「気をつけてください。踏んじゃう」Kさんが小声で言った。細い路地には、まるで誰かの記憶の断片のように、ラクダの落とし物---フンがあちこちに転がっていた。ぼくらは、それを避けるように慎重な足取りで歩い
クソ野郎が、海外旅、フルマラソン、登山、一眼レフ、遺跡などを自虐的にクソ書いています。
「気をつけてください。踏んじゃう」Kさんが小声で言った。細い路地には、まるで誰かの記憶の断片のように、ラクダの落とし物---フンがあちこちに転がっていた。ぼくらは、それを避けるように慎重な足取りで歩い
ルクソールから乗ったカイロ行きの機内ではパンとコーヒーの軽食が出て、ぼくにとっては十分すぎるほどの休憩時間となった。予定通り1時間半ほどの旅で到着。ぼくにとっては、一週間ぶりに「戻ってきた」という感覚
“永遠には続かないけれど、確かに心を震わせる一瞬”人生において、旅はそんな位置なのかもしれない。旅というものは、ぼくにとって、一つの作品だと思っている。構想を練るように計画を立て、筆を走らせるように日
極限の疲労の中、僅か5時間ほどしか寝ていないのに、体は軽い。8時頃に朝食会場へ行くと、まるで約束でもしていたかのように日本人の宿泊者たちが集まり始めた。皆、昨日はどうだった、今日は何をする、など雑談と
ナイルの夜風は、夜になってもまだ熱を帯びていて、どこか砂の匂いがした。ソアとミリーの泊まるホテルへ、ぼくは立ち寄った。宿へ向かう途中だった。彼女たちのホテルは、どう見ても一流。エントランスのドアを抜け
ルクソールの夜が、ゆっくりと深くなっていく。「マクドナルド ルクソール神殿前店」とでも呼ぼうか。ぼくらは、人の波にのみ込まれる前にマックの中へと逃げ込んだ。 通りの喧騒とは違い、驚くほど店内は空いて
ルクソール神殿の門をくぐると、ぼくは静かな畏れを抱いた。エジプトの遺跡をいくつも巡ってきたが、この神殿はまた別格だった。天井はなく、空へ向かって聳え立つ巨大な支柱の群れが、ぼくを迎え入れる。ファラオの
ルクソール神殿前で何か大晦日のイベントをやっていると女子3人組から聞いていたため、向かってみることにした。巨大なナイル川に沿って歩いていると、ライトアップしている巨大な遺跡が見えてきた。
わずか5分程度だったろうか、ナイル川を渡るオンボロの公共フェリーに降り、宿のある東岸へ戻ってきた。戻って来たとはいえ、昨夜ルクソールに着いたばかりのぼくは行く先の全てが初めての場所。地図を見て現在地を
王家の谷から駐車場へ戻ると、バスでもなく、車でもなく、一台の馬車が待っていた。馬の手綱を握るのは男と、その傍らに立つ幼き息子。「楽しめたか?」 運転手は、馬の腹部を撫でながら言った。 ぼくは言葉少な
馬車に乗るのは、考えてみれば初めてだった。 いや、もしかすると幼い頃、榛名湖の観光馬車に乗ったことがあったかもしれない。だが記憶にはないし、そもそもケチな親父が「ただ乗るだけの経験」に金を払ったとも
夜のルクソールに降り立ったその日、ぼくは、宵闇に紛れるごとく日本人歓迎宿「ビーナスホテル」に足を踏み入れた。予約したはずのシングル個室は、今日は空いていないとのことで4人部屋へ移され、思いがけぬ広さに
12月30日。もし日本にいれば、あの、日本独特の年末の空気感に身を委ねて過ごしていただろう。でもぼくは今、エジプトにいる。8日間の大冒険の只中に――。午後8時5分。列車はほぼ定刻通りルクソールに到着し
発車まで二十分ほどあった。しかし、電光掲示板などという便利な代物のないエジプトの駅だ。どのホームが目的地へ続くのか、どの列車に乗ればよいのか、皆目見当がつかない。早めにホームへ行って、探した方が良さ
