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2019/01/07

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  • ビオトープ

    Didier Barral - Domaine Léon Barral ブルゴーニュ以外の赤ワインで私たちを最初に魅了したのは、ドメンヌ レオン バラルのヴァロニエールだった。理由など全く分からないが、あのどうしようもない不完全の中の完璧さに、私たちは仰天した。それ故、ラングドックで私たちがまず最初にディディエの処を訪れたのは、至極自然なことだった。 到着早々、ディディエは私たちを畑に連れ出した。初めてのラングドックの畑を歩きながら、ブルゴーニュの畑に慣れた目には、ディディエのゴブレの畑は荒れ果ているようにすら見える。が、とにかく土が柔らかい(後年来日したディディエは、東京は路面が固くて膝に負担がかかり痛いと漏らしていた)。その頃はまだ、自然派の観念などなく、色々とディディエに笑われたものだ。彼は、 「有機だって。そんなの新しい言葉じゃないか。俺のところは、昔ながらの農法をやっているだけだ。春先、葡萄が芽吹く前に家畜を畑に入れ、雑草を食べてもらい、肥料となる糞をしてもらう。この良い循環でビオトープが形成され、良い葡萄が穫れる。ほら、この下を見てごらん。色んな生き物がいるから。」 と、乾いた牛糞をひっくり返した。すると、沢山のミミズやヤスデが動き回っている。ああ、本当だ、生きている。命が輝いている。 そうやって畑の中をを歩き回っている時だ。高台からヒョイと駆け下りたディディエに、迂闊にも軽い気持ちで私は続いた。が、「ひぇ、止まれない」と下の道を横断、そのまま先の小川を「うわっ」と飛び越えることに。そして着地したはずが「グキッ」という音とともに、私はその場に倒れ込んだ。ディディエが何事かと呆気に取られていたが、左足首捻挫、全治3か月の大怪我だった。 それでも蔵に戻り、晩年の土門拳の如く、椅子に座りディディエを撮影。後々、この一連の騒動が、ディディたちとの語りぐさとなった。それにしても、おお恥ずかしい。きっとあの時、ビオトープの宿るあの柔らかな土壌での私の醜態を見て、蟻やミミズなど多くの生き物たちが、草むらの陰で大笑いしていたに違いない。

  • ぎうら ぎうら ごこうの…

    Gerardo & Marcella Giuratrabocchetti - Cantine del Notaio 「じゅげむ じゅげむ ごこうのすりきれ かいじゃりすいぎょの すいぎょうまつ うんらいまつ ふうらいまつ くうねるところにすむところ やぶらこうじのぶらこうじ ぱいぽ ぱいぽ ぱいぽのしゅーりんがん しゅーりんがんのぐーりんだい ぐーりんだいのぽぽこぴーの ぽんぽこなーの ちょうきゅうめいのちょうすけ」のイタリア版、には遠く及ばないにも、カンティーネ デル ノタイオの頭首ジェラルドの名字は、ギウラトゥラボッケッティと、忘れられない程に、いや、覚えられない程に長い名字で、忘れられない人だ。しかも、ジェラルド自身のおとぼけ具合も最高だ。約束の場所がわからず街中をウロウロしていた私たちに、待ちくたびれ門先に出て待ってい彼が道の反対側から、「シニョーレ ジャポネーゼ、シニョーレ ジャポネーゼ(訳せば日本のご夫人方なのだが…)」と、声をかけてきた。長年ヨーロッパにいるが、こういう声のかけられ方をしたのは初めて。珍しい。 しかも、ノタイオという名から察するに、行政書士関係の仕事に携わる家系かと思いきや、本人は元々獣医だという。これまた何か不思議な組み合わせだ。おまけにビオディナミをやっていると言う。それなら畑へ行こうと急行。畑で写真を撮り始めたのだが…。 うまく行かない。コチコチに強ばっていて絵にならない。これじゃ、かかしをを撮った方がましでっせー。うーん、どうしようと思っていると、奥方のマルチェッラが現れた。そこで、ちょっと一緒に入ってと頼むと、あら不思議。ジェラルドの表情が一転して、デーレデレェェェ。その見事な変身ぶりに感心してシャッターを切っていると、今度はジェラルドが乗りに乗って、止まらなくなった。 結局、予定の倍程撮って彼等の家に戻ると、何故か机の上においてあった手紙に目をやったジェラルドが、突然蒼白になった。 「どうしよう、マルチェッラ。この表彰式、今日だったんだ。あと二時間で始まっちゃう。折角賞を貰えるのに、どうしよう。ローマまで車で三時間かかるよ。どうしよう。」

  • ジロ・デ・イタリア

    Luciano Sandrone - Angelo Gaja - Domenico Clerico - Enrico Scavino イタリアに行きだして、残念なことが一つあった。それは当時、ピエモンテを除く他の地方の多くの生産者が、ボルドー・タイプのワインを目指していることだった。 Giampaolo Motta - Fattoria La Massa それを反映してか、リーデルのソムリエ・シリーズの中でもボルドーの大グラスに人気が集中していた。ブルゴーニュから巣立った私たちにとっては、やはりショックな現実だった。 Elisabetta Foradori - Foradori それでもイタリアでは、見るもの聞くもの、全てが目新しい。毎回毎回、何か新しい発見があり、楽しい撮影旅行を繰り返していた。イタリアに来るようになってから作風に変化が現れたのも、単なる偶然ではないだろう。その場の雰囲気がそうさせたのかもしれない。 Antonio Caggiano - Cantine Antonio Caggiano とにかく当時は、イタリア人がフランスに追いつけ、追い越せと頑張っているのを見るのが、楽しかった。何かと刺激が多いし、それに、生産者達が立派なグラスを使っていることに敬服した。なにせブルゴーニュでは、少なくとも当時、皆、みみっちくINAOの安グラスだったから。その点、イタリアは皆粋で、格好よかった。 Federico Carletti - Azienda Agricola Poliziano ジェナーロの人選の見事さも、私たちのイタリア行きに拍車をかけていた。勿論、彼の個人的な好みでの選択で、今の私たちの好みとはまるで違うが、当時の時の人を確実に押さえていた。 Romano dal Forno - Azienda Agricola Dal Forno Romano 皆、強烈な個性の持ち主で、第一線を歩んでいた。その人たちを全員撮るために、北から南まで、東の端に至るまで、何百キロ、何千キロ走ったか分からない。 Maurizio Zanella - Ca' del Bosco

