chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
maika.fr
フォロー
住所
未設定
出身
未設定
ブログ村参加

2019/01/07

arrow_drop_down
  • 粘土団子を知ってるかい?

    Alessandro Sgaravatti - Castello di Lispida 皆さんは、福岡正信先生の名をご存知だろうか。不耕起、無肥料、無農薬、無除草の自然農法を提唱された方だ。また、ギリシャやスペインを初めタイ、ケニア、ソマリア等、世界十数カ国で、様々な種を混ぜ込んだ「粘土団子」での砂漠緑化を実践されたことでも知られ、海外では非常に高名だ。が、日本ではあまり知られていない。実は当初私たちも、イタリアの造り手から話を聞くまで、先生の名すら知らずにいた。仮にも「自然」を口にする「日本人」として恥ずべきことだと思う。 残念なことに、私たちがお目にかかる機会を得る前に、2008年、95歳で亡くなられた。その福岡先生のことを最初に教えてくれたのが、カステッロ ディ リスピーダのアレッサンドゥロ スガラヴァッティだった。元々医学部の学生だった彼は、葡萄栽培醸造を始めるにあたり、福岡先生の哲学を学んだと言う。実際に来日して、福岡先生を訪ねている。 今思えば、私たちはとてももったいないことをしたと思う。当時私たちは何の準備もできておらず、馬鹿だった。なにも福岡先生のことだけではない。実はリスピーダの地下蔵には、その時すでにかめ壺が埋められていたのだ。でも当時は、それに興味すら示さなかった。かろうじて、スペイン製のティナッハで、確かヨスコ グラヴネールからもらった、と言っていたと思う。 でも、その時の私たちときたら、「ヨスコって誰?」といった具合。ああ、恥ずかしや、恥ずかしや、壺があったら入りたい。結局、この程度の私たちだったから、(?)かめ壺ワインを試飲させてもらっていないと思う。まぁ、できの悪い奴には出さんというのも、仕方のないことか。もっともそのお陰で、私たちは後にクヴェヴリ グヴィノへ一目惚れ。ただならぬ思いを抱くことになった。これまた人生、楽しからずや。

  • バルベーラ

    Rosemarie Bernhard & Giulio Viglione - A.A. Viglione 初めて耳にする人の名に何故か懐かしさを覚えることがあるように、それまで聞いたことのなかったワインの名でも、最初から好みのワインのような気がすることがある。バルベーラがそうだった。ドルチェートよりも、またネビオーロよりも、その名を聞くだけで心が弾み、幸せになったような気がした。そして実際に飲んでみると、その通りだった。知りもせずにバルベーラが好きと言い、教えてもらったのが、このヴィリオーネだった。 約束の日、モンフォルテ ダルバの指定の場所へ着き電話を入れるとすぐに、白のサムライ(海外向けスズキのジムニー)が飛んで来た。そして降り立ったのは、その場の雰囲気からおよそかけ離れた、個性丸出しのローズマリーだった。挨拶もそこそこに、彼女についてカンティーナへ向かうと、ジュリオが迎えてくれた。見るからにローズマリーとは対照的な、ピエモンテの郷人だ。その二人が、やけに綺麗なティーシャツを着込んでいる。 理由は簡単だ。勿論、撮影のため。が、その目論見(?)は見事に外れた。「まぁまぁまぁ、一杯飲もうや」とのジュリオの誘いに応じて、普段は撮影が終わるまであまり飲まない私が、その時は勧められるがままにバルベーラを口にした。すると、これがいける。「やっぱりバルベーラは美味しいんだ!」と嬉しくなり、「写真はこの次でいいや」とばかり、その日はそのまま宴会へ突入。後日改めて出直し、撮影することになった。 しかし二回目も、また宴会で始まることになる。それでも、今回撮らないわけにはいかない。そこで宴会の途中、たってのお願いと撮らしてもらったのがこの写真だ。ローズマリーとジュリオの二人合わせて300%、個性むき出しの傑作になった。そのご褒美ではないが、二度目の宴会の最後に出てきたのは、なんとバルベーラ1985年。ピエモンテの真髄はネビオーロと言うけれど、そうかなぁ。私にはバルベーラの方が輝いて見えるけど…。

  • フォトジェニック

    Denis Montanar - Borc Dodòn Triple Aの造り手の中で、アリアッナ オッキピンチと並んで出世頭と言ったら、ボルグ ドドンのデニス モンタナールかもしれない。当時から葡萄栽培(及び醸造)専門農家というよりも、葡萄以外に向日葵(油)等を作っていたが、今では小麦にトウモロコシ、大豆(なんと豆腐用!)等々、幅広い農作物を手がけている。 そのデニス、初めて会った時は、スキンヘッドのせいか、滅茶苦茶強烈な印象だった。視線が突き刺すように鋭い。おまけに、動作はとてもスマートとは言い難い無骨さがある。それ故に、尚更人を圧倒する雰囲気だ。するとデニスが、何やら準備を始めた。どうやら、畑へ行くらしい。まず特製ベルトを腰に巻き、それに木の蔓を束ねたものをさし、剪定バサミを持って襟を正して準備完了。いざ出陣だ。デニス様のお通りだ。 着いた畑は、緑の中に黄色のタンポポが眩しいほどに自生しているところ。記憶に間違いがなければ、確か当時の彼のラベルのデザインはタンポポだったはず。つまり、このタンポポは彼のご自慢だったわけだ。 畑に入ると、すぐにデニスが上手に蔓で葡萄の枝を留め始めた。「それじゃぁ、撮らせてもらいましょうか」と体勢を低くするが、何か様にならない。右へ、左へと移ってみてもダメ。結局、「ええい、面倒だ!」とばかりに地べたにどっかり座り込んだ。そしたら急に、デニスの表情が変わった。まるでこちらの本気度が伝わったのか、真っ向から対抗してくるかのように、勢い良く作業を始めだした。その仕事の一瞬の合間の写真がこれ。自分でも結構気に入っていたのだけど…。 実はこの写真が元で、しばらくの間デニスとの関係がギクシャクしてしまった。版権の問題だ。まぁ、よくある話だが、著作権と肖像権、及び使用権の関係が、一般には分かりづらいところがある。著作権は当然私たちに、肖像権はデニスでも、使用権はTriple Aの写真を依頼したVelierにある。それだけならさほど問題は起きないのだが、某輸入業者が勝手にこの写真を使ったせいで、ややこしいことになったのだ。