アスワンの街にてタクシーはアスワンの街中を静かに滑り、駅へと向かっていた。街並みは平坦でありながら、通り沿いに軒を連ねる商店が賑やかで、どこかのどかな活気を湛えている。地元の人々が行き交うその様は、異
イシス神殿のあるフィラエ島は、わずか一周一キロほどの小さな島である。そのほとんどを占める神殿は、まるで島そのものが神域であるかのような錯覚をぼくに与えた。舟を降りた瞬間、微かな風が頬を撫でた。ナイル川
彼は、ぼくよりも一足早く、「タクシーを呼ぼう」と短く告げ、手際よくアプリ「カリーム」を操作し始めた。その指先は迷いなく、馴染んだ手順を辿るように、画面上のタクシー候補を探していく。その姿にぼくは出遅れ
10時の出発の時間がいよいよ迫っていた。アブ・シンベル神殿を背にして、ぼくは砂漠の風に吹かれながらバスへと向かった。その途中、ふとした偶然で再び武田夫妻と出会う。話の続きをしながら、土埃にまみれた道を
アブ・シンベル神殿の前に立ったとき、その威容は言葉に尽くしがたい感慨があった。陽光を受けて燦然と輝く巨大なファラオ像、その目の前でカイロの宿で出会った武田氏夫妻と偶然に再会したのも、何か目に見えぬ糸に
朝8時、アブシンベルの街へ足を踏み入れた時、ぼくの目を引いたのは、砂塵にまみれた看板だった。「神殿案内」の文字が、不意に胸の奥をざわめかせる。――もうすぐだ。道中の車窓から眺める景色は、無限に広がる砂
まだ夜の帳が降りたままの室内で、目覚めたのはアラームが鳴る前だった。時刻は3時18分。睡眠は5時間ほどだったが、どこか覚醒したような気分だった。興奮とも不安とも言えない感情が胸の奥をざわつかせ、再び眠
アスワンの宿「デイビッドホステル」は、町の中心地からは遠く離れた辺鄙な場所に建ち、そこには観光客の影などなかった。日の入りはまだ18時を越えない頃だったけれども、冬の夜の帳はすでに濃く垂れこめ、頼りと
アスワン行きのフライトは、案の定、遅延した。
朝、目覚めてカーテンを引き開けると、青空の下、あのピラミッドが静かに佇んでいた。
ツタンカーメンの財宝たちを見終え、時刻はもうすぐ16時になるところだった。思ったより早く午後の予定をこなしてしまったため、さて、どうしようかと次の行動を考えることにした。カイロ博物館内のセンターホール
スフィンクス側ゲートを出て、タクシーを呼びやすい大通りまで向かう。ケンタッキーを食べ損ねたため、仕方なく通りにある商店で何か買うことにした。人ひとりがやっと通れるほどの通路。片側には飲み物が入った業務
三大ピラミッドを背にしながら、広大な荒野を歩む。この荒野は、まるで海原のごとく広がり、展望スポットへと誘っていた。荒野の中での距離感は曖昧であるが、メンカウラーのピラミッドからおおよそ三百メートルほど
どこの国の、どの遺跡を訪れても、いつも同じ感慨に打たれる。「本当にあったんだ……。」
足元の泥濘やごみ屑に目を凝らしつつ、私は宿へと向かって歩みを進めていた。今にも崩れそうなボロ車が埃と黒煙を撒き散らしながら通り過ぎ、その脇を痩せ衰えた猫が黙々と歩いている。別段、ゴミ捨て場でもないはず
七時前の空は未だ暗く、天気の悪さも相まって一層の陰鬱さを漂わせていた。道路のアスファルトは埃に塗れ、雨に濡れた光景が明らかに見て取れる。小雨は断続的に降り続いているようだった。それにしても、エジプト到
アラブ首長国連邦、首都のアブダビ空港。深夜3:05発カイロ行き。搭乗ゲートを通過し、シャトルバスで飛行機まで行く。
16:55 成田空港を出発。経由地アブダビまでのフライトは11時間35分。何をいくらしても飽きるほどの時間がある。今回の旅に持っていった本は、沢木耕太郎さんの新作「天路の旅人」。いつもなら本をそのまま