  • 心を込めて

    Roberto Voerzio - A.A. Roberto Voerzio リーデル用の初めての外国(フランス以外)での撮影にあたり、イタリアの生産者との調整はジェナーロ イオリオに頼んだ。例の、私たちをスロー・フードに引き込んだSBMの仕入れ部長、イタリア・ワインに滅法詳しかった。その彼がまず挙げたのがロベルト ヴォエルツィオ、そしてルッチアーノ サンドゥローネ、パオロ スカヴィーノ、ドメニコ クレリコ、ジオルジオ リヴェッティ、アンジェロ ガイアと、ピエモンテの大御所たちだが、「あああ、殆ど知らない…。大変だ。」ただ、ロベルトの名が気になって、気になって、手紙を出した。すると、「葡萄栽培家は本来畑にいるものだ。ネッビオーロの最終収穫日は9月25日。その前に畑で会おう」と、2003年早秋、すぐに一通のメールが届いた。面白そう。どんな田舎の、無骨で頑固な親父が現れるのか、楽しみだ。 ピエモンテまでは、家から車でざっと二時間半の距離だ。ブルゴーニュに比べればお隣、大したことはない。が、まだ行ったことがない。高速でサヴォナからトリノへ向かうA6号線に乗り換え、カッルーで降り、タナーロ川沿いにバローロ、ラ モーラ方面へ。そしてノヴェッリョの登り坂を過ぎた時、私は思わず息をのんだ。「うわぁ、何、これ…。」 眼下に広がる初めてのピエモンテの景色に、完全に圧倒されていた。箱庭に納められたような幾つもの丘陵。その合間の斜面を埋め尽くす無数の葡萄、葡萄、葡萄…。あまりにも衝撃的な光景だった。感動とは違う、殆ど恐れにも似た驚愕だった。「凄過ぎる。ブルゴーニュなんて大したことない…。」 ロベルトのカンティーナへ着くと、鉄格子の扉が閉まっている。中では作業人がペンキ塗り…。えっ、今、収穫中じゃぁ?なんて、のんびりしているの、と呆れつつ(?)、呼び鈴を鳴らし中に入り待つこと五分。すると金髪のチリチリ頭の男が現れた。「はっ、これがロベルト?オー、粋じゃん。」 後で聞いたのだが、どうも以前は長髪で、ロック歌手さながらだったらしい。おまけに人懐っこうそうな奇麗な目をしていて、見つめられるとゾクゾクする。ただ笑顔とは裏腹に、どことなくドスの効いた声。押しは強そうだ。そして言葉の端々から、静かな熱い個性のかたまりであることが、ひしひしと伝わってくる。ロベルトはそんな男だった。 早速、畑へ行くことに

  • 月の光

    Pablo Alvarez - Bodegas Vega Sicilia 「誰もが入れるボデーガではない」と、宿の旦那ナッチョが言っていた通りだ。リベエラ デル ドゥエロで、いや、スペインでもっとも有名なボデーガ、ヴェガ シシリアの入り口には門番がいた。名を告げると内部と連絡が取られ、戸が開けらる。中に入ると、駐車場の脇に和風に似せた庭園が…。が、屋内は石造りの半円形の通路風の事務所で、まるでスパイ映画の秘密基地を思わせる。その一角の応接所に、隣の部屋から太い男の声が響いていた。やがて大柄な声の主が現れる。代表取締役、パブロ アルヴァレス・メスキリスだ。彼の低く響き渡る声には、壮健で濃縮されウニコの香りがした。 早速ボデーガを案内してもらう。近代的なそのウニコの郷は、大病院の滅菌室の如く、塵一つ無く完璧に管理され、冷たくも圧巻だ。ただ照明だけが、やけに暖かい。イタリア製の照明器具、中でも「太陽」に似たものが気に入った。するとパブロが「月だ」と言う。どうなのだろう、ヴェガ シシリアのイメージは?音の響きからすると、やはり月の光か。まぁ、どちらでもよい。その黄色の灯が、やもすると見落とされがちなパブロの繊細で澄んだ眼差しを、ウニコ グラスに映していたから。 Alejandro Fernandez - Bodega Tinto Pesquera

  • ククルーチョ

    スペインでは、リベエラ デル ドゥエロの生産者の訪問が一番多かった。その中でも特に思い出の残る場所が一つある。ヴィリャクレセスだ。約束の日、フィンカに着くと、車の中から手を振る人がいた。指示された通りに回り込み車を停めると、すぐ傍にその人も車を停めた。細身の、一見神経質そうな紳士が降り立った。党首のペドロ クワドラド・ガルシアだった。挨拶もそこそこに、彼は私達を建物へ導いた。入り口の脇に、一人の老人が腰掛けている。そして側まで来て、ハッとした。銅像だった。何故か胸が熱くなり、涙がこぼれた。 銅像は実存した人物だった。背が低く、生涯ククルーチョ(小鳩)と呼ばれた老人。冬の間毎朝そこに座り、目の前に登る暖かい太陽を待っていた、という。そしてペドロが六歳の時に、亡くなった。ヴィリャクレセスの番人だった。いや、今も番人だろうか。ピーター シセックが初のピングスを醸造するにあたり場所を借りたヴィリャクレセスは、私たちの訪問後に、ペドゥロの手を離れた。ククルーチョの思い出は今何処、それが気になる。 Pedro Cuadrado - Finca Villacreces Peter Sisseck - Dominio de Pingus

  • スター

    Álvaro Palacios - Álvaro Palacios S.L. スペインには、他の誰より会ってみたい人がいた。ただその人を、みんなが「スターだ」と言っていた。ミイハア嫌いの私は一人、「どうしよう」と迷っていた。その時だ。「痛い!」と、思わず手を引っ込めた。見ると、右手首の上で蜂がもだえている。なんとトルトッサのパラドール(ホテル)で、朝食中に、蜂に刺されたのだ。とっさに払うが、痛い。その強烈な痛みで完全に目が覚さめた。これからアルヴァロに会いに行くんだ。 車でグラタリョプスの村に近づくと、「あれだ」と私には分かった。左手の小高い丘の上に立つ近代的な建物、あれがアルヴァロのボデーガに違いない。その予想は的中した。ただ私たちは、何故か裏口に車を停めてしまった。すると、ガラス張りの建物の中を、一人の男が慌てて走って来る。その走り樣がまるで「ルパン三世みたい」に私の目に映った。それがなんと、アルヴァロ自身だった。彼は満面の笑みで、私達を迎え入れてくれた。 事務所に入ると、片隅にカポーテ(闘牛用ケープ)がおいてあった。アルヴァロは無類の闘牛愛好家だ。観るだけではなく、自らもアレーナ(闘牛場)に立つ。おまけにフラメンコ・ギターを弾き、声を枯らしてカンテ・フォンド(フラメンコの歌の一種)を歌う。そこには誰も真似のできない彼の美の世界がある。究極の美を求める男の生き方がある。そんなアルヴァロがグラスを手に、「なにかもっともっと精神的なもの、神に近づくものを目指したいんだ。」と、言った。その時、確かにグラスの中で何かが起こっていた。大宇宙にも似た渦巻きだ。そして自らの意志でビッグ・バンを起こすかのように、その大きな波動を宙に突き上げながら、エルミータの神童がまた口を開いた。「今までになく、自分がヴィニェロン(葡萄栽培醸造家)だと強く感じる。」 彼が世に送り出すワインには異を唱えたいものもある。でも人間として、この日以来、この誇り高き男は私を魅了して止まない。

  • 時間がない

    Pepe Rodriguez - Adegas Galegas 私にはアンダルシアの良い思い出があまりない。でも、スペインは嫌いじゃない。以前はイタリアが好きで憧れていたけれど、意外と義(義理ではない)に欠ける彼らの側面を知り、俄然スペインの方がよくなった。エミリオ的時間の感覚で生きられたら、もう最高だろう。もっとも、スペインにも「時間がない」人はいた。エミリオのいるリベイロからほど近い、リアス バイシャスのアデーガス ガレーガス当主、ペペ ロドリゲスだ。 その日ぺぺは、十二時の飛行機に乗ることになっていた。ただ、前日の約束に私たちが来られなかったので、わざわざ蔵に顔を出し、待っていてくれたのだ。ギャングのボスか、帽子を目深にかぶり見つめるペペに、撮影の準備をする手が焦った。時間が「あまり」ではなく「全く」ない。部屋の中に緊張が走る。 ファインダーを覗くと、怖い、と言うか、硬い。どうしよう。とりあえず「好きなこと」でも尋ねてみよう。するとペペが「写真だ」と言う。一瞬ギクッ、と逆にこちらが凍りつきそうになるが、「でも時間がない」と言われ、ホッ。いや、時間がないことを思い出す。そこへペペが、今度は「政治も好きだ」の連打。しかし再び「旅が多くて、時間がない。」 旅か。それじゃ、「旅グルメはどう」と尋ねると、彼の顔にポッと赤みがさした。そして水を得た魚のように、表情がみるみる緩むと、「そりゃ、勿論さ」そして、それまでのかしこまった髭面に万遍の笑みが込み上げて、 「八つ目ウナギの料理をご存知か。うなぎの稚魚じゃない。こんなに太いやつ、ここの名物なんだ。次回はそれを御馳走するから、一緒に食べよう。是非、また来てくれ。」 と、まるで魔術師を前にした子供のように目を輝かせながら、ことのほか上機嫌で言った。 見事、「食い気」が「飲み気」を制すなり。どうやらこの頃から既に私は、「食い気」の道へ舵を切り始めていたようだ。「たかがワイン」さ。「されどワイン」だなんて、ちゃんちゃら可笑しい。そもそも、食を正さず自然派ワインなど、全くのお笑い種でしょう。

  • 時間、ある?

