『法華玄義』現代語訳 97 ①.b.天 「天乗」の「位」とは、「十善道」を修して、その程度に応じて成就するということが、「天」の因である。加えて、「禅定」を修し、さらに上の世界に昇る。「天」の果は、「欲界」「色界」「無色界」の「三界」において高下の違いがある。因である行を修す時、必ず深浅の違いがある。『正法念処経(しょうぼうねんじょきょう)』に「天」について次のようにある(注:これ以下の天についての長い記述は、すべてこの経典からの引用ということで構成されている)。 「六万の山が須弥山を囲んでいる。この須弥山の四隅に四人の「天」が住んでいる。 〇持鬘天(じまんてん) 第一の「天」は「持鬘天」であ…
『法華玄義』現代語訳 96 ◎「位妙」について詳しく述べる 第四に、「位妙」について述べるが、真理はすべてに融合し、その智慧が完全に隔てるものがなければ、「行」は導かれて「妙」が成就する。すでにここまで述べてきたように、「境」「智」「行」の「妙」が表わされていれば、そこに真理の法理(体)、宗要(宗)、功徳(用)はすべて備わっている。さらにここで「位妙」を述べるのは、「行」が昇る場所であるからである。 ただ、「位」に「権」と「実」があり、それは経論に記されている通りである。『成実論』『阿毘曇論』に「位」について判別されているが、言葉が大いに足らない。『十地経論』『摂大乗論』にも「位」について判別…
『法華玄義』現代語訳 95 またこれは「別入通教」「円入通教」「別教」「円入別教」「円教」の五種の「三諦」の「智慧」の行である。「俗諦」の中の「善行(修行全般のこと)」は「戒聖行」、「真諦」の中の「禅定」は「定聖行」、「真諦」の「智慧」は「慧聖行」、「中諦」は「天行」、五種の「俗諦」の「苦」を抜き、五種の「真諦」と「中諦」の「楽」を与えるのは「梵行」、五種の「俗諦」に同調するのは「病行」、五種の「真諦」と「中諦」に同調するのは「嬰児行」である。 またこれは「一実諦」の「智慧」の行である。「一実諦」の「道共戒(どうぐかい・悟り得た道そのものが戒として働くこと)」「禅定」「智慧」は「聖行」、「一実…
『法華玄義』現代語訳 93 ②梵行(ぼんぎょう) 「別教の五行」の第二は、「梵行」である。「梵」とは清浄という意味である。有と無に偏った考えや、何かを得たというような思いがない、これが清浄ということである。この清らかな教えによって、人々の苦を除き楽を与える。すなわちこれが対象にこだわらない「無縁の慈悲」であり、「四無量心」の「慈」「悲」「喜」「捨」である。菩薩は大いなる「涅槃」の心をもって「聖行」を修し、「無畏地」を得て、「二十五三昧」の無限の大いなる働きを備える。ここにおける「慈悲」は真の「梵行」である。これは、他の「梵天」の修す「四無量心」とは異なり、また「三蔵教」「通教」における衆生に対…
『法華玄義』現代語訳 92 9.不動三昧(ふどうざんまい) 「二十五有」の「⑨四天王(してんのう・四方を守護する仏法の守護神。東方の持国天、南方の増長天、西方の広目天、北方の毘沙門天=多聞天のこと)の有」は、「不動三昧」によって破る。この天は国土を守護し、世界を遊行するので、「果報」の動揺、「見思惑」「塵沙惑」「無明惑」などの動揺がある。菩薩はあらゆる行を修して、それらの動揺を除き、三昧を成就する。「四弘誓願」をもって機縁あれば、菩薩はその「慈悲」をもって「果報」「見思惑」「塵沙惑」「無明惑」の四つの動揺を除き、「俗諦三昧」「真諦三昧」「中道三昧」の三つの動揺が除かれた「三昧」を成就する。この…
