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  • 拠り処(精神的支柱)

    人は自らが.自らの主人であり.それより高い処から人の運命を差配したり審判するような神.仏などの絶対的な存在や力などなく…人は自らが自らの拠り処となり、他のものを拠り処とするなかれ…法(真理.法則.仏法)を自らの拠り処とし、他のものを拠り処とするなかれ…人は自らの努力と知性によって、汎ゆる束縛や無明やドゥッカ(苦)から自分を解放することが出来るのであり、自己解放は人が自ら真理を実現することにより得られるものであり、神や仏や外的な力から、その従順な信心.信仰.崇拝に対する報いとして与えられるものではないのですから…例えば、教師や反面教師から何かしらを学ぶとき.自分の主人は自分であるが、神や仏やその…

  • 今も昔も.そして将来も、社会には.汎ゆる罠が張り巡らされていて、そうと気付かずに無闇.迂闊に近づくと、騙されたり.大切なものを搾取されたりする事になるので、気を付けてなければいけないと、お釈迦様も仰っています… お釈迦様が説かれた十二因縁(十二縁起)も或る意味に於いて、騙されたり.搾取されたりしない為に、因果律に従った物事の道理に沿った在りようの洞察力の開発と言えるのです…先ず、社会の中で生まれ育って来た[自分]というものを冷徹にそして客観的に観察して見れば、人それぞれに物事に対して色々な見方.考え方.見解.認識がありますが.果たして.それが本当に自分の見方.考え方.見解.認識であると言えるの…

  • 末法思想

    仏教の[末法思想]について.どう読み解くかが重要なのではなかろうか… 世の中で盛んに末法思想を叫ぶ人達は、釈迦尊(ブッダ)の教えはもう古臭くて時代にそぐわないものだから.何たらと[あっちの水は苦いぞ.こっちの水は甘いぞ-]と末法思想を歪曲して捉えながらも.釈迦尊(ブッダ)の権威にはしっかりと阿っている感が否めないが、真の意味は釈迦尊(ブッダ)在世当時でも優れた弟子もいれば.愚かな弟子もいただろうし、教えを理解できるものも理解できない者もいだろう、そして理解できない者に限って欲望や自我意識などか強いものであり、そのような者達が.やがては仏の教えを大衆迎合的に捻じ曲げたり変質させていき仏法も堕落し…

  • 妄想癖

    人がもし妄想から離れることが出来たならば、苦しみはその人から離れ去る… 莫妄想(まくもうぞうー妄想するな)という禅語もあるように、妄想とは今という大切な時間を浪費させてしまったり、今やるべき事.今考えるべき事を蔑ろにしてしまったりするものなのです… まして知識や情報は湯水の如く溢れ返り、人の欲望を刺激して止まず、何かしらに追われ急かされているような現代社会では、何時もゴチャゴチャと雑念していたり、妄想へ陥ってる人達も多く、それが為に尊大であったり.心を貧しくさせたり、我欲に翻弄されて苦しみや不満を造り出し、却って満たされる事がない人が多いのです… 人間とはその卓越した思考力で物事をアレコレと想…

  • 輪廻の替歌

    [千の命になって] 千の風になって 替歌 私のお墓の前で 泣かないでくださいそこに私はいません 成仏なんかしてません輪廻の流れを 因果律に沿って激しい流れの中を 転生しています 秋には虫になって 畑を食い荒らし冬は腹を空かせた 小さな猫になる朝は鳥になって 餌を探しまわり 夜は猿になって 森で騒ぎたてる 私のお墓の前で 泣かないでくださいそこに私はいません 成仏なんかしてません千の命に 千の命になってこの無常な世界に 繋ぎとめられてます 千の命に 千の命になってまた人の身となる日を 夢見て生きてる また人の身となる日を 夢見て生きてる ⬛原曲 千の風になって 私のお墓の前で 泣かないでください…

  • 四苦八苦

    釈迦尊(ブッダ)は人生とは四苦八苦の中にあることを直視され、何故苦があるのか.どうすれば苦から脱却できるかを追求された方でもあり…世の中には苦が確かにある…しかし苦があるからこそ楽もある…それに明確に気付いた瞬間から.今まで怖れ.忌み嫌って自らが造り出していた妄想に過ぎない苦は消え去り、堅固な平安.悦楽.歓喜.静逸が顕現したのです…つまりは苦を直視し、苦を理解し.苦を乗り越え.苦から解き放たれるのが仏の教えなのですから… 生きるとは苦(ドゥッカ)の中に存在する事であり、言い換えれば空(中道)という安定状態から.対称性(安定性)が破れた不安定状態こそが苦(ドゥッカ)の本質であり、仏教では肉体的な…