    Emilio Rojo ワイン生産者の中には、意外と脱サラ組、それも元IT(コンピューターや通信)関係の仕事に携わっていた人が多い。最近ではジョージアのジョン オクロやアルチル ナツヴリシュヴィリがそうだし、Triple Aの仕事を始めた頃にスペインの出逢った自然派かめ壺酸化防止剤無添加のラウレアノ セレス、スロヴェニアのアチ ウルバイスもそうだ。そして私たちが最初に出逢ったITからの転職者は、リベイロのエミリオ ロッホだった。 彼は元々、スペインの首都マドリッドで通信関係の仕事に就いていたが、故郷の葡萄の収穫を手伝ううちに、こちらが本業となった。そんな彼との待ち合わせは、何故か高速の出口。さて、何処へ行くのかしら?車で走り着いたのは山中のカフェだった。そこで常連たちに「オラ、ケ タル?(やあ、元気?)」と声をかけ、私たちを紹介。満足気にコーヒーを一気に飲み干すと、 「ティエネ ティエンポ、ヴェルダ?(時間、あるよな。)」 と、今度は今来た道を逆戻り。やがて畑に着くと、「マットレス持参で昼寝しながら」と夏の酷暑の中での葡萄栽培をとくとくと語り、 「ティエネ ティエンポ、ヴェルダ?それじゃ、一杯飲みに行こう。」 と、近くの街へ。観光ガイドさながらに街を闊歩し、行きつけのバールで一杯ひっかけ、 「ティエネ ティエンポ、ヴェルダ?うちのボデーガへ行こうか。」 と、ようやく醸造所に案内される。そこで早速、ボトルを一本開け試飲を始めるが、運悪く雨が降り出す。本降りになる前にとりあえず写真を一枚撮らさせてもらうと、今度は、 「ティエネ ティエンポ、ヴェルダ?何か旨いものを食べに行こう。」 そこは「飲み気」より三大欲の「食い気」、 「シ、シ。ヴァモス、ヴァモス(うん、行こう、行こう。」 と、車に飛び乗り向かったレストランは、地方色豊かな格別の味の店で、私たちは大満足。が、こと連れのブルーノ スカボ(日本で開催されたソムリエ選手権に登場したブルガリア代表のジュリアの未来の旦那様)は、 「これだけ時間をかけ、たった一本か…。」 と、不満気だ。長い付き合いの良い友達だけど、ソムリエってやはりこんなもの? 「ティエネ ティエンポ、ヴェルダ?」 「ソロ パラ ベベール(飲むための時間ならね)」だと、ちょっとつまらない。

  • アンダルシアの大黒様

    Antonio Barbadillo - Bodegas Barbadillo もう一人のアントニオは、サンルーカル デ バラメダにあるボデガス バルバディーリョの頭首だった。人はみな、彼のことをトトと呼ぶ。この親しみ易い響きに、会う前から親近感を覚えていた。そして約束の日、ヴィネクスポ東京で知り合ったベルトゥラン ヌエル(当時バルバリーリョ海外販売部長)に連れられ、フェリア(祭り)の会場に赴いた。一際賑わいをみせるバルバディーリョのカセータ(小屋)で、渡されたマンサニーリャを味わっていると、やがて中の一角が一段と華やぎを増した。「トト」の登場だった。 トトの周りに大きな人垣ができる。その中で、身の丈の高い者に囲まれながらもトトは、その恰幅のよさで周囲を圧倒している。そして、まるで少年が間違ってそのまま老齢期に入ってしまったような、何とも言いようのない人懐っこい面影で、周囲を引きつけている。マンサニーリャの帝王は、正にアンダルシアの大黒様のような人だった。 フェリアの会場はお祭り気分の人々でごった返し、撮影どころではない。そこで、後日改めて彼をボデーガに訪ねることにし、私たちはその場を後にした。撮影の日、トトの仕事部屋に入ると、そこは何故か、博物館長室を思わせるような装いだった。簡素な室内には扇風機が置かれ、エアコンはなかった。テーブルの上にはボトルとカラフが並べられ、部屋の片隅にバケツと洗面器が置かれていた。なんと、トト専用のグラスの洗い場だ。 「今はあまり飲まなくなった」と言いつつ、味わい深げにグラスを傾けるトトは、私たちを退屈させまいと、知る限り日本のことを話題にした。ところが、実は彼はまだ一度も日本へ行ったことがなかった。そんな八十歳の少年の愛らしい気遣いと謙虚さに、私たちは自然と頭が下がる思いだった。正に、「人生とは年齢ではなくどう生きるか」であると、しみじみ教えられる出逢いだった。 トトはその後亡くなられたが、逸話が残っている。ある日、フェリアで大いに飲んだトトは、帰り道で警察の検問にひっかかった。当然、アルコール・テストとなるが、 「はい、吹いて。…。おかしいな、出ない。別の風船でやってみよう。それじゃ、もう一度これを吹いて。もっともっともっと。…。うーん、またでない。それじゃ、署に戻ってやってみるか。同行願います。」

  • 蔵の守り主

    Antonio Sanchez Romero - Bodegas Toro Albalá ゴビーに立ち寄る前に旅したスペインには、印象的な二人のアントニオがいた。奇しくも両者共アンダルシアの人。一人はアントニオ サンチェス・ロメーロ、アモンティーリャードで有名なトロ・アルバラの頭首だ。彼のボデガは、アンダルシア地方のコルドバから南へ約五十キロ、アギラール デ ラ フロンテーラの街にある。ここはまた、アンダルシアのフライパンの異名をとる極暑のエシハから東へ約五十キロの地点でもあり、灼熱の地であることは言うに及ばない。 が、トロ・アルバラの薄暗い蔵に一歩踏み入ると、そこは冷んやりと肌に心地がよい。救われたように階段を下りて行くと、半地下の蔵の上部に開けられた丸い天窓から、信じられなような美しい光が溢れている。そして日溜まり…、半闇に眠る無数の樽の合間に、天から降り注ぐ数条の光に照らし出されポッと浮き上がった空間。この光景、どれだけの人が目にできるだろう。もしかすると、明日の陽ではもう見られないかも。ああ、これは天から与えられた瞬間だ。 その中に、アントニオが立っていた。が、ほんの一瞬だった。詩人のような潤いを秘めた彼の笑顔が光に浮き上がるや否や、沙羅双樹(ナツツバキ)の如く、スッと闇の世界に吸い込まれた。自然に、そしてあまりにも美しく消えていった。そしてその中から、しきりに神秘的なことを語りかけてくる。 「このカヴには大切な住人がいる。」 蜘蛛だった。三種類が住みつき、外敵の蚊や蛾から大切な樽を守っているという。近づいても怯むことのない小さな用心棒達。そんな頼もしい住人たちに優しい視線を投げかけ挨拶をするかのように、アントニオは蔵の中をゆっくりと歩き回っていた。そして一つの樽に辿り着くと、その前で黙って立ち止まった。よく見ると、樽に封印がされている。 「以前、日本人の某画家が訪ねて来てね。」 と、アントニオが口火を切った。 「その時に、彼の作品と交換ということで、この樽に封をしたんだ。それからずっとここに置いてあるんだが…。あの日以来、彼がまだ来ないんだよ。」