『法華玄義』現代語訳 91 5.日光三昧(にっこうざんまい) 「二十五有」の「⑤弗婆提(ほつばだい・仏教の世界観における四つの大陸の内のひとつ。東方にあるとする)の有」は、「日光三昧」によって破る。太陽は朝、東から出るので、わかりやすくその名称としたまでである。日光はよくすべてを照らして、迷いや疑惑を除くということに喩える。その東方にある地の人に、「悪業」の闇、「見思惑」の闇、「塵沙惑」の闇、「無明惑」の闇がある。 菩薩はそれらの闇を照らすために、前に述べた「持戒」の光を修して「悪業」の闇を除き、あらゆる「禅定」から流れ出る光を修して「見思惑」の闇を抑え、「一切智(いっさいち・すべての実在の真…
『法華玄義』現代語訳 90 〇二十五有三昧の各名称を解釈する まず、「二十五有三昧」の各名称を解釈するにおいて、「四悉檀(ししっだん)」を用いる。「四悉檀」は、前に述べたように、「世界悉檀(せかいしつだん)」、「各各為人悉檀(かくかくいにんしつだん)」、「対治悉檀(たいじしつだん)」、「第一義悉檀(だいいちぎしつだん)」の四つであり、仏が人々を導く四通りの方法であるこの四つをもって述べて行く。 まず第一は、この世界の在り方をそのまま用いて、それぞれを受け入れ、各名称をひとつひとつ立てるのである。子供が多くいても、それぞれの名前を呼んで各子供を平等に対応すれば、その兄弟も混乱しないようなものであ…
『法華玄義』現代語訳 89 〇二十五有と二十五有三昧について この四つの「四諦の智慧」を修す時、すなわち「無所畏地(むしょいじ)」に入ることができる。これは「初歓喜地(しょかんぎじ・菩薩の悟りの位である十地の最初)」のことである。そして五つの怖れである「五怖畏(ごふい)」を離れることができる。その五つの第一は「不活畏(ふかつい)」であり、生活ができなくなるのではないか、という不安である。第二は「悪名畏(あくみょうい)」であり、周囲から悪く思われないかという畏れである。そして、第三は「死畏(しい)」であり、死への畏れである。第四は「悪道畏(あくどうい)」であり、悪しき者に近寄ることによって、自分…
『法華玄義』現代語訳 88 ①―C.慧聖行 ①聖行の三種類ある中の最後は①―C.「慧聖行(えしょうぎょう)」である。この「慧聖行」は、Ⅰ.「生滅の四諦の慧」と、Ⅱ.「無生の四諦の慧」と、Ⅲ.「無量の四諦の慧」と、Ⅳ.「無作の四諦の慧」の四つの「四諦の智慧」ことである。 ①―C.Ⅰ.生滅の四諦の慧 「生滅の四諦の慧」とは、次の通りである。前に述べた「観禅」の「九想(くそう・身体の九つの不浄なことを観じる不浄観)」と「八背捨(はっぱいしゃ・八通りの執着を捨てる方法)」を観じる時、業によって生まれた我が身と、周りにあるすべては腐りきった不浄の存在であることがわかる。これは、苦しみがひっ迫していること…
『法華玄義』現代語訳 87 〇「出世間禅」の総論 以上見てきた「出世間禅」の各禅定を総合的に見るならば、Ⅱ.「練禅」すなわち「九次第定」は、よくⅠ.「観禅」の「八背捨」に入り、Ⅲ.「熏禅」すなわち「獅子奮迅三昧」は、よく「八背捨」を出て、Ⅳ.「修禅」すなわち「超越三昧」は、よく「八背捨」に留まる。『法華経』に「よく百千の三昧に入り、出て、留まる」と記されているのはこのことである。たとえば、画師が五つの色彩をそれぞれ合わせて無量の色彩を作り出すようであり、あるいは、この世の目に見えるすべてのものが、地・水・火・風の四元素を人の認識作用である五陰が認識することによって生じているようなものである。禅…
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