さあ、いよいよお正月、もうすっかり年の瀬である。 年月の単位、それを不思議に思う人は多分あまりいない。ごく当たり前に、一日、一ヶ月、一年と過ぎていき、何十年したら、人間一人の「生」が終わる。 日が昇っては沈み、月が満ちては欠けてゆく、そして輝く星達が消えては戻ってくる。 人間は長い年月をかけ、太陽が回っているのではなく、私たちの星が回っているということに気が付き、月も満ち欠けしているのではなく、光の当たり方で違って見えるだけだと発見した。 これは科学という「物語」である。科学とはフィクションとして楽しまれるべきものであったはずだ。 しかし、科学は現代の我々の前に、「絶対的正しさ」として現れる。…
お金が無い、最近酷くお金に困っている。でも何故だろう、すごく満たされている。初めてこんな窮地に立ったからだろうか。ここから見える景色に凄まじく興奮する。 お金が無いのは、なんて楽しいことなんだろう。自己の欲望と戦い、自制心と戯れ、日々を送る。あぁなんだかすごく「生きてる!」 生まれて初めて、魂の形をなぞっているようである。つまり「世界に一人だけしか存在していない、1996年に生まれ、2019年現在まで生きている、この私」の形である。 お金がある時には決して気づかれていなかった、「自己性」が顔を出し始めたのである。 魂の癖を垣間見た時、たまらなく嬉しくなってしまうのだ。「あぁ私ってこんな人だった…
言葉を発する。人はなんの為に言葉を発するのだろうか。 大昔、それはやはり生存の為であろう。その頃は言葉と言うより、音と言った方がいいのかもしれない。人は生きるため、敵から逃れるため、危機であることを仲間に知らせたり、仲間の居場所を確認したりしていたのだろうと想像する。 それは今の動物にも認められるだろう。群れをなす動物は何かしらの音を発し、仲間と連携する。 しかし人間が、精神が所有する言葉の本質がそこにないのは明らかだろう。今日において、特に日本においては生存の為に言葉を発する人はもはやいないと言ってもいい。 人は生存の前提で、生存以上の何らかの目的をもって言葉を発している。目的を持てる、とは…
死は悲しい。身近な人が亡くなるのは悲しいことだ。そんなの当たり前だ。ここで「なぜ悲しい?」なんて疑問を投げかけようものなら、のけものにされるのは目に見えている。 だが私はやはり問いたいのだ、なぜ人は悲しむのか。そして死とはなんなのか。 人が死ぬ。つまりは冷たくなって、身体が腐敗してゆく。日本ではもうすっかり火葬だけである。死体というのがよっぽど不気味なのであろうか、それとも人は死自体を恐れているのだろうか。とにかく死を遠ざける。この世にいるのは生きている人だけで、死人はあの世なのだ。 今や死とは完全に別世界の話である。死ぬのは果たして誰なのか。自己の死というのを人は上手く考えられない。それは死…
人は往往にして、それがある時にはありがたみを知らず、ない時には「なぜないんだ!理不尽だ!これさえあればうんぬん」と嘆くものである。 ある時はそれが当たり前であり、決して意識されることなく、その存在は水面下に静かに佇んでいる。その水面下の様々な存在が自分を創り、自分に安心感を与え、自分を守ってくれていることなど、人は滅多には気づかない。 人がそれに気づく時はたいてい、それが失われた時である。しかし、人はそれがあったありがたみを思い出すより先、それを失った理不尽さに嘆くのである。 存在とはかくものである。人は「自分」でさえありものであるということをしばしば忘れる。死にたいとはまさにその忘却によって…
現実。現実とはなんだろうか。 人はなぜこの自分たちの生きているここが現実と信じて疑わないのだろうか。 例えばゲームの世界。人を殺したりするゲームがある。あの人達は痛みを感じないのだろうか。あの人達は自分というものを所有していないのだろうか。 「何言ってんの?ゲームの世界じゃん」と人は言う。 しかし我々の生きるこの現実が、ゲームの世界では無い保証が果たしてあるのだろうか。我々が「つくられた」存在でない保証がどこにある? そんなものはないだろう。我々はただここが現実と信じているだけだ。信じている以上の確実性などありはしない。現実を現実たらしめているのは、われわれの信仰心にほかならない。 だが、やは…
世の中騒々しい。端的にそう感じる。 どうして耳には音を遮断する機能がないのだろうか。 目には瞼が、鼻は息を止めて、口は開閉によって、外的なものを遮断できるのに、耳にはその機能がない。音は否応なしに、無遠慮に耳に侵入してくる。 聞かないということが許されない。 この耳の機能は、危険を知らせる、つまりは生存のためのものだろうと想像する。 だが、今や「生存」など当たり前である。人は死を理不尽とすら思うようになった。 そんな世の中では、耳のこの構造はむしろ厄介である。「聞くに値しないもの」を聞かされるのは、私にとっては酷く苦痛である。 それに、そもそも生存したいなんて思ってもいない。だから余計に耳を厄…
人生それ自体の不思議、宇宙なんてものが存在する不思議、そして存在が存在する不思議。 これらの事を一瞬思い浮かべるだけでも、私はなにか、突風に吹かれたような、出口のない暗いトンネルの前に立たされたような、そんな気持ちになる。 自分が誰かなんてことはどうでもいい、社会がどうなろうとどうでもいい。誰がどうなろうとどうでもいい。 この圧倒的不思議の前には、およそ全てが霞み、やがて消えうせる。そして気づく。それを認識しているところの自分(?)だけが存在していることに。宇宙と自分とはここに来て完全に同じである。 そしてまた気づく。これらは全てが「言葉」であったと。 我々は当たり前のように言葉によって何かを…
