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2019/07/07

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  • 『摩訶止観』抄訳 その8

    『摩訶止観』巻第一の上 「序分縁起」の段より 止観の明静であることは、まさに前代未聞である。 天台智者大師は、大隋開皇十四年四月二十六日より、荊州の玉泉寺において、一夏(いちげ・夏安居(げあんご)の期間・四月中旬から七月中旬ごろ)の期間に、朝と夕の二回にわたって講述された。しかし、熱意をもって語られたが、第七章七節の諸見境まで講述されたところで止められ、それ以降は語られていない。 ここで、川の流れの水をくんで水源を尋ね、香をかいでその元を知ろう。『大智度論』に、「私の修行に師匠はない」とある。また経典には、「(釈迦は)仏になる記を定光仏(=燃灯仏)から受けた」とある。『論語』には、「生まれなが…

  • 『摩訶止観』抄訳 その7

    『摩訶止観』巻第一の下 「六即に約す」の段より ◎六即について 六即によって真実を表わす(第一章「大意」の第一節「発大心」の第三項「是を顕す」に、「四諦に約す」「四弘誓願に約す」「六即に約す」の三目があり、その第三目)。 問う:(注:「問う」は原文にはない)初心が真実とするのか。修行の後の後心が真実とするのか。 答える:『大智度論』の燃える灯心の喩え(注:燃える灯心を無明などの煩悩に喩え、灯心を焼く焔をその段階に相応した智慧に喩え、やがて灯心が燃え尽きる時、悟りを得るとする)の通りである。真実は初心ではなく初心を離れず、後心ではなく後心を離れない。もし智慧と信心が具足していれば、一念はそのまま…

  • 『摩訶止観』抄訳 その6

    『摩訶止観』巻第一の上 「三種の止観」の段より (注:「◎三種の止観」の後半となる) 〇経を引用して述べる ここでは、漸次止観と不定止観とは置いて論じない。ここでは、経典によって、さらに円頓止観について明らかにする。 非常に深い妙徳に了達している賢首菩薩が、『華厳経』の中で次のように言っている通りである。「菩薩が生死において最初に発心する時、ひたすら菩提を求め、堅固にして動くことはない。その一念の功徳は深く厚く極まりない。それを如来が分別して、劫を経て説いたとしても、すべてを尽くすことができない」。 この菩薩は円法を聞き、円信を起こし、円行を立て、円位に入り、円の功徳をもって自在に荘厳し、円の…

  • 『摩訶止観』抄訳 その5

    『摩訶止観』巻第二の下 「感大果」「裂大網」の段より (注:『摩訶止観』の構成は、五略十広(ごりゃくじゅっこう)というが、全体は「十広」といわれる十章に別れ、その第一章が、「五略」といわれる全体を概略的に記した五節からなる「大意」である。そして、この五略の第三が「感大果」で、第四が「裂大網」であり、第五が「その4」で見た「帰大処」である。しかし、この十広の第八章にあたる「果報」と、第九章の「起教」と、第十章の「旨帰」は結局説かれておらず、欠落箇所となっている。また、文の中で、第八「果報」を概略的に説いたものが「感大果」であり、第九「起教」を概略的に説いたものが「裂大網」であり、第十「旨帰」を概…

  • 『摩訶止観』抄訳 その4

    『摩訶止観』巻第二の下 「帰大処」の段より ◎帰すべき境地 第五に、すべては絶対的な空(注:原文は「畢竟空」。絶対的な空を意味し、空でないことに相対しない空)であるという究極的境地(大処)に帰すために、正しい止観(注:原文は「是の止観」。是は正しいという意味)を説くことについて述べる。 手に膠(にかわ)を塗れば、物は付やすくなり、寝ている夢は覚めやすい。経論の文に執着して意義を狭めて解釈し、それを自ら正しいという。争うようにして瓦礫を取って瑠璃の珠だと言い、目の前のことや、言葉に明らかにされたことさえ知らない。これではどうして深い理法や秘密の教えを知ることができるだろうか。どうして迷わないこと…

