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2019/05/12

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  • BS時代劇「まんぞくまんぞく」の感想

    NHKBSの時代劇「まんぞくまんぞく」。「時代劇らしい時代劇」というか、「昔よく見た時代劇に、女性剣士+恋愛という新味を加えた」というか、面白い番組でした。全く文句はありません。まんぞく、です。なにより主演の石橋静河さんが可愛かった。美しいというより、私は可愛く感じました。殺陣は初めてだそうです。でも私には殺陣を鑑定する能力がないので、いい動きをしていたとしか思えません。「殺陣」なんてしばらく見たことがなかったので、昔がどうだったか、もう忘れてしまいました。とにかくいい動きです。調べてみると石橋さんはダンサーだということで、運動能力が高いのでしょう。きっと。「可愛い」、素敵なお嬢さんです。母親の原田美枝子さんは「鋭い美人」ですが、娘さんはやや「ゆるキャラ」で、とにかく可愛いなと思いました。というのが素直な...BS時代劇「まんぞくまんぞく」の感想

  • 儒教とジェンダー平等について考えてみた

    私は男性で、中一ぐらいまでは「女のくせに」って言っていたような記憶があります。ところが高校に入った頃には完全な「男女同権論者」だった。その間、どういう精神的経緯があったのか。よく覚えていません。それはさておき、日本で男女同権とか、ジェンダー平等がなかなか実現しないのは、そりゃ色々理由はあるでしょうが、日本が「儒教の国」であることが最大の要因だと思います。儒教は「江戸時代に日本人の伝統となった」と思われていますが、調べてみるとそうではない。なんと律令国家の成立(7世紀)まで遡ります。これはウィキペディアで王土王民思想を読んもらえれば分かります。そもそも「日本律令国家の建国理念」が「儒教」なのです。仏教ではありせん。また律令の背景にある思想は法家ではないようです。儒教の中でも「礼の思想」が実は男女の「区別」に...儒教とジェンダー平等について考えてみた

  • 権門体制ではなく、権門顕密体制である。

    日本史を見るとき、為政者の歴史において見るということは「全く否定」しませんし、逆に「民衆の歴史」をたどることも全く否定しません。ただそれだけが「日本史」なのかと考えると、私は違うと考えます。私の日本史の構造・構想1,身分社会の変化を考える。身分といった場合、為政者などの権力者も民衆も「身分」に組み込まれます。ここで重要なのは「建前の身分と現実の身分感覚が乖離していることで」、そこは見ないといけない。その上で日本史は「身分差が徐々に縮まる方向において変化してきたではないか」このことをまず私は考えています。明治になって四民平等とはされたものの、女性の地位など様々な問題が残りました。戦後の改革によって文章の上では(憲法では)、完全な平等が実現したはずでしたが、「現実感覚」は違います。主に女性差別の問題が残りまし...権門体制ではなく、権門顕密体制である。

  • 「鎌倉殿の13人」における「後鳥羽上皇」の描き方について思うこと

    全くの個人の感想なので、自分の感覚と違っても怒らないでくださいね。「怒る」傾向がある方はここでやめた方がいいと思います。まず全体にどんなことを書くかというと、・三谷さんに対する批判はしない。特に不満もないし、むしろ褒めたいぐらいだけど、あまり褒めもしない。・上皇や天皇という存在に忖度は一切しない。といって故意に「おとしめる気」もない。でも忖度しない時点で、一般的感覚からすると不敬に見えるかも知れない。・私は史実を学者の本で勉強しているが、学者じゃないので知識は足りない。間違った史実認識があるかも知れない。・ドラマの批評というより日本史や史実の話である。1,後鳥羽上皇の描き方はバランスがとれていたとまあ、ここまで注意書きをしておけば、あとは何を書いてもいいでしょう。では本論。全体としては後鳥羽の描き方は良か...「鎌倉殿の13人」における「後鳥羽上皇」の描き方について思うこと