今ここ私 の三回目。 前回と前々回で二つの世界について紹介しました。そして、あるようでない、ないようである、そういう微妙な存在の今ここ私は、 二つの世界の衝突が原因だと言いました。 今回は前回話した、その二つの世界の衝突にのより生まれた第三の世界、つまり我々の生きる現実がどうなっているのか、それについて具体的に話していこうと思います。 世界の中の私、私の中の世界。この二つの世界の衝突により、現実は「……の中の私の中の世界の中の私の中の世界の中の……」というサイクルに陥りました。 神は言われた。「光あれ」と。こうして光があった。という有名な聖書の一節があるように、存在は(言葉による)認識で存在す…
前回は人生の存在形態は「今ここ私」しかないと書きました。今回はこれを逆の立場から考えてみたいと思います。 つまり「今ここ私」なんか「ない」ということです。 いや、ふざけてるとかではなく、本気で考えるとどうしてもこう言うことになりかねないのです。 今回も一つずつ考えていくことにします。 まずは「今」。時間のどこを切りとっても、それは「何年、何月、何日、何分、何秒」であって、どこにも「今」なんて見当たらないのです。「これが今だ!」と指し示すことが出来るものなど存在しないことに気がつくはずだ。全てが今だから、今は存在しないということに、どうしてもなってしまうのです。 そして次に「ここ」。これも同様に…
人生の存在形態を改めて考えると、どうも時制的には「今」位置的には「ここ」、そしてそれらを認識しているところの「私」しか存在していないようである。 これ、ちょっと考えてみるだけでもすごく面白いと思いませんか? 順番に一つずつ触れていこうと思います。 まずは「今」。われわれにとって時間は「今」以外には存在していない。だがそれにもかかわらず、一人一人には「確実に」過去は存在している。それは何故かと言うと、どの時点もそれがその時点にとっての「今」だったからである。だが「まさに今」しかやっぱり存在していないのだ。しかしその「まさに今」も一秒たてば、「ただの今」に戻り、「まさに今」から思い出されるだけの「…
不思議を考える、つまりは不思議の掘削作業。これはこれで凄く楽しいのだけれど、最近はなんだか、不思議を感じることの方に好きが傾いている。 考える。それは対象(宇宙=私)を知ろうとする愛であり、努力である。言葉は悪いがこの愛は努力だけにかなり労力がいる笑。愛することが労力なのではなく、愛それ自体、自身の中に流れてもらうには、「私」をかなりクリアにする必要がある。 それはもちろん善への歩で心地よい反面もあるが、私としては、そればっかりやってるのは少しだるい。だから最近はすっかり億劫になってしまった。 その代わりに私は不思議を感じる方にすっかり目覚めてしまった。代わりというか、まぁ性質は同じなんですけ…
働くこと。以前の私にとって、それは心のノイズ以外のものでは無かった。疲れる、しんどい、理不尽、それにより生まれる自身のマイナスの感情、そして得られるのは、お金という「ウソ」だけ。 なぜ働かなければならないのか、さっぱり分からなかった。「だって生きていくためだもの」と人は言う。じゃあなぜ生きる?そもそも生きるとは何か? 私の働く意欲はこれらの問いによりことごとく砕かれていた。そもそも生きたいとも思っていなかったのだから、働くことに関して意味など見いだせるはずも無かった。 だが、考えが変わった。いや見方が変わったと言うべきか。 私は大きな流れに身を任せる。という原点をすっかり忘れていた。人生の辛い…
死。それは何を意味するだろうか。 ある人が目の前で、横になってそのまま動かなくなって冷たくなったとする。 するとその人はいつ死んだのだろう。医師が死亡診断書を書いた時であろうか。じゃあその場に医師がいなかったら?後に、解剖医や専門家の判断で決まるのだろうか。 はて、専門家や医師はどこを見て、その人が死んだと判断するのだろう。心臓が動かなくなった時だろうか。脳が動かなくなった時であろうか。はたまた専門知識をふまえて、総合的に判断するのだろうか。 さぁ、「死」はどこにある? 死んだこともない人が、どのようにして死を定義すればよいか。 果たして、死はそのように、はっきりと境があるものだろうか。 人が…
私は日頃妄想するのが大好きである。 もはや妄想していない時などない。 常に、たらればの思考実験ばかりをしている。 「私」が二人存在したら? 他人がロボットだったら? 人は「そんな妄想ばっかりして、現実をみなさい」という。 この言葉の意は妄想ばっかりしても、現実では何の役にも立たない。いい加減自分の人生について、地に足をつけた計画を立てろということだろうか。 しかし、私はまさにその現実とは何かについて考えているのである。我々がこうして「普通」に生きている「日常」とはそもなんであろうか?それを考えることなしに、計画などたてられるはずがあるまい。 と、言っても通じた試しはない。 いい加減将来を見つめ…
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