chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
taro
フォロー
住所
未設定
出身
未設定
ブログ村参加

2019/05/11

arrow_drop_down
  • サドをめぐる断想(10)

    簡単に言うと、苦痛とは我々にとって異質な対象と我々の身体の組織を構成している分子との極く僅かな関係の相違によって生じるのです。どういうことかと言うと、異質の対象から発出する分子が我々の神経の中を流れている体液と接触するとき、うまく結合すると、その衝撃が快感として受け止められるのですが、両者が接触する際に拒絶反応を起こすと、不快、苦痛として感じられるのです。しかし、接触の結果が快であっても不快であっても、結果は結果であり、神経体液に対して或る衝撃が生ずるのは間違いないのです。(中略)単純な感覚から生まれる快楽に飽き飽きしている私達は、強力な感覚でありさえすればそれを快楽と感じるように慣れてしまっ…

  • サドをめぐる断想(9)

    所有権というものの起源を辿って行くと、先ほど話をしたように、盗みや横領に行き当たってしまうのだ。ところが、盗みは他人の所有権の侵害という理由で処罰されることになっているね。しかし、考えてみると、盗みの対象となる所有権は元を正せば盗みそのものによって成立したものではないのかね? そうだとすると、法律は盗みを侵害する盗みを罰し、自分の権利を回復しようとする弱者を罰し、自然界から与えられた当然の権利を確立し、増強しようとする強者を罰しているのだ。一体世の中にこれほど支離滅裂、非論理的なことがあるのだろうか? (「ジュリエット物語又は悪徳の栄え」サド著 佐藤晴夫訳116頁) En remontant …

  • サドをめぐる断想(8)

    自分を幸せだと信じている人間は実際に幸せなのよ。汚辱に塗れている人間は自分を幸せだと思っているし、いわゆる美徳を自慢している人間も自分を幸せだと思っているのだよ。だから、幸福というものはそれぞれの人間が自分の思うままに行動することによって手に入れることができる一つの状況に過ぎないのだよ。幸福は専ら私たちの理性や気質や有機組織に依存しているのであって、美徳が勝利を収めた場合に幸せを感じるのも、悪徳の淵に沈んだ場合に幸せを感じるのも、同じことなのだよ… (「ジュリエット物語又は悪徳の栄え」サド著 佐藤晴夫訳88頁) c’est qu’il se croit heureux alors, et qu…

  • サドをめぐる断想(7)

    スピノザの最終定理に対する前回のサド的解釈は、いわば「エチカ」の諸定理を「脱構築」して到達したものだが、これと同じ疑念をスピノザの同時代人が提出している。 「スピノザ往復書簡集」にみられるブレイエンベルフである。もっとも私はドゥルーズの指摘(「スピノザ実践の哲学」)によって知ったのだが、世の中には似たような考えの人もいるものだ、と思った。だが彼のスピノザ批判ははなはだ興味深い。 ブレイエンベルフの批判は多岐にわたっているが、それは概ね神を人格神とする思い込みによるものである。だが、次の批判はスピノザ思想を踏まえた内在的批判になっていて、前回のサド的解釈に通じるものがある。 貴下(引用者注:スピ…

  • サドをめぐる断想(6)

    サドはさておき、スピノザの話ばかりになるが、「エチカ」の第五部を読んでいると、明らかにサドと異なるので、スピノザとサドを似た者同士として比較するのは無理筋のように思えてくる。私としては、これほど似た者同士がなぜ最終的に正反対になるのか、そこが興味深いのだが、同時にそれは正反対ではないかもしれないという疑念もつきまとうのである。 そのため、これからサドと比較していく前準備の思考実験として、サドのリベルタンになりかわって「エチカ」第五部の結論を再解釈してみたい。いわばスピノザのサド的解釈である。問題は次の定理である。 第五部定理42 至福は徳の報酬ではなくて徳それ自身である。そして我々は快楽を抑制…

  • サドをめぐる断想(5)

    サドとスピノザとの違いは、何も諸感情を一つ一つ比較照合するまでもなく一目瞭然であり、サド的人物の展開する唯物論には、スピノザの「心身並行論」が含まれていないのが大きな違いである。だからたとえ外観が似ていても、両者が根本的に異なることは比較するまでもなく明らかである。 ただスピノザの優れている点は、そのような結果としての概括的比較とは別に、個々の論点についても諸定理に基づいて比較しうることである。この作業によって、諸定理の証明を最初から順に追うよりも、論点を中心に遡及的に諸定理の意味を明確にすることができるとともに、他の思想の含意も明確になる。つまりスピノザの思想が座標軸となりうるのである。これ…

  • サドをめぐる断想(4)

    サドのリベルタン(以下、サド的人物とする)に能動性の標識である「喜びの感情」があったか否かは、これから検証しなければならないが、少なくとも「後悔」を拒否している点は、スピノザと共通している。ただ、やはりどういう意味での拒否なのか、その根拠を両者について見てみよう。まずサドの場合である。 私達にかかわりがないものが原因で衝撃が生じても、私達の器官に従属しているものが原因で衝撃が生じても、どっちにしても私達はその衝撃を食い止めることなんて、できると思うの? (中略)だから、後悔なんていう感情は臆病な気の弱さに過ぎないのだし、私達次第のことなのだから、よく考えて、理性を働かせて、習慣をつけて、打ち負…

  • サドをめぐる断想(3)

    情欲は飲食の欲求と同じように極めて重要なのだから、お互いに何の遠慮もなしに認め合わなければならないのよ。それに、女の慎みは、実は洗練された淫蕩の一つの流儀に過ぎないのよ。女にとって情欲が益々高まってくるのを待ち望みながらじっとしているのはとても楽しいことなのに、女を寝取られる間抜け男は、女が快楽を追い求めているに過ぎないことに気が付かないで、それを美徳と間違えてしまうのだわ。貞節は美徳だと言うのは、空腹を我慢するのは美徳だと主張するのと同じくらい滑稽なことだわ。 (「ジュリエット物語又は悪徳の栄え」サド著 佐藤晴夫訳64頁) Osons arracher le voile ; le besoi…

  • サドをめぐる断想(2)

    理性とは一体何なのか? 理性というのは私達が自然界から与えられた能力であって、私達が或対象から受け取る快楽又は苦痛の量に比例して、理性は私達をその対象に向かわせたりあるいは遠去けたりするのよ。私達は苦痛を与える印象と快楽を与える印象を専ら感覚を通して受け取るわけだから、理性というのは私達の感覚に委ねられている一種の計算なのだわ。(「ジュリエット物語又は悪徳の栄え」サド著 佐藤晴夫訳38頁) Qu’est-ce que la raison ? C’est cette faculté qui m’est donnée par la nature de me déterminer pour tel …

  • サドをめぐる断想(1)

    サドは読まれなければならない。とりわけ自己の特異性において語る者は、なぜ自分は語るのか、そして自己の特異性にも関わらず他者への伝達が可能であるのはなぜか、おそらくサド以外は誰も考えなかった思考が、そこにあるからだ。スピノザでさえも、その考察が抜けている。何故そのことを誰も考えなかったのか? その理由は、語る者は語る行為において既に言語を自明の前提としているからである。 確かにスピノザは言語を表象(想像知)として批判している。またソシュール以来、いわゆる言語論的転回が現代思想を活気づけてきたのは事実である。だが、そもそもなぜ、言語によって言語以前性を考察しうるのか、それはいまだに謎である。 まず…

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、taroさんをフォローしませんか?

ハンドル名
taroさん
ブログタイトル
アクリマタシオンの読書日記
フォロー
アクリマタシオンの読書日記

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用