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救済先行 信仰後続 https://user2018.hatenablog.com/

神は、世界の基が据えられる前から(中略)みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。(エペソ1:4~5)

シェアル・ヤシュブ
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2019/04/28

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  • 聖書と無教会主義と実験的信仰

    太宰治の掌編『一問一答』では、「あなたは、クリスチャンですか。」という問いに対して「教会には行きませんが、聖書は読みます。世界中で、日本人ほどキリスト教を正しく理解できる人種は少いのではないかと思っています。キリスト教に於いても、日本は、これから世界の中心になるのではないかと思っています。最近の欧米人のキリスト教は実に、いい加減のものです。」と答えています。 太宰が、日本人ほどキリスト教を正しく理解できる人種は少いのではないかと思った理由は何かわかりませんが、おそらく無教会主義のキリスト教徒を見てのことだろうと推察します。 ちなみに彼は『苦悩の年鑑』という短い作品の中で「何某先生」という表現で…

  • 「神」はなぜ、「絶対(他)者」でなければならないか?

    キリスト教神学の中心は救済論であって神論ではなく、ましてや三位一体論でもないのです。ということは、神について絶対だの遍在だのと論じること自体が見当違いであり、思弁を弄して知的満足を得ようとすることは程々にしないといけない、ということになります。考えること自体は大切だし必然的ですが、その内容は神論であるより以上に救済論でなければなりません。観念的であるより以上に実際的でなければならないのです。すると神は、「絶対ー相対」とか「有ー無」とか…あらゆる二項対立を超えていると諦められて然りです。以下はボンヘッファーの言葉です。 「神を非宗教的に語ろうとする時には、世界の無神性が何らかの仕方で覆われるので…

  • キリスト教を戻ってイエス教へ

    上村静氏はその著書『宗教の倒錯 ユダヤ教・イエス・キリスト教』(岩波書店)の終章1・1「<覇権主義>と<セクト主義>」の冒頭で、預言者の神観すなわち「イスラエルの民族神ヤハウェが世界の神であるという神観の発展形として生み出されてきたもの」を「普遍主義」と称することで肯定的な(…その「肯定的」という意味は「その救済はイスラエルの民に限定されるのではなく、世界の諸民族に遍く広くもたらされ、こうして世界平和が実現されるだろうという希望の表現として…)評価を有するものであるかのように見せかけているのであって、それは欺瞞であり、実態は「民族主義に基づく普遍主義=<覇権主義>」であるのだと述べておられる。…

  • キリスト教を戻ってイエス教へ(2)

    そもそも、聖書はなぜ「聖」なる書物だと言えるのでしょうか? そこで、上村静著『旧約聖書と新約聖書 ー「聖書」とはなにか』(新教出版社)の「はじめに」より引用します。注は〔※〕で挿入。 (以下、引用) 「聖」とは「神聖」ということであり、要するに神の属性である。つまり、「聖書」とは神に由来するものだという主張がこの表現に含まれている。〔※Ⅰテモ三16 「(旧約)聖書全体は神の霊によるもの」参照。〕 聖書は「神の言葉」であると言われる由縁である。それが「神の言葉」であるがゆえに、規範的なもの、拘束力を持つものとされる。ところで、現在「旧約聖書」に入れられている書物と相前後して、「神の言葉」として書…

  • キリスト教を戻ってイエス教へ(3)

    太宰治が先輩と慕った山岸外史の『人間キリスト記』は太宰自身、『「人間キリスト記」その他』という掌編で推奨していることもあり、私が読んでみたいイエス本の一つですが未読です。太宰は『駆込み訴え』でユダの口を介してイエスを「美しい」などと書いていますが、ああいった感覚には私は耐えられないので、基本的に太宰のイエス観に自分は共感しないと感じており、太宰が絶賛するイエス本はあまり読む気にはならないのです。そもそも男が男を「美しい」などということ自体が大いに嫌です。ましてやその男がイエスともなるとなおさらであり、ドストエフスキーだろうが椎名麟三だろうが太宰治だろうが…誰であろうと、そういうイエス観を持つ人…

  • 神話と歴史

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