  • 香りの特攻隊

    Gérard Gauby - Domaine Gauby リーデルのグラスで有名どころの生産者を撮る。そのために私たちはリーデル社からソムリエ・シリーズ一式、ボルドー・グラン・クリュ、ブルゴーニュ・グラン・クリュ、ティント・レゼルバ、マチュア・ボルドー、ラインガウ、ロゼ、エルミタージュ、モンラッシェ、リースリング・グラン・クリュ、ロワール、ソーテルヌ、アルザス、ヴィンテージ・シャンパーニュ、グリュナー・フェルトリナー、シャンパーニュ、シェリー、ヴィンテージ・ポート、コニャックXO、コニャックV.S.O.P.を提供された。ただ、使用グラスを各生産者に選ばせるという前提のせいで、実際に使用したグラスはかなり限られた。みな、概して大型のグラスを使いたがったのだ。 そもそも何故、ボルドー・グラン・クリュとブルゴーニュ・グラン・クリュだけが馬鹿でかいのだろう。一種の至上主義なのか。他のグラスももっと大きければ、みながもっと使うのでは…。そんな思いと共に旅を重ねるも、私たちが行き着いたのは全く別の答えだった。実は、旅の最中のある出来事で、私たちの中のリーデル神話が崩壊し出したのだ。 スペインからの帰り道だった。初めてムンターダの名を耳にした時から、ずっと行ってみたかったドメン ゴビーを訪れた時だ。その日、当主のジェラールはティント・レゼルヴァ(スペインの品種テンプラニーニョ等用)を選んだ。ただ、どうせなら飲み比べようと、エルミタージュ(グレナッシュやムルヴェードゥル、シラー等用)にも同じようにワインを注いでいだ。そして、しばらくおしゃべりに興じた後のことだ。突然、ジェラールが、 「おい、見ろよ、これ。」

  • Vignerons au Verre (VV)

    Giampaolo Motta - La Fattoria la Massa リーデルのグラスを使用して有名どころの生産者を撮る。この企画は、当時のリーデル社欧州マネイジャー、ヤイール ハイドゥの案によるものだった。ヤイールとは、2001年にニースのオテル ネグレスコでコートゥ・ダジュール初の日本酒の試飲会を私たちが開催した折に、リーデルの大吟醸グラスを貸し出してもらってからの縁だった。その彼が「Le Montrachet」の写真をえらく気に入ってくれ、後に2003年にパリで再開し、この話が決まったのである。 内容は、リーデル社がソムリエ・シリーズを一式提供、私たちがそれを持ってフランス、イタリア、スペイン、ポルトガル等の生産者を訪問、グラスを持った彼らを撮影するというもの。Vignerons au Verreだ。但し、使用グラスは各生産者が選ぶ、これがヤイールの提案だった。私たちは気軽に受け入れ、事実興味深い方法なのだが、これが後に問題になるとは…、その時は誰も想像しなかった。 ある程度の撮影を終え、再びヤイールと再開するためパリに登った時、リーデル社の大御所ゲオルグ リーデル社長に引き合わせてもらうことになった。そて面会の日、コンコルド広場のオテル クリオンで、早速社長に撮影した作品を見せると、にわかに社長の顔色が変わった。そしてヤイールと何やら低い声で話し、言った。「使いものにならない。」 理由は至極単純だった。そこに写っている生産者の多くが、リーデル社が薦める各々の地方用のグラスを選んでいなかったからである。この事実をどう受け止めるか、それは各自の自由だ。ただ生産者たちは、己のワインに合うグラス形状を、誰よりもよく心得ていた、と私は思う。幾度もそれなりの体験(異なるグラスでの比較試飲等)をさせてもらった上での、私なりの結論だ。勿論、企画自体は流れた。が、井の中(ブルゴーニュ)から大海へ飛び出したばかりの私たちは、この撮影の旅で本当に色々なことを学んだと思う。

  • 首吊り(吟醸酒)行者

    故三盃幸一大杜氏(能登杜氏) 満寿泉 桝田酒造 私たちは、実際にTriple Aと関わりを持つまでに、二つの異なる道程を歩んでいた。まずは、「モンラシェ、モンラッシェ」と喚く私たちに嫌気がさしたのか、日本の友人が「他にも旨いものがある」と飲ませてくれた満寿泉のせいで吟醸酒の虜になり、結果、押掛女房的に蔵見を決行、そこで偶然知り合った山形の番紅花の山川さんに感化され、「首吊り」行者の旅へ。多くの蔵元を訪ねるのと同時に、2001年、南仏とブルゴーニュで初の日本酒試飲会を開くこととなった。 当時は、桝田酒造に泊まり込み、蔵人と寝起きや食を共にし撮影。三盃幸一大杜氏と共に、将来アラブの王様にこのお酒を飲まそうと、夢見ていた。こんなに凄いものなら、是非世界に広めたい、そういう気持で一杯だった。ただ、日本の蔵元の海外出張は、日本酒普及という名目で堂々と外国へ遊びに行くのが目的、と聞かされた時、心が折れてしまった。2004年の研修会後、すぐのことだった。 今日、インターナショナル・ワイン・チャレンジSAKE部門で何某などと身内で騒ぎ、皆を煽り立てようとしているが、よくよく見れば日本酒鑑評会がロンドンへ移動したようなもの。これこそ日本の蔵元の海外出張。全くの笑い種だ。私だって、あの当時はそれなりに真剣に取り組んだし、今でも個人的にはワイン以上に日本の自然酒が好きだ。が、「いわゆる」日本酒が真のワインと肩を並べる水準になったなどと、間違っても思わないでもらいたい。厚顔無恥も甚だしい。 この日本酒でのちょっとした道草の間に、別の道が現れた。リーデル・グラスと共にヨーロッパの有名どころの生産者を撮影する企画だ。元々、日本酒の試飲会でリーデルの大吟醸グラスを使用したのがご縁で持ち上がった話だが、折しも「Le Montrachet」刊行後、出版社や共著のソムリエとのゴタゴタで、ブルゴーニュに愛想をつかし出していた私たちにとって、これが古巣から飛び出す絶好の機会となったことは間違いない。

  • サローネ デル グストで

    Triple A 創設者、ルカ ガルガノ 今思えば、2002年は生動の年だった。ニューヨークでの試飲会の前に、イタリアで開催されるサローネ デル グストにも招かれ、新たな世界が展開し初めていた。同会は、二年に一度十月に、スロー・フードがトリノで開催する味のサロンだ。イタリア国内のみならず、諸外国から色々な食品生産者が出展する、いわば食の見本市。対象は一般消費者で誰でも入れる。おまけにブースに並ぶ食品は即売され、トリノやその周辺のおばちゃん達も買い物籠車を引っぱりやってくる。早い話が巨大な室内市場、楽しい催物だ(った)。 その中の企画にラボラトリオがある。講習を聴きながら着席での試飲試食、この食の研修会のために、私たちにお声がかかったわけだ。仕掛け人はアラン デュカス(モナコのルイ一五世等世界的に有名なシェフ)が名誉会長を務めるモナコ・フランス東南部地区スロー・フード協会会長ジャン・ピエール ルー(元ルイ一五世給仕長)氏と、SBM(モナコ公国社ソシエテ ドゥ バン ドゥ メール)の仕入れ担当部長ジェナーロ イオリオ。お題は、勿論モンラッシェだ。本番にはブルゴーニュからマルク コランやギ アミオ等が応援に駆けつけてくれ、その年もっとも高額だった研修会は好評のうちに無事終了した。 ただ、私たちにとって最大の利は、一般会員としてではなく、スローフード本部と直接関係ができたこと(初年を除けばスローの会員だったことはない)。そしてなにより、そのサローネの会場で、あの人と出逢った。Triple A創始者ルカ ガルガノだ。もっともその時の彼は、自らが輸入するラム酒(彼はラム酒のスペシャリスト)で「かなり」のほろ酔い加減で、面を通す程度。実際にはその二年後、モンラッシェに続き私たちの主導で満寿泉を研修会で紹介した2004年に、サローネの会場でルカと再開、それが大きな転換点となった。それこそ、私たちが自然派に足を踏み入れる、大事な大事な出逢いだった。