  • 祈 り

    皆さんが良い一日を過ごしますように…世の中が平和でありますように…衆生(人々.生きとし生きるものたち)が、幸せでありますように…衆生(人々.生きとし生きるものたち)の、悩み苦しみが無くなりますように… 衆生(人々.生きとし生きるものたち)の、願い事が叶いますように… 衆生(人々.生きとし生きるものたち)に、悟りの光が現れますように… 私を嫌う人々が、幸せでありますように…私を嫌う人々の、悩み苦しみが無くなりますように…私を嫌う人々の、願い事が叶いますように…私を嫌う人々に.悟りの光が現れますように… 如来品正師 多々方路傍石

  • 神秘と不思議

    不思議(ワンダー)と神秘(オカルティズム)という言葉は混同して捉えられがちですが、似て非なる真逆で対極的ものなのです…不思議(ワンダー)とは不可思議の略語であり人間が[思議し得ない]ことを指すのであり、つい近代に至るまでは.生命を生み出した大いなる力である光も.水も.電気なども.無知で未開だった人類にとっては.不思議な力でしたが、その知性と努力と探究心や知的好奇心で開拓し.開明して思議できるようになったのです…それでもこの世界は.まだまだ通常の人間には思議し得ない不思議(ワンダー)で溢れてもいるのです…そしてそんな人類を覚醒させ超越させ解放させ幸せをもたらす超現実的とも言える不思議(ワンダー)…

  • 教祖と信者

    宿したる真夏の日差しを温もりに無明の闇を 晴らすが仏道 作為的なマスゴミの情報に翻弄されぬよう日頃あまり気にもしないのだが、[教祖と信者]という関係性を女性アナウンサーと按摩師の夫の関係性とに重ねた記事見出しに目を止めた…何かとストレスが掛かるだろう芸能界の多くの人は現実逃避欲求からか、スピリチュアルとか非現実世界へ心が惹かれるようで鸚鵡教祖と同じインチキ按摩師の夫に染脳(洗脳)されて教祖と信者関係を築いて迷惑の種になっているらしい…仏教で言えば、多くの人が誤解しているのですが釈迦尊(ブッダ)は決して教祖などという類の方ではなく.御自身も教祖だとは考えてもいなかったようであり、釈迦尊(ブッダ)…

  • 価値観

    心の中を探してごらん…仏も住めば、鬼も住む…極楽浄土も.地獄の闇も.心の中に啓くもの… 人それぞれに価値観があり、人それぞれに生き方があります…民主社会である日本でも.男であれ女であれ.それは法治や公序良俗を侵さない範中において何を信じ.何を嫌い.何を求め.どんな生き方をしようが.自由なのです…しかし自分が信じ.好み.価値観を見い出すもののみが優れたものであり、他は間違ったもの.劣ったものだと主張することは了見の狭い自我(エゴ)の捉われに他ならないのです…仏教思想の根幹も、こうしろ.ああしろという人様を型に嵌めるような物ではなく、まして他の宗教がもつ罪科とか罰というものとも無縁であり、ただ自業…

  • 祝福の啓示

    【 祝福の啓示 】 如来品正師 多々方路傍石 伝説 諸国を行脚し、猛暑の夏.寒中の冬も厭わず托鉢.辻立ちの幾星霜の日々…縁あって上野不忍口を[心の沐浴場]と定め、右方には暮らし貧しき者達が群れ、左方には心の貧しい者達が行き交う.辻に立ちて凡そ十年の時が過ぎし夕刻、天空.俄かに明らみ、世界はその動きを止め.光音天の妙なる調べと.法華の芳しき香りに我れ包まれたりし時…天上界より大梵天は緒天を随え勧請賜えり…「嗚呼、今のままでは此の世は終わってしまう…、今のままでは此の世は壊れてしまう…汝、完成者よ、清浄なる梵天界にまで達したる其の成道を天と神仏は祝福するだろう…大地は喜びに打ち震え、海は大波となっ…

  • 三学と三毒

    仏教で自ら修めてゆく三学を戒定慧(自戒.禅定.智慧)と言い、自ら拭ってゆく三毒を貪瞋痴(貪欲.瞋恚.痴愚)と言います…この二つは功徳と苦毒という真逆な果報へと通じてゆく重要な項目なのです…両者の関係性は、煩悩(存在欲)の渇望により生じる三毒(貪瞋痴)を滅却し解き放たれてゆく為の三学(戒定慧)であり、貪欲は戒めによって抑え、瞋恚(激しい怒り)は禅定によって抑え、愚痴(愚かさ)は智慧によって抑えてゆくのです…[戒定慧]と[貪瞋痴]を説かない仏教は[仏教]ではない!と言い切ってしまえる程.仏教の核心でもあり、仏教とは呪文や真言やお題目を唱えることでも.得体の知れない神様や菩薩や如来に縋る事でも讃え.…

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