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  • 思考停止

    お互い様とお蔭様【思考停止について】 「俺はツイてない」と、自分の不運を社会や他人のせいにする人は思考停止しがちだと言われるが、これは全くの誤解である。 ●まず[思考停止]という言葉の誤解について、世の中で言う[思考停止]を、[何も考えていない]と解釈すると、大勢の愚かな人達は「私は違う」と勘違いして安堵するだろうが、実はそれが大間違いであり.何処が違うか理解できない処が[思考停止]だと言えよう 【思考停止】 思考停止とは高度な瞑想などで得られる状態であり、普通の人達は考える必要がない時でも.何かしら考えていないと落ち着かない(つまりは煩悩に考えさせられている)のである世の中で使われる思考停止…

  • 死随感

    生きる価値を見い出し、前向きに.そして歓びに満ちて日々を送る為には死随観が必要なのである。 死随感は[死生観]でもあり、人は死を怖れる余り.[死]を考える事から遠ざかり避け.自分には死など無関係だと錯覚し.大切な時間を詰まらない物事.下らない物事.どうでもいい物事に浪費したり、なんで生きるの?何で働くの?何で空しいの?と妄迷へと陥ったりする時、これこそが脳の働き(主観)であり、脳(思考)は死を認識する事が出来ず、感覚器官に何かしら刺激を与えていないと安定を失ってしまうのである。 生死は一如なり、 人は何のために生まれ、何のために生きるのかという素朴な疑問にすら答えることが出来ないままに無明(本…

  • 思考停止

    お互い様とお蔭様【思考停止について】🔵「俺はツイてない」と、自分の不運を社会や他人のせいにする人は思考停止しがちだと言われるが、これは全くの誤解である。※まず[思考停止]という言葉の誤解について世の中で言う「思考停止]を「何も考えていない」と解釈すると、大勢の愚かな人達は「私は違う」と勘違いして安堵するだろうが、実は違うのであり何処が違うか理解できない処が、思考停止だと言えよう。【思考停止】先ず思考停止とは高度な瞑想などで得られる状態であり、世の中で使われる思考停止とは、詰まらない物事.下らない物事.どうでもいい物事はいつもゴチャゴチャと雑念し妄想しているくせに.集中してよく考え吟味すべき大切…

  • 多々方路傍石 語録

    お互い様とお陰様 ◆如来品正師 多々方路傍石 語録 凡僧は道に阿り 愚僧は道に惑い 名僧は道をつくる ◆如来品正師 多々方路傍石 語録 「心、心と言うなかれ 、 心がなにかも識らずして」 ◆如来品正師 多々方路傍石 語録 沙弥(しゃみ)が囀る ヒバリの如く ピーチクパーチク喧しく とんびが呟く 無思考に 鯉が水中を世界だと勘違いしてる如く お山の定めに随いて 自縄とタガとに縛られて.真理に向かう道から逸れて 不毛で盲目的な系譜を紡いでく 真実とは とんびが鷹を生むが如く 鯉が滝を昇りて龍となる如く 啓けるものなれば ◆如来品正師 多々方路傍石 語録 忍耐とは、我慢する事ではなく動じない事てある…

  • 信仰とは

    甘露の門は開かれた 目ある者は見よ! 耳ある者は聴け! 心あるものは行なえ! 真理(真実.現実)は実践によって到達するものであり、観念.学説.論説.見解.知識.情報.空論は無益であり、それらが実践.実生を包摂することなし。 信仰とは情緒的なものであり、[生存苦](ドゥッカ⇒不安定.不完全.苦.悩み.恐怖 .哀しみ.心痛.迷い.悔やみ.儚さ.弱さ.脆さ.空しさ.無常さ.惨めさ.実質のなさ.無明.無知.欲)を本質とする存在である人間は[永遠不滅]への不毛な渇望により、[超越的な力]や[超越的な存在]を妄想し、愛着させ信仰化させ、自己の安全.安心.保護.恩恵の為には.それが無くてはならないものだと錯…

  • 甘露の門は開かれた 目ある者は見よ! 耳ある者は聴け! 心あるものは行なえ! 「心、心と言うなかれ 、 心がなにかも識らずして」 心とは脳機能(思考.記憶.識別.計算.論理.把握…)というコンピュータ的能力ではなく情緒.感覚.感情.衝動.渇望.意志などの業(カルマ)によって形成される本質的欲望との相互作用によって生じた概念を、脳域において思考を加えて主観を生じさせているだけであり、心の主人は[無意識]なのであり、いくら思考域で右に行きたいと思っても無意識が左だと思っているならば左に行ってしまうもの。 世の潮流である[意識改革系]のものが余り成果が上がらないのも此の無意識.潜在意識.潜在観念など…

  • 苦の考察

    苦の考察 中道が理解できない人達は、楽(スカ)とは愛おしむべき目的物であり、苦(ドゥッカ)とは忌むべき病害虫のごとく忌避するが、苦楽とは表裏一体なもの分別して捉えているだけに過ぎずない、だから楽を捕まえたと思って掌を開けてみれば苦であったりもするのである苦(ドゥッカ)とは[為すべき事をなせ]という感覚であり、もし仮に空腹という苦が生じなければ食事などせず栄養失調で死んでしまうだろうし、空腹を癒やし満腹となった後に苦が生じなければ排泄などせず糞詰まりと膀胱炎で死んでしまうだろう。もし打ち身に痛みがなかったら全身.痣だらけとなり皮膚呼吸不足で死んでしまうような落ち着きのない人もいるだろう。つまりは…

  • 負担量

    毒と薬は同じもの、苦楽も一如なり 人を殺す毒というものが在って、それとは別に薬という.人を生かすものが在る訳ではなく、苦という忌わしいものが在って、また別に楽という愛おしいものが在る訳ではなく、それらは単に負担量による作用(現象)の違いに過ぎない。 それは環境.時間.状態.負担量に影響されるものでもあり、薬も健康体には毒ともなり、毒も負担量により薬とも好い刺激ともなる、苦というものも楽があるから苦があるのであり、苦だと認知した時点からが苦であり、楽の姿で現れた感覚が古くなったものが苦であり、苦の感覚が古くなったものが楽であったりもする、だから昔の苦い経験や苦しかった想い出は味わい深く蘇るのに、…

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