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1件〜30件
高松に滞在している間に一番足を運んだお店、それは何と言ってもダントツで「ガブマル食堂」。毎日毎日、しげしげと通ったお店だ。名前からして行き易い、なんたって「食堂」だもの。おまけに寿司中川の並び、徒歩1分、さっさっさっさっさと歩いて行ける。が、初めてお店の前まで来た時、「うーん、これが食堂?」と、ストリート・アート並みに描(書)き込みされた木枠のガラスの引き戸に、もろ「平成」の違和感を感じる。少なくとも「昭和」の香りがそのまま「食堂」のイメージの私には、完全にはみ出した世界だ。 辛うじて悪戯描きの中に「ガブマル食堂」の文字をを見つけ、そのドアを開けると、これまたレトロな食堂とは裏腹に、いきなり「あーっ、カウンター!」ハイカラで、またまた昭和のイメージがぶち壊される。おまけにそのカウンターの上には、「何だこれ?パエリェーラ(パエーリャ用の薄鍋)じゃん!」と、大きさの異なるものが色々かけてある。とすると、ここはメゾン(MESÓN)?つまり、スペインの古風な居酒屋や料理屋のことだけど、メゾンを日本語に訳したら、やっぱり「食堂」、であるか。 ドアを開けて一瞬のタイムラグの後、「はい、いらっしゃい!」とターボ全開で、絵文字の笑い顔のような満開の笑みがひょっこり現れた。昨年スペインで初めて出逢った高松CHAVALSの一人、通称「ガブちゃん」こと、ドゥエンニョ(主)の有村和彦さんだ。でも、見慣れぬものが…。胸元で金バッジならぬソムリエ・バッジが眩い。「知らなかった、ガブちゃんはソムリエなんだ。」このお店、ネット上でよく、「高松一敷居の低いソムリエのお店」と紹介されている(実はお店の入り口の上の大看板にそう書いてある)。もしかして、食堂じゃなくて飲み屋なの? いずれにせよ、確かに敷居は低い、と言うよりも、「敷居なんてあるのかい(ない!)」というくらい、気さくなお店だ。なにしろ、店主のガブちゃんがカウンターの裏にいることなど、殆どない(少なくとも私たちがいた時はそうだった)。いつもこちら側にいて、みんなとワイワイギャアギャア、和気藹々とやっている。だからと言って、単なる呑んべい親父のお店とは違う。
天馬が見つからない。百間町を行ったり来たりするが、ない…。何度か通り過ぎた末に、「もしかして、ここ?」と、看板も何もない、ただ戸の開け放たれた入り口の中を覗いて見ると、「あっ、いた。」酒肴天馬の女将、馬渕雅子さんが、カウンターの中で何かゴソゴソやっている。「こんにちは。探しましたよ、もう。」「ええ、そうなんですよね、うちはのれんしかないから。」 なるほど、のれんか。確かに、かかっていなかった。まぁ、のれんは開店している時にかけるもの。閉まっている時は無用で、それで場所が分からなくても関係ない。正論だ。そもそもその日、天馬は定休日だった。ただ中川さんが「鯛鍋をやろう」と、それで休みの天馬が閉店稼業状態になったわけ。ありがとう、中川さん。お休みの日に、どうもすみません、雅子さん。 そののれん、黄地(和色の黄支子色?)に黒の跳ね馬。となれば、フェラーリの格好良い跳ね馬を連想するけど、ここのはちょっと小太りのペガサス(翼のある馬=天馬)。のれんの唄い文句「酒と旬魚とうまい時間」でほろ酔い加減か、赤いほっぺが可愛いらしい。なんとなく、グレイスフル(みやび)! お鍋は最初雅子さんが用意し、途中からガブマル食堂の有村さんが見張り番。そろそろいけるとみんなでつまみ出したところに中川さんが現れて、「喝!」順番が違うぜと、新若布(これが美味しい!)から入れ直し、次に二つに割った鯛のお頭を両方ともドカッ、しばらくして煮立ったらできあがり。豪快で滅茶コクのあるお鍋は、さすがです! 鯛鍋を食したところで連れが、「明日のための連絡を入れなければ」と、訪問先に電話を入れると、なんだか明日の朝7時に鳴門へおいで、と言われているみたい。「いいよ」と気安く受けたが後で駅探で調べると、「えっ…」(また)「ない。」明日の朝7時に鳴門にいるには、今晩21時に高松を出るしかない。はてさてどうしたものか。う~ん、もうレンタカーしかない! でも、そこでハタと気がついた。「早朝、レンタカー会社は閉まっているよね。」つまり、今日中に借りるしかない。そしてその時、ヨーロッパでは思いもよらぬことが頭の中をよぎった。「もしかして、私、飲んでる?ヒェー。」すると雅子さんが、「うちの若い子に頼んであげる」と電話で「代行」を交渉。おまけに、レンタカーまで予約してくれた。助かった、本当にありがとう!
長いヨーロッパ生活の中で、私は10年ほどパリに住んでいた。正確には、そのほとんどをパリから15mのところで、そして最後の3年を13区の中華街のすぐ横で、暮らした。13区に住んでいる時は、時間が不規則なコーディネイトの仕事のせいで、朝6時から真夜中過ぎまで開いている中華街が、とても重宝した。そして本場から来た人たち(と言っても華僑が多い)の同胞のために作る料理が美味しかった。 たまに日本へ戻ると、よく母と中華を食べに行った。母が中華が好きだったからだ。しばしばホテルや銀座のお気に入りの有名店に、連れられて行ったものだ。が、何を食べたか、今はうろ覚え。どんな高級な店の料理も、さして美味しいと思ったことはなかった。 それに比べ、パリの中華街の味はよく覚えている。美味しいし、早いし、安い。当時の私には、全てを兼ね備えた料理だった。もっとも、パリは10年も住めばもう十分な街。一度離れてからは、滅多にパリを訪れることはないが、行けば必ず中華街に足を運ぶ。これが私にとっての中華だ。 さて昨年の高松CHAVALS来西の折、Cantonese 楓林の関幸志さんは、残念ながら来られなかった。だから、ここ高松が初対面となる。と言っても、すでに一緒に大岡さんの所へ行っていた。それで、ヘア・スタイルに凝ったニヒルな関さんは、飲むのが好きな人だと分かっている。だからお店には「あれ」を携え、意気揚々に入ったが、「あら、ない。」目の前に広がるお洒落な空間には、(中華=)赤いテーブルが一つもなく、私の偏見、先入観は見事に打ち砕かれた。それどころか、なんとじょかーれ(GIOCARE)同様、カウンター席があるではないか!「うわっ、カウンター中華。やるじゃん、高松CHAVALS!最高だ。」 実際に座ってみると、とりあえず厨房側と仕切るために色々なものが置かれていて、ちょっと邪魔(失礼!)な気もする。が、それでも桜の蕾や壺等の合間から、関さんの作業が垣間見え、楽しい。あの馬鹿でかい中華包丁が図体に似合わず華麗に舞い、丸い中華鍋が大きく踊るのに、ついつい見とれてしまう。ただ一つ可笑しいのが、関さんの左胸で輝くソムリエ・バッジ。何故料理人が、と思うけど、まぁいいや、ここは日本、見逃そう。 次の瞬間、左のグラス棚に「Catherine