  • 『摩訶止観』抄訳 その3

    『摩訶止観』巻第五の上 「観不可思議境」の段より 一心に十法界(じっぽうかい・地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天、声聞、縁覚、菩薩、仏という人が経るところの十種の世界)が具わっている。各一法界にまた他の十法界が具(そな)わっていれば、百法界である。一法界に三十種の世間(三種世間×十如是)が具わっていれば、それが百法界となると三千種の世間が具わっていることになる。この三千世間は一念の心にある。もし心がないとするならば、すべてはない。少しでも心があれば、そこに必ず三千世間が具わっているのである。 また、まず一心があって、すべては後に生じるとはいわない。また、まずすべてがあって、一心は後に生じるとはいわ…

  • 『摩訶止観』抄訳 その2

    『摩訶止観』巻第三の上 「止観の名義」の段より 第二章 止観の名義 第二章として、止観の名称を解釈する。止観についての大意はすでに説いた。ではまたどのような意義をもって、止観の名称を立てるのか。これには概略的に四つある。 一つめは相待(そうだい)であり、二つめは絶待(ぜつだい)であり、三つめは異名をあげて融合させ、四つめは三徳に通じさせる。 (注:今回は、四つのうちの最初の二つのみを現代語訳する)。 ◎相待止観 一つめの相待とは、次の通りである。相待止観における「止」と「観」には、それぞれ三つの意味がある。 〇相待の止の意味 まず、「止」には息(や)むという意味があり、停(とど)まるという意味…

  • 『摩訶止観』抄訳 その1

    『摩訶止観』巻第一の上 「三種の止観」の段より (注:見出しは訳者が便宜上付ける) 〇三種の止観 天台智者大師は南岳慧思禅師より三種の止観を伝えられた。一つは漸次止観(ぜんじしかん)、二つは不定止観(ふじょうしかん)、三つは円頓止観(えんどんしかん)である。 これらはみな、大乗であり、共に実相(じっそう・真理そのものの姿)を対象とし、同じく止観と名付けられるものである。漸とは、すなわち最初は浅く、次第に深くなるということである。梯子を上るようなものである。不定とは順番が前後することである。ダイヤモンドを太陽の光に照らせば複雑に輝くようなものである。円頓とは最初も最後も不二(ふに・二つであり同時…

  • 『摩訶止観』抄訳 はじめに

    『摩訶止観』を抄訳する理由 先に完訳した『法華玄義』は、『法華経』がすべての経典を総括するということが述べられている。そのため、その範囲は広大であって、その論理は、蔵教、通教、別教、円教のいわゆる「化法の四教」を中心として、緻密な、そして膨大な段落によって構成されている。ほぼ、その内容は完璧としか言いようのないものであり、天台大師以降の仏教の祖師たちは、天台教学に限らず、どのような学者であっても、『法華玄義』を避けて通ることができなくなっている。 一方、天台大師自身も、教学と修行実践は、車の両輪のようなもの、鳥の両翼のようなものであり、どちらが欠けても不可であると述べている。そこで、『法華玄義…

  • 開目抄 その17 (完)

    『法華文句』には、「問う。『涅槃経』では、国王に従って弓矢を持ち、悪人をくじけと明らかにされている。一方、『法華経』では、権勢から離れ、謙遜に慈善を行なえとあり、この剛と柔が互いに真逆となっている。これがどうして異なっていないことがあろうか。答える。『涅槃経』はひとえに折伏について論じているが、仏は同じく子を思う人々と共に住んでいる。どうして摂受がないことがあろうか。『法華経』はひとえに摂受について明らかにしているが、この経を誹謗する者の頭は七分に割れるともある。折伏がないわけではない。それぞれ一端を挙げて時に応じて記しているのみである」とある。『涅槃経疏』には、「出家も在家も、法を護ろうとす…

  • 開目抄 その16

    疑って言う:どうしてあなたが受けた流罪や死罪などを、過去の業の因縁だとわかるのか。 答える:銅鏡は色形を映し出すものである。秦王の験偽(けんぎ・嘘を見抜くこと)の鏡は現在の罪を映し出すという。仏法の鏡は過去の業の因縁を映し出す。『般泥洹経』には、「良き男子よ。過去において無量のさまざまな罪、あらゆる悪業を犯したための罪報は、この世では、軽蔑されたり、あるいは、姿形が悪かったり、衣服が不足したり、飲食が粗末だったり、財を求めても利益がなく、貧賎の家、邪見の家に生まれ、あるいは、王難にあい、およびあらゆる人間の苦の報いとして現われるであろう。それでも、こうして現世では軽く受けて済むことは、仏法を守…

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