  • シチリアのさそり

    Arianna Occhipinti - A.A. Arianna Occhipinti ステファノと同時期に、私たちの名が売れるきっかけとなったもう一枚の写真がある。以前、リーデル用の撮影でSBMのジェナーロにイタリアの生産者を紹介してもらった時、彼のリストにはアルジオラスの名があった。シチリアの有名な生産者だ。行こうと思って何度も計画を立てるが、いかんせんシチリアは遠い。その度に何処かで不都合が出て、行かずじまいになっていた。そうこうしている内にTriple Aの仕事が始まり、アルジオラスの名は消えた。代わりに登場したのがアリアッナ オッキピンティだった。 それでもやはりシチリアは遠い。そんな時、サンレモのレストラン、パオロ&バルバラのご夫妻から、一緒にシチリアへ行こうと誘われ、同行させてもらうことにした。車ではなく、飛行機でジェノヴァからカターニャに飛び、そこからレンタカーだった。以前は、リーデルのソムリエ・シリーズを持ち歩いていたので、空路は交通手段の対象外だったが、もうその必要もない。話は簡単だった。 車でカターニャからヴィットリアに移動し、初めてアリアッナの開墾途中の葡萄畑を見た時、ここはアフリカかと思った。大地の色、乾いた空気に灼熱、正に北アフリカを彷彿させらる土地だった。そこで、長い豊かな黒髪を無造作に束ねたアリアッナが、鍬を振り上げては振り下ろし、地面を耕していく。やがて手を休めると、「新しいトラクターを買ったら、すぐ盗まれた。だからもう買わない」と、真っ白な歯を丸出しで笑いながら言いた。そしていきなり、地べたに這いつくばった。褐色に近い肌がピィーンと張りつめ、黒い瞳がきらきらと閃光を放っている。うわっ、さそりだ!「そうよ私はさそり座の女、さそりの毒はあとで効くのよ、さそりの星は一途な星よ」とばかり、当時、EUの青年対象の支援制度を利用して建設中だったカンティーナは、今では場所も建物も変わり、立派な農場主の家と蔵になっている。私が知る限り、アリアッナはTriple Aの中の出世頭だ。そんな彼女にかめ壺の話をすると、「コンクリートがいい」と興味がなさそう。まぁ、いいか。叔父さんのジュスト(COS)が沢山やっているから、放っておこう。

  • 陸のポセイドン

    Stefano Bellotti - Cascina Degli Ulivi ステファノ ベロッティとは、もうゆうに十年以上の付き合いだった。Triple Aの造り手の中でも最初に撮影した一人だ。その時のこの「陸のポセイドン」のような彼の写真で、私たちの名がヨーロッパの自然派ワイン界で知られるようになった。ところであのイメージ、何処から降って湧いたのだろう。あの時目の前にいたステファノは、もっと土の香りがする野生児(?)で、それでいてどこかメルヘンチックな人だった。 まずは彼のボトルのラベル。愛娘が描いたというお気に入りのラベルは、まるで童話の幻想の世界で、彼の自然界に対する憧憬を、彼の生き方を写しだしていたのだろうか。彼が造ったワインは、いわばその夢の世界と現実を結ぶ架け橋だったのか。それに対し、後に出たVINOのラベルは、以前のものと比べ、ステファノの夢の投影には程遠い、背景にある販売戦略が見え見えの味気ないもだっだ。 昨年、ステファノの死を知った時、ショックというよりもそうだろうな、と思えた。年初めにバルセロナで会った時の彼の様体が、あまりにも芳しくなかったから。その後一度、ジェノヴァで再会した時には、少し持ち直したかのように見えたのだが…。ただ、「病院で膵臓癌と診断された。でも自然治療医が違うと言っている」と耳にして、これは危ないと思った。そしたら案の定、逝ってしまった。 ステファノが何を信じていたのか、私は知らない。何かあれば、今なら私も自然療法を選ぶだろう。ただよく分からない。去年一年で、ソリコ(アワ ワイン)、エルネスト(コスタディラ)、ステファノ(カシーナ デリ ウリヴィ)、アンリ(プリウレ・ロック)と、Triple Aの造り手が四人も亡くなっている。しかもみな五十代の若さだ。他にもVini Veriのベッペ(リナルディ)や、その前にはスタンコ(ラディコン)がいた。 何故、みな若くして死んだのか。分からない。自然派であることって、一体何なんだ。

  • 楽園

    Famiglia Guerrini-Fortunata - A.A. Paradiso di Manfredi モンタルチーノには、私たちの癒しの場があった。パラディーゾ ディ マンフレディ、マンフレディの楽園、昔ながらのやり方を変えないという約束で婿入りしたフロリオの楽園、そしてそれを受け継いだ娘ジョイアの楽園だ。昔からずっと「手」で守られてきた、海抜330mの北東向きに位置する僅か2,5hの畑だ。その収穫は当日の朝に決められ、その日の内に、私たちが家から520キロをすっ飛ばし辿り着く前に、終わってしまう。だから今まで一度も見たたことがない。 もっとも、マンフレディには別の収穫があった。それはフォルチュネータお婆ちゃんのご自慢の菜園での収穫。私たちが行く度に、野菜を獲ってきて、色々とご馳走してくれた。それがこの楽園の流儀だった。そのフォルチュナータお婆ちゃんも、数年前に天寿を全うされ、もういない。が、パラディーゾのおもてなしの心は、今も続いている。南イタリアへ車で行く時には、寄れるなら是非寄って行きたい、素敵な場所だ。 ところで、同じモンタルチーノには、ブルネーロ好きにはたまらないカーゼ バッセがある。どちらもサンジョベーゼの土地柄なのに、その雰囲気は異なる。そして両者には、たわいのない違いが一つ。それはマンフレディがボトルを寝かして保管するのに、カーゼ バッセはボトルを立てて置くこと。些細なことかもしれないが、でも意外とこれが決定的な違いだったりして。 フロリオは歴としたモンタルチーノの土地っ子で、義父との約束により昔ながらのしきたりをがんと守っている(だから、かめ壺醸造を頼めなかったけど、今のジョイアならOKかも)。一方のジャンフランコは、トゥレヴィーゾ生まれのミラノ育ち、北の出だ。そして北の造り手は、ボトル内の再発酵を恐れてか、よくボトルを立てたまま保管している。それをそのまま、ジャンフランコがモンタルチーノへ持ってきた。そして北と南の違いが、そのまま両者の違いとなっている。