昨年7月、スペインに高松CHAVALS(「高松若大将連」とでも言っておこうか)がやってきた時、中川さん以外は全員初対面だと思っていた。が、違った。以前、高松で入った高知料理の店が酷過ぎて、飲み直しならぬ食い直しに中川さんの店へ行った時、「おっ、外したな。うちに連チャンで来た人、初めてや」と笑いながら食べさせてくれた後、「一緒に飲みに行こう」と連れてこられたのが酒肴天馬、馬渕雅子さんの店だった。また別の機会に、「うちのイタリア料理の店へ来てや」と、中川さんの自宅一階にあるレストランへ招待された時、シェフの上野賢司君とも会っていた。でも、(ゴメン!)記憶が混在していた。 上野君のお店「GIOCARE」のドアを開けると、カウンター席が目に飛び込んでくる。それも全8席、全てカウンターだ。「最高だ。」食は作り手との対話さ。私たちにとって、カウンターで過ごすことほど至悦な時はない。ただこの日本では当たり前の文化も、ミラノで自らのレストランを立ち上げ中の玄ちゃんが、「イタリアはまだ、カウンターでシェフと差しで食事というレベルじゃない。やっても採算がとれないでしょう」と言う通り、宮廷料理思考から抜け出せない人たちには、難しすぎるのだろう。フランスの巨匠の一人、故ジョエル ロビュションが数寄屋橋次郎の影響を受け(?)、ラトリエというオープン・キッチンの店を開いた程度だ。だから私たちにとって、「イタリア料理」でカウンター席というGIOCAREのスタイルは、とても新鮮で、衝撃的だった。それにしても一人で仕切るには、やはり8席というのは本当にギリギリ(最高限)の数、大変だろうなと思う。 席に着き、最初に出てきたお通し(?)は、瀬戸内のニシガイと菜の花のマリネ。スライスしただけでなく、細かく包丁が入ったニシガイの口当たりがたまらなくいい。おまけにヴィネグレットが全然嫌らしくなく(失礼、実は私、お酢があまり得意ではないのです)、いける。 次の皿は、瀬戸内渡り蟹とガスパチョのサラダ仕立てだ。名前だけ見ると、もろイタリアン(いや、半分エスパニョル=スパニッシュか)だが、やけに凝ったトマトソース(ガスパチョ)がくどくなく、塩茹でした蟹と良く合う。
大岡さんと別れた後、岡山で寄り道したせいで、高松へ戻るのが遅くなり、その日はお昼を食べずに終わった。しかも午後から雨になり、ちょっと憂鬱。夕食は八時半なのでまだ時間はあるが、雨は止みそうにない。今晩行くれんげ料理店は、ホテルからちょっと離れている。どうしよう。歩こうか、それとも、タクシーにしようか。 結局、八時を過ぎても雨が止まず、ホテルを出てすぐにタクシーを拾う。が、それがちょっと裏目に…。正確な住所を伝えると、タクシーはちゃんと裏道まで行ってくれたのに、レストランらしきものが見えない。どこだろうと、タクシーを降りた後、人間(それとも私?)の習性か、前へ進み探すがみつからない。そうするうちに、雨の中、結局その区画を歩いて一回りする羽目になった。そして元の場所へ戻り、小さな看板に気がついた。えっ、ここがレンゲ料理店?一軒家(?)なんだ。タクシーが5mオーバーランしてるじゃないか。 ドアを開けると、いきなり熱気が伝わってきた。滅茶苦茶賑わっている。連れによると、高松で人気の居酒屋だとか。これじゃぁ、「隠れ家的で分からなかった」なんて言えそうにない。そうか、ここが昨年中川さんと一緒にスペインにやってきた「憧れ」の阿部隆彦君の店か。やっぱり人気があるんだ。その阿部ちゃんが、「いらっしゃい。どうぞ」と、入り口側のカウンターの後から、笑顔で声をかけてくれた。 何が「憧れ」かと言うと、実は私、阿部ちゃんの包丁さばきに惚れこんじゃったんだ。とにかく凄くて、見とれちゃう。昨年、ジョアン・ラモン エスコーダのレストラン、トッサル グロスでのことだった。牛の生肉ステーキを作ろうと私が肉を切り出した時、阿部ちゃんが「やりましょうか」と言ってくれた。それじゃお願いしますと頼んだら、二刀流と言うよりはまるで二丁拳銃をぶっ放すように、両手に持った包丁でダダダダダッとまな板を引っ叩き、肉を切りだした。そしてあっという間にカルネ クルーダ バッテュータ ア コルテッロ(二刀流だから「コルテッニ」か)ができあがった。うはぁ~、早い。いやはや、その凄まじさに、呆気にとられる。よくプロとは?と尋ねる人がいるけど、アマとの違いは、絶対に仕事の速さですよ。
高松二日目、私たちは中川さんたちとドライブに出た。行き先は岡山。フランスで「Hirotake」の愛称で親しまれていた大岡さんが、突然日本に引き揚げ、岡山にワイナリーを開いて、すでに久しい。大岡さんとは、ある真夏の日、ローヌの井戸底の気温14度のカヴで、Tシャツ1枚、4時間も話し込んだ想い出がある。その大岡さんに会いに行く。 最初は、私たち二人で電車で行こうと思っていた。そのことを中川さんに告げると、一緒に行きたいと言う。おまけに、奥さんが運転する車で。勿論、問題はない。取り敢えず、岡山空港まで迎えに来てくれると言っていた大岡さんにその旨を伝えるが、ガブマル食堂の有村さんと風林の関さんも参加することになり、結局6人で行くことになった。 瀬戸内海を車で渡り、岡山市に入り郊外の山道へ。順調にナビに従い進んで行くが、最後でズレる。ヨーロッパではよくあること。酷い時にはナビが、とても車が通れぬ細い道や階段を、或いは人のうちの中(私有地)を突っ切れ、なんて言ったりする。だから慣れっ子だが、日本でそうなることが可笑しくて、黙って見ていた。 結局、電話を入れ場所を確認した後、来た道を少し戻り別の道に入りるとほどなく到着。ワイナリーのある農業倉庫の前で、大岡さんが待っていてくれた。が、先客と思しき人と一緒だ。よく見ると、あれ、外人さん?誰かと思えば、フランス人の造り手、ルシオン地方のドメンヌ デュ ポッシブルのロイック ルールだ。 凄いな、大岡さん。外国からの訪問者もいるんだ(まぁ、私たちもそうだけど)。そう言えば一年ほど前に、やはりフランスのBIOのビールの造り手から、「日本で大岡さんを訪ねたいので連絡を取って欲しい」と頼まれたっけ。でもあいつらは、実際に来たのだろうか。 中に入ると、早速大岡さんがワイナリーの構想を話してくれた。まず第一に、立ち上げに当たりできるだけ費用をかけないこと。だから、周りにある機材は殆ど全て中古、ヤクオフ(?)などで手に入れたそうだ。そして樽はフランスの自分の蔵で使っていたもの。よくもまぁ、これだけ寄せ集めて、(ある種の固定観念からすれば)全くドメンヌらしからぬドメンヌ(失礼!)をつくったものだ。その上そこで、とんでもないワインを造っている。全く驚異だ。
小豆島を後に、さぁ、高松入りだ。高松と言えば、言わずと知れた寿司中川。もう何年になるだろう。ずいぶん前に、金毘羅山の麓にある酒蔵「悦び凱陣」を訪れた際、「美味い寿司屋があるから」と蔵元の丸尾忠興さんに連れられて来たのが、最初だった。その日丸尾さんは酒の仕込みの最中で、「中川さん、後はよろしく!」と私たちをおいてすぐに帰られた。今でも忘れられない出来事が起こったのは、その後だ。 先客がいるカウンターにつきボンヤリ眺めていると、中川大将がなにやらこしらえている。「ああ、軍艦巻きか。それにしても大層豪勢なウニの盛方だなぁ。」すると突然、大将がウニの板を手にとり、逆さにひっくり返し残りのウニを軍艦の上に全部ぶっかけた。「うわぁー、誰だ。こんなもの頼むのは」と辺りを見回していると、「はい、お待ちどうさん」と、いきなりその軍艦が私たちの前に突き出され、「ヒェー!」と本気でぶっ飛んだ。 我が人生、寿司屋でこれ以上の衝撃の出逢いなし。 断固断言する。以来、岡山(備前焼)方向へ来れば、そのままマリンライナーに乗って高松へ、と何度か通うようになった。もう、私の中では次郎も水谷もない。寿司なら中川の中川大将、そして築地(豊洲は行かない)の大和の入野大将と決まった。
