chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
逍遥亭主人
フォロー
住所
大網白里市
出身
佐川町
ブログ村参加

2017/02/13

arrow_drop_down
  • 『老子』 マネジメントとは何か

    一時期、フランスの経済学者トマ・ピケティ博士の著書『21世紀の資本』が評判であった。 題名からして、なかなかに挑戦的である。 カール・マルクスの有名な『資本論』は、原題をそのまま訳すと『資本』である。 ピケティ博士は、マルクス向こうを張った題名を付けたわけである。 『資本』という題名を『資本論』にしたのであれば、何故、『21世紀の資本論』という題名にしなかったのであろうか・・・・。 その方が、本の位置づけも明確になるのではないかと、僕は思う。 ところで、ピケティ博士が言っていることは、「格差の問題」である。 このことを、データで実証的に示したことが、博士の大きな功績らしい。 東洋の古典は、この…

  • 『管子』 あいつは良い奴だから昇進させよう

    経営者は、三つのことをしっかりと視ておかなければならない、という。 一つは、地位の高い者が、その地位にふさわしい徳(人間性)を持っているのか。 二つは、業績を挙げた人間に、その業績にふさわしい報酬を与えているのか。 三つは、能力や適性に見合った職務を与えているのか、である。 この三つがきちんと出来ていないと、組織は乱れると、管子は言っている。 二つ目と三つ目については、誰もが問題意識を持っていると思う。 しかし、徳(人間性)と地位という観点は、どうだろう。 多くの組織では、業績を挙げた人間が出世していく。 もちろん、徳(人間性)をどうでもいいとは考えてはいないだろう。 ただ、それを、昇進の際の…

  • 『列子』 自然の凄さ

    好きな話の一つである。 玉を細工して、楮(こうぞ)の葉を作る人がいた。 三年を費やして完成すると、細かな毛や微妙な形まで本物そっくりで、実際の楮の葉の中に混じると、見分けがつかなかった、という。 この人は、ついにその匠の技で、宋の国に雇用された。 この話を聞いた列子は、 「葉を一枚作るのに三年かかるようでは、世の中の樹木には、ほとんど葉が無いことになるだろう」 と述べた。 つまり、人智やその技は、どこまでいっても自然の力には及ばないという話である。 確かに、そう思う。 最近増えている災害などを考えても、自然に対しては、「想定外」が常に「想定内」なのである。 出典(明治書院)新釈漢文大系22『列…

  • 『論語』 転職しなかった人

    こんな会社は辞めてやる、誰でも、一度や二度は考えたことがあるだろう。 そして、実際に辞める人、辞めない人がいる。 辞めて成功した人もいれば、失敗した人もいるし、辞めずにうまくいった人もいかなかった人もいるだろう。 柳下恵(りゅうかけい)という、古典の中では有名な人がいる。 魯の国で、法を司る仕事、今でいえば検事か裁判官のような仕事に就いた。 しかし、清廉な人柄であり、敬遠されて左遷された。 しかし、またその職に任命され、また左遷された。 結局、三度も任命されては左遷された。 ある人が、 「いい加減、魯の国に仕えるのは辞めたらどうか」 と言うと、こう答えた。 今の時代、正しいことをすれば、どこの…

  • 『孟子』 仁義と利益

    論語の冒頭は、 「学びて時にこれを習う、またよろこばしからずや。朋(とも)あり、遠方より来る、また楽しからずや」 と、実に淡々と始まる。 これに比べると、『孟子』の冒頭は劇的である。 それは、梁の恵王という君主との謁見から始まる。 恵王は、孟子に尋ねる。 「老先生は、遠方より我が国においでくだされた。きっと我が国の利益となることを教えてくださるのでしょう」 ごく真っ当な問いかけである。 ところが、孟子は、こう応えるのである。 「王よ、なぜ利益のことを問うのですか。大切なことは、ただ仁義だけです」、と。 ドラマの山場のような風景である。 私の仕事は、企業のコンサルタント、社員教育の講師である。 …

  • 『箸休め』 起きて半畳寝て一畳

    若いころは大きな家が欲しいと思っていた。 住宅展示場で見る広いリビングには随分と憧れたものである。 そして、それなりの家にも住んできたが、最近では家は小さい方がいいなと思うようになった。 その理由の一つとして、数年ほど前に、上野の東京国立博物館で開催されていた「北京故宮博物院200選」を見に行った時に印象に残ったことがあったからである。 商時代の玉や青銅器など、数々の名品が展示されていたが、私が一番興味を覚えたのは、中国史上、屈指の名君と称えられた乾隆帝の書斎であった「三希堂」を原寸大に復元したものであった。 三希というのは、王羲之の「快雪時晴帖」、王献之の「中秋帖」、王珣の「伯遠帖」という世…

  • 『韓非子』 人をどこまで信じればいいのか

    韓非子とマキアヴェッリは、よく似ている。 社会が乱れ、裏切りや陰謀が渦巻くようになると、こういった考え方をせざるを得ないのだろう。 韓非子は言う。 君主は、人を信じてはならない、と。信じることが、身を滅ぼす原因となる。 人を信じれば、人によってコントロールされるようになってしまう。 例えば、臣下は、君主に対して肉親の情で仕えている訳ではない。 君主の方に権威と権力があるから、仕方なく從っているのである。 であるから、臣下は常に君主を観察して付け込もうとする。 ところが、君主の方はといえば、自分の地位が安泰だと考え、臣下を信じて疑おうとはしない。 臣下を信じた結果が、臣下に権力を奪われたり、場合…

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、逍遥亭主人さんをフォローしませんか?

ハンドル名
逍遥亭主人さん
ブログタイトル
天下の小論
フォロー
天下の小論

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用