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2019/01/02

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  • 【退院】帰れるうちに帰ろうという医師の判断

    前回のブログでは、仮退院を乗り越え、退院が正式決定したことを書いてきました。 8月13日に仮退院して、8月17日に退院することが決定したのです。 6月23日に脳転移が発覚し、6月26日に入院。 命の危険にもさらされながら手術等を乗り越え、仮退院をなんとか乗り切りました。 医師からも退院の許可を得た父は、ついに帰宅することが可能となったのです。 肺がんの脳転移が発覚してから約1カ月半、ようやく帰ってきたのです。 もう、帰ってくることはないだろうという思いで、入院するときは見送りました。 しかし、お見舞いに行かずとも父に会える日が再びやってきたのです。 帰れるうちに帰るという意味の退院 前回のブログでも書きましたが、父の退院は健康になって実現したものではありません。 もちろん、できる限りの手術や治療は行いました。それでも、父の余命は半年だったのです。 そのため、家に帰る元気があるうちに、家で過ごす時間を持った方がいいという判断のもとでも退院だったのです。 はっきり言って、手放しで喜べる状態ではなかったのです。 父が半年で死ぬなんて信じていなかった 担当医からは、上記に示したような辛い宣告を受けましたが、私は全くそんなことは思っていませんでした。 医師の経験からの言葉で信ぴょう性も極めて高いのですが、仮退院で見た元気な父がそんな短期間で亡くなるなんてどうにも信じられなかったのです。 実際、父は今現在も、元気ハツラツとまでは言えませんが生きています。 当時の直感は、決して間違っていなかったのだと思います。 なにより、死なせてたまるかと言う思いも強くありました。 NK細胞が活発化されるような刺激のある生活をして、がんに効くと言われている春ウコンなどを飲ませていけば、がんの再発は絶対に防げるはずだと信じていました。 あのまま病院にいたら… 今でも時々思うことがあります。 もし、医師が退院を認めてくれなかったら、医師の余命通り半年で亡くなっていたかもしれないということです。 結局、父は半年以上生きているので、たとえ帰れる元気があるうちに帰った方が委員といいという理由であったとしても、退院を積極的に支持してくれた医師の対応には非常に感謝しています。 病院にいるときと、家に帰ってきて悠々自適に過ごしている父の姿は、明らかに違っていたからです。 入院中の父の暮らし(無言で向かい合わせ)

  • 【仮退院】ついに父が家に帰ってきた[肺がん・転移性脳腫瘍]

    仮退院が決まった話は、前回のブログの通りです。 仮退院といては、退院に向けての予行演習のようなもので、本来ならば両手を上げて喜ぶべき出来事です。 しかし、父の仮に退院囲ついては、帰れるうちに帰ろうというものでした。 つまり、今後、がんの転移などが見つかって、また入院せざるを得ない日が来るということを織り込んだ退院計画となったのです。 悲しい現実ではありますが、肺がんが脳に転移したということは、そういうことなのだそうです。 無事に、なんとか手術を乗り越えたのに、何とも言えない仮退院となりました。 前回のブログについては以下のリンクをご覧ください。 理由はどうあれ帰ってくるのは嬉しい 仮退院の話が出た時は、悪化することを覚悟しなければならないという辛い現実を突きつけられたため、喜ぶことはまったくできませんでした。 どう見ても元気な父が、余命半年ですよ。本当に信じられませんでした。 これから、新たな転移したがんが見つかり、弱っていくことを考えると、本当にいたたまれない気持ちになりました。 それは、医師も同じだったのでしょう。 だからこそ、一見元気そうな父を見て喜ぶ私達に、現実を覚悟させてくれていたのだと思います。 しかし、いざ、仮退院の日がやってきて、以前はもう帰ってくることはないだろうと思っていた父が家に帰ってくると、やはり嬉しかったです。 どんな未来が待っていようとも、家族が家に帰ってくることは、うれしいことなのです。 仮退院はあっという間 仮退院のプランは、1泊2日という、非常に短いものでした。本当にあっという間でしたよ。 父自身は、いつもと変わらずに家を満喫していました。 どういうわけか、普段はありますることのなかった料理に挑戦していました。 勝手に冷蔵庫を開けて野菜を取り出し、それらを危なっかしい手さばきで切り、グツグツと似て味噌汁を作り出したのです。 なぜ、料理をしだしたのかは不明ですが、病院食ではない食事を取れることがとてもうれしいようでした。 しかし、なによりも満喫していたのはお風呂です。 湯船にゆったり浸かれるのがとても気持ちいいと言っていました。