フェ 松山からは電車で高松まで行くことになった。そしてフェリーで小豆島へ。当初は時間に余裕をみて、池田港行きのフェリーに乗ろうと思っていたが、ATMを探しているうちにフェリー乗り場へ来てしまい、草壁港行きのフェリーにまだ間に合うと言うので、そのまま乗ってしまった。船上から電話を入れると、真渡寛君が迎えに来てくれると言う。 実は今回の一時帰国、高松へ行くことが大きな目的だった。と言うのも、昨年のH2O Vegetal試飲会(7月29日と30日)に、高松から6人のシェフがやって来て、和食の会を開いてくれた。そのご縁で、今度は彼らのお店を回ろうということになったわけ。ただ、その中の一人が実家の旅館の別館開業のために小豆島に戻っていた。最初は高松の後に寄ろうと思っていたが、週末は予約で一杯、全く空きがないと言う。そこでまず、小豆島の島宿真里へ行くことになった。でも一体、どういうところなのだろう? 港に迎えに来てくれた寛君は、旅館のユニフォームの出で立ち。様になっている。早速宿へ案内してくれるが、見るからにシックな外観。館内に入ると、木調の新旧の調和が美し造りに見とれてしまう。しかも堅苦しさを全く感じない、暖かな雰囲気だ。そして部屋に通されて、ビックリ。「うわぁ、豪勢!広~い!」と思ったら、「こちらは一番小ぶりのお部屋ですが…」だって。唖然。 私たちはヨーロッパを旅する際、食べ物(レストランなど)には(金の)糸目を付けないが、その分、ホテルはかなりはしょっている。宿泊施設付きのレストランは数少ないし、そもそも一晩限りの仮の居、それで十分だ。だから尚更、突然こんなところへ不時着すると、「いいの、こんなところへ泊まって?」となる。まぁ、なるようにしかならないが、でも、本当にいいのかな? 夕食時、前もって予約した食堂のカウンター席へ案内される。その黒調ベースの落ち着いた空間で、カウンター越しに黒のサムイ姿のスタッフを見た時、謎が解けた気がした。ここはもしかして料亭旅館?それなら私、大好きなんだけど。とにかく、私が嫌いな旅館の作り置き料理ではなさそう。期待しちゃおう。
フランスにいる時は、結構YouTubeで日本のテレビ番組を観ている。中には当然グルメ番組もあり、「孤独のグルメ」もその一つだった。松重豊が演じる井之頭五郎のお話は、結構楽しく観ているけれど、それじゃ実際に「行ってみたい」と思う処は、意外とない。そんな中、松山にある「さかな工房 丸万」だけは、絶対に行きたかった。 その松山は広島の対岸。となれば、船で渡るしかないじゃん。広島からはスーパージェット(高速船)もあるが、高い。それじゃぁ、ゆっくり瀬戸内海を眺めながらとクルーズフェリーにしたら、あいにくの雨模様でほとんど何も観ることなく対岸についた。まぁいい、道後温泉で一風呂浴びて、丸万へ行こう。 と呑気にしていたら、あらら、道後温泉にはあまりタクシーがいない。ようやく空車に乗り込み行き先を告げると、「祇園町?どのへんや?」知るわけないじゃん、初めてなんだから。「たぶん、あそこやと思うんやけど…。わしら地元の人間は瀬戸内の魚やないとあかんから、行ったことない。あそこはいろんなもんだしてくれますよ。」えっ、なんじゃ、それ。 戸を開けると、土間?踊り場?何かわけの分からない空間があって、その向こうにカウンターが見える。その上に、これでどうだとばかり魚が並べられている。その後ろで、大将の丸山さんが一人で魚をさばく。さらにその奥の厨房では、奥様らしき人が揚げ物などを用意する。 私たちが魚の真ん前の指定席に着くと、早速大将の丸山さんが、「うちじゃ、おまかせでもいいし、ここの魚のどれかを指差して、それ何じゃ?どうやって食べるんじゃ?でもええし、この魚、焼いてくれ、炊いてくれ、どうしてくれでも、何でもありだから。」と説明してくれる。「それじゃ、お勧めは?それから、穴子のたたきを食べたいな。それに鯛丼!」ここで大将、ニヤッとすると、「えーと、今日は穴子、あります。穴子は鍋も美味いけど、どうする?」このアナゴ鍋、「こんなに美味い穴子は今まで食べたことない」と思わず叫ぶほどの絶品だった!本当に美味い。そして鯛丼、「孤独のグルメでみた、あれや!これを食べなきゃ、ここへ来た意味がないぜ!」 ところで丸万さん、元々仕出し屋さんらしい。そこで明日の朝食昼食用に2食x2人分=4つのお弁当を作ってもらったら、「あらまぁ、なんと豪華絢爛なことでしょう!」
「大丈夫、一時間に一本バスがある。なにせうちはメインストリートに面しているから」と、ヒトミワイナリーの岸本代表が笑いながら言った一言が、忘れられない。これって凄いんだ。今まで車で40万キロ以上もヨーロッパのワイナリーを巡っていて、こんなこと、一度も考えたことがなかった。なにしろ、飲みすぎなければ、常に運転していたから。その点日本は、(特に東京での乗り換えのための早歩きや階段の登り降りを除けば)なんて楽なんだ。 バスの時間を気にしたのには、理由があった。その日の夕刻までに、広島に行かねばならなかったから。朝、東京を新幹線で出て、米原(JR東海道本線)近江八幡(近江鉄道八日市線=何十年ぶりかで再会した「硬券」に感激、記念にもらってきた!)八日市(近江バス)ヒトミワイナリーに着き、ここからは近江八幡まで戻り、JR東海道本線で新大阪に出て、新幹線に乗り換える。広島にはどうしても行きたい寿司屋があった。 舟入中町のさかもと屋市兵衛の直吉大将は、ちょんまげおやじとして有名な、カウンター越しのエンターテイナーだ。YouTubeで大将のことを知って以来、是非一度会って見たいと思っていた。その思いが、フランスを出る前に購入したJAPAN RAIL PASS(「のぞみ」と「みずほ」を除けばJR全線乗り放題)のお陰で、叶ったわけ。 日本に戻って最初の本格的なお料理は、「うん、瀬戸内の幸は美味しい!」の一言で始まり、そしてその一言で終わる。お通しからお造り、酢の物、焚き物、焼き物、握り(一体全部で何品出たんだ?)と、江戸前のコハダに涙した大将の仕事はさすがだ。一品一品に(エンターテイナー以上の)芸がこもっている。ただ、中でもビックリしたのは、魚もさることながら、出される野菜の美味しさ。「ウワァ~」とつい口をつく。ここまで野菜に凝る寿司職人は、あまりいないだろう。喝采、喝采。 一方お酒の方は、最初からほぼ私たちの口に合わないのが分かっていたのだから、言及しまい。それでも、私たちが漏らした「自然派が好き」の一言に、直吉大将がピーンと反応。裏から持ち出した雨後の月の「残りもの(澱)」には、気を取られた。にごり酒(?)の上澄みだけを飲んじまった後、残り物を冷蔵庫の中に放ったらかしておいたらしい。真っ白でドロドロ、でも、これが結構いけた。ただ自然酒でないぶん、やはり後はちょっとこたえたけど。
ヒトミワイナリー - 岸本邦臣&石本隼也 今回の一時帰国、私たちはほとんど地方で過ごすことになった。丸一日東京にいたのは、買い物で初めて豊洲市場を訪れた2月28日だけ。それにしても豊洲はなんと味気のないところか。築地という日本の文化が、また一つ葬り去られた。この事実は否めまい。何故、時の流れを止めずに、変わらぬ夢を流れに求めないのか。残念というよりも、悔しい。 反面、3月2日に訪れたヒトミワイナリーでは、そんな夢を見させてもらった気がする。信楽焼でのワイン造り、信楽茶壺仕込み、なかなか妙味な話だ。すでに十年も前からやっていると言う。それどころか、発掘された1200年前の焼き物の破片に葡萄がこびりついていたという、なんとも想像を掻き立ててくれる話もある。ああ、知らなかったのは私たちだけ。世界のVoyage en Amphoreを掲げるには、まだまだ役不足のようだ。 ネット検索で、茶壺仕込みとして、Sindo Funi TsuBo 2014が出てくる。Sindo Funi「身土不二」とは、「地のもの食べると長生きできる」という意味らしい。データを見ると、滋賀県産マスカットベリーA 100%使用、天然酵母での自然発酵でアルコール10度と、いかにも飲み易そうなワインだ。ちなみに2018年の茶壺仕込みは、白がデラウェア+ソービニョン ブラン、赤がシラー+カベルネ フラン。ボトル詰め間もないが、口当たりよくいける。 ヒトミワイナリーでは、元々にごりワインを謳い文句に商品化しているが、日頃澱満杯のワインを飲み慣れている私たちにとってはむしろ綺麗なワインであり、これに疑義を呈する輩がいるなら、その心中が図りかねる。個人的には願わくば、全房でもっと長期浸漬の、或いは日本固有の山葡萄で、いわば縄文風茶壺仕込みに挑戦してみてもらいたい気がする。