「新世界」という言葉に出会ったのは、中国、上海だった。 近未来的なビルが林立しながらも、歴史的なレンガ作りの建物が残り、歩行者天国の目抜き通りにはブランドショップが並んでいる。反面、少し路地に入れば今
最終日。夜中、一度トイレで目が覚めた。疲労で深く眠っていたためか、まるで水の中から急浮上したかのような浮遊感と共にハッとして、ここはどこだ?!と一瞬驚く。海外へ旅に来て、終盤の疲れている時、ぼくはよく
ミニバスに揺られ、チェンイーの街を抜けていく。時刻は9時。ぎりぎり夕飯は何かありつけるだろうか。香港中心部のベッドタウンであるここチェンイーは、香港らしく超高層マンションがメイン通りに立ち並び、それ以
香港へのバスチケット売り場へ。当然、ここはマカオなのでマカオ通貨の「パタカ」支払いが一般的。ただ、日本でいうSuicaの「オクトパスカード」の残高でも買えるとの情報は仕入れてあったので安心ではあった。
聖ポール天主堂の階段下にある石のベンチで、休息を兼ねて座り、少しの間柿ピーをつまむことにした。日本からの行動食として持ち込んだ柿ピーは、空きペットボトルにユニクロで調達した水とともに口にし、ただで飲み
セドナ広場は「悪魔の城」の見た目のホテルリスボアから600mほどで散策しながら十分に歩いていくことができた。それまでの中華的な下町の雰囲気が一気に開け、噴水を取り囲むようにコロ二カルな建物、石畳が広が
SUNSホテルまでの車窓は異様だった。
観光客にとって、香港からマカオへの行き方は大きく2つあるようだった。1つはビクトリア湾から高速船に乗っていく。これは昔からある方法だ。2つ目は2018年に開通した海の上を55kmも貫いて走るビックブリ
香港には朝食を外で食べる文化があるらしい。つまり、外食だ。
香港島から戻ってきたぼくは、まずは昼間に予約したホテルにチェックインする。明日のマカオへの移動を考え、バスターミナルへできるだけ近い駅に取った。レセプションの対応もよく、しかも安く、比較的綺麗で個室シ
朝、6時半。2時間程度の時差ならほぼ感じず、翌日から日本と同じ時刻に起きことができた。外はすでに晴れていて明るかった。初日の夜はまあままよく眠れた。どうやら深夜にこの宿に到着した客がいたらしく、部屋の
空港からバスに乗り、地下鉄のターミナル駅に到着。そこから地下鉄に乗り、市街地へと向かった。ゲストハウス最寄り駅の手前2駅で下車。いよいよ香港の街だ。「ネイザン・ロード」と呼ばれるメインストリートに出口
いつかは行きたいと思っていた。「いつか」なんていう、「いつ来るかも分からない」のん気な表現をするくらい、私にとって香港は優先順位の低い旅先であった。しかし。元々行きたかったブルガリアの経由地が香港だっ
バス停に到着。数名の客が小雨をしのぐように屋根の下のベンチに座っていたが、目的のバスがやってくるたびに一人、また一人とバスに乗り込み去っていった。私ひとりだけになり、理由もなく途方に暮れる。すっかり首
マフトーナが去っていく、その姿が視界から消える前に、私も静かに背を向け、歩みを始める。僅かながらも胸の奥に広がる寂しさを、帰国の気持ちに戻す必要があった。さて、これからどうしようか。小雨が交じり合い、
日本人墓地を後にした私は中心地街へ戻るために、バス停へとやってきた。天気は悪く、曇り空で周囲も決して明るくはない。しかし、まだ12時を回ったばかり。
私は、幼少期から過去の日本が犯した過ちの一つ、太平洋戦争について興味を抱いてきました。特集番組や様々な機会を通じて、その一端を学び続けてこれたように思います。振り返れば、戦争への私の興味は、人間、特に
黎明の5時34分。