  • 【仮退院が決まる】喜ぶに喜べない現実[帰れるうち帰らせるという配慮]

    無事に脳腫瘍の手術を乗り越えた父は、ついに仮退院にまで行き着くことができました。 一時期は、あまりにも唐突な脳腫瘍の影響で本当にもうダメだと思っていました。 手術でも合併症が発生しましたし、リハビリがうまくいっていると思えても医師からは余命半年と言われるわで、本当に辛い状況が続いていました。 仮退院という奇跡 絶望的な状態からなんとか復活してくれた父は、医師からは回復傾向は平行線と言われながらも、悪化はすることなくリハビリに順調に取り組めていました。 そんな時、私は医師に呼ばれました。 なんと、仮退院の話を進めたいというのです。この発言には正直驚きました。 まさか、こんな日が来るとは思っていなかったからです。 脳腫瘍で急遽入院することになった当時は、父が家で過ごす日はもうないだろうと覚悟を決めいたからです。それくらい、奇跡かと思えるほどに、医師からの言葉には驚きました。 ※緊急入院の時のブログは以下のリンクを書いています。 脳腫瘍が発生した時は、それもう驚きの連続と絶望的でいっぱいでした。 仮退院という暫定的な措置とはいえ、そんなことは到底想像できない状況だったんです。 今まで、本当にしっかりしていた父が、日を追うごとに変わっていくので、とてもみていられないというのが本音でした。 まさか、それが、治っていたと思っていた癌によるものだとは予想すらもしていませんでしたしね。 仮退院の意味 ただし、喜んでばかりもいられませんでした。 いや、とても喜ぶ心境ではなかったのです。医師から、仮退院の提案を言われた後すぐに、その理由を聞かされました。 仮退院の意味は、もちろん完全な退院に向けての準備を意味します。 家に帰ってきても、父が問題無く過ごせるかを確認するためです。 例えば、トイレに行けるのか、風呂に入れるか、ご飯は食べられるのかなどです。 入院中は全て看護師等の介助を通していたそれらの行動について、家族側が過度な負担無く対応できるかが重要となります。 これらのことについては、十分な自信がありました。 というより、父が再び家に帰って来られるのであれば、どんなことでもやり切ってみせるという強い気持ちがあったからです。 しかし、仮退院にもう一つの意味がありました。

  • 【肺がん脳転移・手術後】おかしな症状(言動)は改善します[外に出ることで劇的に回復する]

    ここしばらくのブログの内容は、肺がんの脳転移手術後に現れた父のおかしな言動について書いてきました。 まとめてみると以下の通りになります。 共通していること やはり、叫び声といった騒音に関することが多いですね。 そして、それがうるさくて眠れないといったかとをよく訴えていました。 具体的には、ICUで聞いた女の子の霊の叫び声から始まりましたが、一般病棟に移ってからも、隣の患者にお見舞いに来た人が犬を連れてきた、赤ん坊が泣いていた、などです。 どれも、現実には起こり難いことですし、なぜそういったことを感じるようになったのかは不明ですが、脳腫瘍が影響を与えている可能性はかなり高いと思います。 とくに、前頭葉にできた腫瘍が、幻聴を作り出しているのではないでしょうか。 さらに、幻聴を事実だと信じ込み、そこから勝手に色々な想像を作り出してしまいます。 これには本当に困りました。非科学的なことはあまり信じることは無かった父が幽霊の存在まで口にし出すので、これについては多少なりともショックは受けました。 脳腫瘍ができておかしな言動を示すようになり、手術を受けてさらにその言動は顕著になってしまったので、このままでは、今後いったいどうなってしまうのだろうかと不安になりました。 認知症等とは違う 私は、父の症状はただ悪化していくものだと思っていました。 アルツハイマー型の認知症を抱えた方が家族にいる知り合いがいたこともあったのか、父も同じような道を辿っていくのだと勝手に思っていました。 しかし、父は脳腫瘍です。前頭葉の腫瘍については取り除くことができませんでしたが、これ以上に腫瘍が悪化しなければ、父の症状も悪化することはありません。 ※前頭葉の手術の時のブログは以下をご覧ください。

