chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
taro
フォロー
住所
未設定
出身
未設定
ブログ村参加

2019/05/11

taroさんの人気ランキング

  • IN
  • OUT
  • PV
今日 04/24 04/23 04/22 04/21 04/20 04/19 全参加数
総合ランキング(IN) 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 1,034,326サイト
INポイント 0 0 0 0 0 0 0 0/週
OUTポイント 0 0 0 0 0 0 0 0/週
PVポイント 0 0 0 0 0 0 0 0/週
哲学・思想ブログ 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 14,679サイト
東洋思想 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 145サイト
西洋思想 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 46サイト
※ランキング順位が「圏外」と表示される時は?
今日 04/24 04/23 04/22 04/21 04/20 04/19 全参加数
総合ランキング(OUT) 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 1,034,326サイト
INポイント 0 0 0 0 0 0 0 0/週
OUTポイント 0 0 0 0 0 0 0 0/週
PVポイント 0 0 0 0 0 0 0 0/週
哲学・思想ブログ 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 14,679サイト
東洋思想 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 145サイト
西洋思想 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 46サイト
※ランキング順位が「圏外」と表示される時は?
今日 04/24 04/23 04/22 04/21 04/20 04/19 全参加数
総合ランキング(PV) 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 1,034,326サイト
INポイント 0 0 0 0 0 0 0 0/週
OUTポイント 0 0 0 0 0 0 0 0/週
PVポイント 0 0 0 0 0 0 0 0/週
哲学・思想ブログ 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 14,679サイト
東洋思想 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 145サイト
西洋思想 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 46サイト
※ランキング順位が「圏外」と表示される時は?
  • サドをめぐる断想(11)

    サドをめぐる断想(11)

    私はここで『伝道の書』を開けて、読むのよ。 『私は人間の子等について心の中でこう言った。神はそれをありのままに見せ、本当に自分は獣だと彼等に悟らせるのだ。人間の行末と獣の行末は同じものだ、人間も死に、獣も死ぬ。二つとも同じ息をしている。人間が獣にまさるというのは空しいことだ。二つとも同じ所に行く。二つとも塵から出て塵に帰る』 この詩ほど決定的に来世の存在を否定しているものはないでしょうね。 (「ジュリエット物語又は悪徳の栄え」サド著 佐藤晴夫訳 357頁) J’ouvre l’Ecclésiaste, et j’y vois : L’état de l’homme est le même qu…

  • サドをめぐる断想(10)

    サドをめぐる断想(10)

    簡単に言うと、苦痛とは我々にとって異質な対象と我々の身体の組織を構成している分子との極く僅かな関係の相違によって生じるのです。どういうことかと言うと、異質の対象から発出する分子が我々の神経の中を流れている体液と接触するとき、うまく結合すると、その衝撃が快感として受け止められるのですが、両者が接触する際に拒絶反応を起こすと、不快、苦痛として感じられるのです。しかし、接触の結果が快であっても不快であっても、結果は結果であり、神経体液に対して或る衝撃が生ずるのは間違いないのです。(中略)単純な感覚から生まれる快楽に飽き飽きしている私達は、強力な感覚でありさえすればそれを快楽と感じるように慣れてしまっ…

  • サドをめぐる断想(9)

    サドをめぐる断想(9)

    所有権というものの起源を辿って行くと、先ほど話をしたように、盗みや横領に行き当たってしまうのだ。ところが、盗みは他人の所有権の侵害という理由で処罰されることになっているね。しかし、考えてみると、盗みの対象となる所有権は元を正せば盗みそのものによって成立したものではないのかね? そうだとすると、法律は盗みを侵害する盗みを罰し、自分の権利を回復しようとする弱者を罰し、自然界から与えられた当然の権利を確立し、増強しようとする強者を罰しているのだ。一体世の中にこれほど支離滅裂、非論理的なことがあるのだろうか? (「ジュリエット物語又は悪徳の栄え」サド著 佐藤晴夫訳116頁) En remontant …

  • サドをめぐる断想(8)

    サドをめぐる断想(8)