夜中、トイレで目が覚めた。行こうかどうしようか、ベッドでまだぼんやりしているとちょうどたまたまどこかの駅で停車した。見学ついでに私は起き上がって行くことにした。どこの駅だか分からないが、まだまだ首都ま
無事にブハラの駅に到着する。
荷物を取りにゲストハウス「Rumi」に戻り、部屋の荷物をまとめる。「さよなら。ありがとう。また、いつか来るよ。」過ごした宿の部屋を出る時、私は必ずそう口にする。感謝の気持ち、そして自分の寂しさを紛らわ
ブハラの観光地街の中心部の池「ラビハウズ」まで戻ってきた私は、ATMにて今夜と明日一日分の現金を引き出した。食事され摂れればいいので3000円くらいのみだったろうか。今夜、ブハラを経つ。最後に遺跡群を
大通りを歩いていると、昔日本にあった「ドライブイン」的な見た目の簡素な複合施設があった。どうやらATMがあるようなので、国際キャッシングで現金を下ろすことにした。ちゃんと英語表記に変更もできる。ただ、
清水さんを見送った後、私はブハラの観光街から離れた庶民のバザールを観に行ってみた。「デフコン・バザール」バザールの周辺には自転車の後ろにバーベキュー台を積んだような簡易な露店があって、焼き鳥のような肉
ブハラ2日目。朝6時台には目を覚ましたが、まだ暗く、しかも寒いのでベッドの中で過ごす。朝食付きのはずなので、7時過ぎに受付のある建物へ行ってみたが誰もいないし、電気も点いていない。他の客がいるだろうが
「カラーン・ミナレット」をあとにしてアルク城のほうへ向かう。
ブハラのゲストハウス「Rumi」に到着。日本の武家屋敷のような大きな門を開けて入ると、コンクリートの庭の奥に二階建てのゲストハウスがあった。さらに建築中の建物もあり、外観で見るよりも規模がずいぶん大き
時刻は15時10分。ブハラ駅に到着し、乗客が降り始める。私はバス停に案内してくれるという隣の女性の後をついて行くことにした。大勢の乗客と共に線路を横切って歩く。まるで戦国時代の戦のように、その大勢の客
比較的安全と言われる、タクシーアプリで呼ぶタクシー。それで乗ったとはいえここはウズベキスタンだ、何か起こるかもしれないし、無事に駅に着くまではやはり多少の緊張もあってソワソワする。
翌朝、8時を過ぎてもゲストハウス「フルカット」は静まり返っていて誰も起きてはこなかった。皆、遅くまで起きていたんだろう・・・。朝食をもらえるということだが、どうしたもんだろうか。
大晦日。時刻は午後9時半。 遠藤さんたちと食事を終えていったん帰宅する。ゲストハウスの鉄扉を開けて中庭へ入ると、闇の中に浮かび上がるように煌々と明かりの付いたホールでは何やら食事会が行われていた。
ライトアップされ、観光客でごった返すレギスタン広場にて遠藤さんと大森さんと待ち合わせる。どの店、そしてレストランも閉まっているが遠藤さんが宿泊するゲストハウス前にあるレストランは大晦日の今日も開けてい
サマルカンドでの2泊目の宿は、レギスタン広場からほど近い安宿通りにある1軒だった。「地球の歩き方」にも掲載されているゲストハウス「フルカット」。サマルカンドは新市街と旧市街とに分かれている。ここ旧市街
そういえば「シャー匕ズィンダ廟」では、おもしろいことがあった。オフシーズンに加え、コロナで観光客が激減していたのはウズベキスタンも例外ではなかったが、年末年始の休みを海外旅行に使う日本人は健在。ここ、
レギスタン広場を巡った後、次なる遺跡へと向かう。観光客で賑わうという有名なお土産屋通りを歩いていくのだが、驚いた。・・・・誰も歩いていない。そして、どのお土産屋も開いていない。どこかでお土産を観たかっ
レギスタン広場に3つあるメドレセ(古代の神学校)を巡っていると、おそらく観光客だろう、メドレセの2階のテラスにいる娘を下から母が慣れない手付きでスマホ写真を撮っていた。
