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2019/05/11

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  • サドをめぐる断想(11)

    私はここで『伝道の書』を開けて、読むのよ。 『私は人間の子等について心の中でこう言った。神はそれをありのままに見せ、本当に自分は獣だと彼等に悟らせるのだ。人間の行末と獣の行末は同じものだ、人間も死に、獣も死ぬ。二つとも同じ息をしている。人間が獣にまさるというのは空しいことだ。二つとも同じ所に行く。二つとも塵から出て塵に帰る』 この詩ほど決定的に来世の存在を否定しているものはないでしょうね。 (「ジュリエット物語又は悪徳の栄え」サド著 佐藤晴夫訳 357頁) J’ouvre l’Ecclésiaste, et j’y vois : L’état de l’homme est le même qu…

  • サドをめぐる断想(10)

    簡単に言うと、苦痛とは我々にとって異質な対象と我々の身体の組織を構成している分子との極く僅かな関係の相違によって生じるのです。どういうことかと言うと、異質の対象から発出する分子が我々の神経の中を流れている体液と接触するとき、うまく結合すると、その衝撃が快感として受け止められるのですが、両者が接触する際に拒絶反応を起こすと、不快、苦痛として感じられるのです。しかし、接触の結果が快であっても不快であっても、結果は結果であり、神経体液に対して或る衝撃が生ずるのは間違いないのです。(中略)単純な感覚から生まれる快楽に飽き飽きしている私達は、強力な感覚でありさえすればそれを快楽と感じるように慣れてしまっ…

  • サドをめぐる断想(9)

    所有権というものの起源を辿って行くと、先ほど話をしたように、盗みや横領に行き当たってしまうのだ。ところが、盗みは他人の所有権の侵害という理由で処罰されることになっているね。しかし、考えてみると、盗みの対象となる所有権は元を正せば盗みそのものによって成立したものではないのかね? そうだとすると、法律は盗みを侵害する盗みを罰し、自分の権利を回復しようとする弱者を罰し、自然界から与えられた当然の権利を確立し、増強しようとする強者を罰しているのだ。一体世の中にこれほど支離滅裂、非論理的なことがあるのだろうか? (「ジュリエット物語又は悪徳の栄え」サド著 佐藤晴夫訳116頁) En remontant …

  • サドをめぐる断想(8)

    自分を幸せだと信じている人間は実際に幸せなのよ。汚辱に塗れている人間は自分を幸せだと思っているし、いわゆる美徳を自慢している人間も自分を幸せだと思っているのだよ。だから、幸福というものはそれぞれの人間が自分の思うままに行動することによって手に入れることができる一つの状況に過ぎないのだよ。幸福は専ら私たちの理性や気質や有機組織に依存しているのであって、美徳が勝利を収めた場合に幸せを感じるのも、悪徳の淵に沈んだ場合に幸せを感じるのも、同じことなのだよ… (「ジュリエット物語又は悪徳の栄え」サド著 佐藤晴夫訳88頁) c’est qu’il se croit heureux alors, et qu…

  • サドをめぐる断想(7)

    スピノザの最終定理に対する前回のサド的解釈は、いわば「エチカ」の諸定理を「脱構築」して到達したものだが、これと同じ疑念をスピノザの同時代人が提出している。 「スピノザ往復書簡集」にみられるブレイエンベルフである。もっとも私はドゥルーズの指摘(「スピノザ実践の哲学」)によって知ったのだが、世の中には似たような考えの人もいるものだ、と思った。だが彼のスピノザ批判ははなはだ興味深い。 ブレイエンベルフの批判は多岐にわたっているが、それは概ね神を人格神とする思い込みによるものである。だが、次の批判はスピノザ思想を踏まえた内在的批判になっていて、前回のサド的解釈に通じるものがある。 貴下(引用者注:スピ…

  • サドをめぐる断想(6)