  • Le Montrachet

    これだけやれば、ちいとは「モンラッシェ」のウンチクも言えるさ。(写真=リシャール フォンテーヌ) 写真展を終え、癌から生還、さて次に何をしようか。あとはモンラッシェを追い続けた三年を形に残すこと、Le Montrachetの刊行だった。でも実際に出版されたのは2002年5月。更に二年の月日を要したことになる。そして現実は、共著のソムリエが報酬を主張するもろくな仕事をせず、本は完璧には程遠かった。おまけに、私たちは一銭の印税も手にしていない。まぁ、いいさ。色々と良い思いはさせてもらったから。おまけで、誰にも負けずにウンチクを言えるくらいにはなれた。 2002年10月、ニューヨークのレストラン モンラッシェで、モンラッシェの試飲会が催された。私たちは「Le Montrachet」の著者として招待される。神様からのご褒美か。なにしろ一人当たり1500ドル(当時18~19万円)と、会費がべらぼうに高い食事付きの慈善試飲会、おまけに超満席だ。 会が始まると、ワインが出される度に会場に鐘が鳴り響き、誰かが前にしゃしゃり出てウンチクを述べる。これが全ての銘柄で繰り返され、ゆっくり味わう雰囲気など微塵もない。結局、食事が終るまでに35銘柄が出され、その全てがモンラッシェだった。 以前、ドミニック ラフォンが言っていた。「モンラッシェが全ての人のためのワインでないことは明白だ。また単に金持ちだからといって容易に飲むものでもない。本来、モンラッシェを飲むこと自体が本当に特別なこと。だから、モンラッシェのボトルを手に入れる機会に恵まれ、何時の日かそれを開けられる人たちは、それが本当に名誉ある特別なことだと、しっかり分かっていてもらいたい」と。 彼の思いもこの人たちには馬の耳に念仏か。ああ勿体ない。無駄、無駄。9.11があり、貿易センタービルが消えた。そして一年後、35X2(或は3?)本のモンラッシェが消えた。そして今、会場だったレストラン モンラッシェももうない。結局、残ったのは?あの日に出されたモンラッシェのリストだけ? フォンテンヌ・ガニャール 2000 ブラン・ガニャール 2000 シャトー ドゥ ピュリニ・モンラッシェ 2000 ミッシェル クトゥ 2000 ヴァンサン ジラルダン 2000 アンリ ボワイヨ 2000

  • 生還

    マルク コラン - 最初に撮った生産者の写真の中で好きな一枚。 2000年7月。 「大丈夫か。これでも飲んで消毒しろや。」 と、マルク コランがボトルを一本差し出して言った。「よかったな。」 そんな彼の心遣いが嬉しかった。私はもらったボトルに、写真展からその日までの重みを感じていた。実はあの後、体調を崩して日本に一時帰国し、入院、8ヶ月もブルゴーニュから遠ざかっていた。そして久し振りに舞い戻り、まずマルクに会いに来た。彼のモンラッシェ同様、何処までも寛大で繊細な人柄に、他の誰よりも先に触れたかったから。 とにかく、酷い目にあった。冬場のスペインの生ハム作りの祭典でギフエロを訪れ、主催者の祝宴へ招待されるが、そこでケイコの「私、肉を食べない」のとんでも発言に一同唖然。えー、こんなところで他に何があるんだよ、と次から次へと出てくる豚肉料理がダブルで約二十品、私の前に集合する。そのご馳走に大喜びしたのは私よりも悪玉菌達。奴らはバリバリに栄養を取ると、その夜大暴れで、私の腹部の一部を異常な程に腫れ上がらせた。ああ、痛い、苦しい! まるで時限爆弾のスイッチが入ったかのような、急激な病状の悪化だった。それでもなんとかフランスへ戻り検査を受けるが、誰も結果をちゃんと教えてくれない。そんな中、私の体力の衰えを見かね、ジャン・ジャック ジュトゥーが慌てて私をモナコのプランセス グレース病院へ連れて行くが、ここも病院側の態度がはっきりしない。結局、業を煮やし、私は免責書に署名し、出てきてしまった。そして日本へ戻ることを決めた。後は友人の手配に従い、診察を受け、告知された。 「癌です。すぐ手術しなければ助からない。」 でも、さほど驚きも慌てもしなかった。ただ手術が嫌で脱走したかっただけ。が、結果的に救われた。それにしても、フランスの医療関係者の対応は、一体何?。あのままフランスにいたら、私はきっと死んでいた。告知しないなんて、思い上がりの偽善がとる行為だ。患者に対する敬意がない。後にマダム ルロワに会った時、彼女も言っていた。 「私の主人は今闘病中。医者は癌であることを知らせるなと言ったけど、五十年も連れ添った人よ。隠すなんてできなかった。」

  • モンラッシェを知らない?…

    写真展に遅れたのは、ドゥニとフィリップだけではなかった。シャルル ボンヌフォワがやって来た時のことは、一生忘れられない。 シャルルはシャサーニュの葡萄栽培家で、マルキ ラギッシュ(ドゥルーアン)のモンラッシェの畑を請負で管理していた。毎日自転車で畑に出て来て、手仕事でコツコツ手入れをしていく。ある時、そんな彼が言った。 「昔はきつい仕事、例えば葡萄の幹や根を引き抜く仕事なんかを終えた後なんかに、みんなでそこの畑のワインを一本空けたものだ。でも最近は、そんな習慣もなくなったよ。」 彼は会場にも自転車でやって来た。そして、 「写真展と試飲会をやっているって聞いたんだけど…。」 と、静かな笑みを浮かべながら、控え目に言った。でもその言葉は私たちにとって予想外の、あまりにも困惑するものだった。なにしろ彼が来たのは、開会式の翌日だったのだ。 「…。そうか、昨日だったのか。」 そう言って会場を一周すると、彼は静かにその場を去った。今まで長年重いものを背負い続けた肩をガックリと落とし…。そんな彼の後ろ姿をなす術もなくただ見送るのは、堪え難いものだった。 モンラッシェは確かに希少なワインだ。あまりにも数が少ない。それ故、手にできる人は本当に限られている。それにしても、実際に現場で働く人が全くモンラッシェを知らないなんて、想像のできないことだった。 「飲んだことがないけど、モンラッシェって本当に旨いのか。」 と、ブシャール ペール エ フィスの畑を管理していた栽培家も言っていた。信じられるか?一年中手入れをしている畑のワインの味を知らないなんて。年に一度、彼らの労をねぎらうために一本のボトルを分かち合うことに、なんの不利益になるのだろう。 人は「ワインは分かち合うもの」と言う。確かに、一人で飲むより誰かと飲んだ方が楽しいし、想い出に残る。でも、金持ちのワイン愛好等がこぞってワインを持ち寄り飲み比べているのを見ると、どこか違うような気がする。感謝を感じないんだ。もし、ワインが金のために造られ、金で買われるだけのものなら、あまりにも飲むのも忍びない…。 モンラッシェに出逢い、ブルゴーニュに通い始めて二年。この写真展で、とりあえず探し求めていた答は見つかった。が、同時に、新たな疑心暗鬼の始まりともなった。

