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2018/05/07

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  • 江戸時代の文化や生活は?農民や庶民はどんな服着てた?

    江戸時代の人々はどんな生活をしていたのでしょうか。幕府からにらまれて、窮屈な生活をしていたのでしょうか。それとも、平和な世の中のおかげで円熟した文化を育むことができたのでしょうか。 江戸時代の文化や生活については、史料も多く残されていて、多くの研究が行われています。人々の服装や文化・生活を見ていくことにしましょう。 江戸時代の服装!農民や庶民はどんなだった? 【農民の服装について】 全国の人口の8割以上を占めたと言われる農民。とても辛く苦しい生活を強いられて、ボロボロの格好をしていたという印象が個人的にはあるんですが、どうなのでしょう。 作業着は軽装! 農業のシーズンは春先から秋の稲刈りまでですから、衣料は軽装です。 男性は膝丈の短い着物を着て、緩めの股引(ももひき)をはき、足には脚絆(きゃはん)。頭は手ぬぐいで頬被りをしたり、笠をかぶったりしていました。 女性は、短めの着物にたすき、前掛け。頭は手ぬぐいで姉さん被りをしたり、菅笠だったり。小さい子どもがいる場合、おんぶしながら作業をしました。当時の様子を描いた絵を見ますと、子どもを着物の背中に入れているだけで、おんぶ紐は使わなかったようです。落ちたりしなかったんでしょうか。 服は素材から作る! 冬は、男は出稼ぎ。女は養蚕・織物など。農民は絹を着ることは禁止されていたので、全て売ったのでしょう。農民は年貢米さえ納めれば良かったので、出稼ぎや絹織物の収入はそのまま自分たちのものになりました。 家族の衣類は、樹木の繊維を取るところから自分たちで行い、糸にして織り、仕立てました。徹底した自給自足ですね。 早乙女は晴着! 女の子は、田植えの時は「早乙女(さおとめ)」と呼ばれ、麻や木綿で色も綺麗な「晴着」を着ることもあったようです。 現在のようにトラクターに乗って全作業が一人で完結するようなわけにはいきませんから、大勢が集まって作業をしました。豊作を祈る神事のような色彩もありましたら、お祭りのような楽しい行事だったようですね。 【庶民の服装について】 庶民とは、主に江戸に住んでいた町人になります。その人たちの服装はどうだったのでしょう。 絹を着ていた! 江戸初期は「繭繊(めいせん)」という安価な絹の着物があり、主にそれを着ていたようです。

  • 江戸時代の食事って? 回数は? 庶民・農民・将軍でどう違ったの?

    徳川幕府による260年もの太平の世が続いた江戸時代。人々はどんな食事をしていたのでしょうか。回数は1日何食?身分の違いで、食事も違っていたの? 身近なことだけに疑問が尽きません。ちょっと調べてみました。 江戸時代の食事回数って何回だった? まず、食事の回数から行きましょう。現代は「1日3食」が当たり前になっていますが、そうなったのは江戸時代中頃、元禄年間(1688~1704)から。それまでは「1日2食」でした。 3食に増えたのは、庶民でも振売り(ふりうり)の「油売り」から菜種油を買って行灯(あんどん)に使えるようになったからだと言われています。 この時期、人々の生活が一変しただろうことは人口の推移を見ると分かります。全国(琉球を除く)の推定人口は、江戸時代初めは約1200万人だったのが、元禄期が終わった頃には3000万人に達しています。100年で2.5倍になっています。 ただ、その後は幕末まで、ほぼ3000万人で安定しています。元禄期までの人口の伸び率が凄いのです。 江戸に限って言えば、15万人から100万人に増加。100年でとは言っても、6.7倍の増加はすごいですね。当時の江戸の人口は世界一だっただろうと言われています。 江戸時代の食事ってどんな感じだった? 現在でも庶民やお金持ち、または偉い人と一般人では食事の内容がバラバラです。 江戸時代だとさらに差が激しいイメージですが、実際の食事はどんなだったのでしょう? 庶民・将軍・農民ごとに見ていきましょう。 まずは庶民から! 【農民の食事について】 ではまず、庶民の食事から見ていきましょう。主に江戸に住んでいた町人が該当すると思います。落語に出てくる熊さんとか八つぁんとかですね。それから、お武家様でも下級武士は庶民と同様の食事をしていたようです。 「一汁一菜」で白米たっぷり 江戸時代はテーブルはもちろん、昭和の頑固オヤジがよく引っ繰り返したちゃぶ台すらありませんでしたから、ひとり分ずつお膳に食器をのせて食事をしました。なんていうと高級なイメージがしますが、中身はかなり質素でした。 基本的には、ごはん、味噌汁、漬物。いわゆる「一汁一菜」ですね。 現代人の感覚だと「これで足りるの?」と思ってしまいますが、大丈夫だったのです。ご飯をたくさん食べていたのです。