    自分を幸せだと信じている人間は実際に幸せなのよ。汚辱に塗れている人間は自分を幸せだと思っているし、いわゆる美徳を自慢している人間も自分を幸せだと思っているのだよ。だから、幸福というものはそれぞれの人間が自分の思うままに行動することによって手に入れることができる一つの状況に過ぎないのだよ。幸福は専ら私たちの理性や気質や有機組織に依存しているのであって、美徳が勝利を収めた場合に幸せを感じるのも、悪徳の淵に沈んだ場合に幸せを感じるのも、同じことなのだよ… (「ジュリエット物語又は悪徳の栄え」サド著 佐藤晴夫訳88頁) c’est qu’il se croit heureux alors, et qu…

  • サドをめぐる断想(7)

    サドをめぐる断想(7)

    スピノザの最終定理に対する前回のサド的解釈は、いわば「エチカ」の諸定理を「脱構築」して到達したものだが、これと同じ疑念をスピノザの同時代人が提出している。 「スピノザ往復書簡集」にみられるブレイエンベルフである。もっとも私はドゥルーズの指摘(「スピノザ実践の哲学」)によって知ったのだが、世の中には似たような考えの人もいるものだ、と思った。だが彼のスピノザ批判ははなはだ興味深い。 ブレイエンベルフの批判は多岐にわたっているが、それは概ね神を人格神とする思い込みによるものである。だが、次の批判はスピノザ思想を踏まえた内在的批判になっていて、前回のサド的解釈に通じるものがある。 貴下(引用者注:スピ…

  • サドをめぐる断想(6)

    サドをめぐる断想(6)

    サドはさておき、スピノザの話ばかりになるが、「エチカ」の第五部を読んでいると、明らかにサドと異なるので、スピノザとサドを似た者同士として比較するのは無理筋のように思えてくる。私としては、これほど似た者同士がなぜ最終的に正反対になるのか、そこが興味深いのだが、同時にそれは正反対ではないかもしれないという疑念もつきまとうのである。 そのため、これからサドと比較していく前準備の思考実験として、サドのリベルタンになりかわって「エチカ」第五部の結論を再解釈してみたい。いわばスピノザのサド的解釈である。問題は次の定理である。 第五部定理42 至福は徳の報酬ではなくて徳それ自身である。そして我々は快楽を抑制…

  • サドをめぐる断想(5)

    サドをめぐる断想(5)

    サドとスピノザとの違いは、何も諸感情を一つ一つ比較照合するまでもなく一目瞭然であり、サド的人物の展開する唯物論には、スピノザの「心身並行論」が含まれていないのが大きな違いである。だからたとえ外観が似ていても、両者が根本的に異なることは比較するまでもなく明らかである。 ただスピノザの優れている点は、そのような結果としての概括的比較とは別に、個々の論点についても諸定理に基づいて比較しうることである。この作業によって、諸定理の証明を最初から順に追うよりも、論点を中心に遡及的に諸定理の意味を明確にすることができるとともに、他の思想の含意も明確になる。つまりスピノザの思想が座標軸となりうるのである。これ…

  • サドをめぐる断想(4)

    サドをめぐる断想(4)

    サドのリベルタン(以下、サド的人物とする)に能動性の標識である「喜びの感情」があったか否かは、これから検証しなければならないが、少なくとも「後悔」を拒否している点は、スピノザと共通している。ただ、やはりどういう意味での拒否なのか、その根拠を両者について見てみよう。まずサドの場合である。 私達にかかわりがないものが原因で衝撃が生じても、私達の器官に従属しているものが原因で衝撃が生じても、どっちにしても私達はその衝撃を食い止めることなんて、できると思うの? (中略)だから、後悔なんていう感情は臆病な気の弱さに過ぎないのだし、私達次第のことなのだから、よく考えて、理性を働かせて、習慣をつけて、打ち負…

  • サドをめぐる断想(3)

    サドをめぐる断想(3)

    情欲は飲食の欲求と同じように極めて重要なのだから、お互いに何の遠慮もなしに認め合わなければならないのよ。それに、女の慎みは、実は洗練された淫蕩の一つの流儀に過ぎないのよ。女にとって情欲が益々高まってくるのを待ち望みながらじっとしているのはとても楽しいことなのに、女を寝取られる間抜け男は、女が快楽を追い求めているに過ぎないことに気が付かないで、それを美徳と間違えてしまうのだわ。貞節は美徳だと言うのは、空腹を我慢するのは美徳だと主張するのと同じくらい滑稽なことだわ。 (「ジュリエット物語又は悪徳の栄え」サド著 佐藤晴夫訳64頁) Osons arracher le voile ; le besoi…

