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2017/03/09

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  • 私の自殺願望

    毒親に育てられた私は、いま精神疾患にかかっています。お医者さんからは、薬をちゃんと飲んでいれば再発せずに済む、と言われていますが自分の病気をちゃんと受け入れる事はとても難しい事だ、と思います。病気の事を義母に打ち明けた時に、ひどく傷つく言葉をかけられたので、以来他人に自分の病気を打ち明けるのが怖いです。とはいえ信頼できる友人数人にはオープンにしています。先日、ひどく症状が出てしまい、自傷行為をしてしまいました。自殺願望もあります。そんな時に少し年上の友人がわざわざ訪ねて来てくれ、私の話を聞いてくれました。それだけでも本当に心がホッとしました。私が一通り自分のことを話し終えると、彼女が彼女自身の話をしてくれましたが、実は彼女も同じように自殺願望と戦っていると打ち明けてくれました。せっかくいただいた命なのに死にたい...私の自殺願望

  • 母を気持ち悪いと思った瞬間

    母子家庭の場合、母親が子供を八つ当たりの矛先にしたり、はたまた相談相手やカウンセラー代わりにしてしまうことが多い。しかし子供の方からすれば、そんな能力もないのに時には黙って受け止め時には優しくなだめなければならないのだから、たまったもんじゃない。自分の限界以上の事をさせられるので感情や思考がパンクし、アダルトチルドレンと呼ばれる大人になったり精神疾患を抱えたりするのである。私と母親もまさにそんな関係であった。父親との別居以来、何かと私を頼りにしてきた母親。周囲からも「お母さんを助けて支えてあげてね」という善意からの言葉をかけられるので、それが当たり前だと思ってきた。「お母さんは間違ってないよ」「お母さんはすごくよく頑張っているよ」という言葉を何度となく言わされた。母は子供にそう言われないと安心できない精神状態だ...母を気持ち悪いと思った瞬間

  • 妊娠、出産と聞くと沸き上がる複雑な感情

    すっかりブログ放置。まぁ、ブログなんてそんな位置にあるぐらいが精神衛生上良いと思う。と、言うのも毒親と連絡を絶って数ヶ月が経ち、自分の精神状態が非常に良ろしいのでブログをすっかり忘れていた。次に顔を合わせる時の事を考えると恐怖がこみ上げるが。。。私は既婚子ナシである。自ら選んで子ナシなのであるが、それでも妊娠や出産の知らせを聞くと心がざわつく。私が子供を持たない選択をしたのは多々理由があるが、やはり自分が育った背景に大いに関わりがある。同じ歴史を繰り返してはならない。これ以上不幸な親子関係を世の中に生み出してはいけない。毒親に我が子を抱かせたくない。自分が毒親になるかもしれない可能性を消したい。などなど。もしも自分が健全な家庭に生まれ育っていれば、何の葛藤もなく自然な事として子供を設けて育てたのであろう、と思う...妊娠、出産と聞くと沸き上がる複雑な感情

  • 恐怖の外食

    外食するとなると、母は、「あなたは何を食べたい?」と聞く。しかし私がそれに対し素直に「ラーメン」などとと答えると、母の機嫌が一気に悪くなる。それは母が求めていた答えでは無いから。なので正解は、「私は何でも良いから、お母さんが食べたいもので良いよ。」であった。しかし外食の本当の恐怖はここから始まる。レストランで出された物が、母の好みではなかった場合、母の顔が鬼の形相になるのだ。そして、「あなたはこれを美味しく食べれるのね」と、軽蔑の目で私を見る。その母の目が、本当に嫌悪の感情がこもっているため、ものすごく怖かった。自分が美味しく無いと思った食べ物を食べる私まで気持ち悪いと言わんばかりの目線である。それで殴られたりしたわけでは無いが、思春期の私の心を傷つけるには十分すぎるほどの効果であった。いまだに母親と食事を共に...恐怖の外食

  • 私が母のカウンセラーだった

    祖父母の家を出て、母と兄と私の3人暮らしになった。私は再び転校。その頃から、兄の私に対する暴力はさらにひどくなっていった。包丁を持って殴りかかって来ることもあり、逃れるためにファミレスで一晩過ごさなくてはならない事も度々あった。兄という暴れまわる敵がいたゆえに、当時の私と母は仲が良かった。一生懸命頑張るシングルマザーと、それを支える娘、という周りから見たら理想的な関係。そうした周囲からの「お母さんを助けてあげてね。」という言葉も重くのしかかり、母が悩んだり落ち込んでいれば話を聞き、励ますのが私の大きな役目であった。にほんブログ村私が母のカウンセラーだった