  • 日本一短い「権門体制論」の解説

    中世史学の多数派を形成している権門体制論ですが、さてその考え方はA~Cのうちどれでしょう。1,中世の一時期(院政期から応仁の乱まで)、日本を支配していたのは公家(上皇家を含む、以下同じ)、武家、寺家であり、天皇機構は形式的権威によってその利害を調整した。2,中世の一時期、日本を支配していたのは公家、武家、寺家であり、天皇機構は「中世的な天皇権威」によってその利害を調整した。3,中世の一時期、日本を支配していたの公家、武家、寺家であり、3勢力は「天皇の名において」、その利害を調整した。答えは、上記のどれかです。まだ私にもわかっていません。天皇は権門なんです。朝廷、藤原氏も権門です。天皇の位置に関してはそこが問題となります。寺家と寺社は同じです。折に触れて提唱者である黒田俊雄氏の文章を読んできて、私の考えは今...日本一短い「権門体制論」の解説

  • Theマンザイ・M1の近代史・オズワルド伊藤の憂鬱

    2022年のM1で敗者復活から本選に進んでものの惨敗した「オズワルド伊藤」に、「普通の人なら死にたくなるような罵詈雑言」が送られているそうだ。自分の「推し」をはねのけて、知名度で上に上がって負けやがって、、、ということなのか。怖い世の中になったもんだ。ということで「近代史」のお話1980年前後の漫才ブーム。私が一番好きだったのは「ビートたけし」の「ツービート」。でも一番人気じゃなかった。一番人気はB&B。島田洋七、洋八。「笑っていいとも」の前に「笑ってる場合ですよ」という番組をやっていた。「もみじまんじゅう」のギャグでおなじみ。あと紳助竜助、ヤンキー漫才。パターンとしては「ヤンキーなんだけど弱い」というお話。あとサブローシローが実力派。それとノリオヨシオ。「ホーホケキョ」「冗談はよせ」のギャグでおなじみだ...Theマンザイ・M1の近代史・オズワルド伊藤の憂鬱

  • 1972年の吉田拓郎・イメージの歌

    拓郎さんがアーテイストとしては引退なさるそうです。76歳。そんなに年が自分と離れているとは思ってもいませんでした。私が小学生の頃、拓郎ちゃんはまるで「ガキ大将」みたいだったからです。5つぐらい上かなと思っていた。よく考えると、10歳の5つ上では15歳です。1,イメージの歌これには多大な影響を受けたと思います。今私は趣味で歴史の勉強をしていて、尊大にも「どんな偉い学者の説だっておいそれとは信じない」という不遜な態度をとっています。私の中では「方法的懐疑」と呼んでいます。これを教えてくれたのが、小学校の時に聞いた「イメージの歌」☆これこそはと信じれるものが、この世にあるだろうか。信じるものがあったとしても、信じないそぶり。大学時代、統一教会の勧誘を断ったのも、民主青年同盟(共産党)の誘惑(これは貧乏な僕には実...1972年の吉田拓郎・イメージの歌

  • 「鎌倉殿の13人」は何故「民衆」を登場させなかったのか。

    鎌倉殿の13人には、ほぼ民は登場しませんが、それでも実に面白い、おそらく大河の中でもトップクラスの芸術的作品であることは揺らぎません。その上で、、、。北条小四郎義時は、若い頃は少しですが「民のため」を口にします。飢饉の心配もしていたようです。しかし後半になると、作品自体にほぼ「民」は登場しなくなります。・太郎泰時が「民の税」を減免して、民にコメを与えた。・政子が最後にちょこっと民衆と交わった。これぐらいでしょうか。全部で5分ぐらいです。徹底して民がいないドラマなのです。理由としては「そもそも小四郎は民であるという扱い」が考えられますが、彼は領主の子であって民でないことは、作品を見れば誰でも分かります。ではなぜか?1,上皇が「民の敵になってしまう」ことを避けた。小四郎が「民の味方」なら、後鳥羽上皇は「民の敵...「鎌倉殿の13人」は何故「民衆」を登場させなかったのか。