アミール・ティムール廟を後にした私は、ウズベキスタンへ来た最大の目的であるレギスタン広場へ向かった。徒歩でのんびり歩いても10分ほど。グーグルマップをよく見て歩いていたが、途中、別の道に入って行ってし
地図を見ながら最初の目的の遺跡「アミール・ティムール廟」へと向かう。ウズベキスタンの年末は、どの家も朝は遅いのか、歩いている人はほとんどいないし、店も閉まっている。おそらく昨夜イベントをやっていたと思
おかやんInstagramの写真一覧。
朝、7過ぎに目が冷めた。曇りのせいか、外は暗い。顔を洗いに洗面所へ行って戻ると、飼い猫の子猫がついてきた。昨夜からなついてくれている。部屋で朝食にとチョコとパンを食べる。さて、今日はまず、歩いて数分に
サマルカンドでは「アミール ホステル」というゲストハウスを二泊取っていた。宿を変えると荷物の移動が大変だったり、土地勘が定着しないから。 入り口のカーテンが閉まり、電気も消えてはいるが、ドアのカギは
サマルカンド駅に到着すると、向かい側のベッド席の彼は「じゃあ」と笑顔を残して先に降りていった。日本並みの正確さで列車が到着。時刻は20:05すっかり夜だ。ホームに降りた大勢の乗客たちの波に乗って駅構内
車窓の、わずかに見える景色がゆっくりと動いてた。腕時計を見ると、確かに定刻だった。一体いつ発車したのかわからなかったほどスムーズな発車だった。気づいてはいたが、窓は二段ベッドの下にしかない。上の段の私
再び地下鉄に乗り、Kさんが今夜泊まるというゲストハウスまで一緒に戻る。私は15時台の鉄道でいよいよ、目的の都市「青の都 サマルカンド」へ向かう。タシケント駅とはまったく別の場所にある「タシケント南駅」
首都タシケント。金曜日のモスク。お祈りのために数百人、いや、1000人以上の男性たちが次々に集まり始める。通り過ぎる彼らに誰彼構わず女の子が近寄り、小さな諸手に持ったビニール袋を差し出す。見ていると
チョルスーバザールからほど近いモスクに行くことにした。これも、出発前から考えていた目的の場所の一つだ。もちろん、Kさんも一緒だ。グーグルナビで行くと、大通りを離れて路地を案内していた。舗装はされてはい
おかやんのInstagramの写真一覧。
玄関前でたまたま出会った同じゲストハウス宿泊の日本人Kさん。すでに一週間もここ、首都タシケントに滞在しているという。タクシーアプリが機能しない話をすると、そのKさんも当初そうだったようでその後共有
夜の、僅かな街灯と、時折やってくる車の明かりを頼りに水墨画のような淡い色味の世界を歩いていく。視界の中で唯一のカラーはスマホ画面。頼む、グーグルナビよ、合っていてくれ。この先に目的のゲストハウスがある
韓国ソウルからウズベキスタンの首都、タシケントまでの飛行機内のことはもうよく覚えていない。いろんなことを考えていたはず。読書、映画、音楽、寝るを繰り返しながら、その合間でいろんなことを、脳裏のスクリー
12月29日。念の為に目覚ましをかけていたが、アラームが鳴る前に目が覚めた。10月くらいからよく寝れない日々がもう3ヶ月も続いている。おかげでトレーニングもしていないのに痩せた。そして食っても太らない
私は日常生活程度の英語はなんとか使えるが、なにせここは韓国。コンビニの店員さんに英語を使うのもどうだろう。そこで私は「ポケトーク」のアプリを使うことにした。話した日本語をどんな国の言葉にも翻訳して音声
私の旅は「ドラゴンクエスト」や「ラピュタ」に大きく影響を受けている。あんな世界を見てみたい。ずっとずっと、今も、それが旅の大きな動機を占めてきた。そして今回、そこに初めて加わった動機があった。今までの