  • 写真の行方

    この季節になると、ふと思い出す事がある。それは写真についてである。この時期は卒業、入学などの人生の節目であり、写真を撮る事が多い。写真館などではないが、私や兄も写真を撮ってきた。しかし母の家には、私と兄の幼少期の写真しかない。私たちが大きくなってからの写真はダンボール箱に入れられ、押入れの奥底に眠っている。兄も私も結婚しているが、式の写真なども全てぐちゃちゃにダンボール箱の中に入っている。それとは対照的に幼少期の写真は大事に額に入れられ、飾られてあるので、大人になった自分を否定されているように感じるのである。飾られてある写真の頃、よく母から「あなたは一生ママの側にいるのよ」と言われていたのを思い出す。にほんブログ村写真の行方

  • 私は私、母は母。

    解毒を目指す上で参考になればと思い、こんな本を読んだ。「私は私、母は母。」表紙にある言葉がグッと心に来たので購入に至ったのだが、結果としては読んでよかった!いろんなタイプの母親のケースが取り上げられており、自分の場合にバッチリ当てはまる物はないもののところどころで「うちと一緒だ」と思い共感できるものがある。そのうちの一つのケースでは、表面上は普通の親子のやりとりなのだが、母親のある言葉をきっかけになんとも言えない嫌悪感を感じ始めてしまう女性の事が書かれてあった。母親に対する嫌悪感を抱く自分を肯定していく上で、自分の他にも同じような感情を抱く人がいる事を知るのは大きな力になる。それぞれのケースでの着地点は、縁を切るもしくはルールを決めて距離を取るものがほとんどである。欲を言えば、もうすこしどのように距離感を取って...私は私、母は母。

  • 祖父母の家を出て行くきっかけ

    まだ私たちが祖父母と暮らしていた時の事であるが、また兄が家で荒れ出した。きっかけはささいな事であったと思うが、とにかく大声を出し暴れていた。すると見かねて止めに入った祖母を兄が押し返し、祖母がその場に倒れた。孫からそんな仕打ちを受けるとは思ってもみなかった祖母はショックを受け、その日から一週間近所に住んでいた伯父(つまり祖父母にとっての長男)宅に泊まった。おばあちゃんにそんな事をするなんて!と当時の私は兄に対して怒りも覚えたが、と同時に、私は身体中アザができるぐらい殴られているのに、おばあちゃんは押し返されただけで騒ぎになるんだな、と不公平にも感じていた。この出来事がきっかけで母と兄と私は祖父母の家を出、兄の学校の近くにアパートを借りて暮らすようになった。にほんブログ村祖父母の家を出て行くきっかけ

  • 転校生は孤独

    父親に殺されかけた私と兄を連れ、母はとりあえず実家に身を寄せることにした。兄は受験で受かった私立の中学にそのまま入学し、祖父母の家から通った。私は祖父母の家の学区の公立小学校へ編入した。中途半端な時期の転校生であったため、クラスに馴染むのには時間がかかった。家庭内も混乱の時であったし、私の方も友達を作っていく気分ではなかったのかもしれない。なかなか友達ができなくて学校で寂しい日々だったのだが、母親はもちろん祖父母にもそんなことは言えず、楽しく学校に通っているフリをしていた。祖父母との生活は嬉しかったが、その頃から兄が荒れだすようになった。特に私との兄妹げんかが始まると、誰も手をつけられないほど私を殴る蹴る。父親からの暴力から逃げられたと思っていたら、今度は兄からの暴力を受けるようになっていった。にほんブログ村転校生は孤独

  • 忘れたくても忘れられないお風呂での出来事

    ある時、まだお風呂に入っていないという何でもない理由で父親が怒りを爆発させた。その時もだいぶ酔っていたのできっかけは何でもよかったのだろう。素直に言うことを聞かないと、もっとひどいことになる事を短い人生経験で理解していた私は、すぐに脱衣所に向かい服を脱いだ。素直にさっさとお風呂に入って寝れば、これ以上殴られることはないだろう、と思っていた私だったが、この度は違った。父親が脱衣所にやって来て私の髪の毛をつかみ、そのまま私の頭を何度も浴槽に沈めた。何が起こったのか理解することができなかった。苦しかった。痛かった。怖かった。私はまだ8歳であったが、自分は死ぬのだと思った。さすがに死にそうになっている私を見て母が助け出してくれた。そして母は私に服を着せ、兄と私を連れてタクシーに乗り、母の実家へ行った。それ以来私は父親に...忘れたくても忘れられないお風呂での出来事

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