  • 後醍醐天皇の「理想と現実」・リラックス文体で書く。

    重くならないため、なるべくリラックス文体で書きます。たぶん重くなるけど。後醍醐天皇ぐらい「アゲられたり」「サゲられたり」、まー評価がコロコロ変わる人物はいません。同時代の評判はすこぶる悪いんです。お仲間の北畠親房も北畠顕家もぼろくそ批判してます。なぜって「新しいことをやったるぞ」と言ったから。朝廷は「超先例主義」ですから、「新しいこと」は生理的に無理なんです。「やったるぞ」はいいけど、「仕組みを作らない」から日本がカオス状態。武者にもその他市民にも、すこぶる評判が悪い。ところが昭和、戦前。今の皇室は北朝なのに、南朝を正統としてしまったから、後醍醐天皇を上げざる得なくなっちゃった。悪名高い皇国史観ね。好きな人もいるけど。皇国史観といえば、布教者は東大教授の平泉澄。ないことないこと書いて歴史を捻じ曲げたくせに...後醍醐天皇の「理想と現実」・リラックス文体で書く。

  • 即興歴史小説「義時の涙、泰時の誓い」、「義時死す」

    悪人・北条義時に捧ぐ承久の乱の後、北条太郎泰時と北条時房は「六波羅探題」の長官として京に「出張」ということになった。「京で修行してこい」、これが親父である義時の言葉である。公家は噂が好きだ。嘘と分かってもその嘘を楽しんでいる。時には嘘と分かりつつ、日記に「さも本当のように」書くことも多い。正確な歴史を記述するという観念自体が存在していない。ただし儀礼に関しては違う。日記とは子孫に伝える儀礼の記録である。時事情報はあくまで「おまけ」であった。時事情報は正確でなくても、いいのである。その公家の間では鎌倉に関するいくつも噂が飛び交っている。「鎌倉がこうなってしまえばいい」という悪意に満ちた願望であることも多い。「義時の妻の伊賀の方が、実子の政村を執権にするため、義時に少しずつ毒を盛っているらしい」「北条は怨霊に...即興歴史小説「義時の涙、泰時の誓い」、「義時死す」

  • 鎌倉殿の13人関連・「後鳥羽上皇の目的は討幕ではない説」は論理的に成り立つか。

    最近、後鳥羽上皇は討幕を企てていない。北条義時を排除しようとしただけだ。と偉い学者さんがよく言います。これは妥当でしょうか。まず結論から書くと「妥当ではないが、成り立つ可能性も残されてはいる」と思います。以下少し詳しく。なお大河は物語ですから「史実じゃない」という「物語のあげ足取り」ではありません。基本「鎌倉殿の13人」とは関係がない「ただの史実論議」です。1,討幕なんて言葉は当時なかった。追討宣旨は「個人宛」である。当時、幕府という言葉は禅僧ぐらいしか使いません。京都政権が幕府と呼んだことはない。鎌倉も自らを幕府と呼んだことはありません。京都政権は鎌倉幕府を「関東」とか「武家」とか言っていました。六波羅探題ができてからは探題が「武家」、幕府は「関東」と呼ぶことが多かったようです。幕府という言葉を使用しな...鎌倉殿の13人関連・「後鳥羽上皇の目的は討幕ではない説」は論理的に成り立つか。