久しぶりの日本、久しぶりの超えた味 約三週間ぶりの投稿。久しぶりに、本当に久しぶりに、日本へ行っていた。四年半ぶりの一時帰国。その間フランス(ヨーロッパ)とはずっと音信不通のまま、だからFBもブログもみんなお休みして、「十割日本」を楽しんだ。そもそも、家を出たらナヴィ(+日本では駅探)以外、基本的にモニター(スマートフォンやノートブック)なんて見たくない。だってもったいないもの。小さな画面には収まりきらない、目の前で起こっている面白い色々なできごとを見逃すなんて。そのために、自由でいたいんですよ、自由で。囚われの身にはなりたくない。まぁ、小さな世界に縛られるのも、その人の自由だけど。 さて今回は、もう十年以上(?)乗っていなかったAF(エールフランス)で、パリ経由の成田着。個人的にはトルコ航空の方が好きだけど、AFがとにかく安かった。おまけに成田到着が朝。つまり、空港から直接寺田本家へ行ける。寺田優さんとは、毎年スペインやジョージアで再会していたけど、お蔵はやはり四年半ぶりの訪問だ。 いつもの板間で、初めて醍醐の泡を飲む。「仕込んで日が浅いので、まだ泡が出ていかも…」との優さんの心配をよそに、僅かに発泡しだしたお酒がやけに美味しい。グイグイいけてしまい、「おう、よいよい、いけるよ、これ、優さん」と、駆けつけ四、五杯でようやく本題へ。「優さん、ところで例のもの、どうですか?」、「じゃぁ、やりますか」、「やりましょう、やりましょう」と表に出る。 さて例のものとは、備前の大徳利に入れ地中に埋めて寝かした醍醐の雫のこと。もともとは、トリノで隔年に開催されるスローフッドのサローネ デル グスト2014年大会で、2002年以来続けてきた私たちの研修会の集大成のテーマ「かめ壺熟成」用に、優さんに頼んで14ヶ月熟成させてもらったものだ。これが滅茶美味しくて、是非同じものをと再び埋めてもらったが、結果的にその後私たちが一度も一時帰国することなく、そのままずっと地中で眠っていたものを、「掘り出そう」ということになったわけ。でも、自然はすごい。五年も放っておくと、「こんなにも根が張って…」と、優さんが四苦八苦しながら、なんとか掘り起こす。とりあえずかめ壺の表面の土を洗い流すと、口からほんのり香りが…。「これは、あっ、あれだ。」
Alessandro Sgaravatti - Castello di Lispida 皆さんは、福岡正信先生の名をご存知だろうか。不耕起、無肥料、無農薬、無除草の自然農法を提唱された方だ。また、ギリシャやスペインを初めタイ、ケニア、ソマリア等、世界十数カ国で、様々な種を混ぜ込んだ「粘土団子」での砂漠緑化を実践されたことでも知られ、海外では非常に高名だ。が、日本ではあまり知られていない。実は当初私たちも、イタリアの造り手から話を聞くまで、先生の名すら知らずにいた。仮にも「自然」を口にする「日本人」として恥ずべきことだと思う。 残念なことに、私たちがお目にかかる機会を得る前に、2008年、95歳で亡くなられた。その福岡先生のことを最初に教えてくれたのが、カステッロ ディ リスピーダのアレッサンドゥロ スガラヴァッティだった。元々医学部の学生だった彼は、葡萄栽培醸造を始めるにあたり、福岡先生の哲学を学んだと言う。実際に来日して、福岡先生を訪ねている。 今思えば、私たちはとてももったいないことをしたと思う。当時私たちは何の準備もできておらず、馬鹿だった。なにも福岡先生のことだけではない。実はリスピーダの地下蔵には、その時すでにかめ壺が埋められていたのだ。でも当時は、それに興味すら示さなかった。かろうじて、スペイン製のティナッハで、確かヨスコ グラヴネールからもらった、と言っていたと思う。 でも、その時の私たちときたら、「ヨスコって誰?」といった具合。ああ、恥ずかしや、恥ずかしや、壺があったら入りたい。結局、この程度の私たちだったから、(?)かめ壺ワインを試飲させてもらっていないと思う。まぁ、できの悪い奴には出さんというのも、仕方のないことか。もっともそのお陰で、私たちは後にクヴェヴリ グヴィノへ一目惚れ。ただならぬ思いを抱くことになった。これまた人生、楽しからずや。
Rosemarie Bernhard & Giulio Viglione - A.A. Viglione 初めて耳にする人の名に何故か懐かしさを覚えることがあるように、それまで聞いたことのなかったワインの名でも、最初から好みのワインのような気がすることがある。バルベーラがそうだった。ドルチェートよりも、またネビオーロよりも、その名を聞くだけで心が弾み、幸せになったような気がした。そして実際に飲んでみると、その通りだった。知りもせずにバルベーラが好きと言い、教えてもらったのが、このヴィリオーネだった。 約束の日、モンフォルテ ダルバの指定の場所へ着き電話を入れるとすぐに、白のサムライ(海外向けスズキのジムニー)が飛んで来た。そして降り立ったのは、その場の雰囲気からおよそかけ離れた、個性丸出しのローズマリーだった。挨拶もそこそこに、彼女についてカンティーナへ向かうと、ジュリオが迎えてくれた。見るからにローズマリーとは対照的な、ピエモンテの郷人だ。その二人が、やけに綺麗なティーシャツを着込んでいる。 理由は簡単だ。勿論、撮影のため。が、その目論見(?)は見事に外れた。「まぁまぁまぁ、一杯飲もうや」とのジュリオの誘いに応じて、普段は撮影が終わるまであまり飲まない私が、その時は勧められるがままにバルベーラを口にした。すると、これがいける。「やっぱりバルベーラは美味しいんだ!」と嬉しくなり、「写真はこの次でいいや」とばかり、その日はそのまま宴会へ突入。後日改めて出直し、撮影することになった。 しかし二回目も、また宴会で始まることになる。それでも、今回撮らないわけにはいかない。そこで宴会の途中、たってのお願いと撮らしてもらったのがこの写真だ。ローズマリーとジュリオの二人合わせて300%、個性むき出しの傑作になった。そのご褒美ではないが、二度目の宴会の最後に出てきたのは、なんとバルベーラ1985年。ピエモンテの真髄はネビオーロと言うけれど、そうかなぁ。私にはバルベーラの方が輝いて見えるけど…。