  • 星の王子さま

    ディディエ自身が自慢した私が撮った世界一の彼の写真です。 トゥトゥンとくれば、ディディエ(ダグノー)のことを思い出す。二人は無二の親友で、いつも一緒に楽しい時間を過ごさせてくれた。 私たちがディディエを初めて「観た」のは、犬ぞり競技のテレビ中継だった。ただその時は、競技に参加している彼が誰なのか知る由もなく、ただ長髪で髭むじゃらな顔が印象に残っていた。後日、ワイン雑誌で彼の写真を目にし、「あっ、この前テレビに出てた人」と、初めてヴィニェロンであることを知った。 約束の日にディディエを訪ねると、何故か樽業者との超真面目な試飲中。お付き合いしてみるが、難しすぎてついていけない。おまけに長引きそうなので、翌日もう一度出直すことにした。次の日、目の前に大きく広がる平野を見下ろす高台で、トラクターから降りたったディディエが言った。「昨日はご免な。写真はポーズは取らないから勝手に撮ってくれ。じゃ、畑に行こうか。」 そのまま彼の車で畑へ向う途中、私はたわいのないことを尋ねてみたくなった。「どうしてASTEROIDEのラベルは星の王子様なの。私が一番好きな物語なんだけど。」 すると、ハンドルを握るディディエの顔に一条の光明が差し、微笑みながら言った。「あの時、ちょうど読んでいたんだ。」 長髪と髭の合間から優しく輝く目が覗く。初めての笑みだった。そしてフラン・ピエの畑に着くと、おそらく今まで他の人には言ったことのない、思いもかけぬことを口にした。「レオン、一緒に写真を撮ろうや。」 一瞬の出来事だった。一秒たりとも待たせられない。露出を測る暇もなく、無我夢中でシャッターを切っていた。ディディエが息子を抱き上げていたのは、ほんの十五秒位のこと。それが永遠の間のように思えた。 私はいつも、ディディエこそが星の王子様だったと思う。そしてこの写真を観る時、あの日私たちはASTEROIDE B612にいたんだ、って。絶対に。 でもディディえはある日突然、私たちの前からいなくなってしまった。名残惜しいに決まっている。あんな形(ULMの事故)で消えちゃうなんて…。ただ、もしかしたらそれが最も彼らしかったのかも…、と思う。 でも死んだのはディディエだけじゃない。シャンベルタン、いや、シャンボール・ミュジニの貴公子ドゥニ(モルテ)も逝ってしまったし。今日までに何人が亡くなっただろう。

  • フィリップとの出逢い

    もう一枚もっと好きなフィリップの写真があるけどソニアと一緒。だから出せなくて残念。 写真展「ル モンラッシェ」は、新たな出逢いをプレゼントしてくれた。試飲会の半ば、二人の男が大慌てで飛び込んで来た。そして、「テェリーの馬鹿野郎。どうせ時間通りに始まらんとか言うから、あっ、ボンジュール。」と、ちょっとご機嫌斜めの様子。ドゥニ モルテだ。遅れを弟のせいにしているが、一緒にいるのは…?弟ではない。とりあえず、ドゥニの後ろに控えているが、はみ出している。「うん?この人、知ってる。会ったことないけど、あのチリチリ頭、体系、絶対に知ってる。でも、誰…」と思っていると、ドゥニが、「あっ、これ、友達のフィリップ シャルロパン。よろしくね。行こう、フィリップ。ああ、もう、半分なくなってるじゃないか。まったく、ティエリーの奴…、ブツブツブツ。」 トゥトゥン(フィリップの愛称)との出逢いは、想い出との再会にも似た、不思議な感覚だった。ずっと待ちわびていた人がヒョコっと目の前に現れたような、忘れていた縁が突然蘇ったような、どこかちょっと懐かしくて嬉しく、うまく行くような気がする、そんなワクワクするものだった。そして私たちは、後々色々とこのトゥトゥンの世話になることになる。ブルゴーニュのドン、アンリ ジャイエールに引き合わせてくれたのも彼だった。 その時の話。アンリー爺さんがいきなりエシェゾーのボトルを開け、飲み会が始まった。「フィリップ、お前とは何年になるんだ。初めてお前の家に行った時、お前のワインを飲んで『ダメだ、こんなの』と言ったら、お前のかみさんが偉い剣幕で食って掛かってきたんだよな。ああ、おっかねぇかみさんだ。それで、とにかく除梗しろと言ってやった。けど、その後どうした、フィリップ。」「ああ、言われた通りにやったよ、師匠。」「嘘つけ、全部やったのか。」「いや、25%だけ。」「だめだ、そんなの。全部やれと言ったろう。そしたらこいつ、次の年の収穫の時、また飛んできてな、除梗をした、した、した、と言いおる。それで、どれだけやったんだ?」「50%。」「全部だって言っとるのに。次の年もまたやった、やった、と言いにきて、それで?。」「75%。」「だめだ、全部、全部、全部。それで?」「へへへ、結局四年かかったよ、師匠。」「それで、全部やってどうなんだ。かみさんはまだ怒っているのか、ハハハ。」 以

  • これがモンラッシェ!

    1999年11月。オスピス ドゥ ボーンヌを木曜に控えた第三週のブルゴーニュは、寒波に見舞われていた。私たちの写真展「ル モンラッシェ」の初日は大雪となり、会場のシャトー ドゥ ピュリニー・モンラッシェは、辺り一面真っ白な雪で覆われた。おまけに寒い。しかし会場には、襟をすくめ白い息を吐きながら、地元の人達が大勢集まって来た。そこでシャトーの主(社長)クロードゥ シュネイデール氏が開会を宣言する。 「ピュリニーとシャサーニュの人達が、これほど一同に会したことは今までにない。歴史的なことだ。ケイコとマイカに感謝したい。それでは皆さん、試飲会場へどうぞ。」 拍手が渦巻く中、皆が続々と隣室に移って行く。そして各生産者のモンラッシェを端から順に試飲…、とはいかなかった。皆、お目当てのボトルの前に直行し、一斉にグラスを突き出す。しかし、20X2本程のモンラッシェで150人ともなると、誰だって足りるとは思わない。会場は押し合いへし合いの大騒ぎとなった。そんな中、ギ アミオが叫んだ。 「凄い。これだけのモンラッシェが一同に会するなんて、夢のようだ。世紀の試飲会だ。」 私たちは、そんな周囲の騒ぎを他所に、たった一本置かれたボトルの前に立っていた。すでに中身は殆ど残っていない。そのボトルを静かに持ち上げ、最後の雫をグラスに注ぐ。「うちには取り置きがあまりないので、これしか出せない」とジャン・マルク ブランがくれたボトルだ。それを徐に口にし、私は目を見開た。そして、ケイコを探した。予想だにしなかった、吹き出すようにこみ上げてくる感動を、早く伝えたい。一方、ケイコも同じ衝動で、私たちは互いに振り返り鉢合わせするような格好で、顔を見合わせた。 あまりにも衝撃的。ただただ繊細で、微細で、優しく、優雅に振る舞うモンラッシェに心底驚嘆、感動した。「真の王は己の力を見せびらかす必要などない。寛大な懐の深さで接するもの」と教えられた気がして、頭が下がった。ああ、これこそがSEIGNEUR(セィニュー=領主様)。それが分かったことに感謝した。そのモンラッシェは、 ドゥラグランジュ・バシュレ 1988年 正に二年前、ラムロワーズでドゥプレさんが出してくれたモンラッシェと同じ造り手。あれから二年、雲谷をさまよい、山頂付近でいきなり霧が晴れ、一気に360度、見て取れた気がした。これがモンラッシェなんだ。

  • モンラッシェって、何?