  • 北里柴三郎の名言!正義感やマジメさが感じられる名言が満載だ!

    北里柴三郎は江戸時代の終わり頃、熊本に生まれました。明治に入ってから西洋医学を学んだというのに、ドイツに留学してコッホの下で研究を始めるとすぐに、それまで世界で誰も成し得なかった成果を次々と上げていきます。 北里の成功の秘密はどこにあったのでしょう。彼が残した数々の名言の中から探ってみましょう。 北里柴三郎の名言! 実は医師になりたくなかった編 意外なことに、北里は医者には絶対になりたくないと思っていました。次のような言葉を残しています。 天下国家のために役に立ちたい、という気持ちが強くうかがえる言葉です。生来の負けず嫌いだった彼は、とにかく軍人に成りたかったのです。本を読んで勉強ばかりしている奴らは何の役にも立たないと決めつけていました。 しかしながら親の意見には逆らえず、1871年(明治4年)、熊本の古城医学所病院に入学。北里18歳の時でした。 ここでオランダの軍医マンスフェルトに出会います。北里は、マンスフェルトからオランダ語を学びました。猛烈に勉強したので、一年後には通訳ができるほどになりました。 でも彼は、医学を学ぶ決心を固めたわけではありませんでした。オランダ語を身につけて文明開化の担い手になろうとしていたのです。だから、病院にいるにもかかわらず、医学には全く興味を示しませんでした。 医学を目指し始めた瞬間編 医学を学ぼうとしない北里の気持ちを変えるべく、マンスフェルトはいろんなアプローチを試みました。そして、北里に顕微鏡を覗かせた時から、彼の心は一変したのでした。 人体の組織を見ることで、医学は地に足の着いたちゃんとした学問だということが分かったのでしょう。そこで、彼はこんな言葉を残しています。 後に「日本の細菌学の父」と呼ばれるようになる北里が、医学を目指し始めた瞬間です。 医者になることを決意編 北里は、1875年(明治8年)に東京医学校(現・東京大学医学部)へ進学。在学中に、その後の医者としての方向性を決定する信念を抱き始めました。それを表しているのが、次の言葉です。 北里は1877年頃から同盟社という学生結社を組織。社会活動を志すなら雄弁でなければならないと主張して、毎週土曜に演説会を開き弁舌を磨きました。 大変な変わり様です。まだ医者になってもいないのに、凄いです。

  • 北里柴三郎の業績がスゴすぎる!エピソードはカミナリ先生!