  • 鎌倉殿の13人・北条泰時はなぜ後鳥羽上皇の「敗戦の院宣」が読めなかったのか。承久の乱。

    吾妻鏡にこうあります。概略です。泰時は5千の兵を率いていた。そこへ後鳥羽上皇の敗戦の院宣がもたらされた。泰時は馬を降りて受け取った。そして「この中に誰か院宣を読めるものはいるか」と言った。武蔵の国の藤田三郎が読むことができたので、彼が読んだ。「この度のことは、全て院の意思ではなく、謀臣のしわざである」以上のことから分かるのは、泰時は院宣を読めなかったこと、5千人の中でも読める人間はほぼおらず「もしかしたら藤田一人だったこと」です。それにしても藤田はなぜ読めたのか。そっちがびっくりです。吾妻鏡が「とても信用できない、泰時顕彰のための曲筆ばかり」なら、ここは「読めたこと」にしてほしいものですが、ちゃんと「読めなかった」としています。この院宣は承久記前田本にあって、国会のデジタルコレクションで見ることができます...鎌倉殿の13人・北条泰時はなぜ後鳥羽上皇の「敗戦の院宣」が読めなかったのか。承久の乱。

  • 鎌倉殿の13人関連・「承久の乱」をどう考えたらいいのか。

    「承久の乱」を「どう評価」すべきでしょうか。社会の混乱という意味では、さほどの戦いではありません。後醍醐帝と足利尊氏が明確なビジョンもなく「鎌倉幕府を倒してしまって」から、60年の内乱の時代が訪れます。そういう意味では、この2人、とんでもない人たちです。フセインを倒したはいいが、さしたるビジョンもなかったため、イラクを今も混迷の中に沈めているアメリカ、と同じことをやっています。皇国史観においては「後醍醐帝に逆らった足利尊氏」は「日本最大の悪人」と呼ばれましたが、「皇国史観大嫌い」の私ですら「もっとちゃんとやれよ」とは思います。むろん後醍醐天皇も同罪です。この南北朝時代の戦い、いわゆる「観応の擾乱」(じょうらん、意味なく難しい言葉ので、この言葉は変えた方がいい)に比べれば、あっという間に決着がつきます。数か...鎌倉殿の13人関連・「承久の乱」をどう考えたらいいのか。

  • 天下概念の歴史的変容・「信長・家康がおったらそこが天下や」説

    織田信長の時代、天下とは畿内を指した。したがって「天下布武」とは「畿内を」、布武(武とは徳であり、徳によって徳治)することだ。誰が考えた「言葉遊び」かは分かりませんが、ちょっと前にはこういう「言葉遊び」にこだわる人がいました。今は最新の研究によって「乗り越えられて」、、、、いません。私は素人ですがちょっと考えて「奇妙な詐術」であることは分かります。そもそも「印鑑の意味」などいくら探っても、その武将の「実体」には迫れません。豊臣秀吉の印鑑の中にはいまだに「読めない」ものもあるのです。「印」なんてその程度のものです。それでもこだわるとすると・お釈迦様の「天上天下唯我独尊」、、、この天下も畿内なのか。お釈迦様は日本の畿内で独尊なのか。中世にもこの言葉はある。・源頼朝の「天下草創」、、、頼朝は畿内を「草創」したの...天下概念の歴史的変容・「信長・家康がおったらそこが天下や」説

  • 鎌倉殿の13人・スピンオフ小説「比奈の乱」・「承久の乱前夜」

    後鳥羽上皇の願いを受けて、比奈は鎌倉に下向した。義時とは直接文を交わしたことはないものの、比企の乱から16年、義時は京の比奈に、定期的に莫大な金銭を送ってきてくれていた。途中からは泰時の名で送られてきたが、義時に意向であることは間違いない。比奈はまずその礼を述べた。「少しもお変わりになりませんね、小四郎殿」「そうか、人には別人になったと言われるが」「同じです。あなたはいつも鎌倉のことばかり考えて、そして疲れていらした」「そうか」「さて、京は上皇様のお言葉を伝えに参りました」京で比奈と後鳥羽上皇が懇意であることは、義時はよく知っている。「文を託すまでの仲とはな。比奈、つらくはないのか」比奈にとってはマツリゴトに関わることが苦痛であると義時は思っている。「比企の一族のことは、すべて昔のことです」と言って比奈は...鎌倉殿の13人・スピンオフ小説「比奈の乱」・「承久の乱前夜」

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