    サドはさておき、スピノザの話ばかりになるが、「エチカ」の第五部を読んでいると、明らかにサドと異なるので、スピノザとサドを似た者同士として比較するのは無理筋のように思えてくる。私としては、これほど似た者同士がなぜ最終的に正反対になるのか、そこが興味深いのだが、同時にそれは正反対ではないかもしれないという疑念もつきまとうのである。 そのため、これからサドと比較していく前準備の思考実験として、サドのリベルタンになりかわって「エチカ」第五部の結論を再解釈してみたい。いわばスピノザのサド的解釈である。問題は次の定理である。 第五部定理42 至福は徳の報酬ではなくて徳それ自身である。そして我々は快楽を抑制…

  • サドをめぐる断想(5)

    サドとスピノザとの違いは、何も諸感情を一つ一つ比較照合するまでもなく一目瞭然であり、サド的人物の展開する唯物論には、スピノザの「心身並行論」が含まれていないのが大きな違いである。だからたとえ外観が似ていても、両者が根本的に異なることは比較するまでもなく明らかである。 ただスピノザの優れている点は、そのような結果としての概括的比較とは別に、個々の論点についても諸定理に基づいて比較しうることである。この作業によって、諸定理の証明を最初から順に追うよりも、論点を中心に遡及的に諸定理の意味を明確にすることができるとともに、他の思想の含意も明確になる。つまりスピノザの思想が座標軸となりうるのである。これ…

  • サドをめぐる断想(4)

    サドのリベルタン(以下、サド的人物とする)に能動性の標識である「喜びの感情」があったか否かは、これから検証しなければならないが、少なくとも「後悔」を拒否している点は、スピノザと共通している。ただ、やはりどういう意味での拒否なのか、その根拠を両者について見てみよう。まずサドの場合である。 私達にかかわりがないものが原因で衝撃が生じても、私達の器官に従属しているものが原因で衝撃が生じても、どっちにしても私達はその衝撃を食い止めることなんて、できると思うの? (中略)だから、後悔なんていう感情は臆病な気の弱さに過ぎないのだし、私達次第のことなのだから、よく考えて、理性を働かせて、習慣をつけて、打ち負…

  • サドをめぐる断想(3)

    情欲は飲食の欲求と同じように極めて重要なのだから、お互いに何の遠慮もなしに認め合わなければならないのよ。それに、女の慎みは、実は洗練された淫蕩の一つの流儀に過ぎないのよ。女にとって情欲が益々高まってくるのを待ち望みながらじっとしているのはとても楽しいことなのに、女を寝取られる間抜け男は、女が快楽を追い求めているに過ぎないことに気が付かないで、それを美徳と間違えてしまうのだわ。貞節は美徳だと言うのは、空腹を我慢するのは美徳だと主張するのと同じくらい滑稽なことだわ。 (「ジュリエット物語又は悪徳の栄え」サド著 佐藤晴夫訳64頁) Osons arracher le voile ; le besoi…

  • サドをめぐる断想(2)

    理性とは一体何なのか? 理性というのは私達が自然界から与えられた能力であって、私達が或対象から受け取る快楽又は苦痛の量に比例して、理性は私達をその対象に向かわせたりあるいは遠去けたりするのよ。私達は苦痛を与える印象と快楽を与える印象を専ら感覚を通して受け取るわけだから、理性というのは私達の感覚に委ねられている一種の計算なのだわ。(「ジュリエット物語又は悪徳の栄え」サド著 佐藤晴夫訳38頁) Qu’est-ce que la raison ? C’est cette faculté qui m’est donnée par la nature de me déterminer pour tel …

  • サドをめぐる断想(1)

    サドは読まれなければならない。とりわけ自己の特異性において語る者は、なぜ自分は語るのか、そして自己の特異性にも関わらず他者への伝達が可能であるのはなぜか、おそらくサド以外は誰も考えなかった思考が、そこにあるからだ。スピノザでさえも、その考察が抜けている。何故そのことを誰も考えなかったのか? その理由は、語る者は語る行為において既に言語を自明の前提としているからである。 確かにスピノザは言語を表象(想像知)として批判している。またソシュール以来、いわゆる言語論的転回が現代思想を活気づけてきたのは事実である。だが、そもそもなぜ、言語によって言語以前性を考察しうるのか、それはいまだに謎である。 まず…