この旅は、そもそも存在しないはずだった。 2022年は1月に父が他界し、その後、母の入院があり、最後に自身にも大きな出来事が訪れた。 年末年始は今年ものんびり過ごそう、日本で・・・。 日本で・・・
翌日、ジャカルタの街中を歩いてみたが月曜ということもあり、ビルの隙間を行く大通りを歩くのはほとんどがスーツを着たビジネスマンだった。ラフな格好で歩く自分が恥ずかしくなるほど。デパートもガラガラ。博物館
来た道を宿へと戻る途中、鉄道の高架下に沿って伸びる薄暗い路地を見つけた。覗いてみると、どうやら庶民の家がならんでいるようだ。日曜日のためか、子どもたちの姿も見える。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ゲストハウス「テドゥーホステル」にチェックイン。
・・・・・・・・・・・・・・・八ヶ岳二日目。 翌朝、目覚めてテントを出ると、すでにオッチーが朝飯を作っていた。今日は、オーレン小屋から八ヶ岳の一つ、硫黄岳へと向かう。 6:30過ぎ、出発。その道
八ヶ岳ブルー見に行こうじゃねえかこの野郎② テント場のファンタジー編
夜中に目が覚めた。 やはり、か。 ぐぐお〜! ぐおおおお! 近所のテントからゴジラばりのイビキが聞こえる。 一度気になってしまうとなかなか眠れない。それどころか、どんどん目が冴えてくる。
・・・・・・・・・・・・8月の中旬。夜も11時に差し掛かろうとする頃、オレは八ヶ岳登山口の一つである「桜平」へと続く山道で車を走らせていた。整地されたアスファルト舗装が近未来に感じるほどここは荒れた砂
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・二日目の朝。朝日に染まる涸沢カールを見るために早めに起きたが、東の空に連なる雲があり、期待した景色は見れなかった。ドライカレーとパンで朝食。
北アルプス3190m峰 奥穂高岳登山② クソ野郎VSゲリラおじさん編
夜中。トイレに行こうとテントを出てオレは涸沢ヒュッテへと向かった。ヘッドライトを点け、石が歩きやすいよう平に敷かれた通路を歩く。起きてる登山者もいるようで、いくつかのテント内にはライトが灯り、光輝いて
一時間ほど鉄道に揺られ、ソロ駅から再びジョグジャカルタへと戻ってきた。
送ってもらったゲストハウス前でバイクタクシーのフィシュヌを見送ったオレは、日が暮れ始めた薄闇の中、ゲストハウスの門を開けた。キイ、と長年の錆ついた音が鳴り響く。 大昔、貴族の家だったというこの宿はど
↑ youtubeからスタート。ソロ・バラパン駅からバイクタクシーのおじさん、フィシュヌの運転で山の中腹にあるスクー寺院とチュトー寺院の2つの遺跡へ向かう。
ジョグジャカルタ三日目。 朝、部屋でテレビを点けてみると、首都ジャカルタにある独立記念広場「モナス」での独立記念行事の様子が生放送されていて、国旗の赤と白の衣装を纏った人々が映っていた。数日前のジャ
数年前に、ひとり訪れたインドネシア、ジャワ島、ボルブドゥール遺跡。
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「気をつけてください。踏んじゃう」Kさんが小声で言った。細い路地には、まるで誰かの記憶の断片のように、ラクダの落とし物---フンがあちこちに転がっていた。ぼくらは、それを避けるように慎重な足取りで歩い
ルクソールから乗ったカイロ行きの機内ではパンとコーヒーの軽食が出て、ぼくにとっては十分すぎるほどの休憩時間となった。予定通り1時間半ほどの旅で到着。ぼくにとっては、一週間ぶりに「戻ってきた」という感覚