  • 合掌

    Gainfranco Soldera - Case Basse 昨日、モンタルチーノの巨匠、カーゼ バッセのジャンフランコ ソルデラが亡くなった。突然の訃報に接し、哀愁の意を表したい。 私たちがカーゼ バッセを訪れたのは2010年、今から九年前のことだ。高名な名だけを頼りに、恐る恐る訪問した私たちを手厚く迎え入れてくれ、色々と素敵な写真を撮らせてもらった思い出がある。中でもこのジャンフランコの屈託のない素敵な笑顔が好きだ。今その写真を前に、合掌。

  • ナイティンゲール!

    Tomaž & Franc Vodopivec - Slavček 初めてのスロヴェニアの旅では、もう一人別の造り手を訪問した。スラウチェックだ。場所はドルネンベルク。先に登場したチョッターから15kmも離れていない。スロヴェニアはそもそも小さな国だ。四国よりも一回り大きいくらいで、人口は200万人程。四国や元同じURSS構成メンバーのジョージアの半分強といったところ。そんな小国だけど、多様性がある。そもそも、MOVIAに比べれば、ここは全然イタリアナイズされていない。 スラウチェックは、教会の記録によると、スラウチェヴィフ(ナイティンゲール)の名ですでに1769年に登場し、以後何世代にもわたりワイン造りをしているという。現在の当主の名はフランク ヴォドピヴェック。妻と息子と共にワイナリーと民宿を経営、全て彼らの手作りショップならぬ農家だ。ワインもテロワールを守り、伝統的な技法で醸造、その品質を保っている。また、滅茶苦茶に美味しい桃のジュースも作っていて、こちらもTriple Aに指定されている。 フランク自身は、「ソビエト製で頑丈だ」というご自慢のジープ同様、どことなく無骨な印象があるが、とにかく率直で誠実な人なのだろう。あらゆるところに込められた嘘のない率直な彼の思いが、ひしひしと伝わって来る。そして、撮影後の最後の一言が大傑作。 「俺、赤ら顔なので、なんとかしてくれ!」 はぁ?ご心配なく。デジタルですから。それにそもそも白黒なんだよね、私の写真。

  • 林檎酢!!!

    Aci Urbajs スロベニア第三弾。今度は、イタリア国境から遠く離れて、反対側、オーストリア国境に近いアッチ ウルバイスを訪れた時だ。 山道を登って行くと、高台に一軒家が見えてきた。脇で誰かが手を振っている。近付くと、「よく電話で道を尋ねずにここまで来たね」と、アッチが開口一番に英語で話しかけてきた。そりゃ、昔取った杵柄、WRC(世界ラリー選手権)の追っかけ取材をやっていたからね、人里離れた造り手を訪ねるなんてお安い御用。ただ問題は、あーっ、英語。私達は通常、英語を話す気が全くない。でも嬉しいことにアッチは、英語でもいいから話しをしたい、と思わせる人柄だった。 そしてアッチの開口二番、「ちょっとお腹がすいたから、一緒に何か食べよう」と、樽から直出しのワイン(こんなことする人は、それまで見たことがなく、初めて!)を持ってくる。チーズをつまみながらそのワインを飲む。なかなかおつなものだ。大体、アッチのワインには真にアッチの香りがある。これこそ家付き酵母の成せる技、ですよね。 そんなことを、使い慣れない英語で四苦八苦しながら話していると、アッチが突然、「リンゴ酢も造っているんだ」と言い出した。うへぇ、お酢かぁ。苦手だけど、ここは一丁「飲んでみようか」と試飲することに。「水で薄めて飲めば飲み易い」と言うアッチの声を尻目に、原酢をそのまま口にしたら、「あら、これ、美味しい!このままいける」とゴクンと飲んだその時、アッチの澄んだ瞳が輝いた。石灰をも溶かすお酢のお蔭で、「頭の中がショートした」元ハイテク青年との間合いが、一気に狭まった瞬間だった。 ある日、コンピューター関係の仕事に従事していると、頭の中が真っ白になり、それで仕事を辞め、葡萄作りの世界に入ったそうだ。たった2ヘクタールだが、山の中にある斜面の畑は、全て自分一人で管理するという。小さな花が咲き乱れ、周りの木立から小鳥のさえずりが聞こえる、気持ちの良い畑を歩き回りながら、ビオディナミ用の材料を採取するアッチ。全てそこで補えると、ご自慢だ。そして、あの極美味のお酢の原料となる林檎が獲れる畑も、青々と美しい。金儲けのための葡萄専業者とは違い、地球を守る人がここにもいて、嬉しくなる。