    北里柴三郎は「日本の細菌学の父」と呼ばれていますが、具体的な業績はどんなものがあるのでしょう。また、どんなエピソードがあるのでしょうか?調べてみました。 北里柴三郎の業績 北里柴三郎が本格的に医学に目覚めたのは熊本の古城医学所病院に入学して、オランダの軍医マンスフェルトに出会ってからでした。1871年(明治4年)、北里は18歳でした。一年後には通訳を務めているというのですから、凄いですね。 1875年(明治8年)に東京医学校(現・東京大学医学部)へ進学。在学中「医者の使命は病気を予防することにある」と確信。予防医学を生涯の仕事とする決意をし、「医道論」を書きました。 1885年(明治18年)よりドイツベルリン大学へ留学。「近代細菌学の開祖」と言われるコッホに師事しました。それからというもの、北里は世界が驚嘆するような業績を次々と上げていきます。その業績の数々を見ていくことにしましょう。 業績1:破傷風の血清療法の開発 当時、破傷風はとても恐ろしい病気でした。その原因となる破傷風菌は嫌気性の細菌で、世界中の土壌や汚泥に生息しています。これが、傷口などから体内に入ってしまうと、破傷風菌が出した毒素によって全身の筋肉が拘縮状態に。 背中は反り返り、ひどい場合は背骨が折れるほどです。ところが、この神経毒は筋肉以外には影響を及ぼさないため、明瞭な意識のまま激痛に耐えなければいけません。破傷風は古来より世界中で大変恐れられていたのです。 1889年(明治22年)に北里は、世界で初めて破傷風菌だけを取りだす破傷風菌純粋培養法に成功しました。さらに翌1890年(明治23年)には破傷風菌抗毒素を発見。菌体を少量ずつ動物に注射しながら血清中に抗体を生み出す画期的な手法を開発しました。これが血清療法です。 業績2:ジフテリアへの応用とノーベル賞 さらに、血清療法をジフテリアに応用しました。ジフテリアもジフテリア菌が出した毒素によっておこる病気。ジフテリア菌は1883年に既に発見されています。応用しない手はないですよね。

  • 木戸孝允の死因や子孫は?イケメンだったって本当?

    木戸孝允と言えば、長州藩出身で明治維新を成功させたメンバーの一人。若い時は、桂小五郎と名乗っていました。 「小五郎」と言えば、江戸川乱歩の少年探偵団シリーズに出ていた明智小五郎とか、名探偵コナンに出てくる探偵・毛利小五郎を思い出します。とってもミステリアスな印象を持ってしまうのは私だけでしょうか? 木戸孝允はイケメンだったという噂があります。また、明治の元勲は暗殺されている人が少なくないのですが、木戸の死因はどうだったのでしょう?また、子孫はいるのでしょうか? 木戸孝允はイケメンだった? それでは、まず最初の疑問。木戸孝允はイケメンだったのでしょうか? 写真を見てみると… 木戸孝允の場合、明治維新後に撮った肖像写真が多用されます。 ちょんまげを切って短髪にした姿は、確かにイケメン。ワルガキ時代に負った額の古傷も分かりません。 もっともこの時代は、額に傷があるくらいの方がカッコよかったかもしれませんね。 長身でモテモテだった? ここで重要な証言を一つ。渋沢栄一が興味深い言葉を残しています。 木戸孝允の身長は五尺八寸(174cm)あったそうで、今でも長身な方ですね。世界でも通用するイケメンだったようで、海外渡航先の州知事の娘からプロポーズされたと言われています。 その海外渡航した時の岩倉使節団の写真を見てみましょう。 左端が木戸孝允、中央の椅子に座っているのが岩倉具視、右端が大久保利通(178cm)です。確かに、大久保と木戸は同じくらいの大きさに見えます。 一方、大久保の後ろに立っているが伊藤博文(159cm)と思われますが、とても小さく見えます。 木戸孝允の死因は? 次は、木戸孝允の死因についてです。病死したようですが、残念ながら正確な史料が残っていません。あくまでも推測ということになります。 胃を病んでいた! 見かけによらず神経質だった木戸。誠実なので周囲からの信頼は厚く、対立が多い新政府内で調整役に回っていました。ストレスは大きかったようです。こういう人は胃に来そうですね。ここで、伊藤博文の証言を見てみましょう。

  • 吉田松陰の名言・辞世の句!向上心・行動力・めげない気持ちなど、現代でも役立つ名言がたくさん!