  • 夜のスピノザ

    スピノザの心身並行論によると延長と思惟は同じ実体の属性であるから、延長物体には必ず観念が伴う。人間以外の物体も観念を持っているのである。このことは決してオカルトではない。物体を擬人化しているのではなく、観念についての通説を変革し、観念を脱人間化しているのである。人間身体が日々の摂食によって外部の物体を取り込んでおり、外部の物体によって構成されていること、そしてその物体の観念が人間精神を構成する素材なのだと考えると、物体が観念を持つということも不自然な考えではないように思えてくる。というか、その心身並行論こそが、主客二元論のアポリアを解決し、人間精神の謎を解く唯一の鍵である、と私は思う。 そして…

  • エチカをめぐる断想(終)

    第五部定理14 精神は身体のすべての変状あるいは物の表象像を神の観念に関係させることができる。(「エチカ」畠中尚志訳) ワーグナーの長い楽劇は最後に御褒美があると言われているが、ワルハラ炎上の音楽は、それまでしつこく聞かされた指導動機の集大成でもある。同様に「エチカ」の最後の御褒美である「第三種の認識」も、それまでの考察の集大成のようである。 例えばこの定理14の証明には、第1部定理15が使われている。それはあたかも円環のように、最後が最初に繋がっているようだ。江川隆男の著書(スピノザ『エチカ』講義)が最後に第一部へ帰還するのは慧眼である。この「第三種の認識」がいかなるものか、やや長くなるが、…

  • エチカをめぐる断想(25)

    前回の断想(24)は、「エチカ」からはみ出し、脱線したところがある。つまり「エチカ」が述べている事柄以上のことを言ってしまったようだ。だが第四部定理35はスピノザがサドから区別される最も重要な定理であり、この定理の証明が不充分であるなら、スピノザの論理はサドのリベルタンとほぼ同じになってしまうのである。 その定理の証明で私が疑問に思ったのは、個人の自己保存衝動が「したがってまた」他のおのおのの人間の自己保存衝動と連結するという部分である。この部分の証明が不充分と思われるので、私は推測によりスピノザ的理性(共通概念)が個人の自己保存衝動を集団保存衝動へ変えると解釈した。なぜならそのように解釈して…

  • エチカをめぐる断想(24)

    第四部定理35 人間は、理性の導きに従って生活する限り、ただその限りにおいて、本性上常に必然的に一致する。(「エチカ」畠中尚志訳) この定理の意味は明瞭なのだが、不穏な定理である。というのはキリスト教においては、信仰によらず人間理性のみに従うことは傲慢の罪であり、しかも「ただその限りにおいて」ということは、逆に理性の導きに従わないなら、つまり理性を捨てて信仰に従うなら、人間は一致しないと述べているからである。 現代人でも理性万能主義の限界を感じる者が多いであろう。だが、そうした理由で、この定理を承服しがたいと思うとすれば、それは早とちりである。つまり、それはデカルト以来の理性観とスピノザの理性…

  • エチカをめぐる断想(23)

    第四部定理15 善および悪の真の認識から生ずる欲望は、我々の捉われる諸感情から生ずる多くの他の欲望によって圧倒されあるいは抑制されることができる。(「エチカ」畠中尚志訳) 「善および悪の真の認識」という言葉からして意味不明なのだが、これはスピノザの定義を踏まえていれば、難しいことを言っているのではない。公共世界の共通理解(以後、「常識」という)では、善・悪は人間の徳として考えられている。だから善人・悪人というように人間に内在する性質のように受けとめられるのだが、スピノザの定義では善・悪は外部の対象なのだ。(第三部定義1、2)だから真の認識とは、対象と一致した観念であるから、「善および悪の真の認…

  • エチカをめぐる断想(22)