  • 【肺がん脳転移・手術後】リハビリ開始[回復するも医師の表情は暗い…]

    肺がんの転移性脳腫瘍が小脳と前頭葉に発生した父は、昏睡状態になりながらも無事に手術を乗り切り、ガンマナイフという放射線治療も終えることができました。 よくもまあ、何とかここまで頑張ることができたといった感じです。 しかし、手術やら治療やらが終わると次はリハビリが始まりました。 手術後は歩けなくっていた 小脳の手術では、バランス感覚を司るという歩行に大きく関与する部位にメスを入れたことと、合併症である脳内出血も発生したため、手術直後は完全に歩けなくなっていました。 (前頭葉の腫瘍については、取り出すことはなく、穿頭手術という方法を行なっているので歩行能力には大きな影響を与えてはいないと思います。) いきなり歩けなくなってしまったので、その姿を見た時、私はかなりショックを受けました。 ほとんど寝たきりで、まさに虫の息状態です。 手術で、ここまで体力が低下してしまうのかと思ったほどでした。 リハビリが始まる しかし、手術が終わり、ガンマナイフといった治療も終了すると、リハビリが始まりました。 歩行訓練がメインです(リハビリといってもいろいろしていたようで、嚥下訓練なども行なっていたそうです)。 リハビリそのものは、私は見たわけではありませんが、日が経つにつれてみるみる回復していきました。 それこそ、以前のブログで書いたように、脱走を企てたりすることも可能となるほどになりました。 ※脱走を企てた時のことを書いたブログは以下の通りです。 もちろん、健康な時のように、完全に回復したわけではありません。フラフラとしながら、何とか数メートル歩ける程度です。 それでも、手術直後のように、全く歩くこともできない状態と比較すると奇跡のような光景でした。 少しでも歩けるようなると、看護師の指示に従わず勝手にトイレに行くこともあり、ヒヤヒヤさせられたりもしました。 このような他人への迷惑を顧みない行為も脳腫瘍が影響していたと思いますが、こういった行動もリハビリを重ねるにつれて徐々に改善されていきました。 リハビリは、肉体的な回復だけだと思っていましたが、多面的に効果があるようです。 余命はそれでも半年 リハビリも始まった頃、医師から話がありました。

  • 【肺がん脳転移・手術後】日記が書けない[謎のメモ]

    これまでのブログでも書いてきましたが、父は何度も入院してきました。 それこそ、胆嚢摘出、肺がん、脳腫瘍と、病院嫌いで、数年前まではほとんど病院に行かなかった父でも、あっと言う間に病院の常連になりました。あんまり喜ばしくないことなんですけどね。 そんな父は、入院するたびに、いつも日記を書いていました。 入院していると暇なのか、手書きでノート1ページ分くらいは毎日書いていたと思います。 しかし、それらができたのは、胆嚢摘出と肺がんの摘出手術の時まででした。 脳腫瘍の手術で入院した時には、全く日記が書けなくなってしまっていたのです。 父が日記を書けなくなってしまった理由 ①文字が書けない まず、前頭葉の腫瘍が影響していたのか、文字がうまく書けなくなってしまいました。 これについては、父自身、かなり辛かったと思います。 もちろん、パソコンでのタイピングや、携帯電話での文字入力もできなくなりました。 書きたい文字が頭に浮かんでも、うまく書けないそうなんです。 これだけは、脳腫瘍がある本人じゃないと分からない気持ちねすね。 ②論理立てた文を考えられない 言葉ではうまく説明できないのですが、難しいことを考えられなくなりました。 数字についてはとても弱くなりましたし、文章を考えるにあたっても、論立てて構成することができなくなってしまいました。 そんな状態で頭を使うとこんがらがってしまうのか、全く集中力が持続出来ず、作業を放棄してしまうことが増えました。 数学の難しい問題て訳が分からなくなるといった状況のようなものだと思います。 それが、父には簡単な文を作ることで起こってしまっていたのです。 ③自分の状態を理解できない 脳腫瘍という病気である以上、自分の症状や治療内容を適切に理解することは不可能でした。 一応、父にも説明はありますが、基本的には家族側にしっかりと伝えられます。 いずれにせよ、自分がどんな状態であり、どんな治療が行われているのか、これまでの胆嚢摘出や肺癌摘出のときように、十分に理解できてはいなかったと思います。 そのため、日記の内容も思い浮かばなかったのではないでしょうか。 付箋にメモを残す そんな状態の父でしたが、何かを残そうと必死でした。 病室にあった付箋に、フラついた字体で誤字を織り交ぜながらも、その日の出来事や思いついたことなどを簡単にメモしていました。