    幕末の長州に激烈な思想家がいました。吉田松陰です。彼は、現代と比べたら殆ど自由がないはずの江戸時代にいながら、奔放かつ壮絶な生き様を示し、後に明治維新で活躍する長州の志士たちに強烈な影響を与えました。 松陰の人生を追いながら、彼が残した名言・辞世の句を一緒に見ていきましょう。 吉田松陰の名言! 松陰の生い立ちに関する名言 長州藩士・杉百合之助の次男として生まれ、子ども時代から畑仕事の合間など寸暇を惜しんで勉強をしました。叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となり、兵学も修得。11歳のとき、藩主・毛利慶親(もうりよしちか)からその才能を認められました。 13歳のときに長州軍を率い西洋艦隊撃滅演習を実施。15歳で、江戸時代の兵学の双璧と言われた山鹿流と長沼流を修めました。 アヘン戦争で清が西洋列強に大敗したことから、西洋兵学を学ぶため1850年に九州や江戸で遊学しました。松陰の強い向学心と行動力が分かる名言です。 東北旅行の名言 万事順調に見えた松陰ですが、1852年に宮部鼎蔵らと東北旅行を計画した辺りから、狂いが生じます。出発日の約束を守るため、長州藩からの過書手形(通行手形)の発行を待たず脱藩してしまったのです。 この東北遊学では、水戸で会沢正志斎と面会、会津で日新館の見学を始め、東北の鉱山の様子等を見学。秋田では相馬大作事件の現場を訪ね、津軽では津軽海峡を通行する外国船を見学しようとしました。 当然のことながら江戸に帰着後、罪に問われて士籍剥奪・世禄没収の処分。でも、こんなことは全然気にしないだろうことが分かる名言。 黒船に乗船したときの名言 1854年、ペリーが日米和親条約締結の為に来航した際、金子重之輔と二人で、海岸につないであった漁民の小舟を盗んで下田港内の小島から旗艦ポーハタン号に漕ぎ寄せ、乗船。しかし渡米を拒否され小船も流されたため、下田奉行所に自首。伝馬町牢屋敷に投獄され、結局は国許蟄居となりました。 ただ無鉄砲なだけの暴挙としか見えないのですが、この時のことを言っているように聞こえる名言。 松下村塾を引き継ぐときの名言

  • 大塩平八郎は身長2m!?塩漬けにされていたって本当?

    約260年間の太平の世と言われた江戸時代。反乱もほとんどありませんでした。ですから、江戸末期に起きた大塩平八郎の乱は有名です。インパクトのある名前ですよね。 この大塩平八郎に関しては、身長がとても大きかったとか、塩漬けにされたとか、そんな噂が飛び交っています。果たして、本当なのでしょうか?調べてみました。 大塩平八郎の身長は2メートル超えって本当!? 一つ目の噂。「大塩平八郎の身長は2メートル17センチあった」というもの。 結論を言いますと、これは信憑性が乏しいです。 「尺」の単位計算ミス! 「大塩平八郎の身長が2メートル17センチあった!」という噂が出回っています。しかし、発育の良い現代でさえ身長2m越えは珍しいことです。まして江戸時代となると、ちょっと疑わしいですね。 で、ひとつ考えられるのは、単位換算の段階でのミス。 江戸時代に用いられていた長さの単位は「尺」なので、大塩平八郎の身長に関する史料があったとすれば「尺」で表記されていたはず。 ここで気を付けたいのは、「尺」にはいろいろあったということです。「曲尺」の他に「鯨尺」、「竹尺」、「鉄尺」などなど。煩雑だったので明治政府は「曲尺(かねじゃく)」に一本化しました。 曲尺では 一尺=30.3㎝ となっていますが、鯨尺では 一尺=37.8㎝。例えば、曲尺で測った数値を鯨尺でセンチメートルに換算すると約1.25倍大きくなってしまいます。逆算すると、大塩平八郎の身長は 217㎝ ÷ 1.25 ≒ 174㎝ となります。 これでも、当時としては大きい方ですね。 大塩平八郎は中肉中背? ところが、出所が明らかでない217㎝という数字よりも信憑性の高い史料があります。大塩平八郎が乱に失敗して逃亡している時、町奉行所が全国に手配書を配っていますが、その中に容貌に関する記述があるのです。 最大の特徴であるはずなのに「背がデカい」って、どこにも書いてないですね。それどころか「常躰中肉」。これは174㎝ さえも怪しいところです。 大塩平八郎は塩漬けにされていた? 二つ目の噂は、「大塩平八郎は塩漬けにされていた」。こちらは本当です。 大塩平八郎の他にも塩漬けにされた人がいた!