  • サドをめぐる断想(2)

    サドをめぐる断想(2)

    理性とは一体何なのか? 理性というのは私達が自然界から与えられた能力であって、私達が或対象から受け取る快楽又は苦痛の量に比例して、理性は私達をその対象に向かわせたりあるいは遠去けたりするのよ。私達は苦痛を与える印象と快楽を与える印象を専ら感覚を通して受け取るわけだから、理性というのは私達の感覚に委ねられている一種の計算なのだわ。(「ジュリエット物語又は悪徳の栄え」サド著 佐藤晴夫訳38頁) Qu’est-ce que la raison ? C’est cette faculté qui m’est donnée par la nature de me déterminer pour tel …

  • サドをめぐる断想(1)

    サドをめぐる断想(1)

    サドは読まれなければならない。とりわけ自己の特異性において語る者は、なぜ自分は語るのか、そして自己の特異性にも関わらず他者への伝達が可能であるのはなぜか、おそらくサド以外は誰も考えなかった思考が、そこにあるからだ。スピノザでさえも、その考察が抜けている。何故そのことを誰も考えなかったのか? その理由は、語る者は語る行為において既に言語を自明の前提としているからである。 確かにスピノザは言語を表象(想像知)として批判している。またソシュール以来、いわゆる言語論的転回が現代思想を活気づけてきたのは事実である。だが、そもそもなぜ、言語によって言語以前性を考察しうるのか、それはいまだに謎である。 まず…

  • 夜のスピノザ

    夜のスピノザ

    スピノザの心身並行論によると延長と思惟は同じ実体の属性であるから、延長物体には必ず観念が伴う。人間以外の物体も観念を持っているのである。このことは決してオカルトではない。物体を擬人化しているのではなく、観念についての通説を変革し、観念を脱人間化しているのである。人間身体が日々の摂食によって外部の物体を取り込んでおり、外部の物体によって構成されていること、そしてその物体の観念が人間精神を構成する素材なのだと考えると、物体が観念を持つということも不自然な考えではないように思えてくる。というか、その心身並行論こそが、主客二元論のアポリアを解決し、人間精神の謎を解く唯一の鍵である、と私は思う。 そして…

  • エチカをめぐる断想(終)

    エチカをめぐる断想(終)

    第五部定理14 精神は身体のすべての変状あるいは物の表象像を神の観念に関係させることができる。(「エチカ」畠中尚志訳) ワーグナーの長い楽劇は最後に御褒美があると言われているが、ワルハラ炎上の音楽は、それまでしつこく聞かされた指導動機の集大成でもある。同様に「エチカ」の最後の御褒美である「第三種の認識」も、それまでの考察の集大成のようである。 例えばこの定理14の証明には、第1部定理15が使われている。それはあたかも円環のように、最後が最初に繋がっているようだ。江川隆男の著書(スピノザ『エチカ』講義)が最後に第一部へ帰還するのは慧眼である。この「第三種の認識」がいかなるものか、やや長くなるが、…

  • エチカをめぐる断想(25)

    エチカをめぐる断想(25)

    前回の断想(24)は、「エチカ」からはみ出し、脱線したところがある。つまり「エチカ」が述べている事柄以上のことを言ってしまったようだ。だが第四部定理35はスピノザがサドから区別される最も重要な定理であり、この定理の証明が不充分であるなら、スピノザの論理はサドのリベルタンとほぼ同じになってしまうのである。 その定理の証明で私が疑問に思ったのは、個人の自己保存衝動が「したがってまた」他のおのおのの人間の自己保存衝動と連結するという部分である。この部分の証明が不充分と思われるので、私は推測によりスピノザ的理性(共通概念)が個人の自己保存衝動を集団保存衝動へ変えると解釈した。なぜならそのように解釈して…

  • エチカをめぐる断想(24)

    エチカをめぐる断想(24)

    第四部定理35 人間は、理性の導きに従って生活する限り、ただその限りにおいて、本性上常に必然的に一致する。(「エチカ」畠中尚志訳) この定理の意味は明瞭なのだが、不穏な定理である。というのはキリスト教においては、信仰によらず人間理性のみに従うことは傲慢の罪であり、しかも「ただその限りにおいて」ということは、逆に理性の導きに従わないなら、つまり理性を捨てて信仰に従うなら、人間は一致しないと述べているからである。 現代人でも理性万能主義の限界を感じる者が多いであろう。だが、そうした理由で、この定理を承服しがたいと思うとすれば、それは早とちりである。つまり、それはデカルト以来の理性観とスピノザの理性…