  • スロベニア的新墾

    Branko & Vasja Čotar - Vina Čotar スロベニアでは桁外れなことが続いた。なんと50cmの盛土で開墾ならぬ「新墾」した人たちがいた。イタリアのトゥリエステの丘陵丘カルソ地区の延長上、国境から五分ほどのクラスにあるチョッター ワインのブランコとヴァッシア親子だ。彼らによって客土された赤土はトラック一万台分(?)に及ぶと言う。そこに植樹し、葡萄畑を作ったのだ。 もっとも、レストラン経営が本業だったチョッター家が、無分別にこのような大規模な土地改良(?)計画を実行し、現在の本業である葡萄栽培醸造を始めたわけではない。この地方には元々、土を掘り、その掘った土で盛り土をし栽培する伝統があるのだ。ただ、通常なら穴を掘ったすぐ横に盛土をするところを、別の場所に土を移したのである。その採土場へ足を運ぶと、アスパラガスの群生の中に巨大な円錐形の穴がポカリと開いていた。 現在7hを有し、主に土着品種のテッラーノ(地方名レフォスコ)とマルヴァジア(マルヴァジア イストゥリアナ)を栽培。この赤土で獲れた葡萄が運ばれ醸造される蔵が、また凄い。醸造後の熟成に使われるセーラーは二段重ね、そう、石造りの地下二階建てだ。そこで十分に寝かされた後、独特な「指紋付き(デザイン)のラベル」で世に出される(SO2無添加のワインもかなりある)。個人的には、将来テッラーノをかめ壺で醸造してくれればありがたいのだが、さて、どうだろうか。

  • BUONO、PURO E GIUSTO

    Aleš Kristančič – MOVIA 私にとって、アレッシュ(MOVIA)の閃きを聞くのは大きな楽しみだ。今までに何度となく、上り詰めた者の「悟り」の体験を言語化しその境地に導くかの如く、「これはいける」と言うようなことをよく語ってくれた。その一つが次の抜粋内容。以前、日本のスローフード季刊誌に寄稿したものだ。 スローフードのスローガンは、果たして正しいのか。スローフード・スロベニアの総裁、アレシュ クリスタンチッチが鋭く切り込む。 「BUONO、PULITO E GIUSTO(おいしい、きれい、ただしい)と言うが、果たして本当にPULITOで良いのだろうか。確かにPULITOと言えば聞こえは良い。でも見方を変えれば、それはPURO(生粋)でなくなったものともなる。例えば濾過されたワイン。見た目は奇麗だが、本質を失った見せかけのものだ。そんなものがVERO(本物)であるはずがないし、本物でなければ、結局、美味しくも正しくもないはずだ。」 現在MOVIAが提唱するのは、生粋な、元の形を残したワイン。その代表がPURO(プーロ)とLUNAR(ルナール)である。父ミルコから引き継いだ伝統のワイン郡に、アレシュが新たに投入した銘柄だ。前者は、三年間樽熟成させたワインに同じ畑で穫れた新しい葡萄の絞り汁を加え再発酵させた発泡性のワイン(シャルドネ主体の白とピノ・ノワール主体のロゼ)で、澱切りをせずに出荷。後者は、白のリボッラ種の葡萄を表皮ごと樽に詰め込み醗酵、八ヶ月間の熟成後に無濾過でボトル詰めする。両者は、元々異なる構想の下に生まれたワインだ。その位置関係は百八十度の対角線上ではなく、一つの円上で隣り合う点と点のようなもの。言わば「最も近くて遠い仲」となる。その接点が、アレシュが言う「生粋さ」である。 このような始めから澱がたっぷりと入った生粋の自然なワインを口にした時に、皆さんもきっと私たちのようにホッとするのを覚えられるはずだ。それは、残留農薬等が検出される飲食物を本質的に「きれい」だと思う心が誰にもないように、「おいしい、きれい、ただしい」世界の必要条件が自然派であることを、無意識の内に皆さんの体が知っているからである。(以上抜粋) 最後に、最近アレッシュの口から出た一言で、私に大きな閃きを与えてくれたこと、それはGRAND VINとBON

  • なんたってMOVIA

    Aleš Kristančič - MOVIA リーデル用の撮影でVie di Romansを訪問するために初めてフリウリへ行った時、適当に走り回っていたら予定外にスロベニア国境に出くわし、慌てて引き返したことがある。その後2006年、その国境を超える機会が、ようやく私たちにやってきた。MOVIAの訪問だ。ただ当時はまだ、EU加盟国にも関わらず、他所の国からやって来る不法移民対策の名目で、スロベニアとイタリアの間には検問所が残されており、地元住民以外は幹線道路の国境を通過しなければならなかった。 それが2007年12月22日に撤廃され、名実共に誰でも自由に行き来できるようになった。MOVIAからわずか200mの所にあった検問所を、地元の人の車に同乗せてもらいサングラスをかけて通過した話や、小さな石柱で示された畑の中の国境線上にいると監視のヘリコプターが頭上に飛んできた話も、これでやっと過去のものとなった。ただ、イタリア側から国境を超えた瞬間にナヴィが消える状況だけが、汚物のようにしばらく続いた。 ことMOVIAに関しては、その扉が以前から大きく開け放たれていた。初めて訪れた時には、その凄さに度肝を抜かれたものだ。小奇麗な淡いピンクの館に入ると、音楽が鳴り響く。見れば、煌々と灯りが灯された室内の壁の至る所に現代絵画が掛けられ、正面の円形階段の横には自家製の生ハムやクルミが並び、半階上の広間には五十席にも及ぶ食卓が準備されている。一瞬、「何処かのレストランに迷い込んだ」と思ったほどだ。 それだけではない。その日の客(団体)はなんと夜の十一時に到着した。そして、アペリティフを済ませ、蔵見が始まったのが真夜中の十二時過ぎ。その後宴会は、朝の四時まで続いた。当然、すぐ上階の貴賓客で寝ていた私たちにとってはたまったものではなかったが、それにしても他では考えられない凄まじい受け入れ態勢だ。その御陰か、小国スロベニアを代表する社交場として、MOVIAには度々国賓級の来客もある。 全く、上には上がいるものだ。イタリアに来だした頃は、フランスに追いつけ追い越せの姿勢に感服したものだが、一度、足を踏み入れると、スロベニアはそれ以上の国だった。