  • 古墳で最大はどれくらい?中ってどうなっているの?

    日本でたくさん発見されている古墳。大きくて有名な古墳は立ち入り禁止になっている場合が多いですから、人が上っている写真もなく、大きさが分かりにくいです。 最大の古墳はどのくらいの大きさなのでしょう。また中がどうなっているかも気になりますね。 そこで、古墳の種類(形)ごとの最大と、古墳の中について調べてみました。 古墳で日本最大のはどれくらいの大きさ? 古墳で最大の物はどれくらいの大きさなのでしょう?古墳は、その形でいくつかに分類されます。その中の円墳、方墳、前方後方墳、そして一番有名な前方後円墳で、形ごとにトップ3を見ていくことにしましょう。 円墳 底面が円形の古墳です。数は最も多く作られています。円なので直径で比較します。 1位:【直径110m】富雄丸山古墳(奈良県奈良市)※以前は86mとされていましたが、近年の航空3次元測量調査でトップに浮上。 2位:【直径105m】丸墓山古墳(埼玉県行田市) 3位:【直径95m】小盛山古墳(岡山県岡山市) ※造り出しという突出部を含めると108mとなり、2位に浮上します。 なかなかの接戦です。 方墳 底面が方形のもの。円墳の次に多く見られます。方形なので辺の長さで比較します。 1位:【一辺85m】枡山古墳(奈良県橿原市)※被葬者は第10代崇神天皇皇子の倭彦命(宮内庁治定) 2位:【一辺78m】龍角寺岩屋古墳(千葉県印旛郡栄町) 3位:【75m×55m】葉室塚古墳(大阪府南河内郡太子町葉室) 円墳より若干小さめですね。 前方後方墳 大きさの違う方墳が2つ、くっついた形。墳丘長(古墳の丘の長さ)で比較します。 1位:【墳丘長183m】西山古墳(奈良県天理市) 2位:【墳丘長144m】波多子塚古墳(奈良県天理市) 3位:【墳丘長130m】八幡山古墳(群馬県前橋市朝倉町) 2つくっついた感じなので、大きくなりますね。 前方後円墳 円墳の前方に方墳がくっついた形で、上空から見ると鍵穴のように見えます。これも墳丘長で比較します。 1位:【墳丘長525m】大仙陵古墳(大阪府堺市)※被葬者は第16代仁徳天皇(宮内庁治定) 2位:【墳丘長425m】誉田御廟山古墳(大阪府羽曳野市誉田)※被葬者は第15代応神天皇(宮内庁治定)