Denis Montanar - Borc Dodòn Triple Aの造り手の中で、アリアッナ オッキピンチと並んで出世頭と言ったら、ボルグ ドドンのデニス モンタナールかもしれない。当時から葡萄栽培(及び醸造)専門農家というよりも、葡萄以外に向日葵(油)等を作っていたが、今では小麦にトウモロコシ、大豆(なんと豆腐用!)等々、幅広い農作物を手がけている。 そのデニス、初めて会った時は、スキンヘッドのせいか、滅茶苦茶強烈な印象だった。視線が突き刺すように鋭い。おまけに、動作はとてもスマートとは言い難い無骨さがある。それ故に、尚更人を圧倒する雰囲気だ。するとデニスが、何やら準備を始めた。どうやら、畑へ行くらしい。まず特製ベルトを腰に巻き、それに木の蔓を束ねたものをさし、剪定バサミを持って襟を正して準備完了。いざ出陣だ。デニス様のお通りだ。 着いた畑は、緑の中に黄色のタンポポが眩しいほどに自生しているところ。記憶に間違いがなければ、確か当時の彼のラベルのデザインはタンポポだったはず。つまり、このタンポポは彼のご自慢だったわけだ。 畑に入ると、すぐにデニスが上手に蔓で葡萄の枝を留め始めた。「それじゃぁ、撮らせてもらいましょうか」と体勢を低くするが、何か様にならない。右へ、左へと移ってみてもダメ。結局、「ええい、面倒だ!」とばかりに地べたにどっかり座り込んだ。そしたら急に、デニスの表情が変わった。まるでこちらの本気度が伝わったのか、真っ向から対抗してくるかのように、勢い良く作業を始めだした。その仕事の一瞬の合間の写真がこれ。自分でも結構気に入っていたのだけど…。 実はこの写真が元で、しばらくの間デニスとの関係がギクシャクしてしまった。版権の問題だ。まぁ、よくある話だが、著作権と肖像権、及び使用権の関係が、一般には分かりづらいところがある。著作権は当然私たちに、肖像権はデニスでも、使用権はTriple Aの写真を依頼したVelierにある。それだけならさほど問題は起きないのだが、某輸入業者が勝手にこの写真を使ったせいで、ややこしいことになったのだ。
Arianna Occhipinti - A.A. Arianna Occhipinti ステファノと同時期に、私たちの名が売れるきっかけとなったもう一枚の写真がある。以前、リーデル用の撮影でSBMのジェナーロにイタリアの生産者を紹介してもらった時、彼のリストにはアルジオラスの名があった。シチリアの有名な生産者だ。行こうと思って何度も計画を立てるが、いかんせんシチリアは遠い。その度に何処かで不都合が出て、行かずじまいになっていた。そうこうしている内にTriple Aの仕事が始まり、アルジオラスの名は消えた。代わりに登場したのがアリアッナ オッキピンティだった。 それでもやはりシチリアは遠い。そんな時、サンレモのレストラン、パオロ&バルバラのご夫妻から、一緒にシチリアへ行こうと誘われ、同行させてもらうことにした。車ではなく、飛行機でジェノヴァからカターニャに飛び、そこからレンタカーだった。以前は、リーデルのソムリエ・シリーズを持ち歩いていたので、空路は交通手段の対象外だったが、もうその必要もない。話は簡単だった。 車でカターニャからヴィットリアに移動し、初めてアリアッナの開墾途中の葡萄畑を見た時、ここはアフリカかと思った。大地の色、乾いた空気に灼熱、正に北アフリカを彷彿させらる土地だった。そこで、長い豊かな黒髪を無造作に束ねたアリアッナが、鍬を振り上げては振り下ろし、地面を耕していく。やがて手を休めると、「新しいトラクターを買ったら、すぐ盗まれた。だからもう買わない」と、真っ白な歯を丸出しで笑いながら言いた。そしていきなり、地べたに這いつくばった。褐色に近い肌がピィーンと張りつめ、黒い瞳がきらきらと閃光を放っている。うわっ、さそりだ!「そうよ私はさそり座の女、さそりの毒はあとで効くのよ、さそりの星は一途な星よ」とばかり、当時、EUの青年対象の支援制度を利用して建設中だったカンティーナは、今では場所も建物も変わり、立派な農場主の家と蔵になっている。私が知る限り、アリアッナはTriple Aの中の出世頭だ。そんな彼女にかめ壺の話をすると、「コンクリートがいい」と興味がなさそう。まぁ、いいか。叔父さんのジュスト(COS)が沢山やっているから、放っておこう。
Stefano Bellotti - Cascina Degli Ulivi ステファノ ベロッティとは、もうゆうに十年以上の付き合いだった。Triple Aの造り手の中でも最初に撮影した一人だ。その時のこの「陸のポセイドン」のような彼の写真で、私たちの名がヨーロッパの自然派ワイン界で知られるようになった。ところであのイメージ、何処から降って湧いたのだろう。あの時目の前にいたステファノは、もっと土の香りがする野生児(?)で、それでいてどこかメルヘンチックな人だった。 まずは彼のボトルのラベル。愛娘が描いたというお気に入りのラベルは、まるで童話の幻想の世界で、彼の自然界に対する憧憬を、彼の生き方を写しだしていたのだろうか。彼が造ったワインは、いわばその夢の世界と現実を結ぶ架け橋だったのか。それに対し、後に出たVINOのラベルは、以前のものと比べ、ステファノの夢の投影には程遠い、背景にある販売戦略が見え見えの味気ないもだっだ。 昨年、ステファノの死を知った時、ショックというよりもそうだろうな、と思えた。年初めにバルセロナで会った時の彼の様体が、あまりにも芳しくなかったから。その後一度、ジェノヴァで再会した時には、少し持ち直したかのように見えたのだが…。ただ、「病院で膵臓癌と診断された。でも自然治療医が違うと言っている」と耳にして、これは危ないと思った。そしたら案の定、逝ってしまった。 ステファノが何を信じていたのか、私は知らない。何かあれば、今なら私も自然療法を選ぶだろう。ただよく分からない。去年一年で、ソリコ(アワ ワイン)、エルネスト(コスタディラ)、ステファノ(カシーナ デリ ウリヴィ)、アンリ(プリウレ・ロック)と、Triple Aの造り手が四人も亡くなっている。しかもみな五十代の若さだ。他にもVini Veriのベッペ(リナルディ)や、その前にはスタンコ(ラディコン)がいた。 何故、みな若くして死んだのか。分からない。自然派であることって、一体何なんだ。
Famiglia Guerrini-Fortunata - A.A. Paradiso di Manfredi モンタルチーノには、私たちの癒しの場があった。パラディーゾ ディ マンフレディ、マンフレディの楽園、昔ながらのやり方を変えないという約束で婿入りしたフロリオの楽園、そしてそれを受け継いだ娘ジョイアの楽園だ。昔からずっと「手」で守られてきた、海抜330mの北東向きに位置する僅か2,5hの畑だ。その収穫は当日の朝に決められ、その日の内に、私たちが家から520キロをすっ飛ばし辿り着く前に、終わってしまう。だから今まで一度も見たたことがない。 もっとも、マンフレディには別の収穫があった。それはフォルチュネータお婆ちゃんのご自慢の菜園での収穫。私たちが行く度に、野菜を獲ってきて、色々とご馳走してくれた。それがこの楽園の流儀だった。そのフォルチュナータお婆ちゃんも、数年前に天寿を全うされ、もういない。が、パラディーゾのおもてなしの心は、今も続いている。南イタリアへ車で行く時には、寄れるなら是非寄って行きたい、素敵な場所だ。 ところで、同じモンタルチーノには、ブルネーロ好きにはたまらないカーゼ バッセがある。どちらもサンジョベーゼの土地柄なのに、その雰囲気は異なる。そして両者には、たわいのない違いが一つ。それはマンフレディがボトルを寝かして保管するのに、カーゼ バッセはボトルを立てて置くこと。些細なことかもしれないが、でも意外とこれが決定的な違いだったりして。 フロリオは歴としたモンタルチーノの土地っ子で、義父との約束により昔ながらのしきたりをがんと守っている(だから、かめ壺醸造を頼めなかったけど、今のジョイアならOKかも)。一方のジャンフランコは、トゥレヴィーゾ生まれのミラノ育ち、北の出だ。そして北の造り手は、ボトル内の再発酵を恐れてか、よくボトルを立てたまま保管している。それをそのまま、ジャンフランコがモンタルチーノへ持ってきた。そして北と南の違いが、そのまま両者の違いとなっている。