  • 【肺がん脳転移・手術後】昏睡状態時に「幽体離脱」したり「三途の川」を見たりしたのかを聞いてみた

    前回までのブログでは、「霊の叫び声を聞いた」、「親戚のおじさんが同じ病室で入院している」などと、どう考えてもあり得ない話を言い出したことなどについて書いてきました。 今回のブログも、肺がんの転移性脳腫瘍の手術後に父に現れたおかしな言動についてです。 ちなみに、前回までのブログでは、父から言い出したことについて書いてきました。 しかし、今回は、私から、霊体験などは無かったのかを聞いてみたときの話です。 その点が、今までは少し違うところです。 そもそも霊体験はあったのか 父は、小脳にできた肺がんの転移性脳腫瘍の摘出手術を行った後、合併症の脳内出血が発生して、一度昏睡状態となりました。 この時は、もういつ死んでしまってもおかしくない状況で、私達家族は、再手術が無事に成功するのをICU前でハラハラしながら願っていました。 見守る側であっても、生きた心地がしませんでした。 ※この時のことは以下のブログを確認してください 結果的に、手術は無事に成功して父は生還することができました。 それからしばらくした後で、昏睡状態中に霊体験などはしなかったのかと聞いたことがあります。 たとえば、よく言われている、幽体離脱です。 病院のベッドで寝ている自分の姿を、上から眺めたりしたという話とか、聞いたことありませんか? しかし、父はそんな体験は一切無かったようです。 そのため、幽体離脱と同じくよく言われている、三途の川も見ていません。 川を渡ろうとすると、対岸にいる先祖の霊に「まだ早い」とかを言われて、来た道を引き返すと、意識を取り戻して目を覚ますことができたなどいう話です。賽の河原とかの話もありますね。 「せっかくだから、それくらいの体験はしておきたかった」と、笑い話になって終わってしまいました。 なにも覚えていない そもそも、父は自分が昏睡状態になったことすら覚えていませんでした。

  • 【肺がん脳転移・手術後】いるはずのない人の存在を感じる[妄想を信じる]