  • エチカをめぐる断想(23)

    エチカをめぐる断想(23)

    第四部定理15 善および悪の真の認識から生ずる欲望は、我々の捉われる諸感情から生ずる多くの他の欲望によって圧倒されあるいは抑制されることができる。(「エチカ」畠中尚志訳) 「善および悪の真の認識」という言葉からして意味不明なのだが、これはスピノザの定義を踏まえていれば、難しいことを言っているのではない。公共世界の共通理解(以後、「常識」という)では、善・悪は人間の徳として考えられている。だから善人・悪人というように人間に内在する性質のように受けとめられるのだが、スピノザの定義では善・悪は外部の対象なのだ。(第三部定義1、2)だから真の認識とは、対象と一致した観念であるから、「善および悪の真の認…

  • エチカをめぐる断想(22)

    エチカをめぐる断想(22)

    第四部定理1 誤った観念が有するいかなる積極的なものも、真なるものが真であるというだけでは、真なるものの現在によって除去されはしない。(「エチカ」畠中尚志訳) 一読して意味不明だが、背景から考えてみよう。まず、スピノザにとっては、いかなる観念(誤った観念も含む。例えば太陽が水面に反射しているのを見て、太陽が水中にあるという観念)も、神との関係では真なのである。神は万物を産出し、原因の認識は結果の認識を産出するのだから、万物(延長物体)が産出された秩序と同じ秩序で思惟属性の観念も産出される。そして神が産出したものはすべて真であるから、人間にとって誤った観念も神にとっては真である。それは当然であり…

  • エチカをめぐる断想(21)

    エチカをめぐる断想(21)

    第四部序言(抜粋) 私が先に(第二部定義六)実在性と完全性とを同一のものと解するといったのもこのためである。すなわち (引用者注No1)「我々は自然における一切の個体を最も普遍的と呼ばれる一つの類に、言いかえれば自然におけるありとあらゆる個物に帰せられる有という概念に、還元するのを常とする、こうして自然における個体をこの類に還元して相互に比較し、そしてある物が他の物よりも完全性あるいは実在性を有すると認める限り、その限りにおいて我々はある物を他の物よりも完全であると言い、またそれらの物に限界、終局、無能力などのような否定を含むあるものを帰する限りその限りにおいて我々はそれらの物を不完全と呼ぶの…

  • エチカをめぐる断想(20)

    エチカをめぐる断想(20)

    第四部定理7 感情はそれと反対のかつそれよりも強力な感情によってでなくては抑制されることも除去されることもできない。(「エチカ」畠中尚志訳) これはスピノザの有名な定理だから、じっくり見ていくことにしよう。要するに理性によって感情を制御することは不可能だと主張しているのである。これは実感に合致するともいえるし、そうかな?と疑問を感じるところでもある。だがスピノザの論証は心身並行論を踏まえた実に精妙なものである。 まず前回の総括的定義によれば、感情(スピノザはこれを身体変状の「観念」として思惟属性に含めている)とは、「自己の身体につき以前より大なるあるいは小なる存在力を肯定する観念」であった。 …

  • エチカをめぐる断想(19)

    エチカをめぐる断想(19)

    <スピノザの感情論>(承前) 精神の能動・受動については前述のとおりだが、身体にも能動・受動があるのか? 精神と身体は並行しているのだから、おそらくあるのだろう。 問題は精神の能動・受動は、精神活動の原因が<十全な観念>か<非十全な観念>かで説明できたのだが、身体の場合はどうなるのか、である。 スピノザが能動とか自由とか言う場合、それは神をモデルにしているのである。「エチカ」の幾何学的秩序のように、自己原因としての本質が展開explicatioして存在となる、それが能動であり自由である。 第一部定義7 自己の本性の必然性のみによって存在し・自己自身のみによって行動に決定されるものは自由であると…

ブログリーダー」を活用して、taroさんをフォローしませんか?

ハンドル名
taroさん
ブログタイトル
アクリマタシオンの読書日記
フォロー
アクリマタシオンの読書日記

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用