    第四部定理1 誤った観念が有するいかなる積極的なものも、真なるものが真であるというだけでは、真なるものの現在によって除去されはしない。(「エチカ」畠中尚志訳) 一読して意味不明だが、背景から考えてみよう。まず、スピノザにとっては、いかなる観念(誤った観念も含む。例えば太陽が水面に反射しているのを見て、太陽が水中にあるという観念)も、神との関係では真なのである。神は万物を産出し、原因の認識は結果の認識を産出するのだから、万物(延長物体)が産出された秩序と同じ秩序で思惟属性の観念も産出される。そして神が産出したものはすべて真であるから、人間にとって誤った観念も神にとっては真である。それは当然であり…

  • エチカをめぐる断想(21)

    第四部序言(抜粋) 私が先に(第二部定義六)実在性と完全性とを同一のものと解するといったのもこのためである。すなわち (引用者注No1)「我々は自然における一切の個体を最も普遍的と呼ばれる一つの類に、言いかえれば自然におけるありとあらゆる個物に帰せられる有という概念に、還元するのを常とする、こうして自然における個体をこの類に還元して相互に比較し、そしてある物が他の物よりも完全性あるいは実在性を有すると認める限り、その限りにおいて我々はある物を他の物よりも完全であると言い、またそれらの物に限界、終局、無能力などのような否定を含むあるものを帰する限りその限りにおいて我々はそれらの物を不完全と呼ぶの…

  • エチカをめぐる断想(20)

    第四部定理7 感情はそれと反対のかつそれよりも強力な感情によってでなくては抑制されることも除去されることもできない。(「エチカ」畠中尚志訳) これはスピノザの有名な定理だから、じっくり見ていくことにしよう。要するに理性によって感情を制御することは不可能だと主張しているのである。これは実感に合致するともいえるし、そうかな?と疑問を感じるところでもある。だがスピノザの論証は心身並行論を踏まえた実に精妙なものである。 まず前回の総括的定義によれば、感情(スピノザはこれを身体変状の「観念」として思惟属性に含めている)とは、「自己の身体につき以前より大なるあるいは小なる存在力を肯定する観念」であった。 …

  • エチカをめぐる断想(19)

    <スピノザの感情論>(承前) 精神の能動・受動については前述のとおりだが、身体にも能動・受動があるのか? 精神と身体は並行しているのだから、おそらくあるのだろう。 問題は精神の能動・受動は、精神活動の原因が<十全な観念>か<非十全な観念>かで説明できたのだが、身体の場合はどうなるのか、である。 スピノザが能動とか自由とか言う場合、それは神をモデルにしているのである。「エチカ」の幾何学的秩序のように、自己原因としての本質が展開explicatioして存在となる、それが能動であり自由である。 第一部定義7 自己の本性の必然性のみによって存在し・自己自身のみによって行動に決定されるものは自由であると…

  • エチカをめぐる断想(18)

    スピノザの感情論 これまでは第三部の定理順に考察してきたが、スピノザはありとあらゆる諸感情を分類体系化しており、これらを一つ一つすべて概観していくのはいささか煩雑である。 そこで感情についての基礎理論と思われるところに重点を置いて、考察することにする。このため、第三部の最後をまず参照する。 感情の総括的定義 精神の受動状態と言われる感情は、ある混乱した観念-精神がそれによって自己の身体あるいはその一部について、以前より大なるあるいは以前より小なる存在力を肯定するような、また精神自身がそれの現在によってあるものを他のものよりいっそう多く思惟するように決定されるような、ある混乱した観念である。(「…

  • エチカをめぐる断想(17)

    第三部 感情の起源および本性について No7 定理12 精神は身体の活動能力を増大しあるいは促進するものをできるだけ表象しようと努める。(「エチカ」畠中尚志訳) やはり「活動能力」がどういう意味か気になる。例えば動物は人間より活動能力が大きいと思われるのだが、だからといって動物が人間より思惟能力が大きいとは言えないだろう。 どうも常識的な身体能力や感覚能力(聴覚・嗅覚など)とは違う意味があるような気がする。ここは『エチカ』に即して考えることにする。『エチカ』における「活動」の用例は次のとおりである。 第二部定義7 個物とは有限で定まった存在を有する物のことと解する。もし多数の個体(あるいは個物…