  • トゥラモンターナ

    Cyril Fhal - Clos du Rouge Gorge 世の中には一度聞いただけで忘れられない、そして気になって仕方のない名がある。Clos du Rouge Gorgeもその一つだった。そしてシリル ファルの名も。理由は分からない。でも初めてこの名を耳にした時から、すぐにでも行きたいという衝動に駆られた。そして約束の日、ピレネー山脈の麓に位置するラトゥール ドゥ フランスは、ゆうに風速30メートル/秒(時速120km)を越えるTramontana(トゥラモンターナ=北北西の強風)に見舞われていた。 本当に吹けば飛ばされるような(実際に軽く跳ねたら着地位置がずれていたし、また撮影中にカメラを持ったまま押し倒されもした)風の中、L'Ubacの丘の中腹で、シリルは明るく笑いながら鍬を振り下ろし、そして言った。「初めて自分の葡萄畑を手に入れた時、嬉しくて嬉しくてさ。それで住む家がすぐに見つからなかったもので、4ヶ月間、畑の中の物置小屋で寝泊まりしてしまったよ、ハハハハハ。」 葡萄栽培農家の出ではない一人の若者で、自らの畑をこれほど愛している者はなかなかいない。「広くなりすぎたら葡萄作りを楽しめなくなるだろう、フフフ」と、相手の目を見つめながら軽く言い流すシリル。そんな彼が、自らが情熱を傾けヒポトピアを目指すご自慢の畑の中を歩く姿を目にした時、Closの中が一斉に生き生きと輝いて見えたのは、単なる目の錯覚だったのだろうか。 Triple Aの撮影を始めて以来、シリルは、イタリアはシチリアのアリアッナ オッキピンティと並ぶ、フランスで一番の出世頭だと私は思う。そんな彼が、こともあろうに、近年Hors Champsというネゴシアンを立ち上げた。雹害にあった経験からで、仕方のないことかもしれない。が、個人的には、ちょっと残念に思う。シリルの二酸化硫黄に対する考え方同様に。

  • ヨイヨイヨイヨイ

    Henry-Frédéric Roch - Domaine Prieuré-Roch 毎年春、イタリアのヴェローナで開催されるVINITALYのOFFの一つでVINO VINO VINOの前身、VINI VERIの会場ヴィラ ボスキでのことだった。某出展者が、「有機農法で葡萄栽培をしているが、醗酵がうまくいかず、醸造時に二酸化硫黄添加で制御している」と言う。納得できず、外で談笑していたアンリ・フレデリック ロックと、クリスティアン ビネールに、その疑問をぶつけてみた。するとアンリが、 「葡萄が醗酵しないのには、二つの理由が考えられる。一つは、農薬等化学薬品を投入し、畑から酵母が消えた場合。もう一つは、酵母のいないところに畑を作った場合。どちらも酵母がいないのだから、醗酵しない。その点、先人は偉いよ。そういったことをちゃんと弁えていたのだから。今畑があるところには酵母がいる、少なくともいたわけだ。だからワインができた。」 と言った。そしてクリスティアンが引き続き、 Christian Binner - Domaine Binner 「そうさ。土地の酵母があってからこそ、そこのワイン、テロワールを語れるワインができるんだ。農薬散布で酵母がいなくなれば、ちゃんと醗酵するわけがないし、そこで二酸化硫黄を入れ一度全ての命を絶ち、培養酵母で無理矢理醗酵させる。そんな化学工業製品はワインじゃない。」 と、締めた。さらに付け足す様に、 「よく、葡萄の樹は根を地中深くまで張るって言うだろう。冗談じゃない。植樹した時から農薬や肥料を使用してきた畑なんて、化学薬品を使わずに手入れしようとトラクターで耕したら、大変なことになる。葡萄だって人間と同じように怠け者なんだよ。農薬のせいで、地中には栄養分なんてありゃしない。そこで人間様が地表に肥料を撒いてくれれば、『おお、楽だぜ』って、下に行くはずの根が、肥料を求めて皆上に向かって伸びてくる。そこをトラクターでガガガガーとやっちまったら、根が切れてみんな死んじまうさ。」 なるほど、もっともである。と言うことは、つまり、「葡萄の根は岩盤をも突き破って地中深くに…」等というよく耳にする話は、これだけ化学農薬や肥料が蔓延した現在、ほぼ迷信ということか。確かにニコラ ジョリも、 Nicolas Joly - La Coulée de

  • 回転のススメ

    Christian Binner - Domaine Binner 一般的にはAOCを落しても、大抵の場合、ラベル変更でことは足りるのだが、ただ例えばアルザスはちと事情が異なる。ドメンヌ ビネールを訪問した時だ。クリスチャンが、 「アルザスのボトルを知ってるだろう。あの細長い特徴あるボトルは、アルザスAOC用のボトルなんだ。だからAOCを落とすと、面倒なんだよな。あのボトルをVdFに使えないので、折角ボトル詰めしてあるワインを別のボトルに詰め直さなければならなくなる。そうなったら、本当にヒェェー、だ。」 と、言っていた。そして、未だラベルの無しのゲヴェルツトゥラミネールのボトルを手に、 「これもまだなんだよなぁ(AOCを通っていない)。まぁ、何時ものことだけどさ。」 本当にご苦労様です。 さて近年、ワインの造り手の間で、ネゴシアン(ワイン商)の立ち上げが流行っている。理由は、冷害や雹害などでの収穫減による損失危機管理管理のためだと言う。まぁ、分からないでもないが、買い葡萄では、小規模生産者の醍醐味が薄れて、好きではない。その点、クリスチャンが最近若い造り手たちと始めた取り組みは、ちょっと趣を異にする。 彼らの取り組み、Les Vins Pirouettes (レ ヴァン ピルエットゥ)は、小規模生産者の弱体化につながる従来のネゴシアンと違い、多数の造り手で一つの販売戦略を共有することで、販売網の拡大を図ろうとする。その最大の利点は、情報を共有し技術的に向上しつつも、各々の個性を保ちながら生産でき、多彩なワインを展開できる点だ。現在のメンバーは、Stéphane Bannwarth、Julien Albertus、Hubert & Christian Engel、Olivier Carl、Claude Straub、Eric Kamm、Raphaël, Catherine & Daniel (Domaine de l'Envol、Jean-Luc & Michèle Shaeringer (Wymann)、Jean-Marc Dreyerの9名で、Christian Binnerが指揮をとる。