    前回のブログでは、肺がんの脳転移によって入院した父が、霊体験について話し出したことについて書いてきました。 ただし、どうにも信じることができない話ばかりで、なによりも父が実際にその霊達を見たわけではなかったのです。 ※詳しく以下のブログ 以上の前回のブログでは、父の霊体験は脳腫瘍による幻聴等が作り出した父の想像だという結論に至りましたが、今回のブログは、引き続き父のおかしな発言に関連するものです。 前回のように霊が出てくる話ではありませんが、今度はいるはずもない人の存在について話しだしたのです。 同じ病室に親戚がいる 父は、小脳と前頭葉に脳腫瘍を抱えており、手術の間はずっとICUのベッドで入院していました。 しかし、無事になんとか手術を乗り越えると、一般の病室に移されることになりました。 いるはずのない人のことを言い出したのはこの頃からです。 ある時、父のお見舞いに行くと、「病室を出たところにたこ焼き屋かあるから買ってきてくれ」と言うのです。 なぜかと聞くと、「向かいのベッドに親戚のおじさんも入院しているから、渡したい」とのことでした。 もちろん、そんなはずはありません。 もしいたとすれば、お見舞いで時々にしか病室にしかいない私でも流石に気づきます。 そしてなにより、病室の近くにたこ焼き屋もありません。 幽霊の話と同じく、本当に不思議なことを言うなあと思っていたのですが、やはりこれも父が想像でした。 前回のブログでも触れましたが、脳腫瘍の手術を終えたばかりの父は、歩くことはおろか、ベッドから自力で降りることもできず、ずっと寝たきりでした。 そのため、周りから得られる音だけで色々なことを想像しては、それを現実だと信じていました。 想像が生まれる背景には必ずきっかけがある 今回、親戚のおじさんが向かいのベッドにいると信じこんでしまった背景には、調べていくとちゃんとした理由がありました。 それは、看護師の声です。甲高い看護師の声が、親戚のおじさんの奥さんの声に似ていたのです。 その看護師がいつも病室にやってくるために、親戚のおじさんも、父と同じ病室に入院しているに違いないと信じてしまったのです。

  • 【肺がん脳転移・手術後】霊体験をする[脳腫瘍がもたらす幻覚か]

    肺がんの脳転移による悪性脳腫瘍を抱えた父は、無事に手術やガンマナイフ治療を終えました。 脳腫瘍によって、手術前から、これまでとは明らかに違う父の行動に驚かせられ、ショックを受けてきました。 しかし、手術後になると、手術前とはこれまた違う行動を示し始めるようになりました。 前回のブログで書いた、病院から無意味に抜け出そうする行為も術後に現れた現象の一つです。 他には、霊現象的なことも度々口にするようになりました。 今回は、そのことについて書いていこうと思います。 ICUで女の子の叫び声を聞く 父は、小脳と前頭葉に腫瘍を抱えていました。 そして、最初に行った小脳の手術を終えた後、合併症の脳内出血が発生しています。 いっときは、そのまま亡くなってしまう可能性さえもありました。 そのため、術後しばらくはICUにいることになりました。 ICUであってもお見舞い行くことはできました(ただし面会時間はかなり限られている)。 術後から何日か経った頃に父に会いにいくと、なんと女の子の泣き叫ぶ声がずっと聞こえていたというのです。 あまりにもうるさくて、全然眠れなかったそうなのです。 ICUなので、もしかしたら、急病の女の子が運ばれて来たのかもしれません。 しかし、警察も捜査でICUに来ていたというというのです。 女の子叫び声の件で捜査に来ていたのだろうと推察していました。 話はそれっぽいんですが、どうにも信じられません。 そもそも、警察がICUにまで入ってくるものなんでしょうか。 警察や病院については詳しくないので絶対にあり得ないと言い切ることはできませんが、とにかく父は本気でした。 霊の存在を示唆する さらに、女の子の叫び声は、霊の仕業なのかもしれないと言い出したのです。 女の子が、事故か何かにあってICUに運ばれ、そのまま亡くなってしまったものの、今でも霊となって彷徨っているのだろう言っていました。 父はもともと、非現実なことはあまり言わない人だったので、このような発言をしたことには正直驚かされました。 霊現象ならば証明のしようはありません。 しかし、実際のところは、父は脳腫瘍やそれに伴う手術によって幻聴を聞いていたのだと思います。 前頭葉の腫瘍が影響しているのだと思いますが、この頃の父は幻聴を聞くようになっていました。

  • 【肺がん脳転移・手術後】帰ることができないのに帰ろうとする[プリズン・ブレイク]