    モンラッシェを求め駆け回った時期に出逢った生産者の方々。後にこれらの写真をもとにLe Montrachetの刊行に至る。 「モンラッシェは、出逢った人の人生を変える。オー、モンラッシェよ。お前はなんと夢を見させてくれることか。」 オリヴィエ ルフレーヴ(オリヴィエ ルフレーヴ フレール) 「初めて出逢うモンラッシェは、他のワインとは異なる多くのことに気付かせてくれる。著しい違いではないが、よく注意を払えば、全く独特な均衡の中に存在する豊かさを見いだせる。それを人は『モンラッシェする』と言う。」 ピエール モレイ(モレイ・ブラン) 「モンラッシェは、気付いてもらえることだけを望んでいる大のはにかみ屋さ。だから、こちらから探しに行かなければ見つからない。」 マルク コラン(ドメンヌ マルク コラン エ フィス) 「不思議なものだ。モンラッシェの力強さと優雅さの共存は、まるで魔法だ。」 ドミニック ラフォン(ドメンヌ デ コントゥ ラフォン) 「果たして、この神秘の産物と同質のワインを何時か何処か他の所で造れるか…。それは無理。モンラッシェは唯一のものだから。」 ローランス ジョバール(メゾン ジョゼフ ドゥルーアン) 「モンラッシェは雄大且つ、逸品だ。」 (ルネ&ニコラ フルーロ、ドメンヌ ルネ フルーロ エ フィス) 「そして何と優雅なものか。ル モンラッシェは荘厳だ。」 ジャン・マルク ブラン(ドメンヌ ブラン・ガニャール) 「モンラッシェは、数あるシャルドネィの中で至上のもの。」 ルイ ラトゥール(メゾン ラトゥール) 「そう、モンラッシェはやはり最高のもの、精華だ。」 ジャン・ミシェル シャルトゥロン(シャルトゥロン エ トウレビュシュ) 「だからモンラッシェは完璧以上のものでなければならない。驚異的でなければいけないのだ。」 ルネ ラミ(ドメンヌ ラミ・ピヨ) 「モンラッシェは、かつて人がシャルドネィを植えたことで、このフランスの片田舎の一角を昇華させ、忘れ難いものとし、神話にまで祭り上げたものだ。」 マルタン プリウール(ドメンヌ ジャック プリウール) 「素材と構造を産み出す粘土質と、繊細さや優雅さを醸し出す石灰質の釣り合いが申し分のない、選ばれた土壌から産み出される選ばれたワイン、それがモンラッシェ。」 ジェラール ブード(エティエンヌ ソゼ)

  • 混沌の始まり

    ラムロワーズは、コート ドゥ ボーンヌとの境目の街、コート シャロネのシャニーあるミシュランの***レストランだ。実はモンラッシェとの出逢いの後、DRCの収穫を観てみたくなり、ブルゴーニュ再訪を考えていた時、ここのリストにモンラッシェが載っているのを知り、宿泊がてら予約した。「モンラッシェをお望みの方ですね。」と、恰幅がよくどこかドーンとし、それでいてなかなか機敏なシェフ・ソムリエが言った。そこで私たちがDRCの名を出すと、丁寧に、「私どもではああいったワインは扱っておりません。私どものでよろしければ…」と、一度奥に下がりボトルを手に戻って来た。 ル モンラッシェ ドゥラグランジュ・バシュレ 1985 彼が掲げるボトルからは、不思議とDRCのような威厳を感じない。それでもモンラッシェだからと、頼むことに。やがて「どなたが?」との問いに、ケイコが名乗りをあげ、一口試すとすぐにOKを出す。が、何処か様子が変だ。それじゃ私もと口にし、えっ…。 嘘、これが、本当にモンラッシェ?なんて線が細いの。DRCの時の、あの頭を殴られるような強烈な印象は、あの体の中から抉られるような官能的な刺激は、何処に? 正に、DRCとの出逢いが「衝撃」だとすれば、こちらは「困惑」としか言いようがなかった。後で思えば、ドゥプレさんにまんまとしてやられたわけだが、かくして、私たちの5年に及ぶ混沌の、始まり始まりだった。

  • 化け物に遭遇

    レストラン中央のテーブルで、DRCのモンラッシェを丁寧に開栓した若いソムリエは、自らのグラスに注ぎ一口試飲すると、目を大きく見開き、天を仰ぐようにフーッと息を吐き出した。そして、至極ご満悦気に言った。 「どこかの星まで吹っ飛ばされそうですね。」 なかなか粋なセリフだ。ただその時に、それが実際に起こるなんて、誰が予想しただろう。私たちを陶酔させたモンラッシェは、なんとその夜、ケイコを初の幽体離脱へ送り出したのだ。翌朝、興奮気味にケイコが言った。 「なんかね、大空に舞い上がって、下を見ると山と山の間に川が流れている。するといきなり急降下して、谷間を地表ギリギリにビューンと飛んで、次の瞬間に急上昇。そのまま大気圏に飛び出しちゃって、わぁ、星が綺麗。そしたら今度は下の方に青い地球が見えて、またまたヒューンと急降下。そんなことを繰り返して、一晩中飛び回ってたのよ。こんなの初めて。高いところも全然怖くなかった。」 昨夜のモンラッシェは、本当に凄かった。まるで「化け物」。何か食べようとすると、奴が嫌がる。そんな気がして、頼んだ料理を殆ど食べられずに終わった。ありえないことだった。でも事実。本当に「とんでもないもの」に出逢ってしまった。どうしよう。 「あの衝撃が、あの内からくすぐられるような官能的な刺激が、忘れられない…。」 何かをしなければ…、と逸る心で、私たちは二ヶ月後の秋、ラムロワーズにやって来た。

  • ビロードの貴公子

    1996年6月29日、エルブスコ。 私たちはマルケージのテーブルについていた。その日はケイコの誕生日で、初めからワインを2本頼むと決めていた。1本目はイタリアのもので2本目はフランスのものを。でも、誰もイタリア・ワインに精通していない。結局面倒なので、ソムリエに任せることにした。すると出てきたバローロ(マスカレッロ?)が美味しいのなんのって…。結果、フランス産を自分たちで選ぶことができなくなる。そこで再びソムリエに頼むと、にやつきながら、「この後にフランスのワインを飲むのなら、これしかない。」と、彼が指差したのは、 Romanée-Conti 1971/1973 アハハハ、笑わせてくれるじゃん、ソムリエ君。いくらなんでも、ロマネ・コンティが高いのは周知の通り、買えるわけがない。案の定、リラ(当時1円=15リラ位?)表示の価格は0の羅列だ。ほら1つ、2つ、3つ、4つ、あれっ、間違えたかな。1つ、2つ、3つ、4つ…、嘘。正確な金額は覚えていないが、どうでもいい。とにかく2000フラン以下。つまり4万円しない。うわっ、ここで逃げたら食い道楽の恥。もう頼むしかない。 ソムリエもシェフに交代し、厳かな抜栓の儀式の後、徐ろにグラスに注がれたロマネ・コンティを一口口にしたケイコは、 「ああ、こんなビロードのような飲み物があるなんて、一体あなたは誰、ロマネ・コンティ様!」 と、もうぞっこん。その名を心に刻み込んだ。