  • エチカをめぐる断想(16)

    第三部 感情の起源および本性について No5 定理10 我々の身体の存在を排除する観念は我々の精神の中に存することができない。むしろそうした観念は我々の精神と相反するものである。 定理10証明 すべて我々の身体を滅ぼしうるものは身体の中に存することができない。 (「エチカ」畠中尚志訳) これは「定理5により」とあるが、あらためてそのことの意味を考えてみると、スピノザの本質観が独特であることが分かる。というか私が「本質」をあまり深く考えていないだけであるが。スピノザの本質が存在と結びついていることは前回触れたとおりだが、そのことは本質に含まれるものは必ず実現することを意味する。逆に言えば、現在か…

  • エチカをめぐる断想(15)

    第三部 感情の起源および本性について No3 定理5 物は一が他を滅ぼしうる限りにおいて相反する本性を有する。言いかえればそうした物は同じ主体の中に在ることができない。(「エチカ」畠中尚志訳) Res eatenus contrariae sunt naturae hoc est eatenus in eodem subjecto esse nequeunt quatenus una alteram potest destruere. この定理は読めば意味は分かる。私が気になるのは、それは最初から気になっていたことでもあるが、いったいスピノザは「本質」essentiaと「本性」naturaとを…

  • エチカをめぐる断想(14)

    第三部 感情の起源および本性について No2 定理4 いかなる物も、外部の原因によってでなくては滅ぼされることができない。(「エチカ」畠中尚志訳) スピノザの論理からすると人間精神は外部の原因なくして自ら消滅を望むことはありえないのである。自殺者から自殺に至る原因をすべて取り除けば、自殺することはありえないだろう。 したがって自殺の決意は状況を超越した自由意志による決意ではない。「華厳の滝」の藤村操や芥川龍之介の自死が人々に衝撃を与えるのは、原因のない精神の自死のように見えるからであるが、よく調べれば必ず何らかの外部の原因があるはずであって、いわゆる哲学的自殺といえども絶対の自由意志によるもの…

  • エチカをめぐる断想(13)

    第三部 感情の起源および本性について No1 まだ第二部の理解は充分とは言えないが、とにかく『エチカ』全体を読み通してから、また再度考え直してみたい。このため第三部へ進むことにする。精神はさておき、少なくとも私には感情があることは確かだ。 定理1 我々の精神はある点において働きをなし、またある点において働きを受ける。すなわち精神は妥当な観念を有する限りにおいて必然的に働きをなし、また非妥当な観念を有する限りにおいて必然的に働きを受ける。(「エチカ」畠中尚志訳) この定理は第二部の次の箇所を再確認したものである。やや長いが重要な箇所なので引用しよう。 第二部定理29備考(抜粋) 精神は物を自然の…

  • エチカをめぐる断想(12)

    第二部 精神の本性および起源について No10 しかし、よく考えてみると一般概念というものは妖しいものである。それは確固たるものではなく、とりあえずのものに過ぎない。例えば「神」とか「人間」という概念については、まあ、いろんな人がいろんなことを言っている、ということでしかないだろう。 なぜ、そうならざるを得ないかと言えば、誰も本当のことは分からず、ただ表象像しか持っていないからだ。つまり因果系列の全体像など、誰も知っていないから、私たちが知っているのは、ただ何らかの表象とそれに対応した言葉だけなのである。それゆえ一般概念とはスピノザの用語では「非十全な観念」ということになる。 スピノザの「共通…

  • エチカをめぐる断想(11)