“永遠には続かないけれど、確かに心を震わせる一瞬”人生において、旅はそんな位置なのかもしれない。旅というものは、ぼくにとって、一つの作品だと思っている。構想を練るように計画を立て、筆を走らせるように日
極限の疲労の中、僅か5時間ほどしか寝ていないのに、体は軽い。8時頃に朝食会場へ行くと、まるで約束でもしていたかのように日本人の宿泊者たちが集まり始めた。皆、昨日はどうだった、今日は何をする、など雑談と
ナイルの夜風は、夜になってもまだ熱を帯びていて、どこか砂の匂いがした。ソアとミリーの泊まるホテルへ、ぼくは立ち寄った。宿へ向かう途中だった。彼女たちのホテルは、どう見ても一流。エントランスのドアを抜け
ルクソールの夜が、ゆっくりと深くなっていく。「マクドナルド ルクソール神殿前店」とでも呼ぼうか。ぼくらは、人の波にのみ込まれる前にマックの中へと逃げ込んだ。 通りの喧騒とは違い、驚くほど店内は空いて
ルクソール神殿の門をくぐると、ぼくは静かな畏れを抱いた。エジプトの遺跡をいくつも巡ってきたが、この神殿はまた別格だった。天井はなく、空へ向かって聳え立つ巨大な支柱の群れが、ぼくを迎え入れる。ファラオの
ルクソール神殿前で何か大晦日のイベントをやっていると女子3人組から聞いていたため、向かってみることにした。巨大なナイル川に沿って歩いていると、ライトアップしている巨大な遺跡が見えてきた。
わずか5分程度だったろうか、ナイル川を渡るオンボロの公共フェリーに降り、宿のある東岸へ戻ってきた。戻って来たとはいえ、昨夜ルクソールに着いたばかりのぼくは行く先の全てが初めての場所。地図を見て現在地を
王家の谷から駐車場へ戻ると、バスでもなく、車でもなく、一台の馬車が待っていた。馬の手綱を握るのは男と、その傍らに立つ幼き息子。「楽しめたか?」 運転手は、馬の腹部を撫でながら言った。 ぼくは言葉少な
馬車に乗るのは、考えてみれば初めてだった。 いや、もしかすると幼い頃、榛名湖の観光馬車に乗ったことがあったかもしれない。だが記憶にはないし、そもそもケチな親父が「ただ乗るだけの経験」に金を払ったとも
夜のルクソールに降り立ったその日、ぼくは、宵闇に紛れるごとく日本人歓迎宿「ビーナスホテル」に足を踏み入れた。予約したはずのシングル個室は、今日は空いていないとのことで4人部屋へ移され、思いがけぬ広さに
12月30日。もし日本にいれば、あの、日本独特の年末の空気感に身を委ねて過ごしていただろう。でもぼくは今、エジプトにいる。8日間の大冒険の只中に――。午後8時5分。列車はほぼ定刻通りルクソールに到着し
発車まで二十分ほどあった。しかし、電光掲示板などという便利な代物のないエジプトの駅だ。どのホームが目的地へ続くのか、どの列車に乗ればよいのか、皆目見当がつかない。早めにホームへ行って、探した方が良さ
アスワンの街にてタクシーはアスワンの街中を静かに滑り、駅へと向かっていた。街並みは平坦でありながら、通り沿いに軒を連ねる商店が賑やかで、どこかのどかな活気を湛えている。地元の人々が行き交うその様は、異
イシス神殿のあるフィラエ島は、わずか一周一キロほどの小さな島である。そのほとんどを占める神殿は、まるで島そのものが神域であるかのような錯覚をぼくに与えた。舟を降りた瞬間、微かな風が頬を撫でた。ナイル川
彼は、ぼくよりも一足早く、「タクシーを呼ぼう」と短く告げ、手際よくアプリ「カリーム」を操作し始めた。その指先は迷いなく、馴染んだ手順を辿るように、画面上のタクシー候補を探していく。その姿にぼくは出遅れ
10時の出発の時間がいよいよ迫っていた。アブ・シンベル神殿を背にして、ぼくは砂漠の風に吹かれながらバスへと向かった。その途中、ふとした偶然で再び武田夫妻と出会う。話の続きをしながら、土埃にまみれた道を