    ドラマの「プリズン・ブレイク」の主人公であるマイケル・スコフィールドも脳腫瘍を発症しますが、今回はそういう話ではありません。 とはいえ、マイケルも何度も頭痛に悩まされる場面があり、あれを見ていると、なんとも言えない気分になりますね。 いずれにせよ、今回のブログタイトルにつけた「プリズン・ブレイク」とは、肺がんの脳転移によって、父に現れたおかしな行動のことを指して付けました。 病院から本気で抜け出そうとする さて、無事に手術を終えた父ですが、術後の父は少し行動がおかしくなっていました。その1つが、病院を抜け出そうとすることです。 本来、父は絶対にそんなことをしようする人ではありません。病院(他人)に迷惑をかけることはとても嫌う人です。そんな父が、本気で病院を抜け出そうと考えていたのです。 ある日、私がお見舞いに行くと、「バイクで来たか?」と聞いてきました。 なぜかと聞くと、「バイクに乗って帰ろうと思っている」と言い出すのです。 冗談かと思っていたのですが、真面目な顔でそういってくるのです。 それこそ、「本気で言っているのか?」と聞くと、「なにかおかしいことを言っているか?」と聞き返される始末です。 ただ、なぜか電車では帰れると思っていなかったようです。とにかく、術後しばらくは、お見舞いに行くたびに、どうやってきたかを毎回聞かれていました。 まともに歩けないのに脱走を試みる 手術を終えたばかりの父は、実は歩けなかったのです。 すでに取り除いてはいましたが、やはり小脳に発生した腫瘍が影響していたのだと思います。 そのため、手術は、ずっとベッドで寝ていることしかできず、トイレも介助が必要な状況でした。それなのに、病院を抜け出せると本気で考えていたのです。 ただ、全く歩けないわけではなく、フラフラとよろめきながらも、壁伝いに歩くことはできました。 もちろん、そんな状態で歩ける距離はたかが知れています。せいぜい10メートルほどです。 しかし、父は脱走を本気で考えており、実際にベッドから自力で下りて、廊下にまで出て抜け出そうとしたそうなのです。 すぐに看護師に見つかってしまい、事なきを得ましたが、本当に迷惑な話です。 結果として、父のベッドには、振動があるとナースコールが鳴るように設定されてしまいました。 脱走を考える理由

  • 【肺がん脳転移・手術後】春ウコンの摂取を再開するも断念[入院中は難しい]

    前回のブログより、ガンマナイフという放射線治療も終えることができました。 脳腫瘍が発覚してからというもの、検査、手術、ガンマナイフ治療と、本当にいろいろなことが立て続けに行われ、それはまさに本当に激動ともいえる状況だったと思います。 よくもまあ、何とかここまで頑張ることができたといった感じです。 春ウコンの摂取再開を試みる 無事に手術・治療が終わると、是非とも取組みたいことがありました。 入院と手術によって中断していた春ウコンの摂取を再開することです。 ※少し前のブログでも、春ウコンのことは書いていますので、そちらをご覧ください。 しかし、脳腫瘍を摘出してからは、父の体力はかなり低下していました。 一次的に歩けなくなっていましたし、なにより、飲み込みや咀嚼といった機能も低下していたので、食事は嚥下食となっていたのです。 そのため、春ウコンの錠剤を飲ませることはかなり至難の業であるということがわかりました。 父1人ではとても管理しきれない 病院には何も言わずにこっそりと飲ませようと思っていたのですが、誤嚥の危険性もあり、とても飲ませられる状態ではありません。 なにより、勝手に飲ませて不測の事態を発生させてしまうと、それこそ洒落になりません。 誤嚥性肺炎などになると、命の危険さえもあります。 そもそも、父が自分で飲む薬を管理すること自体が難しかったので、別途で春ウコンを飲むということどう考えてもできる状態ではなかったのです。 この時は、確か、1日分の春ウコンを6回〜7回に分けて、袋に小分けしていたのですが、これを、脳腫瘍の摘出手術をしたばかりの父に適切に飲ませようと思うとかなりハードルは高いです。 ずっと側にいて飲むのを手伝ってあげれば可能かもしれません。 しかし、お見舞いに行くだけでも大変な状況下です。少し遠い病院に入院していたので、行くだけでもヘトヘトになってしまうのです。 実際、私は仕事があったので毎日お見舞いには行けていません。母親は毎日行っていましたが、真夏ということもあり、毎日クタクタになって帰ってきていました。 父の体力だけではなく、私たち家族の体力的にも、難しい話だったのです。 そういうわけで、春ウコンの摂取は、退院まで断念せざるを得なくなりました。

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