  • 古墳とは?古墳の意味や種類について

    日本のいたるところで発見されている古墳。前方後円墳だけで、5000基前後発見されています。まだ、発見されていない古墳もある筈ですから、おそらく数十万基あるのではないかとも言われています。 古墳とは、一言でいえば昔の偉い人のお墓。とても大きな物もありますから、権力者のお墓であることは間違いないですね。 まずは古墳の意味について考え、内容や種類(形)について見ていくことにしましょう。 古墳の持つ意味ってなんなの? 結論から言うと、リーダーや王を尊敬の念を持って埋葬することですね。 またこれまで同様に、守ってほしいとか、体は滅んでも魂や心までは滅びずずっといてほしいという想いも込められています。 そもそも古墳が生まれた歴史的背景 農業が始まって、人々が共同生活するようになると、組織的な活動のためにリーダーを決める必要が出てきます。優れたリーダーが選ばれると、集落は繁栄し、リーダーは感謝と尊敬の念を一身に集めたことでしょう。 しかし、いくら優れたリーダーでも、いつかは亡くなります。リーダーへの敬意が大きいほど、弔いの方法も特別なものになっていったはずです。そこには、いつまでも死なないで欲しいとか、死んでからも今までと同じように守って欲しいという気持ちも込められていったはずです。 それは、洋の東西を問わず、どこでも同じではないかと思います。 海外でいうピラミッドに近い 大きな墳墓として世界で一番有名なのは、エジプトのピラミッドではないでしょうか。いつでも生き返られるように王の遺体をミイラとして残し、大きな墳墓の中に安置しました。 秦の始皇帝陵もとても大きな墳墓です。永遠の命を求め続けた秦の始皇帝は、自分の権威をいつまでも示すために、大きな陵墓を築かせたのかもしれません。 日本の古墳も少なからず同じような事情で造られたと考えて間違いないでしょう。 ただ、海外の場合はお墓だけではなく、城塞(軍事施設)や都市の発展の方にも注力しています。日本の場合は古墳造りにのみ注力し、その大きさや数の点では群を抜いています。 その国民性は現在まで引き継がれているような気がします。 中国文化が古墳を終わらせた ヨーロッパも、もともとは日本と同じように墓づくりにのみ熱心な傾向があったようです。それを終わらせたのはローマ支配の拡大でした。

  • 平清盛の死因や子孫は?死因が熱すぎて近づけないとか異常(笑)

    今からおよそ900年前の平安時代。政治の実権は、貴族から武士へと移っていきました。武士として最初に頂点を極めたのが平清盛です。厳島神社を建てた人としても有名ですね。「平家にあらずんば人にあらず」という言葉まで残した平家ですが、清盛の死と共に急速に衰えました。 ところで、急死した清盛の死因とは何だったのでしょう?また、清盛の子孫は現在も生きているのでしょうか? 平清盛の死因は? 平清盛の死因は熱病ということになっています。しかし、『平家物語』に描かれた清盛の最期の描写が余りにも壮絶です。誇張の分を割り引いても凄すぎるので、ちょっと考えてみたいと思います。 清盛の最期(平家物語) 清盛の最期について、『平家物語』の記述は壮絶です。以下、関連個所を抄訳します。 は?死因の「あっち死に」ってナニ? ということで、清盛は「あっち死に」で亡くなったようですが…「あっち」と言うのは、現代医学で言うところの「どっち」なのでしょう? それにしても清盛は熱過ぎですね。周囲4、5間と言うと1間が1.8メートルとして7.2~9メートル。こんなに近づけないほど熱いのは、焚火だとしても結構大きい場合です。これが本当だとしたら、燃えていたとしか考えられません。 「身体に当たった水は炎となって燃え、黒い煙が屋敷中に充満して、炎がうずを巻いてのぼった」という記述を素直に受け止めると、これは焼死体の消火じゃないか!! なので、なぜか誰も主張していないようなのですが、「清盛は何者かに焼き殺されたのかもしれない」という可能性を指摘しておきたいと思います。 焼き殺しの犯人は妻? とは言え、亡くなる二日前の閏2月2日に妻の時子に、しっかりした言葉を残しています。これが病死の根拠です。 その言葉とは、 前半は若干謙虚ですが、後半は頼朝への恨み。これをもって、清盛は亡くなるまで頭はしっかりしていたということになっています。 これがサスペンス劇場であれば、高熱を発している人間の言葉にしてはしっかりし過ぎていると考えるでしょう。妻が捏造したのではないか?そして周囲の意識を頼朝に向けさせた…。つまり、妻が犯人!という結末が一番有りがちのようですが、テレビの見過ぎでしょうか。 清盛が病死だとしたら、どんな病気?

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