  • ありがとう

    Olivier de Moor - Domaine Alice & Olivier de Moor AOCにまつわる話は色々とある。愉快な処では、この世で一番美味しいアリゴテを造ると言われるシャブリのアリス エ オリヴィエ ドゥ モールが、2007年にAOCから落とされた時の逸話がある。AOCから落ちれば、ラベルにアリゴテの名は表記できない。そこでアリスとオリヴィエは考えた。そして、新たなラベルを作成した。そのラベルには、グラスに縄がかかったデザインが施され「A 〝LIGOTER〟」と記されていた。因にLICOTERとは「縄で縛る、束縛する」といった意味だ。つまり、AOCに束縛されて「ALIGOTE」と表記できない、と皮肉ったわけだ。正に、オーレ!。 ところが、話はそこで終らなかった。2008年に再びAOCを落とすと、今度は「A 〝LIGOTER〟」から「A 〝L〟IGATO-O」へ変更。意味はもろに「ありがとう」だ。そして裏ラベルに名前入りでの協力者への謝意(MERCI)を表明、忌々しい国フランスに対する最大限の皮肉を込め、「ALIGOTO-O」は日本語の「ARIGATO」の発音に最も近いフランス語表記だ、とやらかした。ブラボー!が、オリヴィエたちの輸入元は「これはまずい(って何が?)」と、ラベルを張り替えてしまった。心算無視の営利優先、ああ嫌だ、情けない。 私は、日本語の「ありがとう」の啓蒙運動をしている。日本人が日本語で「ありがとう」と謝意を表して何が悪い。THANK YOUなどと言う必要など、どこにもない。それに「ありがとう」の認知度はすでに結構高いし、「ありがとう」と言われて嫌がる人はいない。勿論、私たちは自分のいる場所次第で、「メルシ」、「グラシア」、「グラーツェ」、「オブリガード」、「フヴァーラ」、「エフカリスト」、「マドゥロバ」等々、各国の言葉は使い分けるけど、英語は極力避けている。そもそも、何故英語を使うんだ?私たちは英語圏にいるわけじゃないんだ。 公私で世界中を駆け巡り、後々私たちを自然派へ導くことになるルカの三つの原則、 「人生は美しい」 「問題ありません」 「ありがとう」 この三つを現地の言葉で言えば、何処でも誰とでもうまくいく、というのが彼の信条だ。全くその通りだと思う。口先のLOVEなんて誰も必要としていない。

  • AOC Le Puy?

    ドメンヌ バラル同様、あの「神の雫」に選ばれたシャトー ル ピュイもまた、今までに何度も(例えば2005年や2006年)AOCを落としていることを、ご存知だろうか。「落とす」と、AOCコート ドゥ フランとしての認定を受けられずその名が消え、それだけで、直ぐに販売の三割減に繋がる。悪いのはブランド志向の消費者なのだが、そうは言っても、減益は痛い。どうすりゃいい? ワインの場合、AOC認定は、その地区毎の審査員の試飲結果で決められることになる。つまり、その地区のワインとして「ふさわしくない(と審査委員が言う)」ものが、人為的に外されるわけだ。勿論、その根拠となる理由は文書で生産者に告げられる。そして、その決定に不服であれば、生産者は二度の再審(合計三度の審査)を請求できるが…。 当然、シャトー ル ピュイも再審を求めるが全て不合格。しかも、毎回「異なる」理由付けでのAOC不授与となった。言葉を返せば、明確な根拠無しでの不合格。問題があるとしたら、他のワインと違い美味しいこと。要は、その旨さ故に危機感を持った地区委員会によって、落とすために落とされたわけ。この酷い仕打ちには、温厚なアモローさんも激怒し、直訴した。結果はシャトー ル ピュイ側が勝訴し、INAOの不十分な管理体制が露見した。 よく私たちに、自分はル ピュイで色々なことを実現せねばならぬ運命にある、と言われていたがアモローさんもすでに八十。今までに、本当に色々なことをなさされてきた思う。あと残ったことがあるとしたら、アモローさんの最後の大仕事は、たぶん、AOC Le Puyの確立だ。それさえ実現すれば、二度とケチをつけられることはない。留目の一発だ。大いに期待しよう。

  • サクランボ

    Jean-Pierre Amoreau - Château le Puy 私たちは、ロマネ・コンティに始まり、モンラッシェにとり憑かれての、紛れもないブルゴーニュ派(だった)。もっとも、ブルゴーニュ派になる以前から、私はボルドー嫌いだった。90年代初頭、日本のM社のコマーシャル撮影の仕事でボルドーを訪れた時に始まったこと。とにかく嫌いなんだ、あの体質。ネクタイ族にプリムール、パーカー好みのフレンチ・コーラ(ボルドーの赤)等々、みんな嫌。だから、飲まない。 でも、例外がある。シャトー ル ピュイ。サン・テミリオンの裏(表?)、コート ドゥ フランで1610年から続く老舗だ。後に「神の雫」として世に名を馳せる前から、私たちは出入りしていた。例の如く、Triple Aの仕事で訪れたのが最初だった。その時に、ジャン・ピエール アモローさんが語ってくれた、彼のお祖父さんの話を良く覚えている。「以前は村まで馬車で行ったもんだ。ある日、祖父のお供で行った時のことだ。途中道端に蹄鉄が落ちていてね、それを見つけた祖父が、私に拾って来いと言う。でも幼かった私は嫌がった。そしたら祖父は自分で拾って村へ持って行き、売って、そのお金でサクランボを買った。そして私の手の上にサクランボをおきながら、言ったんだよ。お前は蹄鉄を拒んだけど、サクランボは拒まないだろう、って。」 一見無意味に見えるものでも、見方を変えれば価値が出る。そんな知恵の伝授か。「ここ(サン・シバールのシャトー)にいると、毎日がバカンスのようだ。みんな、疲れをとるためにバカンスに出ると言うけれど、実際には旅先で色々やり過ぎて、かえって疲れて家に戻ってくる。それじゃ、主客転倒だろう。バカンスに出なくともうちには色々と楽しいことがあるし、それだけじゃなく、皆がエネルギーをもらいにやってくるんだよ。ここに来ると気持ちがいいって、元気になるって。ほら、あそこにストーンサークルがあるだろう。ここは昔からエネルギーの高い場所で、エコシステムも充実しているんだ。」 後にアモローさんに見込まれて、私たちはシャトー ル ピュイの仕事を引き受けることになった。写真のモンタージュで作るビデオ制作。物の見方を変えてみた(私は動画嫌い)瞬間だった。そして同時に、銀盤からデジタルへ移行した。銀盤に拘りたければ、そうすりゃいいさ。私はどっちでもいい。写ってい

