができはしない。だからこそ、言葉というものが生まれたのであろう。 だが、言葉というものは思いとはリンクしない。時には自身の思いとは真逆の言葉でさえ簡単に口をついて出てしまうものである。「…
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