    第二部 精神の本性および起源について No9 さていよいよ「共通概念」であるが、その名称から受ける印象と異なり、私が通常考えている「概念」とはまったく別物のようだ。 共通概念は人間が「非十全な認識」から「十全な認識」へ至るうえで不可欠のものである。 すると次に提起される問いは、人間が元々「非十全な認識」を持つ運命にあるのであれば、なぜスピノザは「十全な認識」をもって『エチカ』を書くことができたのかである。 スピノザに言わせれば、「それは私が人間を捨てたから」と答えるかもしれない。さらに、「人間を捨てたから、誰もがもっている共通概念に特別な意味を見いだすことができた」ということであろう。 さて比…

  • エチカをめぐる断想(10)

    第二部 精神の本性および起源について No8 この第二部を読んでいるうちに、次第にスピノザの言う「人間精神」が謎めいてくるのを感じる。 人間精神は身体を構成する諸個体の観念によって構成されるのだが、しかし、人間精神は自分を構成する諸個体の観念を認識できないのである。 人間精神は人間身体自身を認識しないから、(略)人間精神はその限りにおいて自分自身を認識しない。(定理23証明抜粋)(「エチカ」畠中尚志訳) つまり人間精神は単一の精神ではなく諸個体の観念の複合体であるが、同時に自分を構成している部分を認識しないのである。このことは、現代風にみれば臓器感覚が曖昧であることや心が無意識によって成り立っ…

  • エチカをめぐる断想(9)

    第二部 精神の本性および起源について No7 定理14~36は「非十全な観念」を扱う箇所であるが、これほど「非十全」を執拗に説明しているのは、通説を「非十全」として批判することにより、「十全な観念」に至るためであろう。すると次に提起される疑問は、人間精神の何がどうしてどのように「非十全」であるのか、またどうやって「十全な観念」に至るのかということである。 このためには、前提となる人間精神の仕組みをスピノザがどう考えていたか明確にする必要がある。 定理16 人間身体が外部の物体から刺激されるおのおのの様式の観念は、人間身体の本性と同時に、外部の物体の本性を含まなければならぬ。 定理25 人間身体…

  • エチカをめぐる断想(8)

    第二部 精神の本性および起源について No6 スピノザの公理の中には自明と思われないものもある。補助定理3の系の後に挿入された次の公理がそうだ。 公理1 ある物体が他の物体から動かされる一切の様式は、動かされる物体の本性からと同時に動かす物体の本性から生ずる。したがって、同一の物体が、動かす物体の本性の異なるにつれてさまざまな様式で動かされ、また反対に、異なった物体が、同一の物体からさまざまな様式で動かされることになる。(「エチカ」畠中尚志訳) 最初この公理を読んだ時、自明でないというよりも意味不明だったのだが、それは「本性」の意味が分からなかったからである。 確かに物体Aが物体Bに衝突したと…

  • エチカをめぐる断想(7)

    第二部 精神の本性および起源について No5 この第二部は流し読みすると人間精神や記憶について奇妙な理屈を展開しているように思えるのだが、スピノザが考えていた精神や記憶は、常識とは異なるものであるから、まずは常識を捨ててかかる必要がある。定理17の系は表象に関するものである。 定理17の系 人間身体をかつて刺激した外部の物体がもはや存在しなくても、あるいはそれが現在しなくても、精神はそれをあたかも現在するかのように観想しうるであろう。(「エチカ」畠中尚志訳) この定理の系の証明は、人間の身体は流動的な部分(電子も人間の部分であるから神経電流が例として考えられるが、それは血液と同様、常に流動して…

  • エチカをめぐる断想(6)

    第二部 精神の本性および起源について No4 第二部は定理13と定理14の間に追加公理と補助定理が挿入されている。 これらの公理・定理は一見スピノザ流の物理学のようであり、人間身体を論じる前に必要なのだろう。以前読んだときは煩瑣に感じられたのだが、永遠相から持続相まで論理を一貫させると、こうならざるを得ないと思えてくる。ただ、物理学と異なる点は、まずスピノザは数の存在を想像知としてしか認めていない。だから、複数の物体が作用しあう論理はあくまで様相(変状)としての幻影の論理なのである。さらに、スピノザにとって個物とは特異性であるから、個物同士の作用もまた特異であり、そこから一般法則は導出できない…

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