  • ラルーの前で

    「うちはまず赤から、白は最後に試飲して頂きます。あなた、もう赤は試されましたか。」 と、自らワインを注ぐマダム ルロワをよく試飲会場で目にする。素直に彼女の言葉に従えばいいのに、中にはいるんですよね、彼女の言葉を無視して先に白を要求するへそ曲がりの阿保が。勿論、注いではもらえるけど、その後で赤などと言おうものなら、 「うちは赤からと言ったでしょう。欲しければ、会場を一周してから出直して来なさい。」 そこで初めて彼女の言葉に従っても、もう手遅れ。会場を一回りするまで、ルロワのワインが残っているわけがない。なにしろ、マダム ルロワがグラスに注ぐ量は彼女同様寛大で、それを沢山の人が待っているのだから。 2011年、ルネッサンス デ アペラシオン試飲会場でだった。「あら珍しい。ミシェル ベタンヌ(仏の著名評論家)が自然派の会場にいるなんて」と思いきや、マダム ルロワと物議を醸していた彼が、次の瞬間、「あっ。」グラスのワインを吐き壷に捨てた。 本来なら目くじらを立てる程、マダム ルロワが嫌がることだ。が、ベタンヌの前で、見て見ぬ振りをし黙っている。しかもベタンヌは次のワインを大目に要求し、グラスを一振り、二振り、香りを確かめるように鼻元へ近づけると、そのまままたグラスのワインを吐き壷に捨てた。無言…、じゃすまされない。 「随分、敬意の無いことをしますね。」 私が口火を切ると、ベタンヌは「えっ」と、ポカンとしている。 「口も付けずにワインを捨てたでしょう。あなたには、敬意というものがないのですか。」 ようやく事の次第が分かったベタンヌは、 「そんなことを言っても、私は仕事なんだ。」 「いや、仕事とかそういう問題じゃない。造り手に対する敬意の話ですよ。」 そこでマダム ルロワが、とりあえず、 「いいの、いいの。かまわないから。」 と、割って入るが、小さくウィンクしてくる。「私は一日中、仕事でワインを試飲しているんだ。こうでもしなければ、死んじまうよ。それとも死ねって言うのかい。」 と、言いながら、ベタンヌは私のプレスカードを食い入るように覗き込んでいる。ははぁ、上からの圧力で、私を潰す気でいるんですか。面白いじゃん。やってみい。 「名誉の戦死、プロなら本望でしょうが。」 このままケツ下がりの車の運転手で終わるなんて、みすぼらしすぎる。

  • きいて

    Lalou Bize-Leroy - Domaine Leroy ヴォーヌ・ロマネには、DRCの他に、忘れられない人のドメンヌがある。その人は、マダム ルロワ。ただ彼女とは、なかなか逢う機会がなかった。色々と噂を聞いていたが、両極端な話が多かった。それだけ個性の強い人なのだろう。安易に会いに行くのは避けようと思っていると、友達のジャン・ミシェル ユエさんが、個人的にマダム ルロワをとても高く買っている。彼の言葉を信じ、それならと、ランデブーを取ってもらうことにした。 約束の日、目の前に現れたラルーからは、和らぎ以外の何も感じられない。部屋に通されすぐ、以前ジャン・ミシェルが飲ませてくれたミュジニ 1985の話になった。するとラルーは席を立ち、そのボトルを持って来て、躊躇いなく開けてくれた。ジャン・ミッシェルの言葉通り、とても寛容な人のようだ。 雑談が進む中、馬鹿な質問だとは思いつつも思い切って、「お好みのアペラシオンはなんでしょうか」と、尋ねてみた。すると、意外にも即答が返ってきた。「シャンベルタン 1955。」 驚いた。まさか私の憧れのシャンベルタンの名がでるとは。しかも1955年。いや内心、「ワインはみな我が子のようだから…」という、極ありきたりの答えを想像していたので、脳天をかち割られたような気分だった。いやぁ、他の人とは全然違う。改めてラルーに魅入っていると、彼女は立ち上がり、席を離れた。そして一本のボトルを手に戻ってくると、徐に栓を抜いた。なんと、そのシャンベルタン