Gainfranco Soldera - Case Basse 昨日、モンタルチーノの巨匠、カーゼ バッセのジャンフランコ ソルデラが亡くなった。突然の訃報に接し、哀愁の意を表したい。 私たちがカーゼ バッセを訪れたのは2010年、今から九年前のことだ。高名な名だけを頼りに、恐る恐る訪問した私たちを手厚く迎え入れてくれ、色々と素敵な写真を撮らせてもらった思い出がある。中でもこのジャンフランコの屈託のない素敵な笑顔が好きだ。今その写真を前に、合掌。
Tomaž & Franc Vodopivec - Slavček 初めてのスロヴェニアの旅では、もう一人別の造り手を訪問した。スラウチェックだ。場所はドルネンベルク。先に登場したチョッターから15kmも離れていない。スロヴェニアはそもそも小さな国だ。四国よりも一回り大きいくらいで、人口は200万人程。四国や元同じURSS構成メンバーのジョージアの半分強といったところ。そんな小国だけど、多様性がある。そもそも、MOVIAに比べれば、ここは全然イタリアナイズされていない。 スラウチェックは、教会の記録によると、スラウチェヴィフ(ナイティンゲール)の名ですでに1769年に登場し、以後何世代にもわたりワイン造りをしているという。現在の当主の名はフランク ヴォドピヴェック。妻と息子と共にワイナリーと民宿を経営、全て彼らの手作りショップならぬ農家だ。ワインもテロワールを守り、伝統的な技法で醸造、その品質を保っている。また、滅茶苦茶に美味しい桃のジュースも作っていて、こちらもTriple Aに指定されている。 フランク自身は、「ソビエト製で頑丈だ」というご自慢のジープ同様、どことなく無骨な印象があるが、とにかく率直で誠実な人なのだろう。あらゆるところに込められた嘘のない率直な彼の思いが、ひしひしと伝わって来る。そして、撮影後の最後の一言が大傑作。 「俺、赤ら顔なので、なんとかしてくれ!」 はぁ?ご心配なく。デジタルですから。それにそもそも白黒なんだよね、私の写真。
Aci Urbajs スロベニア第三弾。今度は、イタリア国境から遠く離れて、反対側、オーストリア国境に近いアッチ ウルバイスを訪れた時だ。 山道を登って行くと、高台に一軒家が見えてきた。脇で誰かが手を振っている。近付くと、「よく電話で道を尋ねずにここまで来たね」と、アッチが開口一番に英語で話しかけてきた。そりゃ、昔取った杵柄、WRC(世界ラリー選手権)の追っかけ取材をやっていたからね、人里離れた造り手を訪ねるなんてお安い御用。ただ問題は、あーっ、英語。私達は通常、英語を話す気が全くない。でも嬉しいことにアッチは、英語でもいいから話しをしたい、と思わせる人柄だった。 そしてアッチの開口二番、「ちょっとお腹がすいたから、一緒に何か食べよう」と、樽から直出しのワイン(こんなことする人は、それまで見たことがなく、初めて!)を持ってくる。チーズをつまみながらそのワインを飲む。なかなかおつなものだ。大体、アッチのワインには真にアッチの香りがある。これこそ家付き酵母の成せる技、ですよね。 そんなことを、使い慣れない英語で四苦八苦しながら話していると、アッチが突然、「リンゴ酢も造っているんだ」と言い出した。うへぇ、お酢かぁ。苦手だけど、ここは一丁「飲んでみようか」と試飲することに。「水で薄めて飲めば飲み易い」と言うアッチの声を尻目に、原酢をそのまま口にしたら、「あら、これ、美味しい!このままいける」とゴクンと飲んだその時、アッチの澄んだ瞳が輝いた。石灰をも溶かすお酢のお蔭で、「頭の中がショートした」元ハイテク青年との間合いが、一気に狭まった瞬間だった。 ある日、コンピューター関係の仕事に従事していると、頭の中が真っ白になり、それで仕事を辞め、葡萄作りの世界に入ったそうだ。たった2ヘクタールだが、山の中にある斜面の畑は、全て自分一人で管理するという。小さな花が咲き乱れ、周りの木立から小鳥のさえずりが聞こえる、気持ちの良い畑を歩き回りながら、ビオディナミ用の材料を採取するアッチ。全てそこで補えると、ご自慢だ。そして、あの極美味のお酢の原料となる林檎が獲れる畑も、青々と美しい。金儲けのための葡萄専業者とは違い、地球を守る人がここにもいて、嬉しくなる。
Branko & Vasja Čotar - Vina Čotar スロベニアでは桁外れなことが続いた。なんと50cmの盛土で開墾ならぬ「新墾」した人たちがいた。イタリアのトゥリエステの丘陵丘カルソ地区の延長上、国境から五分ほどのクラスにあるチョッター ワインのブランコとヴァッシア親子だ。彼らによって客土された赤土はトラック一万台分(?)に及ぶと言う。そこに植樹し、葡萄畑を作ったのだ。 もっとも、レストラン経営が本業だったチョッター家が、無分別にこのような大規模な土地改良(?)計画を実行し、現在の本業である葡萄栽培醸造を始めたわけではない。この地方には元々、土を掘り、その掘った土で盛り土をし栽培する伝統があるのだ。ただ、通常なら穴を掘ったすぐ横に盛土をするところを、別の場所に土を移したのである。その採土場へ足を運ぶと、アスパラガスの群生の中に巨大な円錐形の穴がポカリと開いていた。 現在7hを有し、主に土着品種のテッラーノ(地方名レフォスコ)とマルヴァジア(マルヴァジア イストゥリアナ)を栽培。この赤土で獲れた葡萄が運ばれ醸造される蔵が、また凄い。醸造後の熟成に使われるセーラーは二段重ね、そう、石造りの地下二階建てだ。そこで十分に寝かされた後、独特な「指紋付き(デザイン)のラベル」で世に出される(SO2無添加のワインもかなりある)。個人的には、将来テッラーノをかめ壺で醸造してくれればありがたいのだが、さて、どうだろうか。
Aleš Kristančič – MOVIA 私にとって、アレッシュ(MOVIA)の閃きを聞くのは大きな楽しみだ。今までに何度となく、上り詰めた者の「悟り」の体験を言語化しその境地に導くかの如く、「これはいける」と言うようなことをよく語ってくれた。その一つが次の抜粋内容。以前、日本のスローフード季刊誌に寄稿したものだ。 スローフードのスローガンは、果たして正しいのか。スローフード・スロベニアの総裁、アレシュ クリスタンチッチが鋭く切り込む。 「BUONO、PULITO E GIUSTO(おいしい、きれい、ただしい)と言うが、果たして本当にPULITOで良いのだろうか。確かにPULITOと言えば聞こえは良い。でも見方を変えれば、それはPURO(生粋)でなくなったものともなる。例えば濾過されたワイン。見た目は奇麗だが、本質を失った見せかけのものだ。そんなものがVERO(本物)であるはずがないし、本物でなければ、結局、美味しくも正しくもないはずだ。」 現在MOVIAが提唱するのは、生粋な、元の形を残したワイン。その代表がPURO(プーロ)とLUNAR(ルナール)である。父ミルコから引き継いだ伝統のワイン郡に、アレシュが新たに投入した銘柄だ。前者は、三年間樽熟成させたワインに同じ畑で穫れた新しい葡萄の絞り汁を加え再発酵させた発泡性のワイン(シャルドネ主体の白とピノ・ノワール主体のロゼ)で、澱切りをせずに出荷。後者は、白のリボッラ種の葡萄を表皮ごと樽に詰め込み醗酵、八ヶ月間の熟成後に無濾過でボトル詰めする。両者は、元々異なる構想の下に生まれたワインだ。その位置関係は百八十度の対角線上ではなく、一つの円上で隣り合う点と点のようなもの。言わば「最も近くて遠い仲」となる。その接点が、アレシュが言う「生粋さ」である。 このような始めから澱がたっぷりと入った生粋の自然なワインを口にした時に、皆さんもきっと私たちのようにホッとするのを覚えられるはずだ。それは、残留農薬等が検出される飲食物を本質的に「きれい」だと思う心が誰にもないように、「おいしい、きれい、ただしい」世界の必要条件が自然派であることを、無意識の内に皆さんの体が知っているからである。(以上抜粋) 最後に、最近アレッシュの口から出た一言で、私に大きな閃きを与えてくれたこと、それはGRAND VINとBON