アブ・シンベル神殿の前に立ったとき、その威容は言葉に尽くしがたい感慨があった。陽光を受けて燦然と輝く巨大なファラオ像、その目の前でカイロの宿で出会った武田氏夫妻と偶然に再会したのも、何か目に見えぬ糸に
朝8時、アブシンベルの街へ足を踏み入れた時、ぼくの目を引いたのは、砂塵にまみれた看板だった。「神殿案内」の文字が、不意に胸の奥をざわめかせる。――もうすぐだ。道中の車窓から眺める景色は、無限に広がる砂
アラブ首長国連邦、首都のアブダビ空港。深夜3:05発カイロ行き。搭乗ゲートを通過し、シャトルバスで飛行機まで行く。
16:55 成田空港を出発。経由地アブダビまでのフライトは11時間35分。何をいくらしても飽きるほどの時間がある。今回の旅に持っていった本は、沢木耕太郎さんの新作「天路の旅人」。いつもなら本をそのまま
「新世界」という言葉に出会ったのは、中国、上海だった。 近未来的なビルが林立しながらも、歴史的なレンガ作りの建物が残り、歩行者天国の目抜き通りにはブランドショップが並んでいる。反面、少し路地に入れば今
最終日。夜中、一度トイレで目が覚めた。疲労で深く眠っていたためか、まるで水の中から急浮上したかのような浮遊感と共にハッとして、ここはどこだ?!と一瞬驚く。海外へ旅に来て、終盤の疲れている時、ぼくはよく
ミニバスに揺られ、チェンイーの街を抜けていく。時刻は9時。ぎりぎり夕飯は何かありつけるだろうか。香港中心部のベッドタウンであるここチェンイーは、香港らしく超高層マンションがメイン通りに立ち並び、それ以
香港へのバスチケット売り場へ。当然、ここはマカオなのでマカオ通貨の「パタカ」支払いが一般的。ただ、日本でいうSuicaの「オクトパスカード」の残高でも買えるとの情報は仕入れてあったので安心ではあった。
聖ポール天主堂の階段下にある石のベンチで、休息を兼ねて座り、少しの間柿ピーをつまむことにした。日本からの行動食として持ち込んだ柿ピーは、空きペットボトルにユニクロで調達した水とともに口にし、ただで飲み
セドナ広場は「悪魔の城」の見た目のホテルリスボアから600mほどで散策しながら十分に歩いていくことができた。それまでの中華的な下町の雰囲気が一気に開け、噴水を取り囲むようにコロ二カルな建物、石畳が広が
SUNSホテルまでの車窓は異様だった。
観光客にとって、香港からマカオへの行き方は大きく2つあるようだった。1つはビクトリア湾から高速船に乗っていく。これは昔からある方法だ。2つ目は2018年に開通した海の上を55kmも貫いて走るビックブリ
香港には朝食を外で食べる文化があるらしい。つまり、外食だ。
香港島から戻ってきたぼくは、まずは昼間に予約したホテルにチェックインする。明日のマカオへの移動を考え、バスターミナルへできるだけ近い駅に取った。レセプションの対応もよく、しかも安く、比較的綺麗で個室シ
朝、6時半。2時間程度の時差ならほぼ感じず、翌日から日本と同じ時刻に起きことができた。外はすでに晴れていて明るかった。初日の夜はまあままよく眠れた。どうやら深夜にこの宿に到着した客がいたらしく、部屋の
空港からバスに乗り、地下鉄のターミナル駅に到着。そこから地下鉄に乗り、市街地へと向かった。ゲストハウス最寄り駅の手前2駅で下車。いよいよ香港の街だ。「ネイザン・ロード」と呼ばれるメインストリートに出口
いつかは行きたいと思っていた。「いつか」なんていう、「いつ来るかも分からない」のん気な表現をするくらい、私にとって香港は優先順位の低い旅先であった。しかし。元々行きたかったブルガリアの経由地が香港だっ