  • 君(奴)の名は…

    えっ、あったって何が? すると「ほら、これ」と、ケイコがニコニコ顔でワイン・リストの1ページ目を指差している。そこには、 Montrachet 1984 DRC の名が…。 素直に言って、その時、モンラッシェが何であるかすら知らなかった。ただその値段を見て仰天した。えっ、昨夜のシャンパン2本分よりも高いの…(当時2500フラン=約5万円。でも以後他のレストランで見かけたDRCのどのモンラッシェよりも安かった)。 うーん、あまり気乗りがしませんけど…。えーっ、どうしてもこれだって言うの?うーん、確かにこの旅はケイコのために組んだけど、でもやっぱり高いよ。えーっ、うーん、あぁ、どうしよう…。どうしよう…。 で、結局頼むことに。あーあ、知らない。どうにでもなれ。ただ今更ながら、あの時にあんなものを飲まなければ…、です。良しにつけ悪しにつけ、あまりにも強烈な、人生の変わり目となる出逢いだっtた。 もっとも、この時に全てが始まったわけではない。既に一つの流れの渦の中にいて、なるべくしてなったこと。だって、そうでしょう。そうでなければ、何故、ケイコがモンラッシェの、DRCの名を知っているの?当然、そこにつながる事件が、その前に起きていた。それは、更に一年前のこと。スペインから移り住み一年半が経つのにフランスに馴染まないケイコの誕生日に、イタリアへ美味しいものを食べに行った時のことだった。

  • 導かれて

    そこを曲がると、ホテル ル モンラッシェだった 今でこそ素肌のワインに拘る私たちも、最初はお「導き」による某ワインとの出逢いが全ての始まりだった。まずは、自然派へ至るまでの私たちのお話に、しばしご辛抱を! 忘れもしない1997年7月19日夕刻、ブルゴーニュを縦断する国道74号線を下り、ピュリニー・モンラッシェに着いた時だった。「次の角を左に曲がると右手に広場があり、ホテルは左手の駐車場の前」と、いきなり目の前にヘッド・アップ・ディスプレイが現れたかのように、脳裏に道順が浮かんだ。以前、白山を旅した際に白峰温泉で同じように道が分かり、スペインのグラナダからアリカンテへ向かう途中、ロルカ辺りの道が見えたこともある。またもデジャ・ヴュ…?幸先良し? 目的のル モンラッシェは、ミシュランの赤ガイドで*付きの併設レストランが気になり予約したホテルだ。しかし、えらく到着が遅れた。前夜ランスでのシャンパン・ディナーで羽目を外し、この様だ。参った、参った。 それにしてもクレイエール・ボワイエールは、パリやブリュッセル、リュクサンブルグの恋人たちの逢引の隠処のようで、ロエデールのクリスタル ロゼが格段にお似合いの館だった。気持ち良く飲みすぎ、朝の目覚めは派手な頭痛で、ああ、起きれない。それでもなんとかリセイ経由でピュリニーへ到着。早速レストラン中央の席に通され、席に着き一息と思いきや、ケイコが突然、頭が割れんばかりの奇天烈な声を上げた。「あった!」???

  • 浄化 – Purification

    Sergio Arcuri - Cirò Marina 話は遡ること10数年、ある秋の夕暮れ時。 …。この前と同じだ。目の前のボトルが半分残っている。シャサーニュ・モンラッシェ レ カユレ 1999は綺麗に熟成し、手に入れた時より状態は良くなっているはずなのに、二人で一本を飲めずにいる。しかも、これで続けて二度目だ。つい数日前もそうだった。夕食後、ラ シャトニエール(サン・トーバン・プルミエール・クリュ)1999も、結局、半分残った。 どうしたのだろう。前回は旅疲れのせいにしたけれど、今回はそんなことはない。それじゃ何故、こんなことになるのだろう。今までにはなかったこと。あれほど恋い焦がれたブルーニュのシャルドネイなのに、どうして? もったいないなぁ。飲む?うーん、いや、ちょっと無理。飲めない。どうしよう…。 ここ半年、VELIERのTriple Aの造り手を撮りに、ヨーロッパ中を旅していた。その間、外食で体調を崩さぬよう、休足のために家では一切ワインを飲まずにいた。ただそれだけ、他には何も変えていない。勿論、訪問先では造り手たちと一緒に飲んでいたけど。当然、彼らのワインをね、自然派の。それが違いと言えば、唯一の違い…。 えっ、もしかして自然派のせい?で、慣例農法ワインが飲めなくなった?ということ。つまり、それって体内浄化?体が洒掃されたわけ?!それで、頭じゃなく体が飲むのを拒絶しているだ。すっごーい!

  • 西方見聞6666

    Udo Hirsch & Hacer Özkaya - Gelveri 2011年9月、初めてジョージアの地に降り立った時、「終着地に辿り着いた」気がした。震撼するポリフォニーに包まれ、素肌のワインに触れ、浮かれていた。でも終わりだなんて、とんでもない。それこそ真逆、全ての「は・じ・ま・り」だった。ただ、この青天の霹靂は、お隣トルコでやってきた。 そして今日の私たちがいる。 ジョージアはもう終わり。再興クヴェヴリ・グヴィノの父、ソリコが亡くなり、一つの時代に幕が降りた。アンコールの声はまだ続くけど、終焉は終焉さ。今更ジョージアに来るなんて、散った桜の花見に行くようなもの。そこには、消え去るものの美しさもない。 ソリコにイアゴ、そしてカパノや他のお仲間たち、本当にありがとう。素敵な時代にあなた方の「う・た・げ(宴)」に加えてもらえ、正に光栄です。私たちは東方見聞を中断し、西へ戻ります。思いきりUターン!飛んでイスタンブール!果てはポルトガル! 今はもうヨーロッパ、増え続けるアンフォラ。知らん顔して、人が飲まなくても、私はかまわない。アンフォラが好きだから。美味しくて、楽しくて、止めはしないよ。 うわっ、えらいことになった 本物探しに明け暮れて WAWを始めてしまったよ。 またまた時代の先を突っ走る 自力先行逃げ切り人生の 始まりだ始まりだ

  • ジョージアに乾杯!

    Kapano - Our Wine - うわぁー、何これ。なんて感覚なの…。とろけて自分の中に吸い込まれていくよう。どこまで落ちていくのかしら。 今までに、ワインをこんなに身近に感じたことなど、一度もなかった。いつも何処か気取りがあって、とげとげしていて…。でも、これが本当のワインなのね。 何処かでもう出逢ったような気がする…。気のせいかな。よく分からないけど、なんかとても懐かしいような…。 昔は南方思考だった。でも結局、西へ赴いた。ただ、今は東へ向かっている。ほら、どんどん夜が明けているでしょう。その内に、日本が見えてくるかな。ずいぶん前に飛び出しちゃったけど…。 今、確かにそっちへ向かっている。ところで、ここは何処…。 収穫の終わりに仲間が集うスプラ(ジョージア式晩餐会)。タマダ(進行役)の音頭とりで、官能的なポリフォニー(多重層合唱)が美しく響く。決して玄人ではない、先程まで畑で葡萄を穫っていた人たちの歌だ。誰かが歌い始めると、みながそれに合わせ、ハモる。三重にも、四重にも。見事というしかない。その素敵な調和に、得体の知れない感動が体を駆け抜ける。すると細胞の核で、ドブロクのようなワインがはしゃぎ出した。 私は酔っている。いいさ。この感慨を誰かに伝えられれば…、それでいい。

  • Mémorandum 2018 – 新年を前に

    2019年はWAWの年 になります! (ように)

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