Aleš Kristančič - MOVIA リーデル用の撮影でVie di Romansを訪問するために初めてフリウリへ行った時、適当に走り回っていたら予定外にスロベニア国境に出くわし、慌てて引き返したことがある。その後2006年、その国境を超える機会が、ようやく私たちにやってきた。MOVIAの訪問だ。ただ当時はまだ、EU加盟国にも関わらず、他所の国からやって来る不法移民対策の名目で、スロベニアとイタリアの間には検問所が残されており、地元住民以外は幹線道路の国境を通過しなければならなかった。 それが2007年12月22日に撤廃され、名実共に誰でも自由に行き来できるようになった。MOVIAからわずか200mの所にあった検問所を、地元の人の車に同乗せてもらいサングラスをかけて通過した話や、小さな石柱で示された畑の中の国境線上にいると監視のヘリコプターが頭上に飛んできた話も、これでやっと過去のものとなった。ただ、イタリア側から国境を超えた瞬間にナヴィが消える状況だけが、汚物のようにしばらく続いた。 ことMOVIAに関しては、その扉が以前から大きく開け放たれていた。初めて訪れた時には、その凄さに度肝を抜かれたものだ。小奇麗な淡いピンクの館に入ると、音楽が鳴り響く。見れば、煌々と灯りが灯された室内の壁の至る所に現代絵画が掛けられ、正面の円形階段の横には自家製の生ハムやクルミが並び、半階上の広間には五十席にも及ぶ食卓が準備されている。一瞬、「何処かのレストランに迷い込んだ」と思ったほどだ。 それだけではない。その日の客(団体)はなんと夜の十一時に到着した。そして、アペリティフを済ませ、蔵見が始まったのが真夜中の十二時過ぎ。その後宴会は、朝の四時まで続いた。当然、すぐ上階の貴賓客で寝ていた私たちにとってはたまったものではなかったが、それにしても他では考えられない凄まじい受け入れ態勢だ。その御陰か、小国スロベニアを代表する社交場として、MOVIAには度々国賓級の来客もある。 全く、上には上がいるものだ。イタリアに来だした頃は、フランスに追いつけ追い越せの姿勢に感服したものだが、一度、足を踏み入れると、スロベニアはそれ以上の国だった。
Cyril Fhal - Clos du Rouge Gorge 世の中には一度聞いただけで忘れられない、そして気になって仕方のない名がある。Clos du Rouge Gorgeもその一つだった。そしてシリル ファルの名も。理由は分からない。でも初めてこの名を耳にした時から、すぐにでも行きたいという衝動に駆られた。そして約束の日、ピレネー山脈の麓に位置するラトゥール ドゥ フランスは、ゆうに風速30メートル/秒(時速120km)を越えるTramontana(トゥラモンターナ=北北西の強風)に見舞われていた。 本当に吹けば飛ばされるような(実際に軽く跳ねたら着地位置がずれていたし、また撮影中にカメラを持ったまま押し倒されもした)風の中、L'Ubacの丘の中腹で、シリルは明るく笑いながら鍬を振り下ろし、そして言った。「初めて自分の葡萄畑を手に入れた時、嬉しくて嬉しくてさ。それで住む家がすぐに見つからなかったもので、4ヶ月間、畑の中の物置小屋で寝泊まりしてしまったよ、ハハハハハ。」 葡萄栽培農家の出ではない一人の若者で、自らの畑をこれほど愛している者はなかなかいない。「広くなりすぎたら葡萄作りを楽しめなくなるだろう、フフフ」と、相手の目を見つめながら軽く言い流すシリル。そんな彼が、自らが情熱を傾けヒポトピアを目指すご自慢の畑の中を歩く姿を目にした時、Closの中が一斉に生き生きと輝いて見えたのは、単なる目の錯覚だったのだろうか。 Triple Aの撮影を始めて以来、シリルは、イタリアはシチリアのアリアッナ オッキピンティと並ぶ、フランスで一番の出世頭だと私は思う。そんな彼が、こともあろうに、近年Hors Champsというネゴシアンを立ち上げた。雹害にあった経験からで、仕方のないことかもしれない。が、個人的には、ちょっと残念に思う。シリルの二酸化硫黄に対する考え方同様に。
Henry-Frédéric Roch - Domaine Prieuré-Roch 毎年春、イタリアのヴェローナで開催されるVINITALYのOFFの一つでVINO VINO VINOの前身、VINI VERIの会場ヴィラ ボスキでのことだった。某出展者が、「有機農法で葡萄栽培をしているが、醗酵がうまくいかず、醸造時に二酸化硫黄添加で制御している」と言う。納得できず、外で談笑していたアンリ・フレデリック ロックと、クリスティアン ビネールに、その疑問をぶつけてみた。するとアンリが、 「葡萄が醗酵しないのには、二つの理由が考えられる。一つは、農薬等化学薬品を投入し、畑から酵母が消えた場合。もう一つは、酵母のいないところに畑を作った場合。どちらも酵母がいないのだから、醗酵しない。その点、先人は偉いよ。そういったことをちゃんと弁えていたのだから。今畑があるところには酵母がいる、少なくともいたわけだ。だからワインができた。」 と言った。そしてクリスティアンが引き続き、 Christian Binner - Domaine Binner 「そうさ。土地の酵母があってからこそ、そこのワイン、テロワールを語れるワインができるんだ。農薬散布で酵母がいなくなれば、ちゃんと醗酵するわけがないし、そこで二酸化硫黄を入れ一度全ての命を絶ち、培養酵母で無理矢理醗酵させる。そんな化学工業製品はワインじゃない。」 と、締めた。さらに付け足す様に、 「よく、葡萄の樹は根を地中深くまで張るって言うだろう。冗談じゃない。植樹した時から農薬や肥料を使用してきた畑なんて、化学薬品を使わずに手入れしようとトラクターで耕したら、大変なことになる。葡萄だって人間と同じように怠け者なんだよ。農薬のせいで、地中には栄養分なんてありゃしない。そこで人間様が地表に肥料を撒いてくれれば、『おお、楽だぜ』って、下に行くはずの根が、肥料を求めて皆上に向かって伸びてくる。そこをトラクターでガガガガーとやっちまったら、根が切れてみんな死んじまうさ。」 なるほど、もっともである。と言うことは、つまり、「葡萄の根は岩盤をも突き破って地中深くに…」等というよく耳にする話は、これだけ化学農薬や肥料が蔓延した現在、ほぼ迷信ということか。確かにニコラ ジョリも、 Nicolas Joly - La Coulée de