  • チンピラソムリエ

    Bouchos du Montrachet D.R.C. - イメージは、直接テキストと関係ありません。 ロマネ・コンティのことで、一度憤りを覚えた出来事がある。グラン ジュール ドゥ ブルゴーニュでのことだ。みなさんもたぶんご存知だろう。今でこそかなり形態が変わりつまらないものになったが、元々はブルゴーニュ中を移動しながら各村毎にご当地ワインを試飲して回ったスケールの大きな催しを。1998年、私たちはその存在すら知らずに、偶然開催時期にブルゴーニュへやってきていた。そこで知り合いのつてで、テロワール ドゥ コルトンに参加した。 会場の一つアロックス・コルトンでは、村のあちこちにカヴォー(ドメンヌが場所を解放)が設けられ、訪問者が村を闊歩しながら試飲している。私たちも、まずコルトン・シャルルマーニュを求め、グラスを片手に村を回り始めた。そして二つ目のカヴォーを訪れた時のこと。雑誌で写真を見たことのあるボルドーで名を成す日本人ソムリエが、目の前を歩いていた。そこで、声をかけてみると、 「あれっ、何処かでお会いしましたっけ。」 「いえ、雑誌でお顔を拝見したことがあったので。すみません、お忙しいところ。それで、どうですか、試飲の方は。」 「あっ、そう。うん、まぁまぁだね。ところでさ、今、ロマネ・コンティに行って来たところなんだ。」 「あら、そうですか。それでどうでした?」 「色々試飲したけど、ロマネ・コンティは、まぁ、いいテーブル・ワイン、てとこだな。」 「(はぁ?)…。」 「ところで君たち、観光なの。」 「いえ、私たち、南仏に住んでいます。」 「(えっ、とビックリ)、そう…(まずい、と見え見え)。それじゃ…(もじもじ)、試飲を続けなければならないので。」 と、そのソムリエは慌てて逃げ出した。 あーあ、みっともない。なんて貧相なの、あの後ろ姿、まるでチンピラじゃない。イキガって、馬鹿が、(同胞に)格好をつけて。そんな奴に限り、どうせフランス人にはへいこらしているくせに。ヨーロッパで最も嫌らしいタイプの日本人、名前も出したくない。でも、あんな奴に騙される(と言うか、そんな奴を崇める)日本人て、一体何なんだ。それに、ボルドー党って、あそこまで酷くなくとも、みんなあんな感じなのだろうか。

  • ル ドメンヌ

    Aubert de Vilaine & Henry-Frédéric Roch - Domaine de la Romanée-Conti 初めて「ル ドメンヌ」(人はDRCをこう呼ぶ)を訪れたのは、1998年にモンラッシェの撮影でオベール ドゥ ヴィレンヌ氏に会った時だった。そして二度目は2001年1月。ニースのロマネ・コンティの卸元メゾン ベッシの若旦那ローランたちと一緒に、総員八名で訪れた。ル ドメンヌは、基本的にこの人数で訪問することになっているという。ちょうどボトルを一本開けられる数だ。 到着すると、早速ベルナール ノブレ氏が奇麗に管理された蔵を案内してくれ、樽(99年)からの試飲の後、蔵の奥にあるカヴォー(試飲所)に通される。そこでまず、リシュブルグ98年が開けられた。次にグラン エシェゾー90年、ロマネ サン・ヴィヴァン87年、ロマネ コンティ75年、リシュブルグ64年と続く。 そしていよいよモンラッシェ。ル ドメンヌに到着した時、モンラッシェの撮影ですでに顔見知りだったシュヴァリエール氏が、「ケイコ&マイカ用のデザートを忘れずに」と、笑顔でベルナールに声をかけてくれていた。そのモンラッシェがグラスに注がれ、口の中でワインを転がす音が響き、「ウーン」とか「ハァァ」と皆が呟く。その時、ケイコがベルナールを見つめながらポツリと言った。 「これ、納得できない…。」 皆が唖然として振り返る。ブッショネでもなんでもない74年のボトルだ。が、半べその彼女を前に、ベルナールは大いに焦りまくっていた。 「えぇぇ、ダメなのかぁぁぁ。」 「…、ダメ…。」 その瞬間、ベルナールは「ちょっと待ってて」と、別室にすっ飛んで行った。後はご想像の通りである。カヴォーの中で「うわぁっー」と歓声が上がり、ケイコは皆からキス攻めにされていた。鶴(にしては立っ端が足りない?)の一声で、普通なら出ないもう一本(98年)が出てきたのである。

  • AOCなんていらない

    Didier Barral – Domaine Léon Barral ディディエ バラルのワインと言えば、可笑しな逸話がある。元々フランスのワインはAOC(APPELLATION D'ORIGINE CONTRÔLÉE=原産地呼称統制)でその「格付け」が決まるが、自然派のワインの造り手たちの中には、よくそのAOCを落とす者がいる。ディディエもその例外ではなかった。 それではAOCを落とすとどうなるか。具体的には、ワインの扱いが「AOC何某」から「ヴァン ドゥ フランス(以前のヴァン ドゥ ターブル)」となる。それにより、ラベルからAOCの名と、そして醸造年も消える。 もっとも、AOC落第常習犯は、そんなことで臆しない。そこはそこ、皆知恵を搾って、算用数字以外の表記方法で、「分かる人には分かる」ように年を入れている。例えばディディエは、「うちの客はAOCなんか付いていない方がいいと言っている」と涼しい顔で、とりあえず生産年が分かるように、ラベルに鴨の親子を描いていた。まるでダンス デ カナール(鴨鴨ダンス、フランス人なら誰でも知っているお祭りの時の踊り)、それともカナール アンシェネ(鎖につながれた鴨、フランスの週刊風刺新聞の名前)か、とにかく皮肉っぽさ満載の可愛い鴨たちだった。 ところがだ。世界中でディディエのワインの人気が高まりだし、フォジェールで一番有名なワインになると、今度は同地区委員会が態度を翻した。実に、「おら達もバラルの名に肖んべぇ」と、それまでつまはじきにしてきたディディエのワインを審査で通そうと、躍起になりだしたというからお笑いだ。 結局、AOCって何なんだ。自分たちの好みでどうにでもなるのか。以前の落第生が今日の優等生、基準さえ変わるのか。もう、単に葡萄の穫れた場所を証明する「原産地」以外、AOCの品質保証など、今や売り手側の都合、金儲けの道具でしかなく、意味がない。拘るのは誰?騙す人?それとも騙される人?

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、maika.frさんをフォローしませんか?

ハンドル名
maika.frさん
ブログタイトル
素肌のワイン(へ)
フォロー
素肌のワイン(へ)

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用