Christian Binner - Domaine Binner 一般的にはAOCを落しても、大抵の場合、ラベル変更でことは足りるのだが、ただ例えばアルザスはちと事情が異なる。ドメンヌ ビネールを訪問した時だ。クリスチャンが、 「アルザスのボトルを知ってるだろう。あの細長い特徴あるボトルは、アルザスAOC用のボトルなんだ。だからAOCを落とすと、面倒なんだよな。あのボトルをVdFに使えないので、折角ボトル詰めしてあるワインを別のボトルに詰め直さなければならなくなる。そうなったら、本当にヒェェー、だ。」 と、言っていた。そして、未だラベルの無しのゲヴェルツトゥラミネールのボトルを手に、 「これもまだなんだよなぁ(AOCを通っていない)。まぁ、何時ものことだけどさ。」 本当にご苦労様です。 さて近年、ワインの造り手の間で、ネゴシアン(ワイン商)の立ち上げが流行っている。理由は、冷害や雹害などでの収穫減による損失危機管理管理のためだと言う。まぁ、分からないでもないが、買い葡萄では、小規模生産者の醍醐味が薄れて、好きではない。その点、クリスチャンが最近若い造り手たちと始めた取り組みは、ちょっと趣を異にする。 彼らの取り組み、Les Vins Pirouettes (レ ヴァン ピルエットゥ)は、小規模生産者の弱体化につながる従来のネゴシアンと違い、多数の造り手で一つの販売戦略を共有することで、販売網の拡大を図ろうとする。その最大の利点は、情報を共有し技術的に向上しつつも、各々の個性を保ちながら生産でき、多彩なワインを展開できる点だ。現在のメンバーは、Stéphane Bannwarth、Julien Albertus、Hubert & Christian Engel、Olivier Carl、Claude Straub、Eric Kamm、Raphaël, Catherine & Daniel (Domaine de l'Envol、Jean-Luc & Michèle Shaeringer (Wymann)、Jean-Marc Dreyerの9名で、Christian Binnerが指揮をとる。
Olivier de Moor - Domaine Alice & Olivier de Moor AOCにまつわる話は色々とある。愉快な処では、この世で一番美味しいアリゴテを造ると言われるシャブリのアリス エ オリヴィエ ドゥ モールが、2007年にAOCから落とされた時の逸話がある。AOCから落ちれば、ラベルにアリゴテの名は表記できない。そこでアリスとオリヴィエは考えた。そして、新たなラベルを作成した。そのラベルには、グラスに縄がかかったデザインが施され「A 〝LIGOTER〟」と記されていた。因にLICOTERとは「縄で縛る、束縛する」といった意味だ。つまり、AOCに束縛されて「ALIGOTE」と表記できない、と皮肉ったわけだ。正に、オーレ!。 ところが、話はそこで終らなかった。2008年に再びAOCを落とすと、今度は「A 〝LIGOTER〟」から「A 〝L〟IGATO-O」へ変更。意味はもろに「ありがとう」だ。そして裏ラベルに名前入りでの協力者への謝意(MERCI)を表明、忌々しい国フランスに対する最大限の皮肉を込め、「ALIGOTO-O」は日本語の「ARIGATO」の発音に最も近いフランス語表記だ、とやらかした。ブラボー!が、オリヴィエたちの輸入元は「これはまずい(って何が?)」と、ラベルを張り替えてしまった。心算無視の営利優先、ああ嫌だ、情けない。 私は、日本語の「ありがとう」の啓蒙運動をしている。日本人が日本語で「ありがとう」と謝意を表して何が悪い。THANK YOUなどと言う必要など、どこにもない。それに「ありがとう」の認知度はすでに結構高いし、「ありがとう」と言われて嫌がる人はいない。勿論、私たちは自分のいる場所次第で、「メルシ」、「グラシア」、「グラーツェ」、「オブリガード」、「フヴァーラ」、「エフカリスト」、「マドゥロバ」等々、各国の言葉は使い分けるけど、英語は極力避けている。そもそも、何故英語を使うんだ?私たちは英語圏にいるわけじゃないんだ。 公私で世界中を駆け巡り、後々私たちを自然派へ導くことになるルカの三つの原則、 「人生は美しい」 「問題ありません」 「ありがとう」 この三つを現地の言葉で言えば、何処でも誰とでもうまくいく、というのが彼の信条だ。全くその通りだと思う。口先のLOVEなんて誰も必要としていない。
ドメンヌ バラル同様、あの「神の雫」に選ばれたシャトー ル ピュイもまた、今までに何度も(例えば2005年や2006年)AOCを落としていることを、ご存知だろうか。「落とす」と、AOCコート ドゥ フランとしての認定を受けられずその名が消え、それだけで、直ぐに販売の三割減に繋がる。悪いのはブランド志向の消費者なのだが、そうは言っても、減益は痛い。どうすりゃいい? ワインの場合、AOC認定は、その地区毎の審査員の試飲結果で決められることになる。つまり、その地区のワインとして「ふさわしくない(と審査委員が言う)」ものが、人為的に外されるわけだ。勿論、その根拠となる理由は文書で生産者に告げられる。そして、その決定に不服であれば、生産者は二度の再審(合計三度の審査)を請求できるが…。 当然、シャトー ル ピュイも再審を求めるが全て不合格。しかも、毎回「異なる」理由付けでのAOC不授与となった。言葉を返せば、明確な根拠無しでの不合格。問題があるとしたら、他のワインと違い美味しいこと。要は、その旨さ故に危機感を持った地区委員会によって、落とすために落とされたわけ。この酷い仕打ちには、温厚なアモローさんも激怒し、直訴した。結果はシャトー ル ピュイ側が勝訴し、INAOの不十分な管理体制が露見した。 よく私たちに、自分はル ピュイで色々なことを実現せねばならぬ運命にある、と言われていたがアモローさんもすでに八十。今までに、本当に色々なことをなさされてきた思う。あと残ったことがあるとしたら、アモローさんの最後の大仕事は、たぶん、AOC Le Puyの確立だ。それさえ実現すれば、二度とケチをつけられることはない。留目の一発だ。大いに期待しよう。
Jean-Pierre Amoreau - Château le Puy 私たちは、ロマネ・コンティに始まり、モンラッシェにとり憑かれての、紛れもないブルゴーニュ派(だった)。もっとも、ブルゴーニュ派になる以前から、私はボルドー嫌いだった。90年代初頭、日本のM社のコマーシャル撮影の仕事でボルドーを訪れた時に始まったこと。とにかく嫌いなんだ、あの体質。ネクタイ族にプリムール、パーカー好みのフレンチ・コーラ(ボルドーの赤)等々、みんな嫌。だから、飲まない。 でも、例外がある。シャトー ル ピュイ。サン・テミリオンの裏(表?)、コート ドゥ フランで1610年から続く老舗だ。後に「神の雫」として世に名を馳せる前から、私たちは出入りしていた。例の如く、Triple Aの仕事で訪れたのが最初だった。その時に、ジャン・ピエール アモローさんが語ってくれた、彼のお祖父さんの話を良く覚えている。「以前は村まで馬車で行ったもんだ。ある日、祖父のお供で行った時のことだ。途中道端に蹄鉄が落ちていてね、それを見つけた祖父が、私に拾って来いと言う。でも幼かった私は嫌がった。そしたら祖父は自分で拾って村へ持って行き、売って、そのお金でサクランボを買った。そして私の手の上にサクランボをおきながら、言ったんだよ。お前は蹄鉄を拒んだけど、サクランボは拒まないだろう、って。」 一見無意味に見えるものでも、見方を変えれば価値が出る。そんな知恵の伝授か。「ここ(サン・シバールのシャトー)にいると、毎日がバカンスのようだ。みんな、疲れをとるためにバカンスに出ると言うけれど、実際には旅先で色々やり過ぎて、かえって疲れて家に戻ってくる。それじゃ、主客転倒だろう。バカンスに出なくともうちには色々と楽しいことがあるし、それだけじゃなく、皆がエネルギーをもらいにやってくるんだよ。ここに来ると気持ちがいいって、元気になるって。ほら、あそこにストーンサークルがあるだろう。ここは昔からエネルギーの高い場所で、エコシステムも充実しているんだ。」 後にアモローさんに見込まれて、私たちはシャトー ル ピュイの仕事を引き受けることになった。写真のモンタージュで作るビデオ制作。物の見方を変えてみた(私は動画嫌い)瞬間だった。そして同時に、銀盤からデジタルへ移行した。銀盤に拘りたければ、そうすりゃいいさ。私はどっちでもいい。写ってい